過去ログ146(2002年〜1月23日)


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更新情報 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月23日(水)23時26分55秒

藤原氏の秘密6をアップしました。
「急ぎ働き」で仕上げてしまったので不備な点が多いと思いますが大目に見て下さい^^

http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/fujiwara6.htm



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Toshyさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月23日(水)23時25分04秒

そうでした。
そろそろ3月までカウントダウンが始まる時期になりましたね。
>イルクーツクで日本語教師の話が出ました

確かにイルクーツクで生活するチャンスは滅多にありません。
でも50ドル(6000円くらいですね)だと踏み切るにはなかなか勇気が要りますよね^^;;

>日本で稼いだ金を持っていけば悠悠自適ということになりますね。
確かにこれは言えると思います。
コスタ・デル・ソルで優雅な老後を過ごそうといわれたのは10年以上前にありました。

農業の会社に就職するのは来年にして1年間「津太夫」の体験を感じて来るのも悪くないと思います、笑

りかこさん、こんばんは^^
>高校の時から大学まで7年間発掘をしたのを 懐かしく思い出します

発掘作業はとても几帳面な人しか出来ないようなイメージを持っています。
それを7年間も続けるとはものすごいですよ!!
発掘作業のおかげで今まで知られていなかった歴史の真実がずいぶん明らかにされてきました。
りかこさんの貢献は大ですね^^

高坂さんの質問は鋭いですね(;^_^A)
そう言えばどうして利根川と言うのでしょうね??
それと「総国」が下総国、上総国に分かれたのは何時からなのでしょうか??
大化改新からでしょうか??笑

「越」のように「総」も一つだったものが二つに分けられたのだろうと思っていますが「安房」の「房」も「ふさ」と発音するところから見るとひょっとすると本来は全ての地域を「ふさ」と呼んでいたのかもしれないと思ったりします。

そう言えば信長は上総介と称していましたね。
あれは「公式」のものだったのでしょうか??

>「千葉出身の有名人」をホームページで募集したところ、5〜6人くらいの人がメールで「将門」と教えてくれました。^_^;
はは^^;;
千葉も茨城も同じ様な場所にありますから当然かもしれませんね、笑



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利根川 投稿者:高坂英吾  投稿日: 1月23日(水)21時19分34秒

おっしゃる通り、下総国は利根川を挟んで発達しました。
一つ注意すべきは、利根川は現在のように銚子に注ぐようになったのは江戸期のことで、それ以前の利根川は現在の江戸川ルートで東京湾に注いでいたということです。
従って、当然のことながら、下総国は、埼玉や群馬方面とのつながりは薄く、岩井、水海道、牛久等や現在の鬼怒川沿岸、そして霞ヶ浦、北浦周辺地域との関係が深いです。

明治時代中期に鉄道が敷設される以前は、川こそが最大の高速道路だと言えると思います。下総国は優秀な高速道路を持っていたわけです。それが、いつのまにか、県境となり、地域交流の壁のようになってしまっています。

ところで、利根川がいつから「トネ川」と呼ばれていたかご存知の方、いらっしゃいましたら教えて下さい。こういうことって、どうやって調べればいいんでしょうね。

将門は下総国の出身なので、千葉県出身だと思っている人が結構います。
「千葉出身の有名人」をホームページで募集したところ、5〜6人くらいの人がメールで「将門」と教えてくれました。^_^;

http://johokan.net/History/index.html



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きんたろうさんへ♪ 投稿者:りかこ  投稿日: 1月23日(水)21時16分49秒

こんばんはぁ!
まえはかきこ、ありがとう!

