過去ログ151(2002年〜3月13日)


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みのるさん 投稿者:太田守人  投稿日: 3月13日(水)17時31分28秒

よろしくお願いします。織田信雄公のご子孫ですか。それは凄いですね。



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歴史・文芸 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 3月13日(水)16時16分06秒

>自分の生活と全然関係のないこと
ははは。そのとおり全く関係ないのですが、それはそれで楽しいと思っています。
そういってしまうと、みのるさん(こちらでもよろしくお願いします)と親しくしていただくきっかけとなった文学の話題も否定しなければならない。
俺のやってる漂流研究も、本来の庶民の歴史から遠く離れたものであるには違いありませんな。
でも、ある程度無駄な時間があるというのもいいことではないでしょうか。

歴史を楽しむきっかけとして、古典の「平家物語」「太平記」や近年の司馬小説とかありますが、これは豪傑伝、大合戦が主題ですね。
これを突き詰めるために背景を調べていくのが安部さんの手法というところでしょうか。
講談として楽しんでいる源平・南北朝・戦国時代はともかく、「津太夫」についてはこの手法が俺には必要。



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バブルの最盛期に 投稿者:太田守人  投稿日: 3月13日(水)12時56分15秒

確か、トヨタの社長だったと思いますが、「アメリカの実力を下算してはいけない。ゼロ戦で戦争に勝っているときに、アメリカはグラマンF6Fを開発していた、その内日本の経済力がひっくり返されるかもしれない。」と言っていました。当時は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がベストセラーになってた時期でした。アメリカの実力は、矢張りすごいと思います。
安部さん、歴史の楽しみ方は、それぞれでいいのではないでしょうか?安部さんから見れば、講談のようでも、その人が、それで満足ならばいいと思います。まあ、その事象の歴史的背景が分かった方がいいと思いますが。私は、「水滸伝」を読むより、「戦国策」や「三国志」、「貞観政要」あたりを読む方が楽しいです。宋代以降は、庶民の生活が見えます。それはそれで面白いですが。
人の顔が千差万別のように、歴史の楽しみ方も色々あっていいと思います。



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宋以降の中国史は 投稿者:安部奈亮  投稿日: 3月13日(水)11時38分51秒

個人に魅力を見いだそうとしても仕方がないのは当然ですが、かといって人物が小粒になっているわけでもないですよ。

戦争だけしか見ようとしない人にとっては面白くないかもしれませんが、政治の方へ目を向ければとても面白いのですが・・・

要するに戦国時代とか古代史が好きな人が「江戸時代はつまらない」というのと同じだと思います。

どうも最近みなさんと話が合わない。歴史の楽しみ方が違うのでしょうか。私はビッグネームや戦乱よりも、こつこつと世の中を作っていく人たちの方に興味があるのですが、そもそも英雄豪傑や大合戦だって、それまでに至る社会背景とかわからなければただの講談でしかないでしょう?

自分の生活と全然関係のないことばかりで面白いのですか?



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信雄公は・・・ 投稿者:みのる  投稿日: 3月12日(火)23時07分36秒

信雄公は安土城を焼き払うという暴挙をおかしました。。。。
これについて、宣教師は「人並みはぐれて暗愚なため。」
と言っています。。。本当にそうだったのでしょうか?
信雄公は他の者に安土城を使わせたくなっかたのはないでしょうか?
そうなると親孝行だったことになりますね。。。。。。



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オセロは 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月12日(火)19時25分32秒

下記のページで遊んでいます^^;;
というよりも小指であしらわれています。

http://www2.osk.3web.ne.jp/~tadasuke/reversi/Jreve/Jreve-j.shtml

ちなみに囲碁はこのページで勉強中です、笑
相変わらず30級くらいの腕前のままです(;^_^A)

http://playgo.to/interactive/index-j.html

とにかくオセロにしても侮れないと言うのが本当のところです。
ですから囲碁、チェス、将棋は尚更だと思っています^^

倭国大乱については太田さんの考えに頷けるところがあります。
はっきり言って私の場合はかなりアバウトなので戦国時代級を否定している訳ではありません。
その可能性もまたあり得ると思っています。
倭国大乱から好太王碑文を考えると白村江の戦いは二度目の朝鮮出兵だったのかもしれませんね??

「週間空母」という言葉は全く知りませんでした^^;;
さすがに現代史に超詳しい太田さんですね^^
7000トン級を一週間で建造してしまうとははっきり言って信じられない気持ちです。
これを成し遂げるにはハードのみならずソフトの面でも非常に優れている事が必要不可欠だと思います。
正にヤンキー、恐るべし!!
だと思いました。

「欧米人は体力があるのが実はすごい事をする根本だ」と私の先輩が言っていたのを思い出しました^^
頭脳が互角なら後は体力勝負というところがありますよね^^;;

みのるさん、よくいらっしゃいました^^
信長については信長の神髄というちょっと恥ずかしいタイトルの小文を載せています^^
是非ご覧になってみて下さいね。
ここでは細かいことについては敢えて触れていませんが信長の偉大さが少しでも伝わればと思っていますv(^o^)



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私的中国感 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月12日(火)19時22分50秒

殷から戦国時代にかけた中国大陸統一前の状況の漢民族の第一期と考えています。
これは第一期漢民族と言うよりは漢民族のプロトタイプと言った方がより適切なのかも知れませんね。

そして北方遊牧民の影響を強く受けて成立した秦から漢の時代を第二期漢民族と考えています。
また、この時期が漢民族の第一次黄金時代だったと思っています。

後漢末期から更に北方系民族の南下が起こり結果として彼らと融合して出来上がったのが随から唐の時代の漢民族ではないでしょうか??
この時代を第三期漢民族だと思っています。
そしてこの時期こそが漢民族にとって最盛期と呼んでいい程の絶頂期ではないかと思っているのです。
趨勢を誇った第二次黄金時代だと考えています。

この後では更に混乱が続き宋の時代の漢民族は変質して第四期になると思っています。
金、遼、元による侵略を経て復興した明は第五期漢民族ではないでしょうか。
清の支配を受けてまたまた変質を遂げた姿が中華民国から現代に至る第六期漢民族と言えるのように思っています

このように中国大陸の興亡の歴史を見てくると必ず北方から南下してくる民族の姿が見えてきますよね。
そしてその都度に彼らと融合して新しいハイブリッドとして復活してきたのが漢民族の歴史であるように思っています。



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はは^^;; 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月12日(火)19時21分07秒

さすがに安部さん、鋭いですね。
少なくとも私については確かに当てはまっているような気がします(^^ゞ
これは私と安部さんのメモリー能力の違いから来ているように思っています、笑

殷や周の頃から中国史をずっと見て来て唐の付近で記憶容量が限界になっているのかも知れません??
つまりはこの付近でオーバーフローしているようなものかも??自爆^^;;
でも太田さんの場合は興味を引く対象が安部さんと違うだけだと思いますよ。

それにしても中国史について「まるで金太郎飴のようだ」と言った人がいますが、けだし名言だ思わずにはいられません。
(ヨーロッパの方の学者だったかな??)

