過去ログ150(2002年〜3月3日)


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江戸時代の旅行 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 3月 3日(日)17時36分51秒

昔は車がありませんから、一般の人たちはすべて歩きで旅に出ていました。
江戸−京都の旅でも片道で20日くらいだったと何かで読んだことありますが、
食費や宿泊費、さらには履いている「わらじ」の代金だけでもかなりのものになります。
(「わらじ」は靴と違ってすぐに減りますから、一日2足は履きつぶしていたらしい。)
往復40日ほどの旅行で、何日分の稼ぎをつぎ込んだんだろう…
現在でも40日まとまって旅行すれば100万はいきますが。

海といえば、古代の航海者はさらにすごい。
地図がなくどの方面に新しい陸地があるなんて知らないのに、
ポリネシア・メラネシアの人々はカヌーのような船で移動していったのですから。。。



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太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 3日(日)12時39分29秒

牛車も意外なところで活用されていたのですね^^
確かに悪路を移動する場合、牛車だとゆっくりと進むわけですからその分積み荷に対して衝撃は少ないと思います。

私は牛車があるのなら馬車も当然あって良いと思っているのですが...
普及しなかった理由についてよく分からないでいます(;^_^A)

ペギラさん
すみません^^;;
無料なので仕方がないのでしょうがグーは時間帯によってかなり重くなります。
内容的には全く同じ物ですからビッグローブのアドレスでお願いします(ぺこぺこ)

何と今グーを見て来たら何と無料HPサービスを打ち切るとありました^^;;
提携しているHOOP’Sで引き継ぐとの事です。



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Toshyさんが言われるとおり 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 3日(日)12時37分36秒

石田三成のような忠臣を作り出すことが徳川家の目標の一つであったと思っています。
家康の正当性を造り出す事は豊臣家の悪政を造り出す事でもありましたが、秀吉は究極の出世者として人気がありましたし、秀吉の家臣になった家康を同時に中傷してしまう可能性があったためにその矛先を三成に定めたのでしょうか??

でもそれほど三成のことを貶めようとした徳川御用学者達がした事と言えば、秀吉の女遊びの手伝いをしたなどという程度でした。
どうでもいいものでしか見つからなかったのでしょうね。
結局は人望がないとか戦下手とか、これもまたはっきり言って些細な事を書くしか手がなかったのです。
それもこれは真実ではないと私は思っていますが。

もし光圀が三成こそが日の本一の忠義者であると書くことが出来れば大したものだと思うのですがそれは無理な注文というものだったのでしょうね^^;;
三成のような人物こそが徳川家を支える人材として必要とされたのは言うまでもありません。



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今日はひな祭りですね^^ 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 3日(日)12時35分58秒

船の移動も絶え間なくローリングを繰り返していますから大変ですよ^^;;
船旅をしたらほとんどの人は船酔いを経験するはずだと思っています、笑
それにいくら気持ちが悪くなっても船の外に出ることが出来ないのですから大変過ぎますよね。

海軍の場合は全員が何qも泳げるように訓練をしていたらしいですよね。
いくら海の水は浮き易いとはいえ、一端足がつれば即溺死に繋がるわけですから正に命がけの訓練をしたのだろうと思っています。

津太夫の時代も船乗りのスイミング力はかなりのものが必要とされたのではないでしょうか??
私は最低でも10qくらいは軽く泳げるのが船乗りとしての条件というか常識としてあったように思っています。
ちょっと考えただけでも昔の人の移動にかけるエネルギー量とはものすごいものがあったわけですよね。
このかなり高いハードルをクリアして交易や移動の担い手として活躍した人達は一種の超人と呼べるような気がしてきました^^

一方陸路の場合は溺れる心配が無い点を長所として挙げられますが7000qもの長距離の場合は想像を絶しています。
やはり休みを多く取って体力の回復を図りながら移動したのだろうと思っています。
無理をしたらとても7000qを走破するのは不可能ですよね。
そう考えると移動の平均速度はどうしても遅くなるのは仕方がないですよね。



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エラー 投稿者:ペギラ  投稿日: 3月 3日(日)00時17分21秒

http://user02.goo.ne.jp/~kintaro2_2001/?

きんたろうさんのHPにはいれません。
以上のエラーがでます。

これはミラーをメインにした方がいいかも!!



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 3月 1日(金)16時46分19秒

牛車といえば、ゼロ戦を三菱重工名古屋工場から、完成したら最寄の各務原飛行場まで、牛車で一晩かけてえっちらおっちら運んで、そこから飛ばして海軍に引き渡していたそうです。最初は、トラックで運んでいたが、各務原についたら機体がヒビだらけになり、とても危なくて飛ばせない、そこで、牛車で運んだらうまくいったそうです。このような理由で、太平洋戦争開戦時に、海軍のゼロ戦保有量は、予定の半分くらいで、撃墜されたら補充できないという綱渡りをしていたとか。



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7000キロの移動 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 3月 1日(金)14時46分04秒

>乗っているだけでおしりが痛くなるだけでは済まないような感じがします。
車に酔った、内臓をいためた、寝不足…と
シベリアを移動した人たちの苦労は想像を絶します。そして人々を運んだ馬も…
道が乾いていれば、がったんごっとんのでこぼこ道。タイヤもないしクッションもないから、とても快適ではないですね。。ぬかるみの道ならもっと事態が悪い。
津太夫のことを記した古文書ではここをさりげなく書いてますが、編者が彼らの苦労などに興味を持たず、聞く耳を持たなかったんだと思います。
文献にない、行間を読む作業って、歴史を再考するには必要な作業ですねぇ。

>でも、もし豊臣家が300年も続くような状況があればどうなるか分かりません
そうですね。秀頼の次の世代には事実を知る人も少なくなっているだろうから、藤原氏の出自であるという系図を作り始めるかもしれません。

>勢力を増大させると言う事は「無」から「有」を造り出した訳ではない
徳川だってあれほど嫌っていた石田三成の行政をそっくり真似したようなところがありますね。
「パクリだから悪い」ではなく、良いところを認めて継続したところが徳川の偉いところだと思います。
<焚き火を燃やすことを発明したのはもちろん天才だったのに違いない。けれどもその焚き火を燃やしつづけたのはやはり何人かの天才たちである。(芥川龍之介)>
平将門よりも藤原清衡が、そして藤原氏よりも頼朝、頼朝よりも北条氏…と優れた政治を行っていくのは後代が前代よりも優秀だからではなく(もちろん優秀であることには違いありませんが)、前代の失敗を生かしていく能力にあるのでしょう。



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Toshyさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 1日(金)00時54分41秒

>馬車で50日かけて7000キロ移動
乗っているだけでおしりが痛くなるだけでは済まないような感じがします。
恐らくは全身がバラバラになったような感覚に襲われるのではないでしょうか??笑

アルセーヌ・ルパンの話にあったと思うのですが...??多分
あるエピソードの主役の女の人が遠方へ移動する事になった時に、馬車で移動するのは大変なのでルパンが汽車を予約した(切符を買っておいた??)シーンがあったような気がします^^

移動にかかるエネルギーは現代人の私達には想像がつかないように思います。
それにしても日本で「馬車」が発達しなかった理由は何故なのかよく分かりません。
牛車も平安の時代には貴族の乗り物として有名ですがその後も続いているのでしょうか??

