過去ログ147(2002年〜2月1日)


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それで私が思うに 投稿者:安部奈亮  投稿日: 2月 1日(金)01時09分44秒

桃太郎を育てたのは老夫婦ではなくて、犬と猿と鳥だったのではないかと思うんです。ロムルスのように。育ってから、自分を育てた動物たちを従えて(なんと言っても桃太郎は本来は高貴な出なので)、山の上にいる自分を追い出した神々(天孫の神々が来た後は鬼にされてしまった神様)に復讐を果たしたのではないかと。

元々は老夫婦はどこにも出てこなかったのではないかと。


さてモーゼの物語は先に挙げた物語の累計に当てはまるようでいてどこかおかしい点があります。
それは、旧約聖書の中ではモーゼというのは元々は貧しいユダヤ人の家庭に生まれたが、エジプト王がユダヤ人の男児を殺害しろと命令したので、その夫婦は泣く泣くモーゼを箱に入れて川に流した。それをエジプトのお姫様が拾って、モーゼは王族としてエジプトの王宮内で育てられた。

さあ、どこがおかしいのでしょうか?



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そもそも柳田国男は 投稿者:安部奈亮  投稿日: 2月 1日(金)00時44分16秒

彼の前に、民話を収集して集めた学者がいて、その成果を丸ごと頂いて『遠野物語』を作ったそうです。

しかし柳田国男が「遠野物語」を作る際に、彼は農村の牧歌的雰囲気を強調するために、おどろおどろしい民話をことごとくそぎ取ってしまい、「遠野物語」には東北の真の民話は書かれていない、と高橋克彦さんが怒っていました。

高橋さんによると、柳田国男が削除した民話の中には、明らかに犯罪をにおわすような話とか、村人の間の妬みなどが書かれているそうです。

座敷童子というのは元々は気味の悪い毛むくじゃらの化け物で、なぜ裕福な家に現れるのかというと、元々の座敷童子の物語というのは「ある家に巡礼客が泊まったが、その巡礼客はその家から出てこなかった、その後その家はとたんに裕福になった、しかし夜になるとその家の客間から毛むくじゃらの手が伸びてくる・・・」という話らしいです。

これは、巡礼客というのは路銀を持っているのですが、その家の者が共謀して巡礼客を殺害して家の中に埋めた、そしてその路銀で急に裕福になったことを暗示している。

そのような話が「遠野物語」はあらかた削除されているとか。



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しかしToshyさんの話では 投稿者:安部奈亮  投稿日: 2月 1日(金)00時34分27秒

ていうか柳田国男の説なのかもしれませんが、それでは桃太郎の伝説は日本に道教が伝わった後にできた物語という事になります。桃が神聖な果物であるとか、方角と動物を組み合わせる思想は中国から伝わってきたものですね、そうするとその桃太郎の物語はどんなに古くても古墳時代以上は遡れない。

Toshyさんの言う桃太郎と言うのはおそらく室町時代に編集された御伽草子の桃太郎ではないでしょうか?室町時代の桃太郎を取り出してきて「もともとは〜」と言うのはおかしい。吉備に残る桃太郎の伝説はもっと古くに起源がありそうで、私の言う可能性を否定するには根拠が薄いですね。

つまりToshyさんが「もともとの桃太郎」と言っている話は色々と筋が通り過ぎていて、あまりに理論的で、昔の桃太郎と言うよりは、長い時間を経た後に「洗練された」もも太郎であると考えられます。



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神奈川 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月31日(木)22時41分50秒

の西湘バイパスに対抗するのは千葉の九十九里浜にある海岸道路でしょうか、笑
九十九里浜もずいぶん大げさな名前を付けたものだと思っていたのですか、千里が浜を知ったときには更に驚きました^^;;
確かにあれほど長い浜は全国でも珍しいように思いましたがそれにしても千里とは、笑

>昔は、塵浜と言っていたようで、ネーミングが悪いので、千里浜としたようです。
さすがにこのような事情は地元ならではのものですよね、笑

アルザス・ロレーヌ地方とかルール地方などは名前は知っているのですが残念ながら地図が頭に入っていませんでした^^;;
世界史こそがどんと来い(笑)だったはずなのですが...自爆(;^_^A

マジノ線とは詰まるところフランス版「万里の長城」だった訳ですよね。
これは馬と投石機の時代なら絶大な効果を期待できたのでしょうが、正に時代遅れの長物になってしまったのは武器などの進歩の方が早すぎたせいなのでしょう。

太田さん、レスを有り難うございます。
「へぐら」島につては以前別の話題でToshyさんが書かれていた島の事ですね^^

>舳倉島(へぐらじま)という島が、石川県輪島市沖40km位にあります
能登半島から更に40キロ海上にある島なのですね。
ひょっとしたら朝鮮半島への航路も新羅付近よりも更に北の地域まで直接に行った可能性も有るように思えてきました。
恐らく無理だと思いますが、もし日本海をまっすぐに横断出来たとしたらものすごいですよね^^



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安部さんの 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月31日(木)22時14分04秒

尊王思想の研究18をアップしました^^
今年はハイペースだと自分でも思っています、笑

下記のアドレスです。
是非ご覧になって下さいね^^

http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/abesonnou18.htm



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舳倉島 投稿者:太田守人  投稿日: 1月31日(木)18時30分52秒

きんたろうさんの渤海の使節は、どうしてきたかというご質問に対し、私なりの考えを述べさせて頂きます。舳倉島(へぐらじま)という島が、石川県輪島市沖40km位にあります。また、輪島市には、重蔵神社という神社があり、今は「じゅうぞうじんじゃ」と言いますが、その昔は、重蔵と書いて「へぐら」と言ったそうです。そして、この神社の神様は、女神様ですが、かっては、宗像三神のように三姉妹の神様だったそうで、今ご本尊は、輪島の重蔵神社ですが、元々は、舳倉島だったそうです。宗像三神が、航海の神様であったように、この神様も航海の神様だったようです。古代、舳倉島と輪島との中間地点にある、七つ島(ここもナカツヒメという女神様の島)と輪島の重蔵神社でワンセットだったようです。私は、ここが、半島への重要な航路であったと思っています。



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桃太郎 投稿者:Toshy  投稿日: 1月31日(木)14時36分59秒

桃太郎の誕生はもともと「山から流れてきた桃」を切ったら出てくるのではなくて、
「山から流れてきた桃」を食べた老夫婦が若返り、桃太郎を生む話でした。
桃が不老不死の薬、また病など(これを象徴するのが「鬼」である)を
追い払うものと信じられていたところから、冒頭が成立したのでしょう。

なぜ上流から桃が流れてきたかというと、
それは下流から流れてくるはずがない…というくだらん話は置いといて、
山は神々の住む場所という信仰のようなものがあったのです。
例えば「花咲かじいさん」の犬も、桃太郎のような出会いで、
犬の入った箱が上流から流れてきたのをじいさんが拾い上げるのですな。
(「遠野物語」のマヨイガは、この信仰の最後の形であると思われ)

三人(?)の家来。北東の方角を「鬼門」と言いますが、南西(未申)は裏鬼門といって、
鬼門と同様にあまり縁起の良くない方角という信仰がありました。
そこで鬼門を封じるには、申酉の方角が最も良いとされていたのです。
その方角にいるサルと鳥…キジが桃太郎のお供についていくようになりました。
「イヌ」に関しては、桃太郎のモデルにそういう名前のお供がいたらしい。

桃太郎が持ち帰った「宝」とは、出雲王朝が持っていた「製鉄技術」だという説があります。

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/index.htm



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マジノ線 投稿者:太田守人  投稿日: 1月31日(木)13時03分12秒

フランスが巨費を投じた、この要塞も、ナチスドイツの戦車隊と急降下爆撃機を主力とした、電撃戦の前に、第2次大戦では、数時間しかもたず、ドイツ軍も相当の流血を覚悟したが、誰もマジノ線を突破したことが気がつかなかったそうです。これ以降、要塞不要論が台頭します。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 1月31日(木)12時43分18秒

羽咋の千里浜(ちりはまといいます。)へいらしゃったのですか。あそこは、海流の関係でいろんな朝鮮半島からの漂着物が付きます。時々、北朝鮮や韓国の機雷とか魚雷という物騒なものも漂着し、海上自衛隊舞鶴水中処分隊のお世話になってます。
地元の観光協会は、違うといっていますが、昔は、塵浜と言っていたようで、ネーミングが悪いので、千里浜としたようです。



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kitunoさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月30日(水)22時31分19秒

そんなに長期の休暇なのですか!!^^
とても羨ましいです、笑
滅多にない長期休暇は色々なことをしたいと考えるだけで楽しくなってきますよね。

太田さん、数年前に千里が浜に行った時、ハングル文字の書かれた巨大なブイが浜にありました。
あれは今でもあるのでしょうか??
能登半島は交易の日本列島の重要な拠点だったように思っています。
それにしても渤海は北朝鮮北部から中国東北部(満州)にかけて勢力を持っていた国ですから、どのようなルートで日本海を越えて来たのでしょうか??
疑問に思っています。

Toshyさん、続きを楽しみにしていますね^^

桃太郎の安部さんの意見はかなり面白いと思いました。
私も神話が好きなのですが桃太郎がモーセ等のグループに選別できるとは思いつきませんでした。
確かに桃太郎の本拠地が岡山県だとすれば吉備や出雲などの巨大豪族(あるいは王家??)の興亡があった場所ですから頷けます^^



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英語 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月30日(水)22時29分32秒

はフランス語の影響を強く受けたゲルマン語と言われていますよね。
ブリテン島はケルト人の住む島でしたから古代ケルト語の影響も受けているのでしょうか??
更にはバイキングも来ていますから北方ゲルマン語も絡ん来るのかも??