きんたろうさんのHP歴史だったのね
歴史といえば 高校の時から大学まで7年間発掘をしたのを 懐かしく思い出します。
ほんとに 細かい作業で はけで遺物をとりだし 土器の破片をくっつけ
かけているところに 石こうで流し込んで 土器を元の、形にします

ロマンのあるアルバイトでした

http://appare.gaiax.com/home/rikako_k



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ロシア行きの可能性は・・・ 投稿者:Toshy  投稿日: 1月23日(水)17時58分03秒

今日ロシアの友達と話をしたのですが、イルクーツクで日本語教師の話が出ました。
イルクーツクというとわが善六さんが生涯を終えたところ。
給料は50ドルですからあちらで稼いで…とは行きませんが、日本で稼いだ金を持っていけば悠悠自適ということになりますね。
本格的に津太夫物語を書くためには、やっぱりシベリアをこの目で見たいよう! と心が動いています。(何のために書く? それは聞かないで:わら)

塾のほうは、法人税改正でもとの親分(今も親分と仰いでいるが)に迷惑がかかるため、予定より早く閉めることになると思われ。

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/index.htm



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更新^^ 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月22日(火)23時39分43秒

安部さんの尊王思想の研究16をアップしました。
下記のアドレスです。
見て下さいねv(^o^)

http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/abesonnou16.htm



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茨城県と千葉県 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月22日(火)22時57分38秒

茨城県は常陸国と下総国の北部が合併して作られました。
千葉県は下総国南部、上総国、安房国が合併して出来上がった県です。
常陸国と下総国の境界線をアバウトに言うと土浦から筑波山へラインを引いたところの南付近になると思います。

物資の輸送や人の移動の手段として古代の河川は現代の「国道」以上の大動脈だったのは間違いがないと思います。
この考えを進めると下総国とは大動脈である利根川を挟んだ両岸から発達して出来上がった国だろうと思っています。

河川は現代でも物資輸送の大きなライフラインとして使われています。
でもこれの古代における比率は現代の私たちが想像するレベルではなかったように思います。

例えば玄界灘を内海として北九州、下関、そして釜山などは交易を重ね合いながらお互いに発達していったものだと思っています。
これと同じように下総国は利根川を内海(のようなもの)として発達していったのではないでしょうか??

ところが時代が進むにつれて内陸部の開発が進み耕地が開墾されて行くに従って人口比率が沿岸部と内陸部で逆転していったのではないでしょうか??
こうして徐々に両者の勢力関係(あるいは重要性)が逆転していったと思うのです。

将門の本拠地の岩井は茨城県ですが下総国の部分に当たります。
この付近は私よりも高坂さんの方が詳しいですよねv(^o^)

>海音寺潮五郎氏の悪人列伝という本に、将門がありましたが、悪人というのは一寸どうもと思います。
「天と地と」の海音寺先生ですね。
太田さんが紹介された本を読んだことがないので分からないので何とも言えないのですが、鎌倉時代末室町時代にかけて活躍した正成が「悪党」と呼ばれていましたから同じような意味で使われているのではないでしょうか??
Toshyさんと安部さんが書かれているように「肯定的」意味合いを持った言葉として「悪」という文字が使われていたように思っています。



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悪人 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月22日(火)17時11分40秒

「悪」というのが「evil」つまり道徳的に下等なことを表す意味に使われるようになったのは明治以後のことで、それまでは「caos」秩序立っていない、何をするか分からないという意味でした。

漢籍でも「悪」はそのような意味に使われています。「荀子」を途中まで読んだことがあるのですが、荀子の「性悪論」というのは、「人間は人を裏切ったり陥れたりする駄目な生き物である」という意味ではなく、「人間というのは教育されていない自然な状態では何をするか分からない、だから後天的な教育で矯正していかなければならない」という意味であって、一般に言われているような思想ではありません。

海音寺潮五郎さんの「悪人列伝」はそのような意味での「悪人」を書いた本です。



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というより 投稿者:Toshy  投稿日: 1月22日(火)16時14分50秒

海音寺さんは将門がかなり好きだったと思います。(^^)
関東独立を堂々と宣言したあたりに感動したのでしょう。

確かに、「悪」というと強いの意味を持っていましたね→「悪源太義平」
でも「悪人列伝」には梶原景時も入っていたから、
どんな基準で入れたのかわからない……やはり朝廷への反逆は悪い、といいたかったのかな。