>平泉政権は、まさにこの方法で地方の豪族をまとめあげたものだったと思います
勢力を増大させると言う事は「無」から「有」を造り出した訳ではないと思っています。
信長の場合は例外に属しますが普通は雪だるまが回転するたびに大きくなって行くように吸引力がある人物が中心になってこの回りに人が集まっていくというパターンではないでしょうか??

>平家の隠れ里伝説ですが
確かにToshyさんが言われるような理由のところはあるような気がします^^
五木の子守歌は有名ですがそれほど全国に「平家」がいたわけではないですよね。

輔住さん
>どことも繋げ難い秀吉なんかは「天皇家の落しだね」などと法螺をふいてましたが(爆)!
秀吉の場合はあまりにも出目がはっきりとし過ぎていたために詐称する事が出来なかったのではないかと思っています、笑
でも、もし豊臣家が300年も続くような状況があればどうなるか分かりませんよ^^

kitunoさん、さすがに詳しいですね^^
神功皇后は実質的な初めての女性の天皇だったのかもしれませんね??
ヤマトタケルもまた伝説が多くあるところから生存説が疑われていますがそれは他の人物のエピソードが加えられたせいであり日本武尊は存在したと思っています。

確かに常陸国にはヤマトタケルにまつわる場所が幾つもありますよね^^



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神功皇后その2 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 1日(金)00時50分49秒

私は基本的には書記に書かれていた人物(のモデル)は必ずいたはずだと思っています。
その人が卑弥呼だったのかどうかはイメージが掴めていないのですが確かに太田さんの言われる説もあったように思います。

気比神宮と言えば越前国の一宮ですよね。
残念ながら応神天皇の関係については良く知らないのですが...^^;;
気比とは関係がないと思いますが多気を名乗っていたのが常陸平氏です。
一瞬同じように見えますよね、笑

私は応神天皇が神功皇后が亡くなった後で天皇に即位したという点に注目しています。
この概念が推古と聖徳太子の関係を映し出す鏡になるのではないかと考えています。
それにしても応神天皇と崇神天皇を間違えて書くとは...自爆^^;;

>海軍士官オヘア少佐
この人については全く知りませんでした^^;;
それにしても詳しいですね^^
アメリカ人の英雄を崇拝する気持ちはフロンティア・スピリットの変形なのでしょうか??
荒野を開拓していくには自分の判断と行動力、そして不屈の精神ににかかっていたわけですよね。

最近聞いた小咄にタイタニックにアメリカ人が乗っていた場合にどのように説得すれば残ってもらえるのか??というのがありました^^

それではここでクイズです。
女性や子供は先に避難させますから大人の男性が対象になります。

@アメリカ人を説得するにはどうすればいいのでしょうか??^^
Aドイツ人の場合は??
B日本人の場合は??



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忘れられないように 投稿者:kituno_i  投稿日: 2月28日(木)22時23分58秒

顔を出しておこう^^;

先日私のトピックに茨城の古代について質問があったので、久しぶりに『常陸風土記』を
読み直してみました。
『常陸風土記』中では、「倭武天皇」や「息長帯比売天皇」という天皇名が書かれている
のですが、「倭武天皇=日本武尊」「息長帯比売(おきながたらしひめ)天皇=神功皇后」
と説明されています。
『記紀』ではどちらも天皇ではなかったので、不思議な記述ですよね。
崇神天皇のことは美麻(または万)貴(みまき)天皇、応神天皇のことは品太(ほむだ)
天皇とちゃんと書かれていますが、歴代天皇の呼称制度以前に書かれたものなので、
日本武尊も神功皇后も「天皇」と『常陸風土記』では書かれたようです。
日本武尊も神功皇后も地方では「天皇」と称されるほどの人物として伝わっていたのだ
思います。

Yahooトピックがツリ−式でも表示されるようになり、より見やすくなったような気が
します。
また遊びに来ます。^^



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家柄 投稿者:輔住  投稿日: 2月28日(木)17時25分15秒

ある程度、力を持つと官位とかもほしくなるのが人情。
そうなるとある程度、家柄を良くする必要がありますからね。
とはいっても室町なら足利家、江戸なら徳川家の血統とか
その時代で羽振りがいい家の一族とは
名乗れませんから、一度は没落した家の子孫と名乗るのが都合がいい?

とはいえ、どことも繋げ難い秀吉なんかは「天皇家の落しだね」などと
法螺をふいてましたが(爆)!



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シベリア 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 2月28日(木)14時58分02秒

津太夫↓が横断したシベリア街道ですが、馬車で50日かけて7000キロ移動、
つまり一日140キロほど。時速に直すと5〜6キロメートル/時。
休息なし、昼夜ぶっ通しでこの距離です。
曲がりなりにも道路が出来ている19世紀でこの程度では、
古代がどれほど移動が大変であったか我々には想像もつきませんね。

>招請婚の時代
これが注目されるのはなんと言っても頼朝ですが、(この定義に入るか、は別問題)
鎌倉政権のお手本になったとされる平泉政権は、
まさにこの方法で地方の豪族をまとめあげたものだったと思います。
なお、ところどころにある平家の隠れ里伝説ですが、
山の民が都会?の人に対して持っているコンプレックスを解消するために、
自分たちが由緒ある人々の子孫だということを主張するために作り上げたのではなかったかと。

http://cgi.wakuwaku-net.com/yomi-search/yomi.cgi?mode=link&no=215



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さりげなく(^o^) 投稿者:きんたろう  投稿日: 2月28日(木)13時28分55秒

神功皇后は摂政第一号として有名ですよね。
推古と聖徳太子の関係を神功皇后と応神天皇の関係と対比させて考えてみるとなかなか面白いと思っています^^

大人の歩く平均速度は約4q/hですがこれは舗装された普通の道を歩いた場合です。
当時は街道の整備が遙かに未熟だった訳ですから平均速度が4q/hを越えることは太田さんやToshyさんが言われているように無理だったように私も思っています。

高坂さんが書かれているのと同じだと思いますが、魏志倭人伝の記録に残されたのは日本列島の歴史のうちのほんの断片だけだと思っています。
尤もこのようなことは全ての記録された書物においても同様だと思っています。

何しろ有名氏族の系図を見ると母系はほとんど記録されていないのです。
これでは真実の半分しか分からないと言ってもいいように思うのです。
常陸平氏系図などでも彼らが土着した時に身を寄せた地元豪族の事については記されていません。

中央の貴種の末端に位置する彼らのセールスポイントとは自分の血統でした。
要するにこのような人達は地方の名士のところに種馬として婿入りしたというのが正確な姿だと思うのです。
これこそが招請婚の時代だと言われる所以だと思っています。

実際は名も知らぬ豪族達が各地で勢力を持っていたところに貴種の血統が入ってその一族郎党が平氏や藤原氏を名乗ったというのが本当の姿ではないでしょうか。
ところが残されている系図には地元には全然関係の無い人物の系譜として書かれてしまっているいるのです。
これは嘘ではないにしても地方の真実の姿からはほど遠い姿だろうと思うのです。