ところでフランス語はラテン系言語に分類されますがイタリア語やスペイン語と比べると音的にかなり違うように感じらますよね。
フランス語の成立は一体いつ頃になるのでしょうか。
ガリアと呼ばれていた頃のフランスはラテン系と言うよりはゲルマンに近かったような気がするのですが...??    



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最後 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月30日(水)22時27分58秒

最後の授業の話は私も聞いたような記憶が微かにありました^^;;

安部さんの推理されているようにこれはフランスのプロパガンダの可能性が高いように私も思っています。
大陸は人の移動が日本列島とは比べ物にならない程大きいのは容易に想像がつきます。
例えば世界各地に見られるチャイナタウンに住む人たちの場合などは「先祖伝来の土地」といっても僅か100年前程度の歴史しか持っていない場合が多いと思います。

でも「住めば故郷」になりますから、同じ場所で3代の年月を重ねればそこは十分に自分の故郷であり土地だと言えるはずだと思っています。
ちなみに三代とは江戸っ子の規定??から思いつきました、笑

ですからもし、それ以前の住民がもしこの場所を返還しろと要求してもこれに答えるのはなかなか難しいように思っています。
北方領土の問題にしても解決をあまりに先送りしてしまうと、この様な問題が大きくなりすぎてどうしようもなくなるのではないでしょうか。

同じような事は古代から現代における日本と朝鮮半島や中国の関係を語る時に陥りやすい罠のようにも思っています。
つまり朝鮮や中国は昔から日本の隣にある「場所」つまり「家のようなもの」なのですが、そこに住んでいる「住民」は昔から住んでいた人とは別人だという事なのです。

大陸では時代を下るにつれて何処からか(基本的には北方)引っ越してきた「赤の他人」が占拠してしまいました。
このような例があちらでは多いのであり、昔からそこに住んでいる人ではないという事は古代史の話をする場合に印象を全然別の物にしてしまう可能性があるような気がしています。

これは日本列島に住む私たちが遙かな過去から未来永劫この土地に住むものだというコンセンサス(というよりも思いこみ??、笑)が余りにも強い事の現れのような気がしています。
この日本人の常識が海外でも通用するはずだとつい思ってしまうところが誤解の一因になっているような気がしています。

現実には隣の家に住んでいる住人は途中から引っ越してきた人であり別の存在なのです。



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過去ログ 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月30日(水)22時18分48秒

を12月分までまとめました。
HPを立ち上げてからようやく過去ログが現在に追いつくことが出来ました(^o^)

大三元さんの「知ってびっくり縄文語の謎」の書評を千葉大学の何とか先生が書かれています。
数日前に書評の書かれている先生のページを拝見してきました。
そこには他にもエッセイ風の論文がページ上に掲載されていました。
まだちらっと目を通した程度のですが、かなり興味を引くタイトルのものが並んでいましたよ(^o^)
皆さんもご覧になってみて下さいね。

先生の強気の書き方やちょっとした違和感(笑)を別にすれば私の興味の方向性にフィットする部分がとても多いような感じを受けました。
http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/index.html



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シュリーフェンプラン 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月30日(水)21時47分42秒

ライン峡谷を奪われたフランスは、マジノ線(でしたっけ)に100kmに及ぶ大要塞を築きます。

         __☆__   _____
        /(要塞)|  | シュバルツバルド(ドイツ側)
        /     |__|
パリ_____/    ライン峡谷
           アルザス・ロレーヌ

山脈がそのまま要塞となり、要塞と要塞の間は地下に道路と鉄道!が敷かれていました。
そのためドイツはフランスを国境から攻めることはできなくなり、北部から攻めざるを得なくなります。

フランス北部の地形

パリ____ベルギー___ドイツ

ベルギーを突っ切れば、パリとまで平原です。ここは全く遮る物がないので、フランスとしてはドイツがベルギーの中立を侵犯しないように頼むしかありません。中立国のベルギーとの間の国境に要塞を築くわけにもいかない。

その弱味をついて、ドイツ参謀総長のシュリーフェンは二正面作戦を立案します(1905年)。
ベルギーの中立を侵犯して1ヶ月でパリを陥れて、その返す刀でマジノ要塞を後ろからせめて陥落させる。パリが陥ればフランスはすぐに屈服するので、その後全力を東部戦線(ロシア)に向ける。
      |ベルギー|
       |   |
  パリ    |  | ドイツ
         |_|
         |
     マジノ線|メッツ



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桃太郎の親 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月30日(水)21時22分11秒

 桃太郎は川の上流から流れてきました、それでは桃太郎の親はいったい誰なのでしょうか?
 
 心理学者のO・ランクが言うに、
 「ほとんどすべての主な文化的民族は、早い時代から彼らの英雄、伝説的な王や君主、宗教の開祖、王朝、帝国および都市の創始者、要するに彼らの国民的英雄を詩や伝説の中で賛美してきた。」そしてそれらの物語には民族を越えた共通点があるといいます。すなわち
「英雄はきわめて高貴な両親の子供、たいていは王子である。彼の誕生に先立って、禁欲生活、あるいは長期の赴任、あるいは外的な力による禁止や妨害の結果としての両親の密会などの困難がある。
 妊娠期間中に、あるいはそれよりも早く、彼の誕生を警戒するようにとの告知(夢、神託)が現れる。これは、たいていの場合、父親にとっての危険を告げる驚異的なものである。
 そのため、生まれたばかりの子供はたいていの場合、父親あるいは父親を代理する人物の指示によって、殺されるか捨てられる定めとなるが、常のことのように、子供は小さな箱の中に入れられて水に流される。
 ついでその子供は、動物あるいは身分の卑しい人(牧人)によって救われ、雌の動物あるいは身分の卑しい女性によって乳を与えられる。
 成人するに至って、かつてのその子供は、波瀾万丈の道をたどって高貴な両親に再会し、一方では父親への復讐を遂げ、他方ではその真の素性を認められ、偉大な権力と栄光を得る。」
 そしてその例として、モーセ、キュロス、ロムルス、オイディプス、ペルセウス、ヘラクレス、ギルガメッシュ、アムピオーン、ゼートスなどがあげられています。

 桃太郎の物語は、この原則におもしろい程良く当てはまります。
 (1)桃太郎は小さな箱(桃)の中に入れられて川の上流から流されてきた
 (2)桃太郎は貧しい樵の老夫婦に育てられた(誰が乳を与えたのか?老婆か?)
 (3)桃太郎は冒険の末に鬼を倒して宝物を持って帰ってきた
 
 とすると、桃太郎の親は誰であったか?そうです桃太郎は鬼の子供だったのです!
 