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/index.htm



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将門 投稿者:太田守人  投稿日: 1月22日(火)15時37分06秒

私が、将門という人物を知ったのも、海音寺潮五郎氏の平将門という小説からでした。小説にしていますので、海音寺氏は将門が嫌いだったとも思えません。昔の悪の意味である、強いとか倣岸とかいう意味で悪人としたのでしょうか?今、この悪人列伝は、絶版になっているようですので、確認できませんが、アテルイという名前を知ったのも、この本だったと思います。



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中3の国語教科書 投稿者:Toshy  投稿日: 1月22日(火)15時15分25秒

にある魯迅の作品とは「故郷」ですね。俺も習いました。(^^)
今もそのまま残っているので驚いたものです。でもいい作品だから、当然だ。

>海音寺潮五郎氏
この方は少々杓子定規なところがあります。
島左近が関ヶ原の前に「家康を前に敗走させたから、今度も敗走させてやる」(三方原のこと)と発言したのに対し、その時の家康と関ヶ原時点の家康は違うんだから…なんて書いていましたが、左近は全軍に気合を入れるために言ったのであって、本気でそんなことは思っていなかったはず。
将門が悪人…余り知らないけど、違うような気が。
九州の人だから、島津や加藤清正には相当入れ込んでいますね。

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/index.htm



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相馬氏が子孫でなければ 投稿者:太田守人  投稿日: 1月22日(火)11時43分49秒

もし、相馬氏が将門の子孫でなければ、将門は郷土の英雄ですよね。東京の首塚といい、関東では、将門の評価は高いのでしょうね。海音寺潮五郎氏の悪人列伝という本に、将門がありましたが、悪人というのは一寸どうもと思います。



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魯迅ですか 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月21日(月)23時55分39秒

恥ずかしながら阿Q正伝くらいしか思い浮かびません^^;;
魔異夢さんがハマルというにはかなりの内容なのでしょうね。
恐るべし!!中学三年生のカリキュラム、笑

太田さん、相馬氏は将門の末裔といわれていますが実は違うとか??^^;;
実のところよく分からないところが多い一族のようですね。
いずれにしても本姓「平氏」なのは間違いがない一族ですが...

Toshyさんの言うように「先駆者」がいるからこその繁栄という面は大きいと思っています。
将門と同時期に純友の乱が起こったのが摂関政治の絶頂期といわれる時代なのは何となく納得できない気持ちがあります、笑

kitunoさん、復活ですね^^
オーバーペースにならないように楽しんで下さいね。



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ふむ 投稿者:kituno_i  投稿日: 1月21日(月)22時11分38秒

いろいろな話で盛り上がっていますね〜。

きんたろうさん、トピックへの投稿をありがとうございます。
返信しようと今日は張り切って書き込みをしていたのですが、連続投稿しすぎて
今Yahooに蹴られてきたところです。^^;(あれれれ)

もう少ししたらもう一度挑戦しようっと。



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歴史の法則というか 投稿者:Toshy  投稿日: 1月21日(月)14時45分46秒

将門は失敗に終わりましたが、彼のしたことは藤原清衡から源頼朝へと引き継がれ、600年以上にわたる武家政権の国家を日本に誕生させました。将門の(小なりとはいえ)独立政権がなければ奥州藤原氏の栄華もなかったし、当然頼朝の鎌倉政権も出来なかったでしょうね。その意味で将門は、武家政権のトップにある人だといえるかも。

歴史的に、先陣をきった人よりも後から来た人のほうがうまく行くみたいです。先人の失敗を、後代が改めながら改善してよりよい政策を作っていくからでしょう。織田信長と、豊臣秀吉なんかその良い例。徳川家康の全国支配も、石田三成がやった政策を徳川流にアレンジしてやっていることが多いといわれています。

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/index.htm



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 1月21日(月)12時36分00秒

>結局、将門は朝廷の猿まねをしてミニチュア朝廷を作る事しか方法を見つけることが出来なかったわけです。
でもこれは将門が初めから野心を持って「新皇」になろうとしたわけではなく、結果として祭り上げられてしまったという側面が大きかった事の証明になるのではないかと思っています。