何しろ代を遡るごとに2,4,8,16、32...と自分に至る先祖がいるわけですよね^^;;
ですからもし、書こうとすればどのような系図でも作る事は可能??ではないかと思えてきます。
気が付くと話がずれていました(;^_^A)



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シカゴ・オヘア空港 投稿者:太田守人  投稿日: 2月28日(木)13時00分54秒

この空港は、シカゴ出身の海軍士官オヘア少佐の名前です。このオヘア少佐は、第2次大戦中、アメリカ海軍の戦闘機乗りで、1942年ソロモンで単機で日本の一式陸攻11機を一度に撃墜し、空母を守ったということで、大英雄になった人物です。この11機撃墜と言う記録は、いまでもギネスブックに載っているそうです。その後、戦時国債募集のキャンペーンで、アメリカ各地を講演して回りますが、非常にシャイではにかみ屋だったそうで、こんな人物が、一度に11機もの飛行機を撃墜したと思えなかったそうです。彼は、その性格から再び最前線への転勤を希望し、1年後太平洋戦線に、新鋭空母レキシントンの戦闘機隊長として赴任しますが、後に戦死します。この時、ルーズベルト大統領は、空母を主力とした、彼の捜索艦隊を組織し、捜索させますが、結局見つからず、戦死を認定され、2階級特進し大佐になります。そこで、シカゴ市民が彼を記念し、シカゴ空港をオヘア空港としたそうです。



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神功皇后 投稿者:太田守人  投稿日: 2月28日(木)12時33分39秒

日本書紀を読むと、神功皇后=卑弥呼のように私は感じます。私は、日本書紀の天皇は、全て実在したと思っていますが、この神功皇后だけは?マークです。日本書紀の作者は、日本が中国より古いということを強調するために、当時の国際的な有名人卑弥呼に似せた人物を置いたのではないでしょうか?卑弥呼は魏志倭人伝にありますので、当時の中国では最もわかり易い、倭人であったと思います。また、彼女の夫仲哀は、九州で急死しています。(私は、戦死と思っていますが。)更に、彼女の息子応神にいたっては、書紀の一書に曰くで、敦賀の気比神宮の大神と名前を交換したとあります。私は、仲哀戦死の混乱に乗じた、気比の大神軍が明日香に侵入し、それを迎撃した応神率いる朝廷軍を蹴散らし、王朝を乗っ取ったのではないかと思っています。
そこで、名前を交換したという記述になったのだと思っています。



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私の古代史観^_^ 投稿者:高坂英吾  投稿日: 2月27日(水)22時40分56秒

邪馬台国の話題が出ていますね。
私は、邪馬台国関連の本は、有名なものからトンデモ説までだいたいは読んだと思いますが、どれも「これだ」というのはありません。結論的に言うと「現在知られている史料だけで、邪馬台国の位置を特定するのは不可能だ」ということだと思います。
個人的には、「魏使が来たのは伊都国で、邪馬台国までは行っていないだろう」ということ以外は明言できません。

魏の時代の倭国は弥生時代です。『日本書紀』中の高天原も弥生時代の風景が出て来ますので、『魏志倭人伝』と日本神話をどう結び付け、辻褄を合わせるかも重要です。
しかし、ほとんどの説はコジツケに近いものを感じます。
(「日本」神話と呼ぶのは、「日本書紀の神話」という意味を込めています)

『日本書紀』内の神話は体系だっていますが、そもそも神話というものが体系を持っているのは変だと思います。日本神話は明らかに後から構成され直されたものだと思います。

神話を本来の姿に戻し、それを考察するのが真の神話学でしょうが、日本の場合は不可能です。
これは想像ですが、私は、日本神話の元来の姿は、おそらくかなりバラバラで、時代も前後しているだろうと考えています。スサノオ、天孫降臨、大国主、国譲り・・・それぞれ全然関係ないものかもしれませんし、順番も全然違うかもしれません。

考古学の成果から、博多湾沿岸や日向、出雲、吉備、大和等に大きな勢力があったことがわかり、ここから、多分スサノオは出雲、ニニギは博多湾(?)、神武(のモデル?)は日向の勢力、みたいに大雑把なとらえ方しか出来ないのではないかと思います。
私は国譲りの舞台ですら、どこだかわからないと思います。

という感じで、私の古代史観としては、『日本書紀』で凝り固まってしまった神話のストーリー展開を破壊することから始めなきゃ、という感じです。

利根川や鹿島、香取の話しにしても、そもそも古代の鹿島がどんなところだったのかすらよくわかりません。蝦夷に接している国境最前線だったのか、蝦夷の都だったのか、軍港だったのか、それぞれイメージがだいぶ違って来ます。

語源も諸説あります。私が図書館で調べたもの以外にも、きんたろうさんの話しも面白いですし、「かぐしま」も面白かったですし、大三元さんのアイヌ語からのアプローチも説得力があります。

最近、古代の地名の語源を丹念に調べていけば、イメージしやすくなるのではないかと興味を持っています。鹿島だけを考えるのは難しいですが、周辺を調べていけば見えてくることも多いんだろうなと思っています。



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高坂さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 2月27日(水)18時48分30秒

利根川の名称の由来について教えていただきまして有り難うございました(^o^)

「利根」を理解するにはこの漢字からではなく「とね」という響きから考える訳ですからなかなか難しいですよね。
この日本一の長さを誇る川のどの辺の場所で「とね」と名付けられた(あるいは言われていた)のかによっても推理する方向がずいぶん違ってくるように思っています。

例えば、利根川の下流付近で呼ばれていたと仮定してみます。
この付近の川幅はかなりの長さになりますよね。
そのためにこの付近の人達が「(向こう岸が)とおいね」と日常的に言っていたのかもしれません??笑
このように「とおいね」が短縮されて「とね」になったのではないかと思ったりもします。
でもこの説の場合だと上流では全く意味をなさなくなってしまういという欠点を持っています、笑

>「梶取り」の転訛だろう
なるほどと思いましたv(^o^)
確かにこれはあり得るかもしれませんよね。

私は香取とは「かぐとり」から来ているのではないかと思っています。
つまり「かぐとり」」は「香しき鳥」ということですから「あめのとりふね」を言い換えたものではないでしょうか??

そして多分「香しき島」である香嶋付近には鹿が多く見られた??ように、恐らくは香取付近では多くの海鳥が見られたのではないかと想像しています。



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それに 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 2月27日(水)15時24分59秒

海を渡るのも風待ち・潮待ちの日程も考えますから、
当然その25日全てを移動に要したとは思えません。
一説では「卑弥呼=神功皇后」の説があります。女王卑弥呼を神功皇后だと仮定すると、
王朝はやっぱり九州だということになるでしょうか。この二人は年代が違いました?

神功記には、皇后と対立する土蜘蛛の中に「田油津(たぶらつ)媛」なるものがいます。
卑弥呼といい神功といい田油津といい、女性が当時の社会で何らかの権力を持っていた証拠か。
おそらく巫女のような役割を持っていたんでしょう。

間宮林蔵が樺太を歩いたとき、そこでは男性が女性の奴隷のようであったと記していますが、
これとは状況が違うかな?