 桃太郎が鬼の子供だったとすると、鬼では高貴な両親ではないではないかということになりますが、これは何らかの理由で、桃太郎の親を隠さなければならなくなったからではないかと思われます。
 おそらく桃太郎の物語は、日本に天皇家が現れて各地の豪族(鬼)を屈服させる以前から存在する物語であり、いつの頃からか、桃太郎が自分を捨てた父王(これは各地に割拠していた豪族と考えられる)に復讐するという部分が、天孫族の桃太郎が各地の鬼を倒すという風にすり替えられたのではないでしょうか?
 このすり替えの過程で、鬼のすみかは山から島になり(そうしないと桃太郎が鬼族であったことが隠せない)、桃太郎の出自は消されて、ある日突然山から桃が流れてくるというようになったのでしょう。



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バルジの戦い 投稿者:太田守人  投稿日: 1月30日(水)17時50分44秒

>つまりフランスとしては、アルザス・ロレーヌをドイツに取られると、パリまでは下り坂で防衛が非常に困難になる事情があります

なるほど、そう言う意味があったのですか。ここは、戦争末期にナチスドイツが最後の賭けに出た、バルジの戦いの戦場でもありました。この戦いは、映画にもなりましたが、結局、ドイツ軍の補給が続かず敗退します。もし、この時ドイツが勝利すれば、パリまで一気に攻め込めたのでしょうね。



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Toshyさん 投稿者:太田守人  投稿日: 1月30日(水)16時43分06秒

英語ですか。ありがとうございました。龍之介の母方は、加賀の家老とは始めて知りました。まあ、軍人の学校ですから。阿川弘行氏の「暗い波涛」にも江田島の海軍兵学校の英語教師が、大変な不満を持っていたことが書かれています。



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太田さん 投稿者:Toshy  投稿日: 1月30日(水)15時59分19秒

>何を教えていたのでしょうか?
英語を教えていました。龍之介さんは英文学科の出身で、英語力が相当のものであったといいます。
しかしなにぶん海軍の学校ですから、海に関係するイディオムなど専門的な言葉には苦労したみたいで、
小説にもそのことがかかれています。もしよろしければ、ちくま文庫芥川龍之介全集5巻の、
「保吉の手帳から」という作品を御覧ください。
芥川は海軍学校教師現役時代、その職をかなり不愉快に思っていたのですが、
後年懐かしむような作品を書きました。
「保吉の手帳から」を初めとして、「あばばばば」「寒さ」「十円札」(全部5巻収録)など、
すべて自分の名前を「保吉」にしています。

ついでに。
太田さんの加賀と芥川の関係について。芥川の母方は前田家の家老の出だったらしく、
前田一族に取材した江戸時代の作品も残っています。「煙管」(全集1巻)

きんたろうさん>
いや、まだまだ甘いので(わら)



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 1月30日(水)12時25分50秒

>そう言えば時代は下りますが渤海が朝貢してきたルートも福井県か石川県で上陸して陸路京都へと向かったのでしょうね??

石川県の羽咋市の隣町の高浜町に、福浦港という漁港がありますが、ここにしばしば渤海使の船が出入港していました。ここには、日本最古といはれる灯台があります。
また,今の金沢港のそばにある畝田遺跡から、渤海使といはれる木簡と渤海の陶器が去年だったか出土し、渤海使は福浦から、海上を迎賓施設がある、敦賀客院まで移動したのではないかという説が強くなったそうです。
石川県第二の都市である小松市は、高麗津(こまのつ)がなまって、「こまつ」になったという説もあります。この小松から、弥生時代のオンドルを持つ家の遺構が出土し、去年大騒ぎになりました。七尾湾に浮かぶ、能登島に須曽蝦夷穴古墳という、2つの羨道を持つ朝鮮式の珍しい古墳があります。このように、古代能登は朝鮮半島とつながりが深かったのでしょうね。



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皆様 投稿者:kituno_i  投稿日: 1月30日(水)09時56分12秒

お仕事、ご勉学、ご苦労様です。
私は今日から2/4まで、休暇なのです!(わ〜い)
体調が悪いわけではなく、ご褒美休暇。^^
実は今日からの休暇は4月から予定していて、「飛鳥巡り」「太子の寺社巡り」を計画
していたのです。^^;
でも昨年からの体調変化で実現不可能になってしまい、結局体調を十分整えるための
休暇になってしまいました。

...というわけで、家事とパソコン遊びをしようかと...。
それから久しぶりに編み物や縫い物など、女性らしいことも。
(「女性らしい」などという言葉は、ジェンダ−の時代の今は死語?^^;;)

飛鳥!行きたいよ〜!!(本音)



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最後の授業? 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月29日(火)21時36分40秒

 小学生か中学生の時に、「最後の授業」という小咄を学校で習ったことがある人は多いかと思います。内容は、普仏戦争にフランスが負けて、プロシアにアルザス州とロレーヌ州を割譲しなければならない羽目になった。で、とある片田舎の学校で明日からプロシア領になるという日に、フランス語の先生が最後の授業をしていました。「みなさん明日からここはプロシア領になって、学校ではフランス語ではなくドイツ語を教えることになりますが、あなた達がフランス国民だったことを忘れないでください」と先生が言うと生徒たちは泣き出し、みんなでフランス国歌を歌うとか言う話です。
 
 ではアルザス・ロレーヌ州の住民は昔からフランス人であったかというと、実は違うようなのです。この地域はかつて神聖ローマ帝国の領土でした、従ってドイツ領だった時代もあるのです。
 やがて、ルイ14世の自然国境(ライン川をドイツとの国境にしようという国策)のもと、フランスは数多くの戦いに介入して、この地域をフランス領にします。従って、アルザス・ロレーヌがフランス領になったのは18世紀になってからです。
 そして、アルザス・ロレーヌに住む人たちが使う言語は何語かというと、驚く事なかれこれがドイツ語なのです(フランス語訛りが強いのかもしれませんが)。
 ということはフランスは元々ドイツ人であるアルザス・ロレーヌの人たちに無理矢理フランス語を教えていたことにならないでしょうか?最後の授業の時、生徒たちは案外「これでフランス語ともおさらばだ.」と思っていたかもしれません。

 ではなぜフランスがあれほどこの地域をほしがって、回復のためにドイツと血みどろの戦いも辞さなかったかというと、この地域は中国における燕雲十六週と同じ位置にあるからです。フランスとドイツの間の地形を簡単に表すと次のようになります。
        ____   _____
        /   |  | シュバルツバルド(ドイツ側)
       /    |__|
パリ_____/    ライン峡谷
           アルザス・ロレーヌ

 つまりフランスとしては、アルザス・ロレーヌをドイツに取られると、パリまでは下り坂で防衛が非常に困難になる事情があります。
 フランスがアルザス・ロレーヌを必要としたのは、そこの住民のためでも、鉄鋼のためでもなく、純粋にフランス本土をドイツから防衛するために必要だったからだと考えられます。
 「最後の授業」は、このフランスの意図を覆い隠して、ドイツに道義的責任を負わせるためのプロパガンダであったと私は考えます。



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またまたウイルス情報です 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月29日(火)21時10分37秒

以下は私が使っているウイルス・スキャン・オンラインからの情報です。

ウイルス W32/Myparty@MM の発生情報についてご報告いたします。

このメール大量送信型ワームは、Microsoft OutlookおよびOutlookExpressの
アドレス帳の中のすべての宛先に、「 www.myparty.yahoo.com 」という名前の
ファイルが添付されたメールを送信します。
受信側でこの「 www.myparty.yahoo.com 」ファイルを実行させることで
ウイルス(Myparty@MM 自身)を感染させます。
したがって、ユーザーがウイルスの添付ファイルが付いたメールを開いた場合に、
「自動的に」添付ファイルが実行されることはありません。
プレビューウインドウからメールを閲覧した場合も同様に実行されることは
ありません。


【対応方法】
 「new photos from my party!」という件名のメールを発見したら、
 速やかに削除してください。



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道君 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月29日(火)19時29分28秒

は不思議な存在ですよね。
そう言えば時代は下りますが渤海が朝貢してきたルートも福井県か石川県で上陸して陸路京都へと向かったのでしょうね??

美術については安部さんの言われるのが尤もだと思います。
これは昔の人よりも今の人の方が進んでいると思いこんでいる事に似ているような気がしました。
確かに社会全体のインフラを比べれば現代と過去は比較になりませんが個人レベルの能力は全く別物だと思うからです。

仏像は確かに女性的な曲線が美しいと私も感じています。
月光菩薩が日光菩薩に「美しい」と言って抱きついた人がいたと聞いた事がありますよ^^;;
でもいくら美しいと感じてもあのような歴史的価値を持った像に抱きつくのはダメですよね。

Toshyさん、「関ヶ原の戦い1」を拝見しました。
僅かばかりと甘い言葉に誘われて行ってみると、どーんとまとめられているのには驚かされました。



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読解力がないといえば 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月29日(火)19時28分25秒

確かにその様な人は存在します、笑
特に〇〇ちゃんねるなどに多く見られますね。
あそこは極めて詳しい人も多く見かけるのですがとにかく不思議なところですね。

例えば「労働者は二重の意味で自由」などとマル経用語で言ったりします。
これは「資産」、つまり土地を持っていない事をこのように言い換えているわけですね。
私は何と変な日本語だろうと思った記憶があります。
でも、これは日本語の翻訳が直訳的過ぎるせいなのかもしれませんね??
あるいはここにも「言霊」の力が働いているためなのでしょうか、笑

