過去ログ162(2002年〜6月18日)


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魚料理 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月18日(火)19時35分39秒

の豊富さにおいては中華料理は日本料理の敵ではありません。
特に生魚料理は殆ど見ることが出来ないですね。
例外的に存在するのが上海付近のなんとかだったと思います。
ここから太田さんが以前言われていたように江南地方との繋がりは魚料理の共通性から見ることが出来るのかもしれませんね。

料理に関する事は井沢先生が「マイ・おはし」について語っていたと思います。
お箸にしても中国料理と日本とではその形態が違いますよね。
中国料理のお箸は日本の箸よりも長いのは誰でもが知っていると思いますが、日本の箸の方は先が細くなっているタイプですよね。
これは日本の場合は魚料理がメインであるために進化したものだと邸先生が言われていたと思います。

ご馳走を現す言葉にしても日本語の場合は「酒の肴」ですが中国の場合は「酒池肉林」ですから中国の場合は農耕民族と言っても大陸の内陸部で発達した牧畜を営んでいた歴史を感じる事が出来ると思っています。
これは安部さんが言われているように中国のハイブリット化によって北方の風習がより取り入れられているからかも知れませんね。

ところで納豆は中国には無かったそうです。
とすると納豆に関わる義家の伝説はやはり正しかったと思われてきます^^
編集済



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なるほど 投稿者:太田守人  投稿日: 6月18日(火)17時34分23秒

中華料理で炒めるのは、モンゴル以降ですか。元と言う国は、ロシアなんか蛇蠍の如く嫌っていますが、東西交流には大きな足跡を残したのでしょう。漢民族は、肉食民族だと思います。しかし、箸というものの原型は、中国でしょうか?肉を食べるとすると、ナイフの方が絶対楽なように思います。箸は、魚を食べるのに便利なように思います。
中国というと、私なんか北京や華北地方を思い出しますが、南の沿岸部では、刺身なんかを食べているのかも知れませんね。
司馬遷の史記だったかに、鴻門の会で項羽が、氾会に生の豚肉をやる時に、調理人は、加熱したものか生で出したものか迷うという話があったと思います。結局、生の豚肉を出しますが、生の食物は、文明人の食うものでないという思想があったのかも知れません。



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生魚 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 6月18日(火)15時08分31秒

津太夫さん↓たちが滞在したアリューシャンでは、魚を生で食べていたようですね。
ただしタラだけは火を通したとか。理由はわかりません。

アレウトはイヌイットやインディアンといたような風習を持っていて、
またアジア北東部とも共通するところが多いとのこと。
だから安部さんが書いているように、
日本海やオホーツクの沿岸では生魚を食べる民族がいたのかもしれません。
…地図上では中国というよりもロシアになってしまうけど(わら

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/tsu.htm



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よく知りませんが 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月18日(火)14時07分23秒

私達が知っている中華料理は、福建省のあたりの料理と四川の料理と北京の宮廷料理です。

でも中国には色々な地域がありますからね、沿岸部に行けば今でも生魚を食べているかもしれませんよ。

きんたろうさんが言っていたように、中国の支配者は三国を境に北方の民族に移りました。北方の人達は生魚を嫌う風習を持っていたのかもしれません。遊牧民はそもそも魚を食べられませんよね。

それに雲南は日本と似ていて、豆腐や納豆を食べるそうです。雲南は日本人の起源のひとつといわれています。ベトナムの方へ行けばまた違う料理がありそうです。ベトナム料理は中華料理と似たところもありますが、違う所もあります。ベトナムには戦国時代や漢の頃に「呉・越」といわれていた地域から難民が流れていますが、ベトナムではそういえば生魚を食べますよね。春巻きに挟んだりして。



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それこそまさに 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月18日(火)13時58分36秒