王朝名や登場人物の名前は違っても同じような事が何度も繰り返されたと言っていたように思います。
勿論、実際は各状況においてかなりの差異を見つける事が出来るのですが、漢の時代に作られた基本形が延々と続いたというのが中国大陸における王朝の興亡史と言えるのかも知れませんね^^

宋の時代になると英雄がどうしても小粒に感じてしまうのは彼らの情報量が増過ぎてしまった事に原因があるように考えています。
現代のようにワイドショーであら探しをされてしまったらどのような人でも英雄のベールはあっという間に剥がされてしまうのではないでしょうか、笑

三国志の頃までは社会の様子よりは人物名重視の様な気がしています。
つまりは一般的な社会生活については非常に曖昧な点があると考えています。
ところが時代が下るにつれて情勢量の増加によって色々なファクターがより鮮明になって来ますよね。

英雄伝はどちらかと言えば欠点よりも長所重視の感覚で書かれている筈ですから一種の物語に近いと思います。
でも宋の頃になるとマイナス面も多く書かれているという具合ですね。
これは一種のハイビジョンで撮影した水戸黄門のようなものでセットが張りぼてなのがすぐに分かってしまうようなものだと思っています^^;;



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はじめまして 投稿者:みのる  投稿日: 3月12日(火)17時01分37秒

はじめまして。。。でもないかな。。。
織田信雄公子孫のみのると申します。。。
これからもなか良くしてください。。。



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週刊空母 投稿者:太田守人  投稿日: 3月12日(火)13時01分10秒

アメリカの工業生産の高さを証明するのに、週刊空母と言う言葉があります。これは、カサブランカ級という護衛空母で、1年間で50隻を完成させました。毎週1隻あて就役していたので、週刊空母ともいいます。この空母は、7,800トンで艦載機を約30機搭載していました。このプランの推進者の名前を取って、カイザー級空母とも言います。アメリカ海軍は、「1年間に100隻の護衛空母を建造できる。」と言う、カイザーの提案を眉唾として蹴っ飛ばします。ところが、カイザーは、時の大統領ルーズベルトと友人だったので、直接話を大統領に持ち込みます。
その話を聞いた大統領は、海軍に「兎に角、建造させて見ろ。」と言い、半信半疑の海軍は、大統領の顔を立て、半分の50隻を発注します。そこで、カイザーは、シアトルにタコマ造船所という、造船所を作り、ここでブロック建造で、1年間に50隻を完成させてしまします。
なにしろ、50隻もいるので、戦艦大和の砲撃で、フィリッピンおきで撃沈される、ガンベアベイやアメリカ海軍史上、200年ぶりに、敵であるナチス・ドイツの潜水艦のU−515を捕獲したガダルカナルというのもいました。
このU−515は、今、このときのガダルカナル艦長のゲアリー大佐の出身地である、シカゴの博物館に保存されていますが、この時、五大湖をシカゴまで持ってきて、陸上をトレーラーで夜中移動させた時、アメリカで、空前絶後の標識がその道筋にでたそうです。その中身は、「注意!!潜水艦通行中。」だったそうです。この、ゲアリー大佐は戦後海軍中将まで昇進し、今横須賀を母港としている、アメリカ第15巡洋艦駆逐艦戦隊に所属している、ミサイルフリゲート「ゲアリー」は、この提督の名前をつけたそうです。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 3月12日(火)12時33分48秒

>その理由として、日本の場合は日本列島というテリトリーの内部にいるのが基本的に同一民族だったという点が大きい原因ではないかと思っています。
つまりは異民族の巨大な敵対グループが存在しなかったことが内部の統一を妨げた原因になったのではないでしょうか??

私も、あんまり偉そうなことを、言えるほどの見識はないのですが、ただ、倭国大乱や高地性集落を見ると、戦国時代以上の戦乱の時代だったように思います。
日本という島国で、がたがたやっていたが、丁度小さな舟の中で、喧嘩するようなもので、あんまり派手にやると、舟がひっくり返る、それでなーなーでいこう、ということになったのかなと思っています。ただ、きんたろうさんがおしゃるように、移民にしても大量に、どーっときたとは思えません。散発的にちょろちょろ来たのではないでしょうか?

中国についてですが、私が明の十三陵に行った時、現地のガイドが、「明なんて昨日のようなもので、歴史は唐以前でないと。」というようなことをいってました。この言葉に、まずぶっとびました。悠久の大地だなーと思いました。



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囲碁の場合 投稿者:安部奈亮  投稿日: 3月12日(火)10時40分21秒

コミ(ハンデ)がない場合は先手が有利です。この場合、先手の黒はじっくりと地を固めて、後手の白は黒の形を崩すように打っていきます。

明治から昭和にかけて、四目半、五目半、六目半のコミが試されて、その結果五目半の時に勝敗が五分になると言うことで現在では黒に五目半のコミがつけられています。

コミつきの場合は、むしろ黒のほうが仕掛けて行くらしいのですが、いろいろな定石が試されていて今では余り先手後手で打ち方を変えるというのはあまりないそうです(ここらへんのことは私のような下手糞にはよく分からない)。でも黒の勝率の高い布石などもあります(中国流)。

囲碁のプロの中には、白番の方が勝率が高いという人もいます。でも黒番の方が強いという人がやはり多いような気がします。



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コンピュータは 投稿者:安部奈亮  投稿日: 3月12日(火)10時30分03秒

局地的な生き死にには強いでしょう。でも大局的には阿呆なので、すぐにきんたろうさんなら勝てるようになると思いますよ。

さいきんは囲碁の本は本屋によく並ぶようになったので、手筋の本でいくつかのパターンをおぼえて、コンピュータが一番苦手な布石を勉強すれば、フリーソフトならすぐに勝てるようになると思います。



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チェスでは 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 3月12日(火)10時29分43秒

先手のほうが勝率が良いという統計はあるんですが、数字的にほとんど互角です。
ただ上位者は下位者に先手(白)をさせることが多いです。
将棋のほうは、なんとも…



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中国史のその後 投稿者:安部奈亮  投稿日: 3月12日(火)10時26分44秒