おっしゃるとおりでしょう。彼は、上総もそうだったと思いますが、親王が支配する国には、守でなく介を最高位にしていたと思います。私は、このあたりに、将門政権の限界を感じています。
もし、将門が、親王の領国でも守を任命していれば、少なくとも、京都の朝廷とは別なんだーということで、ついてくる豪族も増えたように思います。関東の豪族にすれば、なんだ京と同じじゃないかという失望感があったと思います。興世王なんて、2流人物を参謀にしたのが、運の尽きのように思います。
個人的には、将門・家康・アテルイ・馬子の順で好きです。聞いた話ですが、相馬氏は将門の末裔というのは、本当でしょうか?将門が大河でやっていた時に、俺は将門の子孫だーということを言う人が増え、相馬氏の子孫がおこっていたとか聞きましたが。



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日本中央の碑 投稿者:太田守人  投稿日: 1月21日(月)08時35分13秒

大三元さん、ありがとうございます。旧唐書だったかに「日本という国を併合したので、これからは、日本という。」と遣唐使がいったとあったと思います。そこで、元の日本はニギハヤヒの支配した、神武以前の大和か出雲でないかと思っています。大和勢力に追われた、勢力の国が日本でなかったかと思っています。もし、知っていれば,去年青森にいった時に、この碑を見てくれば良かったと後悔してます。



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魯迅というひと^^ 投稿者:魔異夢  投稿日: 1月20日(日)23時54分53秒

恥ずかしながら、いつかは読んでみたいと思っていた魯迅の小説を読みました。それも、ああた、中学三年生の国語の教科書にありまして、、ホホホ、、、教材研究が、はまったわ。。。。
一石二鳥?内緒内緒。。。ぽりぽりぽり・・・



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今日は大寒 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月20日(日)23時25分05秒

Sinさん
紅白饅頭だろうと勝手に思いこんでいました、笑

>おばーちゃんの兄弟まで登場してきますので、撒かれる饅頭の量はものすごいモノになります(^^ゞ
Sinさんが結婚されるときは是非地元に帰ってやって下さい。
軽トラックで出かけていきます^^

hakkeyさん、よく分からないのですがご訪問有り難うございます。
楽しそうなHPですね。
これからもよろしくお願いします。

大三元さん、情報を有り難うございました。
完全なトンデモだと思っていたのですが史実に関係がある出来事の可能性もあったのですね。
参考になりました。



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日本中央 投稿者:大三元  投稿日: 1月20日(日)09時05分15秒

ここ参考になりそうです↓

http://www.infoaomori.ne.jp/~yappi/mystery/003-nihonchuou.htm



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訪問ありがとう.........☆ 投稿者:hakkey  投稿日: 1月20日(日)07時59分52秒

ハッキ〜♪o(^-^o)(o^-^)o o(^-^o)(o^-^)oハッキ〜♪

「2002年1月20日(日)おはよう今日も怪鳥?、開帳?、会長?、快調!」

熱いハ−トでみんなの幸せを!(^_^)/□☆□\(^_^)カンパイ

みんな「楽しく、優しく、親切」に今日も過ごしましょう。
Let's have a good time today 
 
今日も元気に! エイ!エイ!オ〜

ッ(*^ー^)♪Hakkey(ハッキ-)

http://members.goo.ne.jp/home/hakkey16/main



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Re:紅白??饅頭 投稿者:Sin  投稿日: 1月20日(日)01時38分26秒

8割は紅白饅頭、2割は紅白の大福だった記憶があります。
ちなみに、これを用意するのは伝統的に新郎の父母の実家関係者、
よーするにおじーちゃんおばーちゃんというパターンが定着しております。
おじーちゃんおばーちゃんがいなくても、誰かがおじーちゃんおばーちゃん役
をしてくれますので、撒かれる饅頭の量はそんなに変わりません。
江戸時代にえらいさんだった家の本家なんて場合はおじーちゃん
おばーちゃんの兄弟まで登場してきますので、撒かれる饅頭の量は
ものすごいモノになります(^^ゞ