要するに実態の伴わない単なる「言い換え」主義と言えるような気がします。
此処まで書いたのですが例としてはちょっとピンぼけになってしまいました、自爆^^;;

縄文時代に既に稲作が青森で行われていたとNHKの「日本人の起源」で放送していました。
稲作は労働力を集約させて初めて成果の出るものなのです。
これが縄文時代に行われていたという事は三内丸山が特別な存在ではなく全国的に見られたレベルの遺跡だった事を推理させてくれます。
稲作が普及するという事は普及させるだけの社会レベルに当時の日本列島がなっていたという事なのです。

>前期と後期では違いがあり、住居も発達したと思っています
太田さんが言われるとおりだと思います。



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Toshyさん 投稿者:太田守人  投稿日: 1月29日(火)18時29分39秒

芥川龍之介が、海軍機関学校の教官をしていたのは、知っていましたが、何を教えていたのでしょうか?ご存知なら教えてください。私の親父が、海軍機関学校出ですので、興味がありました。矢張り、文学でしょうか。海軍兵学校・機関学校・経理学校という士官養成の諸学校は、キリスト教徒をヤソといって、毛嫌いしていたとも言います。



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縄文と弥生 投稿者:Toshy  投稿日: 1月29日(火)16時22分19秒

>写実
それは美術レベルの高低とは別問題ですよね。ピカソのような抽象画が古代に描かれていたら、
「やっぱり古代の絵は…」と低い評価がつけられていたことは想像できる。

ところで縄文と弥生式とで、土器などの形態が全く違うのは面白いと思います。
縄文文化は、その装飾の派手なところから見ると、華やかな文化であったと思います。
実用性よりも見栄えを重視しているようですね。

弥生式になると、今度は合理性が重視されているようです。
土器は現在使われているようなものみたいで飾り気がなく、
しかし使うにはこちらのほうが便利です。

余談ながら、豊臣秀吉が縄文の人なら徳川家康は弥生の人であった。

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/index.htm



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専門家 投稿者:太田守人  投稿日: 1月29日(火)12時55分51秒

あるテレビ番組で、三内丸山をやっていた時も、その道の泰斗が、「縄文時代に、都市があったとは思えない。農業を行い、長期間定住していたとは考えられない。」と言っていました。
私も、安部さんと同じで、「アホ」と思いました。また、その時のレポーターが、三内丸山遺跡の定住説に重大な疑義があると言っていました。専門家というのは、どうも自分の考えと違うとそれを拒否するものでしょうかね。
私自身、三内丸山に復元されている、竪穴式住居も1,500年も定住していて、あんな住宅ではなく、少なくとも、前期と後期では違いがあり、住居も発達したと思っています。



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藤原氏の秘密 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月29日(火)00時42分50秒

を茨城県のページから独立させました。
ページ構成を少し変えようかなと思っているのですが、なかなかコンパクトな形を作るのは難しいと感じています^^;;

面白い話題が続出ですね。
考えをまとめてから参加しますね^^



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写実? 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月28日(月)23時48分34秒

 ついこの間NHKで、「源氏物語絵巻」の復元を放送していたのはご存じだと思います。あの番組はとてもよくできていたのですが、一つだけ変なことを言う学者がでてくるシーンがありました。それは、女官の衣服を縫った顔料の分析をしていたら、どうも2種類の顔料を混ぜて色を出していたらしいことがわかったという下りなのですが、そこで古代の美術を研究しているらしい学者が「当時の絵師が色を混ぜるとは考えられていなかった、これは発見だ」と言っていました。
 「あほかい」と思いました。
 絵を描く人が目の前に2種類の絵の具があったときにそれを混ぜないはずがないだろう!
 その人は自分で絵を描いたことがないに違いがありません。

 最近思うのですが、古代なのに芸術が高い水準に達していたとよく言われますが、これは造形が写実的であることを指すようです。確かに新しい材料とか新しい道具によって表現が変わることは十分考えられるのですが、写実的なことを持って「発達」ととらえるのはおかしいと思います。
 未開の土人が使うような単純なのみを使っても、やろうと思えば写実的な彫像は彫れるし、一種類だけの絵の具を使っても写真のような絵を描くことは可能です。どんな道具を使ってでも、別に他人に教わらなくても、人間は工夫次第でどのような表現でもできるはずです。
 写実的な絵が存在しなかったとしたら、それは彼らが未発達だったからではなく、彼らは写実的な絵に価値観を見いださなかったと言うだけです。


 それともう一つ、東洋には西洋と比べて女性の彫像が少ないと思っていましたが、仏像がその代わりだったのだと気づきました。飛鳥時代の仏像はがっちりしていますが、平安時代になるにつれて丸みを帯びてきます。本尊の横の脇侍なんか、乳房がついていないと言うだけで、完全に女性のフォルムをしています。本尊の方もどんどん女性らしくなっていきます。
 仏教は、修行者に女犯を犯さないように言いますが、やはり人間が美しさを感じるのは女性像の方であるはずで、修行僧はあの女性的なフォルムの仏像を拝みながらエロティシズムを感じていたに違いない。第一そのような美しさがなければ拝む気なんか起きないだろう。



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詩篇22 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月28日(月)17時42分36秒

参考に貼り付けておきます。

22:1 【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】

22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。

22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。

22:4 だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。

22:5 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。

22:6 助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。

22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。

22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。

22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」

22:10 わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。

22:11 母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。

22:12 わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。


「旧約聖書」の面白いところは、登場人物の中で喜んでGODを信仰している人間が一人もいないことです。唯一いるとしたらそれはダビデなのですが、彼はかなりいいかげんな人物です。エリアもエレミアもイザヤもみなGODに選ばれることをはじめは拒否し、GODに不平不満を述べています。日本人の基準で行けばみんな信心の足らない連中ばかりです(笑)

しかし、GODとでも対立することができるというのが重要なところです。納得できるまでGODと対決するというのは、ユダヤ人やヨーロッパ人の信仰の姿なのです。

私が聖書を読んで得た結論は、聖書のテーマは、「ある日突然どこかから神様の軍隊とかが出てきて私達を助けてくれるといった、都合の良い奇蹟は絶対に起こらない」ということです。そのようなことは絶対に起こらないことを聖書は何度も何度も力説します。聖書をユダヤ人が自分のことを自慢した文章だとか、神様が好き勝手なことをしたことの羅列だと思っている人がいましたら、それは誤解です。

ただ、日本ではキリスト教を非常に精神的で自立的な宗教で知識人が学ぶべきものみたいに捉える風潮がありますが(多分芥川もそんなところから興味を持ったのだと思いますが)、イギリスで学校で歌の授業で聖歌を歌ったり、クリスマスに学校行事で近所の教会へ行った私の感想を述べますと、キリスト教というのは本来は私達の村の鎮守様と同じようにもっともっと生活に根ざした泥臭いものであって、ちょっと悪い子としたときに謝りに行ったり、どうにも困ったときにすがるような生活に密着したもので、だからこそ彼らのアイデンティティーを支えている重要なものなのだと思います。

もっともっと泥臭い、聖者の爪を崇めたり、マリアの像を担いで町を練り歩くといった人間臭い宗教なんです。本場では。



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芥川龍之介は 投稿者:Toshy  投稿日: 1月28日(月)17時05分26秒

間違いなく、その詩篇を知っていました。教会に長いこと通っていたから、
聖書に対する知識は相当のものだったはずです。信仰という、肝心な部分を除いては…

で、芥川は
>「私は苦難を受けてきたけれども,やっぱり神様を信じている」
という感想は持たず、死に迫った人間の断末魔の叫びを感じとっているのでしょう。
詩篇に対しては、いい加減な感想しか持っていなかったと思います(わら

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/index.htm



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河川 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月28日(月)15時18分08秒

我々は川が一本道で流れているのに慣れていますので、河川というのは昔からそうだと思い込んでいますが、それは人間がそのように川の流れを変えたからであって、人間の手が入っていない川というのは好きなように流れるものです。

特に下流のほうへ行くと、川というのは幾筋にも分かれて、川なのかただの湿地帯なのか良く分からない状態になります。こういう場所はそのままでは水田にはできません。中流のほうでは、流れが強いので、よく氾濫を起こしますし、流れも定まりません。一回の洪水ですぐにつけ変わったりします。

大河川の下流を水田にしようと思ったら、堤防を作って、川の流れを一本にして、ある程度湿地帯の水を抜かなければなりません。水があればすぐに水田ができるというものではなく、むしろ下流の低地は近世になるまでは可耕地ではありませんでした。



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ああそういうことならば 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月28日(月)15時01分49秒