英雄豪傑は出てきませんが、宋やモンゴルや明や清の歴史は非常に近代的で、別の意味で面白いのですが・・・

ここ千年の中国史が面白くないと言う人は、そのあたりの中国史についてなにも知らないと言うだけではないかと思いますよ。

私はむしろ唐が終わった後の中国史のほうが好きですから、ちょっと心外ですね。



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太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月12日(火)00時15分43秒

>どこかで妥協点を見つけるために、ファジーになったと思っています

日本の黎明期についてはよく分からない点が多いので私の考えもアバウトなままなのですが...
その理由として、日本の場合は日本列島というテリトリーの内部にいるのが基本的に同一民族だったという点が大きい原因ではないかと思っています。
つまりは異民族の巨大な敵対グループが存在しなかったことが内部の統一を妨げた原因になったのではないでしょうか??
例えば未知の者が自分たちに敵対している状態があるとすれば内部のゴタゴタは後回しになりますよね^^;;
ところがそのような巨大な敵が存在しない状態だとすれば「ドングリの背比べ」状態になるのは必然の様な気もするからです。

「みしはせ」についてはよく分かりません^^;;
基本的には東北地方の「えみし」に対して使った言葉ではないかと思うのですが...
ちなみに「えみし」とは大和に属しないという意味で使った言葉だと思っています。
要するに全国的に「えみし」がいたと想定して使っています^^

はっきり言って自信度はほとんどありません(;^_^A)

Toshyさん
ボードゲームはかなり奥が深いというのがようやく分かってきました^^;;
オセロは単純なゲームですが勝つとなるとなかなか難しいと思いました。
何度か対戦した結果オセロの場合は先手の方がどうも不利のような気がしました。
これは角を押さえる順番が後手の方がスムーズに行き易いからではないかと思っています。
一方、囲碁の場合だと先手の方が有利なので5目半分少なく黒石の方をカウントします。

チェスや将棋では先手と後手のどちらの方が有利、不利というのはあるのでしょうか??



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殷の 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月12日(火)00時14分05秒

伊尹(いいん)は阿衡と称し周公は太宰と称しています。
この前例のように王莽に対しても相応しい名で呼ぶべきであるとして選ばれた称号が「宰衡」でした。
これは二人の功績を合わせたに等しいと言っているようなものですね。

王莽はデモンストレーションの天才だったのではないかと思えて仕方がありません。
誰かがヒトラーに匹敵するのではないかと言っていたような気がします。
そう言えばどちらの千年王国も20年くらいの命だという点も似ている様な気がしていますね。

>私は、中国史の面白いのは、唐の玄宗くらいまでだと、個人的には思っています
私も同じ様な感想を持っています^^
基本的には三国志の時代までで想定されるほとんどの事象は出尽くした感があるような気がします。
確か陳先生が中国人は前例というテキストのないところを切り開いてきた歴史を持っている点が日本の場合とは大いに異なると言われていた様な気がするのですが、これに当てはまるのは大目に見ても唐くらいまでではないでしょうか??

大体においては三国志の頃までにほとんどの「先例」が出尽くしてしまって後はこの応用というか裏読みが多かったような気がします。
それ故に宋の梁山泊の豪傑はどうしても小粒に感じてしまうのかもしれないと思っています^^



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碁 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 3月11日(月)16時38分03秒

きんたろうさん、俺は碁など出来ませんが、そのてのメンタルスポーツはかなり難しいものであることはチェスをやっている身としてわかります。
チェス1年生の時代、初級用のコンピューター相手にひねられてばかりで悔しい思いをしました。
またずっと前に、仙台のオセロクラブに顔を出したところ、そこで一番弱いと称する方と対戦させてもらいましたが、33−31の僅差で敗れました(わら



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 3月11日(月)12時34分13秒

王莽は、どうも評判を良くしようと、夫婦で演義をしていたそうですね。例えば、自分の長男があることで、奴隷を鞭打ったが、調べてみると長男が悪い、そこで、王莽は長男を鞭打ったそうです。それで、評判がぐーんとあがったそうです。この他、隋の煬帝なんかも、聖人君子を装い、母の独弧皇后に取り入り、兄を廃嫡させたり、こうゆうことをする人が多かったようですね。
ただ、漢の張良は、本当に仙人になろうとし、五穀をたったそうですが、これを知った呂后が、あわくって、勅命によりこれを禁止させたそうです。
私は、中国史の面白いのは、唐の玄宗くらいまでだと、個人的には思っています。それ以降は、どうもスケールが小さくなるように思います。悪人にしても、玄宗まではスケールが、非常に大きいと思います。

私は、日本がファジーになったのは、古代の日本統一の課程で、血を血で洗うことが、日常茶飯事にあり、親兄弟も信用できないようになった。このため、どこかで妥協点を見つけるために、ファジーになったと思っています。小さな島国ということもあったでしょうが・・・。

私は、粛慎は古代中国にいた騎馬民族が、中国におわれ、沿海州から樺太経由で北海道に、来たのではないかと思っています。どうも、粛慎は蝦夷とも違うように思います。
Toshyさんのおっしゃる、今昔物語で北海道に逃げた、安部氏が北海道にわたったが、騎馬民族に驚き逃げ帰ってきたという話は、そこにいた騎馬民族の粛慎の一派のように思います。匈奴と同じように粛慎も、突然歴史から退場します。そこでこのように思うわけです。
まあ、この勢力は余り多数いなかったのではないでしょうか?そこで、蝦夷に吸収されたように思いますが・・・。



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過去ログ1月分 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月10日(日)22時34分49秒

をまとめました^^
今までこれほど時間的誤差を少なく過去ログをまとめた事はありませんでしたv(^o^)



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前漢・新・後漢 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 9日(土)12時31分39秒

ちょうど世紀の変わり目に中国では前漢が滅び20年くらい新が成立していました。

王莽という人は民衆の支持を一身に受けて皇帝まで上りつめた人のようですね。
熱狂的な支持によって皇帝になったにもかかわらず反乱が起こっているのは期待が大きすぎた反動なのでしょうか??

それにしても5世紀が日本では古代に当たるのに中国では漢民族の絶頂期が既に終わりを告げている??のですから本当に古い国だと思います。
古代に栄えたエジプトやメソポタミア、あるいはギリシアからローマの地中海社会と同様にインドや中国で文明を起こした人達と日本人が同じ時代にいたとは信じられない気持ちになって来たりします、笑
基本的な時間の流れが違うのではないかとさえ思われてきます。
皆さんはどう感じているのでしょうか^^;;

古代日本の様子についてはイメージを作りきっていないというのが本当のところです。
卑弥呼の頃の邪馬台国が連合体だったとあるように「連合体」という形態こそが日本におけるベースをなすものだったのかもしれませんね??
これは四方を山で区切られた空間が多いために独立性が強かった環境のなせるところなのでしょうか??