多分、私が結婚するときには饅頭まかないと思いますが(私は福井市内在住)



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郷土の英雄平将門 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月19日(土)22時06分08秒

将門は日本史に燦然と輝く功績を残しています。
それは将門が「藁をも掴む」強欲な国司達を小気味よいほど打ち負かしたからだというのは言うまでもありません。
在任期間中に最大限の蓄財のみを目的としているような国司というのはどうしようもありませんよね。
彼らは住民から絞れるだけ絞ろうと考えているわけです。
これを巨視的な見方で考えると、律令制度と矛盾した答えが導き出されてくると思います。
国司達がやっている事とは本来は国(=天皇)の物である「公民」が生み出した富をかすめ取ろうという国家的反逆行為であるといえそうな気がするからです。

これは現代人の目で見た皮肉的な意見ですから大げさだとしても、国司達というのは住民の立場からするとはっきり言って迷惑な存在以外の何ものでもありませんよね。
ですから、このような「飢えた」さもしい人物ばかりを連続して統治者として送り込んでくる中央政府の支持率が低下するのは当然だと思えるのです。

しかし、この時代の日本では実際の武力を持った人物がどのようにすれば「神聖さ」を得る事が出来るという事についてまだ「発明」されていませんでした。
遙か古代の中国では「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」と一種の革命思想があったのですからこれと比べれば大きな違いだと思います。

結局、将門は朝廷の猿まねをしてミニチュア朝廷を作る事しか方法を見つけることが出来なかったわけです。
でもこれは将門が初めから野心を持って「新皇」になろうとしたわけではなく、結果として祭り上げられてしまったという側面が大きかった事の証明になるのではないかと思っています。

将門には「親分」的なイメージがあります。
これは将門が「利」のみで動いた人物ではないという当時の貴種に連なる者としては例外的な人物であった証しではないでしょうか??

>彼の場合、頼朝のように、ブレーンが京の朝廷と、互角以上に戦える人物がいなかったと思います
おっしゃる通りだと私も思います。
もし京都から血統的には二流以下であるために能力を発揮する場を得ることが出来ない優れた人物を受け入れる体制を取ることが出来たならば関東独立国を維持する事が出来たかもしれません。

でも将門は一族間で骨肉の争いをしていましたからこちらの方の問題は容易には解決出来なかったのではないかと思えるのです。
また秀郷のような有力豪族が将門の敵になった事実から見ても関東地方に地盤を持つ「独立地方豪族」たちの支持を過半数以上集めるのは困難だったのかもしれません??

これは今まで「対等」のつき合いをしていた相手が突然自分よりも上の位に位置する事に対する反発が根強かったからではないでしょうか??
戦国時代と同様に相手を十分に納得させるにはそれなりの理由が必要だという事だと思っています。
将門はその答えを「五世の孫」であるところに求めました。

もし将門が関東を支配し続ける事が出来たとしたら将門の一族は一種の「関東公方」のような存在になっていったのかもしれません。
権威の根元を「アマテラス」の血統に求める限り結局は京都と連携するであろうと考えるのが自然であるように思えるのです。
でも国司に任命される人物が地元に近い出身者になるというのは独立性が高まったと思います。
地元と密着するわけですからそれまでよりも苛斂誅求の程度も低くなる可能性は高いのではないかと思います。

また関東が「独立国」になった場合には東北地方も同様に独立性が高くなったであろうと考えられます。
結果としてイギリスのように「王国の連合体」のような形で歴史が推移していった可能性を否定する事は出来ないように思います。



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Toshyさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月19日(土)22時01分22秒

東京の特徴とは駅前の一等地がいくつもあるところだと思っています。
何しろ上野駅は心の駅ですから別格にしても東京、池袋、新宿、渋谷などターミナル駅が連結して「面」として発達しているのはさすがにメガロポリスと言われるだけのことはありますよね。