きんたろうさんのおっしゃるハイブリッド文化ですね。いろいろな民族が侵入してくるたびに中華料理はバリエーションが増えて行きました。宋の頃の中華料理は日本の懐石料理として残っています。禅僧が持ち帰ったのですね。それまでは余り油は使わずに、煮る・蒸すが主体でした。油が大量に使われるようになったのは、石炭が調理に使われるようになったのと、モンゴルの時代になって西洋の調理法が入ってきたからです。

「論語」には肉料理がよく出てきます。焼くのは出てきません。干物と蒸すのが多いです。料理も祭祀の内だったのでしょうが、孔子はもしかしたら食いしん坊だったのかもしれません。

杜甫は胃弱のくせに食いしん坊でした(笑)

まず、川魚は生では食べられません。これは今でも昔でも同じでしょう。生で食べられるのでは海の魚だけです。それも沿岸部だけに限られます。昔の中国でも生魚はなかなか食べられなかったでしょう。

それと・・・一つの事件をきっかけに何か風俗が変わると言うことは滅多にありませんが?その類の物事の起源を説明する話は、印象的な事件で色々なことをまとめて説明しようとしているのでしょうか、事実とは違うと思います。



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中国は 投稿者:太田守人  投稿日: 6月18日(火)08時37分26秒

紀元前から石炭を使っていたのですか。石炭も豊富ですからね、あそこは。話は変わりますが、漢民族は生ものを食べません。しかし、魏の曹操は、スズキの膾が好物だったといいます。三国志演義にも、左慈に、スズキとはじかみだったかを出せという難題を出した話がありましたが、宋ぐらいから必ず加熱します。石炭が豊富だったからだと言う説もありますが、それだけでないと思います。例えば、ヨーロッパのペストのような、全土に渡る伝染病があったか、食中毒で多数の人が死んだことがあったかと思い、調べましたが、ないようです。何故、生ものを食べないのか?実に不思議でした。その理由をご存知の方はいらっしゃいますか?大規模な伝染病や食中毒があり、生ものは怖いということだと、理由になるように思いますが。



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「コスモス」の損害は 投稿者:トータス砲(輔住)  投稿日: 6月18日(火)06時44分46秒

TVや商品に関する会社なども多いため、もしかしたら数十億ぐらいはいくかも?
(素人的な予測ですが)

昨日の夜までの情報によると映画は公開する可能性もあるみたいです。
(まだ確定ではありませんが、また公開しても当初の予測よりは
 客の入りも少し悪いとも思います)

>ヤツに損害賠償を求めらたら、また恐喝してお金を集めるんでしょうか(な訳ないか)。
上記のようにかなりの金額になりそうなので、国家機密でもつかんで
国を相手に恐喝しないかぎり無理な金額でしょう(笑)。



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中国は 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月18日(火)01時43分33秒

かなり早くから、紀元前後あたりから石炭を使っていたらしいと言う話を聞いたことがあります(すみません不正確で)



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損害賠償 投稿者:Cafeおねーさん  投稿日: 6月17日(月)23時03分58秒

輔住さん、レスありがとうございます(*^_^*) 
ホントにあのニュースには怒りを感じました。
未公開の映画、どうなるんでしょうね。
ヤツに損害賠償を求めらたら、また恐喝してお金を集めるんでしょうか(な訳ないか)。



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輔住さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月17日(月)22時04分26秒

確かに羊の皮をかぶった狼という言葉がこれほど似合う人も珍しいのではないかと思います。
他人事ながらこいつによってどのくらいの損害が発生したのか心配です。

太田さん
中国が全てオリジナルだと何となく思ってしまうのですが、中国もユーラシア大陸の一部に過ぎません、笑
恐らく製鉄技術などは西方から伝わった部分が大きいのではないでしょうか??