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/index.htm



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魏志倭人伝 投稿者:太田守人  投稿日: 2月27日(水)13時04分26秒

の1日の行程ですが、もし、魏の使者ですから、そんなに早くないと思います。今、人の歩くスピードは、時速4キロですが、多分輿かなんかに乗っていたでしょうから、古代人がいくら歩くスピードが速くても、時速4キロくらいでなかったでしょうか?獣道のようなところをとったでしょうから、時速3キロで邪馬台国としても大事な使者ですので、途中の休憩とかとると、1日6時間くらいで、1日20キロくらいが陸行の限度のように思っています。水行も時速4キロ(約2ノット)で、これも1日20キロくらいかなと思いますがいかがでしょう。更に、漢代の官吏は、5日に1日髪を洗うという名目で、休みがあったそうです。魏はどうか知りませんが、漢代とあまり変わっていないように思います。そうすると、1ヶ月移動していても、実際24日か25日位しか移動していないようにおもいますが。



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利根川の語源 投稿者:高坂英吾  投稿日: 2月26日(火)21時57分45秒

だいぶ以前に話題に上がった利根川の語源についてです。
ようやく時間が取れ、図書館に行って来ました。(図書館って楽しいですね。久しく行っていなかったのですが、一日いても飽きないところです)
図書館で調べてみたところ、利根川の語源については、『万葉集』に「刀禰」が出て来る等、大半は私が知っているものと大差ありませんでした。が、一つだけちょっと面白いものがありましたので一部抜粋して紹介します。

*********
利根川は万葉集に刀禰に作れり。名義不祥、上野名跡考に、此郡は尖峰多ければ、利キミネの義なるべしとあるは如何。近人或はアイヌ語を援きトンナイとは夷語巨渓の意にて、猶大河といふごとしと談す。小川氏国邑志稿には、姓氏号に出づるかといはれたり。江戸名所図会云、刀禰とは物の冠たるを称する詞なれば、大河をば刀禰ともいへるなるべし。
(中略)されど、此刀禰てふ語が、地名になれる因由は想ひ得ず
『利根治水論考』吉田東伍
*********

最後にオチがついていますが、結局のところよくわからないようです。『香取郡誌』では「刀根」「刀嶺」「刀寧」「東寧」「坂東太郎」いずれも利根川を指して出てきます。

江戸期以前は、利根川は現在の荒川、入間川、隅田川を合わせた形で東京湾に注いでおり、銚子方面とは関係のない水系でした。
また、渡良瀬川は現在の江戸川の流路で、やはり東京湾に注いでおり、下総、常陸国境一帯は、現在の霞ヶ浦、北浦、手賀沼、印旛沼を含む一大江湖で、中世には香取海、香取ヶ浦、香取潟と呼ばれていたようです。上流で渡良瀬水系に含まれる常陸川や、鬼怒(毛野)川、小貝川が注いでいました。
香取海と太平洋の接点には「安是湖(あぜのみなと)」が存在していましたが、これがどこを指すのか定かでありません。私は多分、現在の利根川の河口付近であろうと考えています。「アゼ」は「浅瀬」の意であろうという説が強いようです。安是湖と香取海の間には海上潟もあったようです。

鹿島、香取の両神宮は香取海の入口の両側に構えているわけですが、「香取」の語源について、『香取文書』に「かんとり」が見えることから、「梶取り」の転訛だろうという説がありました。平安期の『小右記』には、鹿島使が鹿島に到着した翌日に「渡海参香取宮」したとあります。
また、平忠常の乱の際にも、忠常が「鹿島梶取ノ前ノ渡」の舟を全て奪い、隠したという部分がありますが、このあたりにも鹿島から香取を渡る重要ルートの存在がわかります。
何となく「梶取り」のイメージは沸いてきますが・・・?大三元さんにも聞いてみよう。^_^



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邪馬台国 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 2月26日(火)21時31分06秒

というと、日本がその時から統一国家みたいに思えるけど、
実際には「たくさんの邪馬台国」が乱立する世界だったと思っています。
太田さんが書かれたことで考えましたが、
一日の行程をどのくらいとして考えるかによって変わりますね。



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輔住さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 2月26日(火)19時10分21秒

私も恐らくは先日話しに出た未来予想の話と同じ様なものではないかと思っています。
もし信長が初めから絶対王政の天下統一を志していたとすれば天才と言うよりも狂人と言った方が正しいと思っています、笑

勿論人は夢を見るものですが、実現するための可能性の無いのは単なる「夢想」に過ぎないですよね。
その時々の状況に応じてフレキシブルに対応していったのが信長の姿ではなかったのかと思っています。
そのためにはあらゆる可能性を考慮に入れてシミュレーションしたのではないでしょうか??

太田さん、私も邪馬台国は九州ではないかと思っていた一人です、笑
機内説の勢力が増して九州説は旗色が悪くなっているようですが実のところあまり気にしていませんv(^o^)
どちらにしても中国における三国志が終わる頃の日本の状況は霧に包まれたままだと思っています。

例えば南北朝の戦いのように時代がずいぶん下った頃にしても「メイン」の動きがある程度記録がある程度です。
要するにメインの動きだけは再構築が可能なのですが、地方の状況はあまりよく分かっていないというのが本当のところです。

まして魏志倭人伝の時代なら「統治」といってもその程度は後世のものとはレベルがずいぶん違うように思っています。
○○国とか言ってもその勢力範囲はかなり小さかったのではないでしょうか??
すると、空白の場所がずいぶん多くあったようにも思われてきます。



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邪馬台国 投稿者:太田守人  投稿日: 2月26日(火)13時06分34秒

は、魏志倭人伝の記述から、矢張り九州でなかったかと思っています。私は、宇佐から西都原あたりにあったと思っています。これ以降は想像ですが、大陸との通交をたっていますので、最後は滅ぼされたか、平家の落人のように、山間部に入り、海の出口を敵に押さえられたのではと疑っています。ただ、私は、卑弥呼=天照大神でないかと思っています。また、天の岩戸伝説は、卑弥呼が殺され台与が即位したという話だと思います。



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根拠のない推論ですが 投稿者:輔住  投稿日: 2月26日(火)07時37分25秒

>これは競馬の予想をしてみればよく分かると思います、笑
納得します。

>信長の本心はよく分かりませんが彼は非常にフレキシブルだったと思っています、笑
足利義昭とうまくいっていれば、形は幕府を再興するという方向だったかもしれませんね。
勘ですが、信長の場合はいくつかのビジョンがあって、「状況」に応じて
手を打ったのかもしれません。



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確かに 投稿者:きんたろう  投稿日: 2月26日(火)00時14分47秒

魏志倭人伝だけしか手がかりがないのですからはっきり言って私もToshyさんや太田さんと同じように困難だと思っています。
当時の日本列島の勢力の全てが果たして魏志倭人伝の中に網羅しているかという基本的な疑問がありますよね。

インフルエンザと風邪と花粉症の三重苦のシーズン中ですから皆さんも最大の注意をして下さいね。
太田さん、ずいぶん回復されてきたようで何よりです^^
私も「まことちゃん」状態からは脱しました(^^ゞ



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魏志倭人伝 投稿者:太田守人  投稿日: 2月25日(月)18時49分16秒