>古代においては、王朝交代がよくあったと思いますので
古代の「王朝」がどの程度確立されたものであるのかという点で色々な意見があると思いますが、最高権力者が変わるのは世代交代ばかりでは無かった可能性は非常に高いような気が私もしています。

当時のレベルで考えた見た場合にはもし血縁関係を持っていたにしても極めて薄い血縁レベルの者が後継者になるのは一種の交代劇ではないかと思っています。

馬の産地についてですが、これはある地方の「特産品」というものではなく実は日本全国で生産されていたものなのではないでしょうか??
例えば現代でも「梨」の産地と言えば茨城、島根辺りが首位争いをしていますよね。
この様なものだと思います^^かな??

松本さん、よくいらっしゃいました^^
勇者ロトさん経由で辿り着いたのですね。
よろしくお願いします。



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話は 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 9日(土)12時12分36秒

全然変わってしまうのですが...笑

ネットからダウンロードした囲碁で遊んでみると軽くコンピューターにひねられています^^;;
地がよく分からないレベルで勝つのは無理だと思いました。
綺麗な四角になっていれば「地」も理解できると思うのですが、笑

さっぱり上達しないので方向転換してオセロで遊んでみました。
ところがオセロもまた難しい事がよく分かりました(;^_^A)



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ちょっと面白い 投稿者:松本弘子  投稿日: 3月 9日(土)04時19分08秒

よくわからないけど***なんでこんなにたくさん掲示板があるのかなーー?
でも和菓子が美味しそうで、買いたくなってしまいました。
じっくり見させていただきますね。MY HPもよろしくね(^^*



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日本馬 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 3月 8日(金)16時28分31秒

の特性(重心が低く、坂道に強い)を生かした馬の利用法があったと考えると、
山間部で馬の利用が発達したことも不思議ではないのですが、
それが騎馬民族のような形態でなかったことは確か。

奥州藤原氏が名馬を集めて軍事力を強大にしたのは、
北関東から東北に北上する時つれてきて、徐々に増やしたのではないかと思います。
しかし藤原氏の軍事面で馬がそれほどに…とも思えず、
やっぱりどの程度、東北が馬の産地であったかは疑問を残すところですねぇ。
たとえば三内丸山でも馬が特筆されるような発掘はなかったのでは。
太田さんがご指摘の如く、船の利用が日本の古来の姿をあらわしているようです。

「今昔物語」では、源氏に追われた安倍氏が“船に乗って”北海道(?)に逃げると、
そこには騎馬民族がいたので恐れて逃げ帰ったという伝説があります。
もちろん信憑性が薄い話ですけど、
名馬の産地といわれる東北の蝦夷も、決して騎馬民族ではなかったことの証明でしょう。



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ヤマトタケルと神功皇后 投稿者:太田守人  投稿日: 3月 8日(金)12時53分30秒

ここの掲示板や、きんたろうさんのHPを読ませていただき、ヤマトタケルと神功皇后は倭の天皇でなく、日本の天皇でなかったかと思い始めました。遣唐使が、唐に「倭という名前が雅でないので、これから日本とする。」と言ったということがあったそうですが、その時、日本を吸収したからだと言ったそうですが、私は、「日本」は元々ニギハヤヒの国名でなかったかと思っています。青森に日本中央の碑があるように、出雲又は蝦夷の国を日本といったのではないでしょうか?
そうすると、ヤマトタケルと神功皇后は、倭よりも越や東国に関係がふかいので、倭国の英雄というより、日本国の英雄で、それを記紀が盗み、万世一系にするため、自分の歴史に組み込んだとは考えられないでしょうか?そこで、おとぎ話的にせざるを得なかった。綏靖は兄を殺して即位しています。神武は、九州系としても、綏靖はニギハヤヒ若しくはナガスネヒコ系ではなかったでしょうか?神武から開化までは、今の橿原市から御所市あたりを都としているのに対し、崇神以降は、巻向を都としています。そこで、開化までは唐古鍵を都とした勢力、崇神以降は九州若しくは吉備あたりからきた勢力で、結局万世一系にするため、綏靖から開化の業績を細かく書くと、辻褄が合わなくなるため、紀年的にせざるを得なくなったように思います。また、神武は天皇家の先祖というよりも、同じ降臨伝説を持ち、先に大和入りしていたと思われる、物部の先祖でなかったかと、このごろ考えてます。又は、神武系と崇神系が並立していた可能性もあると思っています。
私は、古代においては、王朝交代がよくあったと思いますので、ニギハヤヒやナガスネヒコの子孫が、王朝を作った可能性もあるように思います。



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世界最初の爆撃機 投稿者:太田守人  投稿日: 3月 8日(金)08時24分07秒

匈奴を始め、中国は古来遊牧騎馬民族に苦しめられていますが、漢を簒奪し、新王朝を築いた王莽は、機械仕掛けの凧に石を積み、一種の爆撃機を作り、これら騎馬民族に対抗しようとしたそうです。まあ、この爆撃機は試験段階で、墜落し以後開発はされなかったそうですが。



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さらに続き3 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 8日(金)00時22分47秒

Toshyさんが馬の機動力の利用について書かれていますが馬の産地はいつから関東から東北へと移ったのでしょうか??

少なくとも将門の頃は下総が牧としてあったのは間違いありませんよね。
甲州とか上州が馬の産地として歴史に現れてくるのはもう少し後だと思うのですが、山間部の方が馬の山地に相応しいと言うのも何となく納得し難いものがあります、笑

秋山さんについては井沢先生が逆説の日本史で書かれていたように思います??(多分^^;;)
この部分が馬の耳が聡明だとのところなのですが...笑



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続き 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 8日(金)00時20分28秒

太田さんが言われているように私も日本の交通手段として船の占める割合が非常に高かった様な気がしています。
例としてピンぼけ気味かも知れませんが「矢切の渡し」にしても湿地帯がありふれていた証明の一つになる様な気がしています。

食生活からも日本人の主体を占める遺伝子が海洋的である事を示しているように思っています。
3000種類もあると言われている中国料理でも魚料理は日本料理の方が種類が多いのです。
(陳先生か邸先生が書かれていました^^)
食生活こそが基本中の基本と言える筈ですから海洋的因子を無視しては実像から離れていってしまうように思えるのです。

一般的に騎馬民族と言うのは遊牧民族の事を意味しています。
彼らは広大な草原で馬を自在に操り牧畜をしていた訳ですよね。
中国北部の匈奴は中国史を飾る初期の遊牧民族として有名ですが対抗手段として農耕民族であるはずの漢民族でも馬をかなり使っています。
馬は人間が使う生きた道具の一つに過ぎませんからこれだけを抽出して特殊な物と考えるのはやはりおかしいように思っています。