納得ができます。

私は、キリスト教に対する日本人の意見を聞くときは、判断基準として例のキリスト最後の言葉をどのように説明しているかを用いることにしています。「キリストの絶望の言葉」などと書いている人の文章はそれ以上は読まないことにしています。

私は芥川龍之介のことは良く知らないのでここまでにしますが、最後に一つToshyさんに質問したいのですが、芥川は「旧約聖書」の第二イザヤの「苦難の人の詩」は知っていたのでしょうか?あるいは知っていたと思われるフシはありますか?芥川がキリストに自分を投影したにしろなんにしろ、この詩にどのような感想を持ったかは、その人物を知る上で大変重要なことだと思うからです。



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僅かながらも 投稿者:Toshy  投稿日: 1月28日(月)14時39分59秒

出来上がったのがこれです。↓

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/seki01.htm



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芥川は実際に 投稿者:Toshy  投稿日: 1月28日(月)14時03分18秒

キリスト教を信仰していなかったし、だから自分をオーバーラップさせたクリストに、
安部さんがおっしゃるような神への信仰などは書けなかったという事です。
芥川が書いた「西方の人」は聖書の常識というものを否定していますから、
否定されている常識を元に「誤解している」といわれても、わしも困りますので(わら

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/index.htm



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安部さん 投稿者:Toshy  投稿日: 1月28日(月)13時44分36秒

これは芥川が、自身をキリストに投影した物語なのですよ。
冒頭でも芥川が書いているとおりです。
聖書の物語に沿ったのではなく、つまりキリストの絶望の言葉ではなく、
芥川の最後の叫びだったのです。



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道君 投稿者:太田守人  投稿日: 1月28日(月)13時01分20秒

私の住む、金沢の隣町の野々市町の末松というところに、末松廃寺という広大な寺院遺跡があります。これは、今はかってこの辺を支配した、道君の氏寺あとであろうということに落ち着いています。道君というのは、その出自等まったく不明ですが、日本書紀の欽明天皇の条で、唐突に高句麗からの貢物を「大和の大王だ。」といって詐取したという記述がある人物です。この先にも後にも、まったく記述がありません。この寺は、平安初期には、すでに廃寺となっていたといいます。
私は、538年以前に、すでに仏教は伝来し、地方豪族では信者も少なくなかったように思っています。そうでないと、蘇我稲目が仏教擁護論を論ずることは、出来ないと思うからです。また、キリスト教も、景教という言葉で、唐代に中国まで来ていますので、日本にも信者がいてもおかしくないと思っています。
私は、この道君が継体王朝の成立に大きく関わったので、欽明も貢物の返還の使者を送っただけで、軍事行動は起こさなかったのだと思います。



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芥川龍之介は誤解をしている 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月28日(月)01時17分09秒

イエスが最後につぶやいた「神よ何故あなたは私を見捨てたもうのか」は聖書の「詩篇」のある詩の冒頭の句であり,聖書の中で詩篇の冒頭の句が引用されると言うことは,その詩をすべて読んだと言うことを意味します。

そのないようは「私は苦難を受けてきたけれども,やっぱり神様を信じている」と言う内容であり,イエスの絶望の言葉ではありません。

このようなことを芥川龍之介が書いていると言うことは彼は聖書の常識を知らなかったということになります、これは東北を馬鹿にした司馬竜太郎さん以上にひどいことです。しかもToshyさんもその事に気付いていない,あまりにいいかげんな話です。



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訂正 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月28日(月)01時09分00秒

(誤) 軍と産業が発達した

(正) ぐんと産業が発達した



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沖積平野が開墾されたのは近世になってから 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月28日(月)01時07分17秒

0mの平野部を耕地にするには、大河川を改修しなければなりません。そのためには技術力と大量の人間を動員する権力と財力、そして継続して工事を続けられるためにはなんと言っても平和が必要です。その条件が日本でそろったのは江戸時代になったからです。それも寛永・元禄になってから。寛永・元禄の50年で日本の耕地はほぼ二倍になり、人口も当然二倍になります。

私たちは、昔の家族は必ず3世代以上の大家族だと思っていますが、そのころの農地拡大を支えたのは、核家族の農民たちでした。今までだったら、次男坊三男坊として部屋住みか、あるいは武家の家来となって一旗あげるしかなかった人たちが、開墾に向かったわけです。江戸や大坂のようなと下やは一人暮らしや核家族が主体でした。そのような今までだったら家族を持てなかった人たちが一気に仕事を持てるようになって家族を持ちましたから、軍と産業が発展したのです。戦後とにていますね(ポスト戦国時代ですし)。


三位一体とか処女懐胎とか言った教義は、キリスト教の精神とは全く別のところにある者だと私は思います。どの宗教でもそうなのですが、教祖は異教徒にも寛容であったり、女性にも理解があったり、多様な価値観を認めているのですが、その後教義がまとめられる時代になると「神学者」という人種が現れます。この神学者というのが曲者で、かれらは「学問」の名のもとに自分の偏見や願望を宗教に潜ませてしまいます。

キリストの教えとパウロの教えは別の宗教といえるほど違うと今では言われています。その後アウグスティヌスなどの教父によってキリスト教は今のような姿になっていきます。

新教は宗教改革の形を取っていますが、大乗仏教が小乗仏教とは全く違う別の宗教であるのと同様に、新教というのはキリスト教とは違う新しい宗教であると考えた方がよいと私は思います。

現代人が宗教のあるべき姿と思っているような、穏健で、オカルトを廃した宗教というのは、豊かなときでなければ信じることのできない宗教ではないかと思います。ローマやギリシャの宗教はそうでしたが、その時代の知識人というのは、奴隷に何でもやらせていて、豊かで暇であったのはご存じの通りです。貧乏で苦しいときは、どうしても何でもしてくれる万能な神様を夢見そしてその神様がいつか自分をこのような目に陥れている奴らを成敗してくれると信じたくなるのではないでしょうか。キリスト教を最初に信じたのはローマの奴隷たちです。日本とヨーロッパの中世というのはちょうどそのような時代だったのではないかと思うのです。



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大日本帝国憲法の内容を一言で言うと 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月28日(月)00時46分44秒

慇懃無礼

これに尽きるのです。どの条文にも「天皇」が出てくるからといって天皇陛下が万能であると思ったら大間違いです。そのようなことを言う人がいたら、彼は読解力が0であるか、大日本帝国憲法をまともに読んだことがないかのどちらかです。



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そう言えば 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月27日(日)23時56分19秒

そろそろ「逆説の日本史9」を買おうと思って先週の金曜日に本屋に行ったのですが、何と9巻は売り切れていました。
さすがに井沢先生は売れっ子だと思いました^^



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思いっきり勘違い 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月27日(日)23時27分03秒

をしているかも知れませんが、キリスト教が普及した原因は後世の拡大解釈によるところが大きいような気がしています。
もしパウロがいなかったらキリスト教は今日まで残ったかどうか疑問ではないでしょうか。

もっともこれはキリスト教に限ったことではなく浄土真宗があれほど巨大なものになったのは初代親鸞の活動とは無縁だった事も同じような感じがしています。
苦行をする人は世界中に無数に存在していた筈ですからこれはキリストだけの専売特許ではなかったと思うのです。

確かにイエスの苦悩は安部さんが書かれている通りだったのかもしれませんね。
Toshyさんが書かれているように芥川が同じ様なことを書いているのであればますますその思いが強くなってきます。

仙台平野に限らず現代の大穀倉地帯は江戸時代に耕地として完成されたところが多いようですね。
新潟の見渡すばかりの田んぼもまた戦国時代には湿地帯にしか過ぎたなったようです。
江戸時代250年間に1800万人から2800万人へと1000万人の人口増がありました。
これはアバウトに言うと食糧供給量が1.5倍に増えた事でもあります。
大岡越前の印旛沼開拓は有名ですが全国的に耕地を開拓をして(主に)田んぼを増やしていったのでしょうね。
その結果として1000万人分の食糧を多く作り出すことが出来るようになった事を考えると感動してきます。

高坂さんの言われるように江戸も同様だったのでしょうね。
もし初めから現在の東京のような環境にあるとしたらもっと以前から江戸は歴史の表舞台にあったような気がしています。
古代の街道図によると東海道は鹿島に繋がっていました。
現在の6号のルートと比べるとずいぶん違っているのが分かります。

>現代の広大な穀倉地帯や人口の多い場所が、昔も同じだったわけではないのだなぁ、とつくづく思いました。(特に平野部)
このような中で特に尾張平野は開拓が早かった事が信長の統一にも一役買っていると思っています。



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平野 投稿者:高坂英吾  投稿日: 1月27日(日)18時34分00秒