>太田さん、インフルエンザは治りましたか??^^

きんたろうさん、ありがとうございます。まだ、せきでますが、大分いいです。きんたろうさんは、いかがでしょうか?「まことちゃん」状態から脱しられましたか。

Toshyさんのおっしゃるように、私は、魏志倭人伝の水行・陸行は、今で言う「車で何時間。汽車で何時間。」ということと同じで、これで、邪馬台国を特定するのは難しいと思っています。
更に、水行は内水面を通ることも含んでいるように思います。



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正確に 投稿者:きんたろう  投稿日: 2月25日(月)16時01分08秒

表現するにはもう少し量が必要なのですが^^

武田信玄がよく引き合いに出されるのは彼が戦国大名として有数の規模であり活動した時期が信長とクロスしているためだと思っています。
その上、彼の施策こそが当時の戦国大名を理解する上での「プロトタイプ」のような存在ではないかと思えるのです、笑
要するに武田信玄は何年もの長い時間をかけて隣国を少しづつ地道に侵食して「本国」の安全性を高めて行った事にそれはあると思っているからです。
信玄の全ての行動は甲斐の安全保障のためにあったと言っても過言ではありません。
この大前提のために甲斐の豪族達は信玄の元に集結して成果を挙げたのだと思っています。
信玄の戦争は本国の外で行われています。
これは農民にとって歓迎すべき事でした。

>信長の天下の構想も、京都の朝廷・幕府を監視下におくのが最初の考えで、徐々に自分の勢力範囲を同心円状に広げるというものだったのでは
信長の本心はよく分かりませんが彼は非常にフレキシブルだったと思っています、笑



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天下統一 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 2月25日(月)15時15分14秒

といっても、織田信長にしろ豊臣秀吉にしろ、当時は日本地図なんて頭にある人はいませんから、彼らにとっても漠然としたものだったんでしょう。
石田三成が壮大なビジョンで関ヶ原を戦った時も、「あの国には某がいて、どこと国境を接している」くらいはわかっていたにしても、決して東西の挟撃などという恐るべきプランはなかったと思います。
信長の天下の構想も、京都の朝廷・幕府を監視下におくのが最初の考えで、徐々に自分の勢力範囲を同心円状に広げるというものだったのでは。

ところで邪馬台国論争が未だに絶えませんが、最近「魏志倭人伝」の記事から推測するのは無意味であると思うようになってきました。
もっと情報が整理された時代の「東方見聞録」ですら日本の事情を正確に伝えていないし、
1700年頃ロシアに伝わった日本の情報にしたって「インドにイヌイットがいる」くらいのレベルです。もちろん時代が近くなるほど情報が正確だという証拠はありませんが、世界地図が出来つつあった17〜18世紀でも↑のような日本の様子が伝わるのです。
地図もガイドブックもなく、まして伝聞である「魏志倭人伝」が有力な手がかりとは、思えない。



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安部さんの 投稿者:きんたろう  投稿日: 2月25日(月)14時22分40秒

安部さんの書かれているように「後からみて判断する事」は陥りやすい罠のような気がしています。
歴史を書き表す人もついあるシナリオ通りに物事が展開したと考えやすい面があるのかもしれませんね。

それにもしシナリオがあるとすれば、それは幾通りもあるというのが真実の姿ではないかと思っています、笑
例えば関ヶ原だったら石田三成は彼なりのシナリオを描いていたであろうし、吉川は吉川なりに描いていたということです。

正確な未来は誰も分からないのです。
これは競馬の予想をしてみればよく分かると思います、笑
あるいはパチンコの玉がどちらにはじけ飛ぶのか分からないのと同じ様なものだと思います。
変な例えでした、v(^o^)



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恐らくは 投稿者:きんたろう  投稿日: 2月25日(月)14時12分02秒

戦国大名は武田信玄に限らず誰も「天下統一」などと考えてはいなかったというのが真実の姿なのではないでしょうか??
夢くらいでなら思った人はいるかもしれませんが...笑
例え夢に思ったにしても、具体的な方法を思いついて実行した人はいませんよね。

信長だけが目標を掲げて実現に向かって進んだわけですがこの事例ははっきり言って例外そのものだと思っています。
やはり一種の「奇人」と言えると思います。
意味は違いますがやはり「たわけ」と呼んでいいのかもしれませかね、笑



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恐るべし(笑) 投稿者:きんたろう  投稿日: 2月25日(月)14時05分38秒

先ほどマウスを買ってきました。
何と最近のマウスは光学式と言ってマウス・ボールが付いていないのです。
驚きました^^

太田さん、インフルエンザは治りましたか??^^



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太田さん 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 2月25日(月)14時04分49秒

武田信玄は、戦いよりも内政面における名将だと思っています。
それが、
>敵の数倍の兵力をぶつける
につながったのですね。
太田さんおっしゃるとおり、のちの徳川政権が信玄をかなり高く評価しているんではないかと思います。



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Toshyさん 投稿者:太田守人  投稿日: 2月25日(月)12時39分06秒

>家康を破った三方が原も3倍の兵力ですからねぇ。

でも、敵の数倍の兵力をぶつけるといのも、名将の条件のように思いますが。(笑)
私が、信長と言う人を、武将として評価してるのには、桶狭間という勝利に奢ることなく、以後敵より大兵力でことにあったたことです。
義経のような人物は、将軍としてはちょっとと思います。
ただ、信玄に関しては、私もToshyさんのおっしゃるように、戦上手には?を付けてます。矢張り、家康が三方が原で負けたので、甲陽軍鑑や徳川幕府あたりが権現様が負けた、信玄とはこんな強かったんだーと、針小棒大に書いたように思います。
この延長線上で、この前、亀甲船のことをある雑誌で読みましたが、朝鮮の資料では、多くて2・3隻、装甲もなく、実際は、日本で言われているような、強力な軍艦でなかったのではないかという結論でした。日本の水軍の武将たちが、敗戦の責任を小さくするために、モンスターのように報告した可能性があるという結論でした。



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いや 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 2月24日(日)14時04分41秒

安部さんが謝っても困りますが、(わら
日本とポルトガルとで、互いを認めた年代が2年開いているということなんでしょうか。

武田信玄、意外と戦いに優れていたように思えんです。
有名な川中島の戦いは天下取りとは無縁の不毛の争い(天下を目指していなかったことの証明)、
家康を破った三方が原も3倍の兵力ですからねぇ。



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ちょっと昭和史を見直していたのですが 投稿者:安部奈亮  投稿日: 2月24日(日)01時34分35秒

五・一五事件が起きた後、政友会と民政党はお互いに足を引っ張り合って両方とも自滅してしまうのですが、普通政党の中で軍部と新官僚に結託した人たちが政党を解体にもっていたと言う風に説舞がなされますが、これは歴史を後から見ただけに過ぎないかもしれません。

五・一五やニ・ニ六事件が起きた後も、久原房の助のような連中はかつての政党内閣が復活するのを疑っていたようには思えないんですよね。とりあえず与党を追い落とすために一時的に軍部や新官僚を利用するくらいにしか思っていたなかったのではないでしょうか。後世の私達はクーデタや戦争で全く様相が変わったかのように思いがちですが、当事者達は昔からの連続で物事を考えていたように思います。

第1次近衛内閣までは、首相は政党の人間ではないにしても、一応議会内与党と野党は存在して、閣僚は与党から多く出ている。政党の人達は、軍人や官僚がうるさくなったとは思っていても、首相が政党の党首じゃないけれども、まだ議会の中で多数派が政権を握る政治は続いていると思っていたのではないでしょうか。