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騎馬民族 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 8日(金)00時15分09秒

という言葉の響きから満州の馬賊のようなものをイメージしている人が多いように思っています^^;;

そう言えばずっと以前に横山光輝さんの書いたマンガで馬賊になった日本の少年の物語がありましたよね??
横山光輝さんと言えば「鉄人28号」や「バビル2世」「ジャイアント・ロボ」などの代表作を持つSFマンガ家だったはずなのですが歴史物を手がけるきっかけになったエピソードはどんなものなのでしょうか??
石の森正太郎さんもまた「サイボーグ009」や「仮面ライダー」等のSFマンガ家として有名ですよね。
でも同じように歴史物にシフトしていますよね。
石の森さんの場合は手塚治虫さんの「火の鳥」古代史編の影響を受けたせいなのかな思ったりしますが...??^^;;

稲作の原産地は何処かという疑問は別にして、日本にもたらした直接の場所とは長江河口付近だとの意見が多いように思っています。
すると玄界灘を中心とした北九州、下関から出雲付近の活動圏とは別に東シナ海を内海とした長江−佐賀、長崎ラインがあったのかもしれませんね。
もしそうであるとすれば、佐賀にある鹿島を注目したいと思っています。
佐賀県は今では地味な場所になっていますが古代においては茨城の鹿島以上の重要な地位を占めた場所なのかもしれないと思う気持ちがあります^^



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騎馬民族 投稿者:太田守人  投稿日: 3月 7日(木)18時59分19秒

が日本を統一していたら、もっと馬を改良していたでしょう。また、道路をもっと早くから整備していたと思います。なにしろ、日本最初の国道の整備は、聖徳太子と言われてますから。
更に人間の習慣で、最も変えにくいものは、食習慣だそうですが、もし、騎馬民族ならもっと肉を食っていても良いように思います。このようなことから、日本を統一したのは、騎馬民族とは思えません。また、トンデモ説ですが、道鏡事件で、ご神託を近くの伊勢神宮でなく、九州の宇佐神宮まで聞きに行っています。そこで、私は九州系の天皇の皇祖は、宇佐神宮にいたのではなかったかと思っています。そこで、卑弥呼も、このあたりにいたのではと考えています。伊勢神宮は、元伊勢神宮が丹波にありますので、出雲系の皇祖のように思っています。この出雲系の天皇の最後が、天武のように思っています。



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騎馬民族 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 3月 7日(木)15時13分49秒

>ちょっと馬の影が見えただけで騎馬民族による征服説を唱える人
結果が先にあり、という典型にも思えます(笑

もし日本が騎馬民族であれば機動力をもっと利用していたと思いますけど、
日本の馬はサラブレッドよりも小柄で荒々しい行動には向かなかった。
山岳地帯の生活に適する形で進化し重心が低くなっていたのですね。

馬関係というと、平家物語「宇治川」で足利忠綱が馬筏を利用した例がありましたか。
関東では、やはり、馬の機動力利用はあったようにも思えます。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 3月 7日(木)12時22分37秒

私は、古墳に副葬されている馬具は、生前故人が使っていたのと同じくらい、戦利品であったと思っています。「俺はこんなに強いんだぞー。」という顕彰碑の意味もあったと思っています。日本には、墓碑銘がありません。そこで、墓碑銘の意味もあったように思っています。

>明治の秋山については

私も、陸軍の秋山好古と海軍の秋山真之は、兄弟とは知っていましたが、秋山真之と正岡子規が親友だったとは、「坂の上の雲」を読むまで知りませんでした。日本海海戦時に彼が打電した、「敵艦隊接近の報告に接し、連合艦隊はこれを撃滅せんとす。本日晴朗なれど波高し。」という電報は、正岡子規の影響があったようにも思います。
これは、当日の天気予報「本日天気晴朗なれど波たかるべし。」というを、秋山真之が電文にいれたのですが、彼の部下で、後に中将まで累進する飯田少佐が言っているように、この一文で、報告文が文学になったように思います。まー、当時の海軍大臣山本権兵衛は、「秋山の電文は美文である。美文は状況を誤る。」と批判していますが、彼の文学的素養の高さだと思います。



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太田さんの 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 6日(水)18時45分46秒

言われるように騎馬民族説というのはかなり怪しいですよね。
私はこの説を極めて稚拙なトンデモ説だと断言します、笑
ちょっと馬の影が見えただけで騎馬民族による征服説を唱える人は心の何処かが歪んでいるように思っています^^;;
アジア系とかヨーロッパ系に関わらず牛や馬、あるいは羊などの動物は人類史に深く関わってきているのは当たり前なのですから。
大体にして騎馬民族という言葉自体が曖昧な造語ですよね。

でも、それにしても日本では馬に限らず家畜動物の比重が低いと思います。
まるで海の幸、山の幸として糧を得てくるように「イノシシ」を仕留めてきたといった話が現代でも聞かれます^^
日本ではこのように(ほとんど)家畜が存在しなかった??社会のために宦官を取り入れなかったのでしょうか??

機動性では牛は馬に劣りますが、牛は馬力(と言っていいのでしょうか??)の面では侮れないものがありますよ。

明治の秋山については名前くらいしか知らないので教えていただいて有り難く思いました^^

Toshyさん、全然誤解をしませんでしたよ、笑
またまた謙遜しているなと思ったくらいです^^



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SF絡みで 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 6日(水)18時44分48秒

思い出したのですが...

半村良さんの死亡記事を見ました。
半村さんが伝奇SF部門を確立された功績はこれからも輝き続けるだろうと思っています。
歴史のエピソードを現代に繋げていく手法は多分この方が初めて開発されたのではないでしょうか??