> 政宗がきた頃も、まだ湿地帯だったのですよ。

そうだったのですか。
家康が来た頃の江戸も湿地帯が多かったそうで、関東平野の多くも、道路事情などは、大正時代頃までは、雨が降るとヒドイ状況だったようです。

現代の広大な穀倉地帯や人口の多い場所が、昔も同じだったわけではないのだなぁ、とつくづく思いました。(特に平野部)



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仙台平野は 投稿者:Toshy  投稿日: 1月27日(日)15時19分28秒

政宗がきた頃も、まだ湿地帯だったのですよ。
現在通っている国道4号線は人が通れるような場所ではなく、もとの街道は山沿いでした。
伊達家には名取川を氾濫させて幕府の大軍を防ぐ作戦を練っていたことがつたわっています。
つまり手のつけようがなかった? と思うのですが、どんなものなのでしょうね。

キリスト教については、安部さんの書いていることと芥川龍之介が書いたことは似ている(わら
テキスト付きなので、ぜひどうぞ。

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/saihou0.htm



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おっ^^ 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月27日(日)13時02分22秒

安部さんの尊王思想の研究17をアップしました。
下記のアドレスです。
見て下さいね^^
今回の原稿を書くのは特に大変だったのではないかと思いました。

レイアウトも少し変更してみました。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/abesonnou17.htm



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人の子 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月27日(日)08時13分26秒

 もっと踏み込んで考えてみましょう。
 結婚直前になって妊娠してしまったマリアに対して、ヨハネは「それは誰の子供なんだ!」と問い詰めたことでしょう、どうにも言い逃れのできなくなったマリアは「私は聖霊によって身ごもったのです」と言った。それでヨハネは悩んだ。ヨハネとしては多分マリアを本当に愛していた、しかしマリアは裏切った、けれどもヨセフがここでマリアを見捨てたらマリアは身寄りがなくなってしまう。
 これほど悩めば、夢の中に天使ができても不思議ではないでしょう。ヨセフは天使の夢を見ることによって踏ん切りがついて、マリアの子供を自分の子供として育てる決心がついたのです。
 このように考えると、福音書の冒頭の記事は、奇怪な教義でもオカルトでも何でもなく、ある普通の恋人たちの間に降ってわいた災難に二人がどう立ち向かったかというドラマとして読むことができます。

 やがて子供は産まれてイエスと名付けられた。しかしイエスとマリアは事情を知る人たちに後ろ指を指されることが多々あったのでしょう。物心の付いたイエスは母親に尋ねた、「お母さん、私はいったい誰の子供なんですか?」それに対してマリアが答える「あなたは聖霊の子供なのです、何ら後ろめたく思うことはありません。」この衝撃的な言葉がイエスの性格形成に影響を与えなかったはずがありません。
 「捨て子幻想」というのがあります。幼い子供にとって最初父親はスーパーマンで母親は女神様なのですが、やがて育つうちに自分の両親のつまらないところも見えてくる。そこで子供は「私の両親はどこか別のところにいるんだ。その真の両親はお金持ちでやさしくて、屁が臭い今の父ちゃんやガミガミうるさい母ちゃんとは違う。そして真の両親がいつか私のことを迎えに来てくれるんだ。」という幻想です。子供が親から離れて自我を形成するために、一度は通らなければならないコンプレックスといわれています。
 イエスはおそらくこの捨て子幻想を強く持った子供だったのでしょう。「私は聖霊の子供だ、いつかこの命をGODに返さなければならないんだ。」を強く信じてイエスは育ったと考えられます。
 ただし、そんなことはやがて忘れてイエスは普通に育ったと考えられます。しかし大人になってから、何らかのきっかけを通して幼児体験を強く思い出してしまったのでしょう。今でもよくあることです。自分が聖霊の子供であり、GODのために生きなければならないことを思い出したイエスは居ても立ってもいられなくなって、家族を捨てて修行に出てしまいます。

 とはいえ、福音書の中でイエスは自分のことを「GODの子」と言ったことは一度もなく、「人の子」と自分のことを呼んでいます。この「人の子」とはなにを意味するのでしょうか?
 イエスがヨハネの嫡出子であれば、ユダヤ人の習慣として彼は間違いなく自分のことを「ヨハネの子」と呼ぶはずです。しかし彼にはできない。おそらく「人の子」というのは「私生児」の別称だったのではないでしょうか。つまりイエスが自分のことを「人の子」「人の子」と自称したと言うことは、「私は私生児です」と堂々と自称して歩いたと言うことを意味してはいないか?

 本当に神の子供であれば母親は必要ないんです。現に、「山の上に神の産んだ卵があって、そこから我々の民族の始祖が生まれた。」という神話を持っている民族も存在します。

 イエスは苦しい旅をして、最後はすべての人間に裏切られて刑死するのですが、それでもなお彼を突き動かしたのは、「父親(GOD)のところへ帰りたい」という幼児期のコンプレックスに基づく強い衝動だったのではないでしょうか?そうでもなければ、自分から死に赴くようなことは普通できません。しかし、幼児体験に引きずられて、どうにも不条理な行動を繰り返す人間ならば今でも大勢います。イエスもその一人だったと私は考えます。



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はたして政宗の願いはかなうのか? 投稿者:輔住  投稿日: 1月27日(日)08時09分06秒

>さらにその上を望んでいたとは政宗は何て欲が深いのだろうと思いました、笑
まったくです。1代を20年と考えても2万年。そこまで続いた家など
世界を見ても(まだ)ほとんどないと思うが、それでも満足できないとは
凄いお方です。(爆)



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千代に八千代に 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月27日(日)01時40分47秒

は君が代の歌詞にあるくらいですから十分すぎるほど長い期間の意味が込められていると思うのですが...

>伊達政宗が「千といわず、永遠に」と「仙」にしました
Toshyさん、「千代」を冠した名前はめでたいの筆頭だと思っていましたよ。
でも、さらにその上を望んでいたとは政宗は何て欲が深いのだろうと思いました、笑
仙台の街は江戸時代に五万人もの規模があったらしいですよね。
鎌倉や京都、金沢、札幌と並んで仙台は私が特に気に入っている街の一つです。

それにしても不思議なのは仙台(大崎)平野ほど地の利があると思える広大な穀倉地なのに政宗が仙台に移される前にはあまり開拓されていなかった??のはどうしてなのでしょうか。

古都の散策は太田さんや安部さんのように自転車でするのが一番だと思っています。
私も今度、奈良に行く時には自転車を使って藤原京跡などを見てみたいですね。

金属を燃やすと金属ごとに色が違いますよね、と炎色反応を思い出してしまいました。
金属が燃える時の眩しさとは花火の光の強さのようなものですから、これを見続けていると間違いなく目をやられてしまいますよね。
当時は現代のように溶接用のサングラスはありませんでしたから特にそうだったと思います。
この光を見続けていた人は間違いなく視力は低下したものと思います。

>日立鉱山の場合は問題となったのは煙害の方でした。
>大仏を作っている間は平城京は黄色い煙で息苦しかったに違いありません。
煙の被害は私自身が身をもって体験していますのでよく分かっていますがこの通りです。
特に夏など窓を開けて寝ていると突然鼻をつんざく異臭によって起こされて事が何度もありました。
あれはたまりませんよ( ^^)ノ ((((((●~*
隣のあんぽんたんさんがビニールの袋を燃やしていたのが原因です。
この人の家の方に風が行かないのが悔しいです、独り言^^;;

キリスト教についてはよく分からないのですがなるほどと思いました。
確かに何となく釈然としないでいましたが謎が解けたような気持ちになりました。
痛みなどの感情を良く知っているからこそ相手に対して優しい気持ちになれるというのは心理だと思っています。

でも残念ながら大多数の人は痛みを忘れて他人に対して同じ様な痛みを与える人が多いようです。
最近の児童虐待の親もまた虐待された経験を持っていたという事を聞いて思いました。



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神を冒涜する言葉 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月26日(土)23時24分09秒