久原とか中島のような、政党を解体に持っていった人物も、別に軍部を中心にする国家を作るつもりはなくて、与党から政権をつ取ることしか考えてはいなかったのではないかとふと思いました。

ドイツやイタリアと違って、日本の軍部は、太平洋戦争中も議会の顔色をうかがわなければなりませんでした。でないと予算が通りませんからね。ヒトラーとは偉い違いです。大政翼賛会に参加していない議員も10名くらいいました(尾崎行雄、鳩山一郎、犬養健、芦田均、斎藤隆夫など)。

東条内閣は、宮中と議会の策謀により、最後は「閣内不一致」で総辞職しています。とてもファシスト政権とは思えないですよね。



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安部さん 投稿者:輔住  投稿日: 2月24日(日)00時26分36秒

感想ありがとうございます。
>三河武士団と武田の武士団も似たような物かなと。
そういえば徳川の武将の井伊直政なんかは武田の旧臣を
部下にして赤ぞなえを真似していますね。(笑)



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我田引水かも(笑) 投稿者:安部奈亮  投稿日: 2月23日(土)22時50分25秒

輔住さんの武田勝頼の論文を読んで思いました。

ユダヤ人には、モーセに率いられてエジプトを脱出したグループと、その後エジプト脱出組に合流したシナイ半島(スエズ地峡とパレスチナの間の三角形の半島)の遊民の2つのグループがあったらしいのです。現在のユダヤ人はエジプト脱出組が核になって出来たのですが、紀元前以前には、このエジプト脱出組とシナイ半島組を融合される努力が色々行われたらしくて、旧約聖書は両方の神話がまぜこじゃになって出来ています。GODの名前さえ2つあるくらいです。モーセもエジプト脱出組のモーセと、シナイ半島組の英雄の2人格が合体してできた神話上の人物らしいのです。

三河武士団と武田の武士団も似たような物かなと。



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失礼しました 投稿者:安部奈亮  投稿日: 2月23日(土)22時43分18秒

ポルトガルの教科書が16世紀に日本を発見したとかつて書いていたことは知っていたんですよ。

まあ手っきり鉄砲伝来がそれだと思っていたので鉄砲伝来の年代を書いてしまったのですが、鉄砲伝来以前にポルトガル人が種子島あたりに漂着したという記録もあるにはあるらしいのです。これが1541年だと思います。もしかしたらかの地の教科書に書かれているのは1541年の方かもしれないですね。



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最近 投稿者:きんたろう  投稿日: 2月23日(土)21時38分27秒

最近マウスの動きがイマイチ悪い感じがします。
マウスボールが汚れた来たせいなのかもしれませんが、ウイルススキャンが作動していると特に動きが悪い感じがします??

武田信玄について思い出したのは「人は石垣、人は城」という有名なフレーズです^^
武田信玄を読んでみると内紛ばかりが目に付きますよね。
一体これは何なんだと思う人が多いように思っています、笑
きっと武田信玄が生涯をかけて目指したものがこの「人は石垣」だったのではないでしょうか??

1543年と1541年の差は不思議ですね^^
「初めて始めた知ったこと」を英語で「ディスカバー」というのでしょうか??
ひょっとしたら原語の意味は「発見」とはニュアンスが微妙に違うのかもしれないと思いました。



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ポルトガル 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 2月23日(土)11時28分52秒

>ポルトガルの教科書にはかつて「1543年 日本発見」と書かれていたらしい(笑)

リスボンの海洋博物館には、「1541年 日本発見」とあります。
「発見」はさておき、この2年の差は・・・?



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日本からみたら笑い話だけど 投稿者:輔住  投稿日: 2月23日(土)09時22分10秒

>16世紀のスペイン・ポルトガルで、互いに「日本はうちの領土」とほざいていた
>ポルトガルの教科書にはかつて「1543年 日本発見」と書かれていたらしい(笑)
日本から見たらトンデモとしか思えないけど、この時代まで日本とスペインやポルトガルと
結びつきがあったわけじゃないしなあ。(笑)
それにスペインやポルトガルが南米を植民地にしていった事実からすると
あちらの感覚ではありえない話ではないかも!

>書いている人が実は全体像を把握していないからなのでは
>ないかと思ったりしています。
きんたろうさん、感想ありがとうございます。
武田関連の書物は江戸時代に書かれたものが多いでしょうし、
そうなると史実の把握より、徳川将軍家に気に入られることを
重視しているでしょうし!



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Toshyさんの 投稿者:きんたろう  投稿日: 2月23日(土)00時18分54秒

いわれるように源平の頃は確かにムラの集合体みたいなものだったと思います。
恐らくこの状態は応仁の乱の頃までは続いていたのではないでしょうか??

私達は昔の勢力について今の県単位みたいな感覚でつい捉えがちですが、これは戦国時代になって初めて起こったもののように思っています。
それまではセブンイレブンの隣りにローソンがあるといったような感じではなかったのかと思います。

それに実際は戦国時代からと言っても大多数の地域では「豪族」である「小領主」達の連合体だったというのが正確な姿だと思います。

異民族間、外国との国境とはつまり勢力範囲の限界を意味していたと思います。
>「ウルップを緩衝地帯とし、北はロシア・南は日本」と決まりましたが、先住民であるアイヌには「国家」「勢力範囲」という意識などなかったと思います。
全くその通りだと思います。
彼らにしてみれば勝手に境界線を引いたとしか思えなかったのではないでしょうか??

>16世紀のスペイン・ポルトガルで、互いに「日本はうちの領土」とほざいていた
>ポルトガルの教科書にはかつて「1543年 日本発見」と書かれていたらしい(笑)
安部さん、それは本当ですか??(;^_^A)
勢力を得ると自分の所を中心にして地球が回っていると考えるものなのでしょうか??
中国、古代ギリシア、古代ローマ、ポルトガルにスペイン、フランス、イギリスなどははっきりそうだと言えそうですよね。

輔住さん、早速見て来ました。
確かに輔住さんの書かれている内容は私も同じように感じています。
この理由は文章に表現するのが難しいからという理由もありますが、書いている人が実は全体像を把握していないからなのではないかと思ったりしています。



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宣伝 投稿者:輔住  投稿日: 2月22日(金)22時12分36秒

歴史のページを更新しました。
今回は南北朝ではなく信玄の遺言について疑問に思ったことについてです。

http://www.bekkoame.ne.jp/ha/toutushou/takeda01.html



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今はどうか知らないけれど 投稿者:安部奈亮  投稿日: 2月22日(金)17時03分03秒

ポルトガルの教科書にはかつて「1543年 日本発見」と書かれていたらしい(笑)



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勢力範囲 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 2月22日(金)16時04分55秒

日本でも、たとえば源平の頃、勢力範囲はムラの集合体みたいなものでしたね。
これの拡大版、と考えてはどうでしょう。

19世紀初頭のオホーツク海。この辺は中国・日本・ロシアの三つどもえで、国境らしい国境はありませんでした。
1813年には、ともかくも「ウルップを緩衝地帯とし、北はロシア・南は日本」と決まりましたが、先住民であるアイヌには「国家」「勢力範囲」という意識などなかったと思います。
住民の意思を無視して勝手に線引きをした、ということでしょうねぇ。
笑止なのは16世紀のスペイン・ポルトガルで、互いに「日本はうちの領土」とほざいていたと。