壮大なスケールにぐいぐい引きずり込まれてこれだけ大きく風呂敷を広げたものをどのようにして結論に持っていくのだろうとよく思ったものです。
ちょっと不満の残る結末に持っていくパターンが多かったように思っていますが、それこそがSFたる所以だと思ったことがありました。
ご冥福をお祈りしています。

ベギラさん
指輪物語がハリウッド制作なのは分かるのですがハリーポッターはイギリス制作たったのですか??^^;;

安部さんは隔世遺伝を強く受けているようですね、笑
私の場合は常陸国に土着してからの遺伝子が強く出ているようです(^^ゞ



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ジェットホイル 投稿者:太田守人  投稿日: 3月 6日(水)18時00分06秒

きんたろうさん、ジェットホイルは荒天には非常に弱いそうです。特に波が高いと、船底が海面に付き、そうなると水中翼が大きな抵抗になり、再び起き上がることが出来ないそうです。更に価格が、在来型の滑走タイプの高速艇の2・3倍はするそうで、10年前までは、高速軍用艇は全てジェットホイルになるだろうと言われていましたが、今では、在来型の滑走艇の方がよほどいいということで、ジェットホイル艇はあまりありません。日本も海上自衛隊が、ミサイル艇1号型というジェットホイル艇を、3隻北海道の余市に配備してありますが、どうも冬季の日本海では、落第したらしく、後継のミサイル艇は、滑走艇です。原子力艦艇も、出現当時は、未来の水上艦艇は、全て原子力になると言われていましたが、まず価格が高い、燃料棒の取替えに、船体を開いて閉じなければならない手間が係る、廃棄をするのに金がかかる等で、今は航空母艦と潜水艦以外はいません。



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騎兵 投稿者:太田守人  投稿日: 3月 6日(水)17時45分20秒

日本では、明治に陸軍が出来るまで、騎兵がいなかったと思います。武田騎馬軍団も、純粋な騎兵ではありません。騎兵を作った、秋山好古は大変だったと思います。それまでにない物を作るわけですから。「坂の上の雲」で、将来の将官を養成する陸軍大学校で、騎兵とはなにかという講義で、自分のこぶしでガラスを破り、血のでたこぶしを学生に見せ、「騎兵とはこれだ。」といったという一文がありますが、それまで、騎兵隊という概念のなかった、日本人には非常に分かり易い方法だと思います。しかし、長い日本の歴史で、騎兵隊のないのは非常に珍しいと思います。
歩兵と騎兵では、遅い歩兵の進軍速度に合わせなくてはなりません。いくら狭隘で、山がちな日本でも不思議な現象です。少なくとも、関東あたりに騎兵隊があってもよいように思いますが。
この騎兵隊が、後年陸軍では、戦車隊と空挺部隊になります。ただ、第2次大戦初期までは、まだ騎兵隊をよく使っていたそうです。ナチス・ドイツでは、空挺部隊を降下猟兵といっていたといいますが、非常に良いネーミングだと思っています。



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牛馬の機動力 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 3月 6日(水)15時04分15秒

牛馬と機動を関係させる話は、日本史でも全くといっていいほど見られないですね。
南北朝の動乱時代、北畠顕家が奥州から大軍を率いて足利を追ったとき、
東北地方の良馬による猛スピードを利用したくらいでしょうか。
それも完全なる騎馬軍とは思えないから例にあげるにも弱い。

船というと平清盛が神戸を整備して貿易を行ったことは特筆ですが、
源平合戦、実は関東では、もともと海の源氏と山の平氏だったのですね。
三浦や千葉など、初めから頼朝に荷担した大きな勢力は海沿いにあって連携し、
秩父や武蔵の平氏勢力を別個撃破の形で倒しています。

海の平氏・陸の源氏は、一の谷から屋島までの平家物語の影響が強いのではなかろうか。
話がそれました。

ところできんたろうさん。
文芸板のほうで誤解を招く書き方をしました、すみませんでした。



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戦車 投稿者:太田守人  投稿日: 3月 6日(水)12時48分43秒

>日本の歴史を見た場合は馬の影があまりにも少なすぎるような気がしています。

きんたろうさん、私が、騎馬民族征服説に同意できない、大きな理由です。日本は余りにも、歴史的に、馬の影がすくなすぎます。反面、個人的には、歴史的に船が大きいと思っています。
古代日本は、雲南から東南アジアにかけての、風景とそっくりだったかもしれませんね。

>日本でも牛の戦車くらいあっても良かったのではないかと思う時があります

牛は、機動性に劣ると思います。矢張り、戦争するなら馬でしょう。話はかわりますが、近代戦車についてですが、戦車のアイデアを出したのは、イギリス陸軍中佐ですが、設計したのは、イギリスの軍艦を設計していた、イギリス海軍艦政本部です。陸軍でこのアイデアをつめていったら、戦艦に良く似ているということになり、艦政本部にいた、天才的なダジンコートという造船官に話がいったそうです。始めは、秘密保持のため、WCという略称で呼ばれていたが、戦場に積み出すという段になって、荷札にフランス行きWCと書いたら、ある事務官から、戦場に持っていくWCとは、どういうものかと、運ぶ者が見るに決まっているという意見が出、この戦車を作っていた、海軍工廠の工員が、「タンク」と言っていたので、直前にタンクと書き換えたそうです。
初期の戦車は、大砲を持っている雄戦車と機銃しかない雌戦車が、ワンセットで行動したそうですが、とにかく故障が多く、戦車のデビュー戦のソンムの戦いでは、8割は故障で動けなくなったそうです。ただ、当時の最新兵器、機関銃が歯が立たないので、ドイツ軍に大パニックを起こさせ、戦車よりもドイツ軍のパニックにより連合軍が勝ったそうです。
当時のドイツ軍の報告書に、「3度の飯を2度にしてでも、至急開発する必要がある。」と書いてあったそうです。

船酔いのはなしで、大洋での波は、波長120mが一番多いそうで、航空母艦など船を安定させる必要がある場合には、倍の全長240m以上がいるそうです。ただ、こうすると、波の頭と頭に船が載ったときに、船が折れやすくなるそうで、相当入念な強度計算がいるそうです。嵐では、小さい船の方が、波と波の間に入りやすいので、船が折れるということがなく、安全な場面もあるそうです。かって、日本海軍では、船酔いがひどく、出港と同時に、船酔いで頭を抱えて寝てします人を、係船桁といったそうです。係船桁とは、軍艦が入港中、艦載艇を舫っておくためのもので、出港と同時に、折りたたんでしまってしまうので、こういうそうです。多分、海上自衛隊でも同じでしょうが。船酔いには個人差があり、船に弱い人はどれだけ訓練してもだめだそうです。こうゆう人が、艦長や司令官になると、部下の手前地獄の苦しみを味あうそうです。



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しまった間違えた 投稿者:安部奈亮  投稿日: 3月 6日(水)01時12分48秒

もう少しで40000なのだった。失礼しました。



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いつのまにか 投稿者:安部奈亮  投稿日: 3月 6日(水)01時11分56秒

30000HITしていますね。誰だったのでしょうか?



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指輪物語 投稿者:ペギラ  投稿日: 3月 6日(水)00時05分34秒

今度は指輪物語が本屋をにぎわしているようですね。
売り切れ店もあるようで、なんとも日本人気質を感じます。

アカデミー賞うんぬんが騒がれていますが、
あれ?ハリポタは?と娘に聞くと
アメリカの影響をできるだけ排除しているから!