 欧米の本を読んでいると時々「私は神を冒涜する言葉をはいてしまった、私は地獄に堕ちてしまうかもしれない」という言葉を目にします。でもその「神を冒涜する言葉」が文字にされたのを私は見たことがありません。そのためそれが何という言葉なのか私はわかりませんでした。
 しかし最近やっとそれが何であるかわかりました。クリスチャンに尋ねて確認したわけではないのではっきりとは言えませんがまず間違いはないでしょう。その言葉は”SON OF A BITCH”です。”
 SON OF A BITCH”直訳すると「雌犬の子供」。しかし”BITCH”とは売春婦の隠語ですのでその意味は「売女のガキ」です。
 何でこれだ神を冒涜する言葉なのか?それはみなさんもご存じのように、イエスは父親がいないからです。
 マリアは処女懐妊をしたことになっていますが、キリスト教徒でない私はそのようなことを信じる必要はありません。イエスにもちゃんと遺伝上の父親と母親がいるはずです。
 母親ははっきりしています。マリアです。では父親は?マリアとヨセフは婚約をしていましたが、マリアが懐妊したときに、ヨセフはそれは自分の子供ではなかったので、婚約を破棄しようとしたと「マタイによる福音書」にはあります。とすると、マリアは婚約を前にして密通を犯して(あるいはレイプをされて)妊娠をしてしまったとしか考えようがありません。
 しかしヨハンは天使からのお告げを受けてイエスを自分の子供として育てることにしたと「マタイによる福音書」にはあります。
 当時のユダヤ人の習慣では、自分の子供でなくても、結婚してしまった後はちゃんと自分の子として育てる習慣がありましたので、ヨハンはイエスを普通に育てたのでしょう。
 処女懐妊などという訳の分からない神学で誤魔化していますが、イエスが私生児であることは間違いなく(ユダヤ人はその立場をとっている)キリスト教ともそのことは薄々感じているのでしょう。従って、”SON OF A BITCH”というのはキリストの隠語なのです。だから最大級の罵り言葉なのでしょう。

 こう考えると、イエスがなぜあれほど優しい宗教を作ろうとしたのかがわかってきます。イエスはおそらく家の中では肩身が狭かったのでしょう。そしてマリアは自分しか頼るもののないイエスをかわいがったに違いありません。イエスが説教を始めたときに彼を「大飯ぐらい」と罵る者がいた、と聖書には記されています。「大飯ぐらい」は「私生児」の隠語らしいです。つまりイエスは日陰者であったからこそあのように弱い立場の人間に優しく、特に売春婦とか子供を失った母親とか婦人病に悩む女性といった、立場の弱い女性に優しかったに違いありません。
 私は宗教家の中で一番女性に優しかったのはイエスではないかと思います(そして二番は法然上人です)。それにはこのような理由があったのではないでしょうか?



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水俣病の原因は 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月25日(金)23時02分25秒

有機物とくっついた水銀ですから,メッキに使った水銀がすぐには水俣病を起こしたとは思えませんが、純粋な金属というのは返って人体には余り害はなさないものです。しかし銅や水銀といった重金属を垂れ流して無事で済んだとは思えませんね。それに鉱石を精製する間に銅とか水銀以外にもいろいろな重金属が出てきますから、当時の飛鳥とか平城京というのはかなり公害がひどかったはずです。

このことは絵本作家で有名な加古さとしさんが書いた、絵本の大仏建造に指摘してありました。加古さとしさんは絵本の方が有名ですが実は東工大の教授なんですよね。子供の頃読んで、なるほどと思いました。

古代の金メッキは、水銀と金の合金を作って、それを銅像に塗り、そしてその合金をあぶることによって水銀を蒸発させて追い出すことによって行います。つまり、仏像を金メッキすると、工房内に水銀の蒸気が充満します。あの仏像の裏で、何人もの工人が斃れていったのは間違いがありません。

古今東西冶金の神様は一つ目です。これは、金属を溶かしていると、まぶしいので片目だけで作業をする(そうしないと両目つぶれてしまうから)、その代わり作業中に使う目の方はつぶれてしまいます。そのため長い間冶金をしてきた人は片目がつぶれてしまうので、一つ目の神様が生まれたのではないかと言うことです。

日立鉱山も廃水を宮田川に流したのですが、宮田川は渡良瀬川と違って全長2kmくらいしかないうえに、深い谷をなして流れるのでほとんど農業用水としては使用されてはいませんでした。ですから日立鉱山は鉱毒問題にはあまり気を遣う必要はありませんでした。それでも鉱毒問題が起きた農地は、全部買い上げてしまいました。日立鉱山の場合は問題となったのは煙害の方でした。

大仏や大寺院を作るためにかなりの木が伐採されたはずです。そのため鎌倉時代の再建の時に材木を周防から運ばなければならなくなります。平城京は生活廃水と工業廃水と木材の伐採などでかなり大変だったはずです。銅を溶かすときの煙もすごかったでしょう。銅を作るとたいてい硫黄の煙が出るはずですから、大仏を作っている間は平城京は黄色い煙で息苦しかったに違いありません。

信楽の宮などに遷都したのは、大仏造りの公害がひどかったので追い出されたのかもしれませんね。



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古代 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月25日(金)22時27分52秒

における石の文化の痕跡は私に遥か南方の島々を思い起こさせてくれます。
百済の地理的環境は日本とあまり変わりがないと思いますので基本的には「木の文化」ではないかと思っています。
ですから百済ばかりではなくもっと広い範囲から日本にやってきた人たちがいたのではないでしょうか??
南方の影響を強く受けた人たち(あるいはその人本人たち)によって巨大な石の建造物が造られたように思っています。

様々な種族が飛鳥の地に集まっていたと想像するとなんだかワクワクしてくるようです、笑

>飛鳥は工房都市でもあります。仏像を作るには銅を溶かさなければなりません。金メッキをするにはなんと水銀を使わなければなりません。飛鳥川は鉱毒と大小便で死の川となったことでしょう。

私も同じような事を奈良の大仏をみて思いました。
まして大仏以外にも無数の仏像が造られましたからこれらをメッキするには膨大な量の金と水銀が使われた事だと思います。
水俣病が大社会問題になったのは昭和ですから当時の人たちにとっては「祟り」であると理解したのではないかと思うのです。
金の発見や発掘ばかりに目が行きやすいのは仕方がないように思います。
でも遷都の原因には水銀による汚染による影響は相当大きなものだったように思えてきます。



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もちろん 投稿者:Toshy  投稿日: 1月25日(金)14時36分18秒

行政官ならともかくも、土地の一般人は国境なんて意識していなかったでしょう。
せいぜい隣の村とオラの村、という区別でしょうね。
現在でも行政区画で○○区と××区はありますが、その境目で意識するものでもなし。
「クニ」といっても、漠然とした意識の中にしかなかったと思います。

ネーミングといえば仙台ももとは千代でしたが、
伊達政宗が「千といわず、永遠に」と「仙」にしました。
その伊達家、現在20代目に近くなっていますが、「千代」を超えることが出来るだろうか?!



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明日香 投稿者:太田守人  投稿日: 1月25日(金)12時28分08秒

青春18きっぷで、金沢発6時26分の鈍行で行くと、12時30分に畝傍駅に着きます。去年、9月の3連休に、自転車で明日香を回ってきました。ついでに、箸墓・巻向・唐古鍵・藤原京跡などを1日かけて自転車で回りました。レンタサイクル借りたのですが、橿原神宮駅前のレンタサイクルのおっちゃんが、益田の岩舟を知らなかったのと、益田の岩舟への登り口と登山道が草でぼうぼうだったのには、驚きました。あのあたりは、あまりいかないのでしょうかね。
ここから、またトンデモ説です。安部さんのおっしゃるように、甘樫丘に登ると、伝板葺宮は目と鼻の先です。蝦夷は、山背大兄王を攻めていますが、大化の改新の際、何故あの果断(私は、蝦夷はそういう人だったと思っています。)な人が、先に板葺宮を先制攻撃しなかったのか、不思議です。そこで、日本書紀にある、漢皇子という謎の人物がいます。これは、斉明(というより宝皇女のほうがいいかもしれませんが。)と高向王という人物の間に出来た子です。私は、高向王が蝦夷で、漢皇子が天武ではなかったかと思っています。そこで、蝦夷も最愛の妻と子を先制攻撃するなど出来なかったのではないか、と甘樫丘に登り、伝板葺宮跡を見るたびに思います。



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安部さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月24日(木)22時57分26秒

下宿からネットにアクセス出来るようになって良かったですね^^
便利な道具はやはり便利ですよね、笑

Toshyさん
奥州とか関東などと行政地区範囲により境界のようなイメージをどうしても持ちがちですが実はそれは一種のマインド・コントロール(古い^^;;)ではないかと思ったりしています。
県境とは行政上もしくは地図上でははっきりと区切られますがその付近に実際に住んでいる人たちにとっては関係が無いように思っています。

つまり奥州南部と北関東では同一経済圏にあたる部分が幾つもあったのではないかという事なんです。
このような繋がりにより関東から東北へと移った人や東北からやって来た人は昔から数多くいたのではないでしょうか??
秀郷流藤原氏が奥州で成功したのはこのような背景があって初めて可能だったのではないかと思ったりします。