太田さんの質問に対して書いていたら自分でもとても面白くなって長くなってしまいました、笑
これを下書きにして近日中にアップしようかと考えています(^O^)g

「日本中央の碑」については後世に作られたトンデモ説だと記憶しています^^;;
>坂上田村麻呂が、蝦夷を攻めた時に、十和田湖のそばで
恐らく坂上田村麻呂は青森までは行っていないと思います。
宮城県から岩手県南部までだろうと思います。

Sinさんのところではそんなに派手にやるのですか!!
結婚式とほとんど同時に屋根から饅頭撒きをするのですか!!
まるで新築の時の様な感じがしますね^^

>800個ほど撒いた記憶があります
800個も紅白??饅頭を撒いたのですね。
Sinさんの地方では結婚するのはなかなか大変だとつくづく思いました^^;;



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日本中央の碑 投稿者:太田守人  投稿日: 1月19日(土)19時04分41秒

坂上田村麻呂が、蝦夷を攻めた時に、十和田湖のそばで、日本中央の碑を見つけ、こんなとこに日本中央とはなんだといい、倒させたと聞きましたが、このことは、どんな文献に載っているのでしょうか?明治天皇が、東北巡行の際に、この碑を見たいと言い出し、青森県令が人を総動員し、探させてが、見つからなかったといいますので、うわさとかではないように思います。
また、今この日本中央の碑が見つかり、東北の何処かにあると聞いたこともありますが、本当でしょうか?ご存知の方は、いらっしゃいませんか?



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将門 投稿者:Toshy  投稿日: 1月19日(土)17時13分38秒

この時代のことはよくわかりませんが、将門は京都の藤原氏に対し、
自治を認めてもらう努力をしていたように思います。
だから将門の乱が成功した場合、自治を京都に認めさせ、奥州藤原氏のような形態で関東を独立国家にするのではないかと。つまり朝廷と対等ではなく、貢物を送りつづける腰の低い(?)国という意味です。
関東から東北にかけて政治形態が武士のものとなり歴史は大きく変わったと思いますが、朝廷を覆すまでは行かなかったんじゃないでしょうか。

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/index.htm



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尊王思想の研究15 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月19日(土)09時47分50秒

安部さんの自信作「尊王思想15」をアップしました。
是非ご覧になって下さいね。

私は一番目の読者としていつも驚きながら読んでいます(^O^)g



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余談 投稿者:Sin  投稿日: 1月19日(土)00時27分55秒

近所で結婚式があった後は、おやつに不自由しなかった(笑)
饅頭撒きの風習にも流行があったりして、15年ぐらい前は
饅頭以外にもスナック菓子とかインスタントラーメンとか
色々と拾えました(^^ゞ
高校生の時、親戚が結婚した時には私も屋根の上から饅頭、ラーメン、
スナック菓子等を各100個ほど撒きましたよ。



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嫁入り道具 投稿者:Sin  投稿日: 1月19日(土)00時18分58秒

福井でもものすごく派手です。
福井市内ではタンスの中身までご近所の方々に披露します。
最近の嫁入り道具の常識としては、新車が1台とかというのもあったりします。
勿論、花嫁道具を運ぶとき一緒に「寿」の飾り付けをして運び込みます。

昔は福井市内でもあった風習ですが、最近は交通量が多くなった為か
廃れてしまいましたが、新郎側の親戚の男衆が屋根の上から饅頭を撒きます。
田舎(私の実家のある勝山市等)ではまだやっていますが、私の兄が結婚する
ときは確か800個ほど撒いた記憶があります。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 1月18日(金)17時52分58秒