な、なんと!

ハリポタはビートルズの映画版になるのかも。
2,3と世間を騒がしたらアメリカも認めざるえない。

それにしてもハリポタ対策に指輪物語をあてているようなハリウッドに
「目には目を」のアメリカ魂を感じる私です。



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ええと 投稿者:安部奈亮  投稿日: 3月 5日(火)23時32分03秒

大きい海は舞鶴から小樽までと、大阪から高知まで、瀬戸内海を船で渡ったのは数しれずです。お墓参りのたびに連絡線に乗っていましたから。瀬戸内に住んでいる人にとっては、海は土地と土地を離す存在ではなく、繋げる場所です。

車が揺れるととたんに不安になりますが、船が大揺れになっても私はなぜか全然気になりません。これも祖先の血かもしれません。なにせ私の御先祖様は塩飽諸島の海賊ですから(笑)



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牛の文化 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 5日(火)22時10分40秒

は南方のもので馬は北方のものだと思われています。

基本的にはまず牛の文化が広がったその後で馬の文化が現れるパターンが多いのですが、日本の歴史を見た場合は馬の影があまりにも少なすぎるような気がしています。
これは太田さんが言われているように地形的な影響が多かったせいなのかもしれませんね。

馬の戦車と言えば古代中国ばかりではなく古代ローマの「ベン・ハー」のシーンなどでも有名ですよね^^
カエサルも乗ったであろう戦車(馬車)に使われた車輪の幅がイギリス征服によってブリテン島に伝わり、それから2000年近くの時を経て汽車の車輪幅として正真正銘のワールド・スタンダードになったのを見ると感慨深いものがありますv(^o^)

日本でも牛の戦車くらいあっても良かったのではないかと思う時があります、笑
大雑把に見て日本の場合は人力に頼る比率が極めて高かったような気がしています。
恐らくこれは異民族間による戦争ではないために徹底的に戦う事を必要としなかった為ではないでしょうか??
これは環境の保全も意味しています。



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船 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 5日(火)22時06分04秒

思い出してみたら結構船に乗ったことがありました^^
佐渡島に行った時はジェットホイルに乗りました。
さすがにジェットホイルは評判通り快適に佐渡島に着く事が出来ましたよ。
大島へ行った時も帰りはジェットホイルでしたので行く時とは大違いでした。

安部さんが船に乗ったのはどの付近なのですか??^^
そう言えば松島遊覧をした時はちょっと波があって沈むのではないかと心配した記憶があります。
日本三景を楽しむ余裕はありませんでした^^;;



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まだ嵐に遭ったことはないなあ 投稿者:安部奈亮  投稿日: 3月 5日(火)19時20分30秒

私は車酔いはひどいのですが、船にはまだ酔ったことはありません。もしかしたら船に強いのかも。

でもまだ嵐に遭ったことがないので、あまり大きいことは言わない方がいいかもしれませんね(笑)



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客観的に 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 5日(火)19時07分37秒

見ると自分でもかなりいい加減な訳だと思っているのですが(笑)ハリーポッター4巻の始まりを知りたい方はメールして下さいね(^o^)
非公開用のアドレスをお知らせします。

いくらごじゃっぺ訳でも翻訳本が出版される前にHP上で公開するのはまずいんなという判断の為です(^^ゞ)
もったいぶっている訳ではありませんよ、笑



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嵐の船 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 3月 5日(火)16時08分30秒

そうですよね。
嵐の中でも、食や便は人間の常。食うものも食わず働いたということは古文書にもあるのですが、便で困ったということは思いつきませんでした。
そして船酔い。いくら船乗りでも船が恐ろしい速さで回転し、普段以上に傾けば具合悪くなるのも当然のこと。
いやいや、太田さんありがとうございました。

>北前船では、大嵐になると帆柱を切り倒し、
帆柱をきるとその後航行出来なくなるのですが、「荷打ち」で軽くなった船は揺れもいっそう激しくなるため、やむなく切り倒してしまったようです。切ると重心が低くなり、安定しますから。
しかしそれよりも、当時は船乗りの命よりも幕府の御用米が重要視されていた風潮でもあるようです。
荷打ちをしたといっても、抜け荷ではないかという取調べが厳しかったのです。
米を守っても、人が死んだら運べないというのに…人道などという言葉もない、悲しい時代背景です。

>後は「南無阿弥陀仏」とお題目を唱えていたそうですね。
前にここで話に出た「時規物語」では、船乗りの宗派がそれぞれ違うんで、どれかに統一するとか言う話があったような…
別の漂流記でも、「南無阿弥陀仏」は後生を願ってのことで生きるためのものではない、だからこれを唱えたら海に放り込む、と船頭が乗組みに警告した話もあります。
でも嵐になると、どうしても「南無阿弥陀仏」は唱えてしまうそうです。

>わらじ
宮城県最初の横綱といわれる丸山に、こんなエピソードがあります。
丸山は希に見る大男で、彼が履くわらじなどどこでも売っていない。
サイズがサイズだから職人も作るのが大変で、丸山自身も寝ないでわらじを作ったそうです。
だから参勤交代で江戸に着いたときにはフラフラ、宮城には帰れないと判断し江戸で相撲取りになった…



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遣唐使船の帆 投稿者:太田守人  投稿日: 3月 5日(火)12時49分25秒

千石船の帆は木綿製だったと聞きました。しかし、木綿が中国から入ってくる以前は、船の帆はなんでできていたのでしょうか?例えば、遣唐使船の帆は、なに製だったのでしょうか?麻あたりでしょうか?色々調べたが分かりませんでした。ご存知の方は、教えてください。
帆船時代、ヨーロッパでは、風がなくなると、帆に海水をぶっかけていたそうです。こうすることで、微風でも効率よく船が進めたそうです。今、船が赤道を通過する時、赤道祭というお祭りをしますが、今は芸能大会になっていますが、帆船時代は、赤道無風地帯で、風が吹き続けることを祈った神聖な行事だったそうです。帆船にとって、赤道は大の苦手で、運が悪いと数ヶ月風待ちをしなくてはならなかったそうです。まず、水が腐るので、帆船時代、水の変わりに長期航海では、ビールを積んでいったそうです。
グロッキーという言葉がありますが、この語源は、イギリス海軍のヴァーノンという提督が、水兵たちに水で割ったラムを飲ませたが、強い酒のため飲み過ぎると、ぶっ倒れたそうで、この飲み物を、この提督がグロッグ織の外套を好んできたため、誰からともなくグロッグと呼び、それがもとでグロッキーとなったそうです。今でも、イギリス海軍では、このグロッグを水兵に飲ませているそうです。このヴァーノン提督は、奴隷に近かった水兵の食事・給与等の基準を、最初に決めた提督だそうです。