太田さん
正確に言うと将門の本拠地岩井は茨城県にありますが旧国名では下総にあるのです。
ですから将門は茨城県と千葉県、両県人の先輩にあたると思っています^^

>石川県最大の大河手取川は、昔は、湊川といっていたらしい
石川県の人はネーミングの付け方のセンスがあると思いました。

高坂さん
拝見してきましたよ^^
楽しく、そしてなるほどと納得してきました。
この話題は面白いですよね。

それにしてもさすがに大三元さんですね。



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金まみれ^^;;ワールドカップ 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月24日(木)22時56分16秒

鹿島サッカースタジアムで行われるワールドカップチケットの料金表を見てびっくりしました。
なんと3試合連続券(お土産付きらしい??笑)のシルバーチケットが23万1000円もするのです。
これには思わず唖然としてしまいました(;^_^A)

ちなみにこのチケットの試合には日本は出ません。
国立競技場で行われる日本チームが出場する試合の同じタイプのチケットは95万円でした。
これには正直なところ我が目を疑いました。
いくら4年に一度しか開催しないワールドカップとは言ってもこの料金は法外すぎます。
まるでボッタクリバーのようです^^;;
はっきり言って狂っているとしか言いようがありません。
サッカーを食い物にしている様子をこれほどあからさまに見せられるのはいい加減にして欲しいと思っています。



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飛鳥で思ったこと 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月24日(木)22時30分17秒

 先週の週末に,考古学をやっている友人と飛鳥に行って来ました。
 朝に京都を出ると昼前には飛鳥に着きます。18切符の残りを使い切りたかったので、畝傍まではJRを使い、そこから近鉄八木西口まで歩いて近鉄戦に乗り換え、近鉄飛鳥駅前で自転車を借りてまわりました。
 現在の飛鳥は自転車道が整備されていて、たいていの遺跡には自転車で行けるようになっています。キトラ古墳、高松塚古墳、亀石、橘寺、川原寺、伝飛鳥板葺きの宮跡などを見て回りました。キトラ古墳はシートがかけられて発掘中のようでしたが、今思うと壁の十二支像を調べていたところだったのですね。
 自転車で飛鳥をまわって驚いたのが、飛鳥がとても狭かったことでした。2km四方の中に聖徳太子の頃から天武天皇の頃までの遺跡がぎっしりつまっています。入鹿が殺害された板葺きの宮と蘇我氏が宮を構えていたといわれる甘樫の丘の間は500mもないのです。高さの差も50mくらいしかありません。全速力で走れば10分で届く距離です。かように飛鳥というのは狭い。
 今回の目的の一つは、飛鳥の石像物を見て回ることだったのですが、最近の研究によると、飛鳥は「石の文明」といえるほどに石像物が多く、道路なども石畳だったらしいとのことです。
 古代の東海道が大和の山の中を通っていて、さらに大和盆地がまだ乾いていなかったことを考えても、飛鳥というのは狭くてあまり都城を置く場所として適当とは私には思えませんでした。などと二人で話しながら、最後に甘樫の丘に登って飛鳥を一望のものに見渡すと、狭い敷地の中に宮の跡と寺がぽつりぽつりと散らばるのが見えました。だがしかし、飛鳥が都だった頃は、寺と宮の間にあったのは田畑ではなく、宿坊や工人の住居や役所だったはずです。そうすると、今では田畑の中に寺と遺跡が島のように残る明日香の地が、家と寺と官庁でぎっしり詰まってしまいます。

私は思いました。飛鳥というのは、一つの都市だったのだ。

 そう考えるとつじつまが合います。
 飛鳥というのは元々は帰化人が集住した工業都市だったのでしょう。飛鳥の遺物は百済系の遺物が主体です。彼らは少しずつ、ただし着実に都市を造っていったのでしょう。ですからその後に作られた平城京や平安京のような急造りの都市と違ってしっかりとした石の都市を造っていたのでしょ。ただし計画性では少々劣っていたのかもしれません。飛鳥というのは当時まだ湖が乾いたばかりだった奈良盆地の中ではやや高く、乾いた土地でした。飲料水は周囲の山から取ることができます。生活廃水は飛鳥側に流せばよい。
 そこに何らかの理由で天皇が住むようになり、宮殿や官公庁や寺が建て増しされていったのでしょう。宮殿が次々と変わったのは、天皇の死の穢れを避ける意味もあったのでしょうが、国家組織が整うにつれて手狭になっていたからという理由も大きかったのではないでしょうか。しかし、古い宮殿はすぐに廃墟になったわけではないでしょう。おそらく官庁とか豪族の家とかお寺などに使い回しされたと考えるほうが妥当です。
 私たちはどうしても出てきた遺跡だけで過去を考えがちですが、お寺や宮の周りには必ずそれに付属する建築物があったはずで、そう考えると飛鳥というのは立派な都市になるのです。飛鳥は古代の都市としては場所も大きさも手頃です。
 そう考えると、斉明天皇がなにをしようとしていたのかもわかります。斉明天皇は中大兄皇子や中臣鎌足が国造りに熱中している間、大きくなりすぎて環境が悪化してしてしまった飛鳥の生活環境を改善しようと努力していたと考えられます。
 渡来人が少しづつ住んでいる分には飛鳥は適度な大きさでしょうが、飛鳥の地をぎっしりと人が埋め尽くすようになると生活環境はかなり悪化したと考えられます。飲み水は足りなくなったでしょう。飛鳥川も流量は少ないので、生活廃水を流すには足りなくなったでしょう。たぶん1万人以上は住んでいたでしょう、1万人の大小便をすべてあの小川に流せば悲惨なことになります。もっと深刻だったのは工業廃水でしょう。飛鳥は工房都市でもあります。仏像を作るには銅を溶かさなければなりません。金メッキをするにはなんと水銀を使わなければなりません。飛鳥川は鉱毒と大小便で死の川となったことでしょう。
 一生懸命水に関する施設を作っていたのは、たぶん遠くの山から、きれいな水を運んでくる上水道を作ろうとしていたのでしょう。上水道を作れば、それがそのまま下水道の水力の強化になります。
 飛鳥の地が最終的には捨てられて、大津、藤原京、平城京へと移っていった一番の理由は、生活環境の悪化ではなかったでしょうか?そして斉明天皇が行ったといういろいろな公共工事の目的は飛鳥の環境を改善するためのものだったのではないでしょうか?



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(無題) 投稿者:高坂英吾  投稿日: 1月24日(木)19時37分59秒

「地名辞典」ですね。今度、図書館で見てみます。
ついでに「千葉」の語源をどう書いてあるかも見て来ますね。
ありがとうございました。



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総の国 投稿者:高坂英吾  投稿日: 1月24日(木)19時36分08秒

> でも「安房」の「房」も「ふさ」と発音するところを見ると、ひょっとしたら本来は全ての地域を「ふさ」と呼んでいたのかもしれないと思ったりします。

きんたろうさん、さすがですね。
千葉人の私も、この間まで、こんなこと考えもしませんでした。

ところが最近、大三元さんにヒントや答えをもらい、一つの結論に達しました。
私には驚くべき結論です。
きっかけは「千葉」の語源は何だろう、でした。
『万葉集』に出て来る等、色々な説があるのですが、決定打がありませんでした。
それを、大三元さん風のアプローチで、正に「知ってビックリ!」でした。

お時間があれば、見て下さい。

http://johokan.net/Others/surprise.html
http://johokan.net/History/chiba.html



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 1月24日(木)16時38分32秒

石井は、高坂さんのところですか。失礼しました。金沢にいると、このあたりが、いまいちよく分かっていません。
高坂さんのおっしゃるように、川は昔は高速道路だったと思います。石川県最大の大河手取川は、昔は、湊川といっていたらしいですが、上杉謙信に織田信長軍が、この川の近くで蹴散らされ、その時に、織田の将兵が、急流の湊川を渡河し、逃げるため、手と手を取り合って、渡ったことから、手取川と言うようになったといいます。



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ふむふむ 投稿者:Toshy  投稿日: 1月24日(木)16時02分16秒

北関東に藤氏が早くから根付いていたことと関連し、面白いですね。
東北の英雄奥州藤原氏の祖は北関東の藤氏が北上したので、
そのルーツ解明につながることを期待しています!



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地名の由来を調べる方法 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月24日(木)14時09分25秒

「地名辞典」を使うのが一番手軽です。大きい図書館ならあると思います。県ごとに,主な地名の由来などが書いてあります。

でも利根川ならば,詳しい本が別に出ているかもしれません。



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再び下宿からネットに接続できるようにしました 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月24日(木)14時07分06秒

niftyに加入しました。これでまた下宿から接続できます。メールのやり取りもできるようになりました。

メールアドレスが変ですが,これは近日中に変更する予定です。



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