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/index.htm



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実は 投稿者:きんたろう  投稿日: 2月22日(金)00時43分50秒

あまり良く分かっていないのが大陸における国の勢力範囲です。

確かに歴史の本を見ると地図に色が塗らていたりします。
でも日本以外のところでは基本的に「都市国家」の集合体と言っていいと思うのです。
そうなると人のほとんど住んでいない場所にまで色づけしてしまうのは間違っているのではないかと思うときがあります。



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ぱんださん 投稿者:きんたろう  投稿日: 2月22日(金)00時40分20秒

よくいらっしゃいました^^
パンダさんはプログラムばかりではなく茨城の歴史にもずいぶん詳しいのですね。
これからも色々教えて下さいね。

紹介されたページを拝見してきました。
かなり詳しく作られているページですね。
とても参考になりましたよv(^o^)
有り難うございました。

鷹橋さん、せっかく書き込みに来てくれたのですから次回はコメントもお願いします、笑

>まだ、ヘリコプターのなかった第2次大戦中の揚陸作戦は、全部あのとおりです
太田さん、そうだったのですか!!
やはり人の手による働きというのはずいぶん大きいものだと思いました。
人海戦術を現代の私達は何処かバカにしたところがありますが誤った認識なのかもしれないですね^^;;
「人の命は地球よりも重い」と言えるのは正に平和だからこそだと思います。

>揚陸戦では、陸に上がるときが最も危険で
確かに水際作戦というのは背水の陣に通じるところがありますよね。
それだけ相手も必死の攻撃に出るのですから最も危険度が高いというのはよく分かります。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 2月21日(木)12時42分30秒

>ところで上陸作戦の時は映画で描かれていたように、あのような無謀に見える突撃作戦を本当にアメリカ軍は採ったのでしょうか??
まるで「長篠の戦い」でよく描かれているように鉄砲隊に向かってがむしゃらに突撃するのに似ている様な気がしました。
勇気というよりも無謀そのもののように思えてしまいました。

そのとおりです。まだ、ヘリコプターのなかった第2次大戦中の揚陸作戦は、全部あのとおりです。主人公(?)のミラー大尉の乗っていた、四角いボートがLCVPという揚陸艇で、もう少し大きい、LCMという揚陸艇とともに、連合軍ではもっともポピュラーなものでした。まあ、それまでは、ほんとうのボートから飛び降りていましたので、骨折したり溺れたりよくしたそうで、あのような、バウドアを備えた揚陸艇を発明したのは、日本陸軍が世界最初で、日中戦争に使っていたのを、イギリスの武官が見て、戦車を直接揚陸できないのか、ということで、戦車揚陸艦(LST)を発明します。これを、腐るほど量産したのが(全部で2,000隻だったか)アメリカです。揚陸戦では、陸に上がるときが最も危険で、事実ノルマンディーでも、アメリカ担当のオマハ・ユタの両海岸は、ドイツの抵抗がすごく前に進めず、アイゼンハワーは一時撤兵も考えてそうです。第2次大戦の揚陸戦では、沖合い40km位に艦艇が並び砲撃を加え、そこから、揚陸艇で揚陸するのが定石です。揚陸戦は、陸海空の三次元に指揮を必要としますので、海軍作戦でももっとも高度な技量がいるそうです。



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北陸地区KGK春期学校についてのお知らせ 投稿者:鷹橋 健二  投稿日: 2月21日(木)03時35分45秒

▼北陸地区KGK春期学校のお知らせ
(中心聖句)マタイ18:19−20、ローマ9:16
(テーマ)「北陸地区元年」
(日程)2002年3月21日〜23日
(場所)金沢キゴ山 ふれあいの里
(講師)服部滋樹主事
(参加費)12000円
(内容)設立総会、年次総会、卒業生送別会など
*詳細は鷹橋健二まで <Tel>090−3764−6212
<e-mail>patorashie@ezweb.ne.jp

北陸は今回の春期学校でついに地区としての独立を果たすことになります。歴史の第一歩を共に踏みたいと思われる方は、ぜひ今回の春期学校に参加してみて下さい。一人でも多くの方のご参加を心よりお待ちしております。また、お祈りの方も宜しくお願いします。

http://www.geocities.co.jp/Athlete-Crete/6542/



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茨城弁のぱんだです 投稿者:ぱんだ  投稿日: 2月20日(水)23時54分41秒

おばんです。
実は、ゆんべのうちにこちらの掲示板を
のぞかしていただいておりました。
いきなりソフトのことが書いてあったので、ちょっくらたまげました。


みなさんの書き込みを読んでいたら、ついつい面白くなって、
きのうのうちにお返事を書くことができないでしまったのです。

「カレシーだっぺよ」というのは、きんたろうさんに
ネタを提供していただいたものです。

それと、小原の里見氏のことは、こちらに書いてあります。

http://www.sea.sannet.ne.jp/s-natu/siro/obara.html

こちらのホームページの記事が増えるのを楽しみに
してます。また、あとで見に来ますね。



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さすがに 投稿者:きんたろう  投稿日: 2月20日(水)23時44分17秒

太田さんは近・現代史に詳しいですね。

>正しくは、「軽巡洋艦ジュノーに乗っていた。」です。
>サリバン5兄弟は、偶然全員このジュノーに乗っていて、全員戦死します。以後同じ軍艦には、兄弟・親子は絶対乗せないというのが、アメリカ海軍の鉄則になったといいます。

私もプライベート・ライアンを見ましたよ。
このシーンは記憶がありました。

ところで上陸作戦の時は映画で描かれていたように、あのような無謀に見える突撃作戦を本当にアメリカ軍は採ったのでしょうか??
まるで「長篠の戦い」でよく描かれているように鉄砲隊に向かってがむしゃらに突撃するのに似ている様な気がしました。
勇気というよりも無謀そのもののように思えてしまいました。

もっとも同じ様なシーンは明治維新の頃にもありますよね。
旧士族が日本刀を振り上げて官軍に向かって突撃するシーンなども良く似ていると思います。

それにしてもこの映画が始まってすぐの10分間くらい??(20分くらい??)の戦闘シーンは死と隣り合わせの恐怖を十分に描いていたと思います。
さすがにスピルバーグが監修(監督??)した作品は全ての作品が光っていると思います。



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今年の 投稿者:きんたろう  投稿日: 2月20日(水)21時32分51秒

インフルエンザは例年の7倍も流行していると聞きましたよ。
太田さん、40℃もの熱ではとても動けなかったでしょうね。
最低でも1週間くらいは治るまでかかると思いますので大事になさってくださいね。

輔住さん、安部さんの掲示板が怖い話し専用掲示板になったとしたら確かにそれは怖いですよ、笑

ところで早速ハリーポッター4巻が届きました。
初めてネット販売で本を購入してみましたが手軽で便利だと思いました。
アマゾン・コムはネット本屋の中でも最大級の大きさですからお奨めだと思います。