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馬車 投稿者:太田守人  投稿日: 3月 5日(火)12時28分44秒

きんたろうさんのおっしゃるように、牛車があって馬車がないってのも変な話ですね。古代中国にあっては、馬に引かせた戦車戦が戦闘の基本でしたので、渡来人が知らなかったとは思えません。
ここからは、私の想像です。魏志倭人伝に、邪馬台国に馬はいないと書いてあったと思います。これについては、魏の使節が知らなかっただけで、実際は縄文馬がいたのだから、馬の使い方を知らなかっただけだとか、縄文馬は絶滅していたとかいう説があります。私は、倭に馬の絶対数が少なかったのではと思っています。朝鮮半島から、騎馬民族が来ても、船に数千頭とかで乗せてこれないと思います。せいぜいが、数十頭或いは十数頭、数頭であったと思います。更に、日本は高温多湿で、木が生え易い上に山がちの地形で、海の方が陸地を移動するより、移動し易いので、軍事的要求が高まるまで、そうそう馬を繁殖させる必要がなかったのではないでしょうか。そこで、牛を使ったのではないでしょうか。牛は、農耕用に多数いたでしょうから。



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以前 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 4日(月)23時25分45秒

大島に行った時は夜の10時頃??晴海を出発して朝6時頃??に大島に着きました。
実際は4時間くらいしかかからない筈なのですが、ちょうどいい時刻に大島に到着するように東京湾の先端の付近で停泊して時間調整をしていたようです。
私達が行った時はちょうど台風か何かが発生していたらしく??(はっきり覚えていません)やはり波が荒れていました。
あの絶え間なく続くローリングには本当に参りました^^;;
それでも太田さんの経験されたのと比べると遙かに程度は楽だと思いました、笑

Toshyさん、わらじ代については考えても見ませんでした。
確かにそれだけ消費するとなると、わらじもかなりの額になりそうですよね^^;;



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ようやく 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月 4日(月)23時12分48秒

ハリーポッター1章の翻訳が終わりました。
ちなみに適当に読んでいるのは3章の終わり頃です。

かなりアバウトに訳してワープロに書いた程度なのですが、実際に訳文を書いていく作業は読むだけのものとはずいぶん違うと思いました。
尤も普段の読み方が何行も飛ばして読んでいる(と言えるのかは??^^;;)ために特にそう感じたのかもしれませんが...(;^_^A)



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Toshyさん 投稿者:太田守人  投稿日: 3月 4日(月)17時54分13秒

一番困ったのは、尾篭な話ですが、トイレです。とにかく、なにかに掴まっていても、ふっとばされそうでした。食欲がそのうちなくなったので、最後はそんなにいかなくてもよかったですが。まっすぐ歩けないのも困りました。更に、カバンなんかが動き出すという状態でした。それまでは、私は船には強いと思ってましたが・・・。それと、起きる気がしなくなり、もし、楽になるなら沈没してもいいなんて、罰当たりなことを思い出しました。「がぶる」というのは、このことかと思いました。北前船では、大嵐になると帆柱を切り倒し、後は「南無阿弥陀仏」とお題目を唱えていたそうですね。ただ、この間読んだ船の本で、桧垣廻船のレプリカの「浪速丸」は、従来、和船では、西洋帆船より弱いと言われていた、間仕切り(風上に進む方法)能力が思って以上で、専門家も舌を巻いたと書いてありました。



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太田さん 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 3月 4日(月)15時33分08秒

その荒れた時のこと、ぜひ「津太夫」の参考にしたいので詳しく教えてください。
こういうのは体験に勝るものはありませんね。やっぱり。

宮城県には本砂金(もといさご)という小さな盆地があります。
古い言い伝えでは、平泉で討たれた義経の残党がここに逃げてきたのだと。
砂金というと金売り吉次を思い出しますが、
義経と砂金商人との間の関係を重視しえる一つの伝承だと思います。

隠れ里とは違うんですが、宮城県七ヶ宿(しちかしゅく)という温泉町に行ったとき、
山の中を通っていってここに辿り着いて川の向こうに開けた町並みを見たときは、
「桃源郷」を見たように錯覚におそわれました。普通の街なのに、何故か神秘的でした。
隠れ里伝説が不思議な妖怪めいた話をともなうのは、なんとなく理解できるような気がします。
特に一度だけの邂逅だと神秘性も増すようです。

http://cgi.wakuwaku-net.com/yomi-search/yomi.cgi?mode=link&no=215



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平家の隠れ里 投稿者:太田守人  投稿日: 3月 4日(月)13時22分21秒

私は、石川県や富山県、岐阜県にある平家の隠れ里は(有名なのは岐阜県の白川村や富山県平村という五か山地区)、倶利伽羅の合戦に負けた連中が作ったのではないかと思っています。九州の方は、壇ノ浦でしょうが。壇ノ浦で負けた、平家の落ち武者が、北陸まで逃げてくるのは、考え難いと思っています。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 3月 4日(月)12時36分28秒

>船の移動も絶え間なくローリングを繰り返していますから大変ですよ^^;;
船旅をしたらほとんどの人は船酔いを経験するはずだと思っています、笑

私が小笠原の父島へ行った時に、大島沖で風速25mに巻き込まれて、24時間大島沖で船が止まって(これをピープツゥーといいますが。)いたことがありましたが、揺れるなんて生易しいものでなく、船が回っていました。兎に角、上げる物があったうちは、まだいいですが、最後はゲップしかでてこなくて、死ぬかと思いました。溺れてもいいから、降ろしてくれーって頼みたかったです。父島に2日いましたが、最後まで島が揺れている感じでした。
私には、叔父が4人いますが、2番目の伯父は、太平洋戦争中の駆逐艦のりで、ソロモンで何度も泳いだそうですが、船が沈む時、トウシロは飛び込むが、風呂桶に入るように、足からゆっくりはいったほうがいいといってました。船が沈む時、渦に巻き込まれるので、全力で泳ぐが、後は立ち泳ぎで、あまり沈没地点から離れないほうがいい、また、軍歌とか大声をだすのは愚の骨頂だそうです。面白い話で、腕時計は、コンドームを2つ重ねて強く縛っとくと、海水が入らず壊れないそうです。
ポリネシアの人達も凄いですが、縄文人も凄いと思います。八丈島に、イノシシを連れて行って、放牧していたともいいます。いくら、ウリ坊でもイノシシを丸木舟に乗せて、本土から八丈島まで乗せていくとは・・・。



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