もしもの話ですが、将門が戦死しなくて、関八州を傘下に治め、坂東独立国を作ったと仮定したら、もしかしたら、鎌倉幕府の300年以上前に、石井幕府なんてものを作れる可能性はあったでしょうか?彼の場合、頼朝のように、ブレーンが京の朝廷と、互角以上に戦える人物がいなかったと思います。ただ、関八州を傘下に治めた場合、朝廷や国司の苛斂誅求にいいかげん頭にきていた、豪族達で結構ついてくるのが多かったように思っていますが、いかがでしょうか。
私は、将門という人物は好きですので、まあ、ひいきの引き倒しかもしれませんが。



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上野駅 投稿者:Toshy  投稿日: 1月18日(金)14時33分28秒

>「上野はおいらの心の駅だ」
石川啄木みたいですね。その印象、ないこともないです。

初めて東京に行ったその日、まだ東北新幹線はなかったので上野まで特急。
東京に対して持っていたイメージとは違い、ショックを受けたのを記憶しています。(わら
上野は先入観を見事に壊してくれました。

もちろん、池袋や渋谷、東京駅あたりの様子をあとから見て、
あらためて「おのぼりさん」である自分を確認していくわけですが。



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嫁入り道具 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月18日(金)00時03分48秒

がものすごく派手だと聞けば名古屋の事をすぐに思い浮かべてしまいます^^;;
金沢にも同様の風習があるのですか!!( ^^)ノ ((((((●~*

遠隔地であるのにもかかわらず金沢でも同じ風習を持っている理由として前田家が名古屋の風俗・風習を持ち込んだのではないかという太田さんの推理に私も同感です。
それにしてもとんでもない風習ですよね、笑

似たような例として茨城の南の方では七五三披露宴パーティーをするようなところがあります。
これは結婚披露宴並の豪華さです(;^_^A)

そう言えば関西の人が東京に来ると「びびる」のは横浜当たりから都市がずっと続いているからだと誰かが言っていたような気がします。
その点北関東や東北地方の人の場合は常磐線や東北本線で上京しますからそのような事はありません。
何しろ北千住から日暮里、上野と列車は到着しますから確かに密集した住宅地を見ながら上京する事になりますが大したプレッシャーを与えられる事はありません。
ですから「上野はおいらの心の駅だ」となるのではないでしょうか??(と勝手に解釈、笑)

>東北地方の俘虜を九州に移住させたという記録が出てきます
この発想はものすごいですね。
当時の行動半径から考えると現代の何倍もの距離があったと考えて良いわけですから驚異です。

そう言えば空海の先祖も東北の「佐伯氏」が讃岐に移ったとNHK「空海」で言っていましたよね。
安部さんのご先祖も「安部一族」ですからずいぶん遠くまで引っ越しをしていますよね。

奥州藤原氏の勢力圏はToshyさんの言われるようなものだと私も思っています。
私達はどうしても戦国時代のように各県の集中支配的なイメージをつい持ちがちです。
でも本当は右隣の家が藤原さんで左隣の家は源氏さんのようなものだったのではないでしょうか??
イメージ的には碁石が散らばっているような感じです。

劉さん
インドの発見がもし本当だとするとすごすぎますね。
でも紀元前9500年の遺物というのは確かにちょっと信じられないくらい古すぎると思います、笑

以前「インドラ神の飛礫」という小文を載せたのですがイランから分離してインドに移動した「一派」と敵対した??「一派」が「アスラ」と呼ばれていた集団なのではないかと思ったりしました。



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Sinさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月17日(木)23時35分45秒

今年もよろしくお願いします。
手の具合はいかがですか??

Sinさんのマシンもそろそろ新しくする時がやって来たのでしょうか??
でもパソコンを新しくする場合にはデータの移植とか設定が面倒ですよね。

私も最近はネスケとIEを併用して使っています。
でもまだネスケには慣れていない状態です、笑

ところで昨日の事ですがIEのプログラムが勝手にダウンロードされてしまいました??
どうしてなのかよく分かっていません。



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えっと 投稿者:劉公嗣  投稿日: 1月17日(木)18時09分07秒

ハラッパ遺跡云々は、こちらの記事だそうです。

http://timesofindia.indiatimes.com/articleshow.asp?art_id=1732931780



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今度は 投稿者:劉公嗣  投稿日: 1月17日(木)18時06分19秒