でも600ページ以上もあるこの本の厚さを見た瞬間に(何と4センチもあります)果たして本当に読破出来るのたろうかと不安になってしまいました、自爆^^;;

ペギラさん、9章まで進んでいるとは今の私にとって地球の反対側くらいの距離を感じます、笑

Toshyさん、かつては英語に並々ならぬ自信を持っていたのですが(と自分で言うところが怪しい、笑^^;;)今はさび付いたと言うよりも風化が進んでいる状態です(;^_^A)
服部さんが書かれていたように生原作はアメリカ人で85%しか分からないのですからかなり難しいと思います。
奥義「7段とばし読み」を使うと意味が全然分からなくなりそうなので今回はあまり使わないようにしようと思っています^^

どうしてなのかよく分からないのですが、私のATOKでも一発でマジョリカを出しましたよ??笑

Toshyさんや安部さんの英語力が羨ましいです^^



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と思ったら 投稿者:安部奈亮  投稿日: 2月20日(水)17時00分03秒

調べたページはイギリス人じゃなくてドイツ人が書いたページだった(笑)
ドイツ人も違う言葉だから読むのに苦労しているのでしょうか
[de]って確かドイツのページと言う意味ですよね.Deutsland(ドイツランド)の



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調べてみました 投稿者:安部奈亮  投稿日: 2月20日(水)16時57分10秒

検索して,本場の方のマニアのページを見てみました.

http://www.google.com/search?q=cache:woHMELcGzNkC:www.rudihein.de/nz_e.htm+Parselmouth%81%40meaning&hl=ja

案外簡単な意味でしたねParselmouth

蛇と言うのは,2つに分かれた舌を持っているので,蛇の言葉を話すためには同じように舌を割って話をしなければならない.parselというのはparcelと言う動詞から取っているらしくて,その意味は辞書によると物を部分に分けると言うことらしいです.parcelmouthにしかったのは,はっきりと分かる単語よりは,少しつづりをいじって面白味をだそうとしたんでしょうか?

検索をしてみましたが,本場のイギリスの方にもいっぱいマニアがいるようですね.私はまだ読んでいないのですが.



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英語の話で一つ 投稿者:安部奈亮  投稿日: 2月20日(水)16時41分47秒

私は高校時代英語の勉強は「赤毛のアン」でしました.
日本語で読んだときのアンは全然面白くなかったんですが,英語で読むと面白くて「アンの夢の家」まで読みました.日本語だとアンのフレンドリーなところが,タダのうるさくて失礼な奴にしか見えないのですが,英語は日本語ほどに敬語が厳しくないので,アンのようなしゃべり方もそれほどは違和感が無く読めました.

「パーセルマウス」ですが,私が思うに,イギリスのおとぎ話に出てくるキャラクタ―なのではないでしょうか?現代の英語では多分意味が無いんじゃないかと思います.あるいは古代のイングランド語とかゲール語(ウェールズの言葉)あたりから拾ってきているのではないかと思います.



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ちょっと一休み 投稿者:安部奈亮  投稿日: 2月20日(水)16時35分24秒

久しぶりに研究がうまく行っているのでいい気分です.

最近朝寝坊なので「お邪魔女ドレミ」はあまり見てないんです(笑)
まあ,マジョリカが何なのかは分かりますが(笑)

と・・・今衝撃の事実が

このコンピュータは先週研究室の先輩からもらったお下がりなのですが,「まじょりか」と入力して変換したら一発で「マジョリカ」が出てきました.と言うことはこの先輩も隠れファンか?

私は「ドレミ」よりもむしろ「コメットさん」派です.終わってしまったのが残念です.
あっ,でも京都はテレビ大阪が入らないので「コメットさん」は半年遅れでビデオで見ているので,主題歌が変わってからのお話は私の前ではしないで下さいね.もしも先の話をしたら私はストーカーとなってその人をネット上で追いまわして恨みを晴らしますよ(笑)



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間違いなく 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 2月20日(水)15時07分46秒

ハリーポッターは、俺が読んだ雑誌(環境破壊の話題)よりもはるかに難しいはず。
1日10ページの精進を3ヶ月続ければ、きっと英検1級をとる実力がついているでしょう!

>「マジョリカ、マジョリカ、マジョリカ」を連発するかも!(爆)
輔住さんも怖い話が苦手でしたっけ? 
俺は先頭で「マ〜ジョリッカ マジョリカ♪」と歌っておりますから、
安部さんと二人「マジョリカ×4」と合いの手入れてください(笑)
このネタ前回の「おジャ魔女どれみドッカ〜ン」をみてないと分からないと思います。m(_ _)m



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ハリポタ進行状況 投稿者:ペギラ  投稿日: 2月20日(水)13時41分15秒

現在三十数章あるうちの九章です。

探すとあちこちに翻訳している人がいることに、びっくり!!
翻訳よりも情報収集からの作業の方が多いかも。



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テレビで 投稿者:太田守人  投稿日: 2月20日(水)13時01分57秒

プライベート・ライアンをやっていました。あの映画で、ライアン二等兵を助けに行くかを決める時、陸軍の首脳が、サリバン兄弟について語っていましたが、そのときに「輸送船に乗っていた」といっていましたが、正しくは、「軽巡洋艦ジュノーに乗っていた。」です。このジュノーという軽巡洋艦は、海戦の最中に日本のイ26潜水艦の雷撃で撃沈され、沈没が余りにも早かったためのと外の艦艇は、日本艦隊と海戦の最中ということもあり、救助の手を差し伸べてもらえませんでした。この時、800名中150名が海に投げ出されたが、すぐ救助しなかったため、サメに襲われたり、途中で力尽きたりで生存者は8名だったそうです。サリバン5兄弟は、偶然全員このジュノーに乗っていて、全員戦死します。以後同じ軍艦には、兄弟・親子は絶対乗せないというのが、アメリカ海軍の鉄則になったといいます。
また、ノルマンディー上陸作戦で、イギリスは、直前に航空機事故で殉職した、海軍士官の遺体に、連合軍が英仏海峡の一番狭い所に、上陸するという、贋の上陸作戦命令や計画書を持たせ、フランス沖で駆逐艦から流し、ドイツはこの文書を手に入れ、まんまとイギリスの謀略に乗せられたそうです。
ノルマンディー上陸作戦が開始されても、ドイツが信用しなかったのは、このようなことがあったからだそうです。もし、日本軍がこういうことをすれば、顰蹙ものでしょうが。
アイゼンハワーだったか忘れましたが、あるアメリカの将軍も、イギリスは謀略にかけては天才的だ。と舌を巻いたそうです。



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恐怖 投稿者:輔住  投稿日: 2月20日(水)08時22分03秒

>これから怖い話はすべて安部さんの掲示板に書き込むようにしますから
これから安部さんの掲示板いくのが怖いなあ。(苦笑)
いったら、「マジョリカ、マジョリカ、マジョリカ」を連発するかも!(爆)
このネタ「おジャ魔女どれみ」シリーズをみてないと分からないと思います。m(_ _)m



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インフルエンザ 投稿者:太田守人  投稿日: 2月20日(水)08時20分59秒

が猛威を奮っていますが、私もかかりました。土曜・日曜・月曜は、40度くらいの発熱でつぶれていました。いまも、自分の体でないようです。皆様もお気を付けくださいね。



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