インドで面白い発見があったそうですが、どうも年代は
疑問視されているようです。何でもハラッパ遺跡に似て
いるそうですが、発表された年代が本当だとしたら、大
変なことですよね。

http://www.asahi.com/culture/update/0116/007.html



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地元 投稿者:Toshy  投稿日: 1月17日(木)15時23分15秒

>前田というのは、生理的に大嫌いです
>正直なところ私も水戸徳川家よりは佐竹氏の方が好きですよ。

わしも同様で、伊達政宗よりもアテルイ、安倍頼時、奥州藤原氏まで遡ります。

奥州藤原氏は東北を支配下においていたと思われがちですが、現実には岩手の平泉周辺に限られていました。「義経記」で義経が出羽・陸奥に入りながらもしばらく正体を明かさないで逃避行を続けています。物語はもちろんフィクションですが、これは藤原家の勢力圏がその程度だったことを暗示するように思います。



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「続日本紀」のなかに 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月17日(木)15時17分07秒

東北地方の俘虜を九州に移住させたという記録が出てきます。これなどスターリン並みの民族浄化です。あるいは、漢籍の中にはこのような強制移住の話はチョコチョコ出てくるので、その真似をしたのかもしれないですね。

一つの民族というのは同じ行動を繰り返しがちなのですが、日本の場合、近畿か関東で統一政権ができたあとの総仕上げに東北と南九州に遠征するというパターンが繰り返されています。一番最初が奈良時代から桓武天皇の頃まで続く蝦夷征伐ですが、律令政権というのは元々中国の脅威をショックにして、それから身を守るためにできた政権です。このように恐怖に駆られた人(集団)は、強い敵の真似をすることによって、自分の弱さから目をそらそうとします。蝦夷征伐は、律令政権が中国から受ける恐怖と卑屈感を埋め合わせるための行為であったと私は思うのです。東北を領有することの実利があったとはあまり思えないからです。



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東北人の自覚が足りないのではないかと 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月17日(木)15時05分57秒

東北には大きい都市も多いですし、歴史も古いですからね、私は周りの人間が馬鹿にすることよりも、東北の人が自分の住んでいるところを変に卑下するところが東北に損をさせていると思いますな。

縄文時代には、青森でも既に稲作が始まっていたそうですから、先進的な大和朝廷が遅れた蝦夷を征伐して開明してやったというインディアン討伐的な図式はもはや成り立たなくなったと私は思います。桓武天皇の東北遠征は、別の文明に対する侵略だったといえるでしょう。ただし古代の王が力を誇示するために周辺に兵を送るのはどこでもやっていたことですし、それ自体では悪いことではないと私は思います。



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花嫁の道具 投稿者:太田守人  投稿日: 1月17日(木)12時41分21秒

金沢では、嫁入り道具を近所に見せるという、風習があります。その花嫁道具を運ぶための、専用のトラックがあり、これはガラス張りで中が見えるようになっています。親戚・近所を呼び集めて、自慢する家もあります。また、この道具が、花嫁の家を出る日時や婚家にはいる日時を、近所に知らせないと、あとで陰口を叩かれます。
名古屋にも、この花嫁道具を見せる風習があると聞いた事がありましたが、これも、進駐軍前田が持ち込んだ風習かなーと個人的には思っています。



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江戸時代の藩について 投稿者:Sin  投稿日: 1月17日(木)00時19分40秒

調べるときは下記のサイトがものすごく役に立ちます

http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html



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ははは 投稿者:Sin  投稿日: 1月17日(木)00時09分46秒

正月の挨拶も無しで失礼いたしております。
ウインドウズが崩壊しかかっておりまして今マシンが非常に不安定になっております。
ようやく少し建て直しができたのですが、IEが使用不可状態ですので
急遽ネスケを使っていますが・・・IEに慣れていたのでちょっと使いづらいです。

去年からの宿題だった新カウンターメッセージを一個追加しました。
探してみて下さい



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