そのスピードは現代とは比較にならない程遅いのは勿論確かですが、先端技術や便利な物、役に立つ技術、知識などは高いところから低いところへと広まっていくのは古代においても真理だと思っています。



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考えてみたら 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月17日(月)22時03分01秒

即死ばかりをイメージしているのかもしれないと思い返しました。
刀やナイフで腹を刺されたら場所によっては致命傷になります。
でも切られた場合は傷が深くなければ血は確かに出ますし痛みも相当ありますが致命傷にはなかなかなり得ないと思います。

切腹の場合は介錯人が殆ど同時に首を切り落としますから痛みを感じる事は無いと思いますが介錯人無しで切腹を行う場合には割腹しても死にきれず腸を自分でつかみだして切ったとか読んだ事があります。

戦場で傷を負った場合も即死ではなくてその傷から元で死んだ場合まで考えると予想以上に多くなるのかもしれませんね。
勿論後遺症の痛みを感じている人は殆どの武将がそうだったと思います。

山之内一豊クラスですら頬に鏃を受けても平然としていたという程の剛胆さがありましたから前田利家クラスになるともっとすごい筈ですよね(^o^)
編集済



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真剣 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月17日(月)22時01分54秒

を握ったとしたら殆どの人はぺっぴり腰になってしまうと思います、笑

先日間違って楊子を思いっきり指に刺してしまった時はものすごく痛かったですよ^^;;
また果物ナイフで間違って自分の手を切ったときもものすごく痛い思いをしました。
ですから実害はほとんど無くても痛みを与えただけで相手の戦闘力を相当削ぐ事は出来ると思います。

尤も戦国時代の戦場ではちょっとの傷くらいではアドレナリンの大量分泌により痛みを感じないかもしれませんね。
でも手や足の筋を切っただけで相手はまともに動けなくなりますから殺すまでは必要が無かったように思います。

国民皆兵による総力戦になって初めて死傷者の数が一気に増大したものと考えています。
中国史をみると本体は1000人程度なのにもかかわらず、勝ち馬に乗った兵が一気につきますからあっという間に5万、10万の大軍が出来てしまいます。
でも一旦破れると所詮は烏合の衆ですから蜘蛛の子を散らすように消えてしまいますよね^^;;
敗残兵の多数は匪賊となるわけですがこのような歴史は日本だと殆ど見られないように思います。

宗教戦争や異民族間戦争の場合はコンセンサスを得るのが非常に困難ですから適当なところで手打ちにする事は不可能です。
戦死者が多いのはこのような理由による部分も大きいように思っています。



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鉄 投稿者:太田守人  投稿日: 6月17日(月)12時30分58秒

>私は、日本であのような刀が発達したのは、日本に鉄鉱石が足りなかったからではないかと考えています。砂鉄から鉄板を作ろうとすると、どうしても鍛造になります。鋳造になると分厚い鉄板を作れないので、あのような格好にならざるを得ません。

安部さんのこのお説には賛成です。中国には、鉄鉱石の露天掘りの出来るところが、ありますからね。中国では、砂鉄なんて効率の悪いものは、使う必要もないほど、鉄鉱石が豊富だったのでしょう。
でも、私が不思議に思うのは、中国が鍛造を飛ばして、鋳物で鉄を作っていることです。鋳物の方が、高温を必要とします。まあ、私が知らないだけかもしれませんが、中国に鍛造の時代はあったのでしょうか?鋳物だけだとすると、中国の製鉄技術は、どこかから来たように思います。そこで、ヒッタイト=漢民族という説に魅力を感じます。鋳物と言えば、第二次大戦でアメリカは、まさかと日本が思うものにまで、鋳物を使っていたそうです。例えば、M4シャーマンという、アメリカの物量の代名詞になっている、戦車がありますが、これも車体や砲塔は鋳物で、量産したそうです。



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ということは兵器というのは 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月17日(月)00時17分13秒

爆弾以外はあんまり殺傷能力はないと言うことかもしれませんね。効果が強いものは扱いが難しいし、扱い易いものは弱い。過去においても敵の戦闘力を減らすことが戦いの目的だったのでしょうから、よっぽど作戦がうまく行ったときしか大量に戦死者は出なかったのではないでしょうか?

私達は近代戦が頭にあるからどうしても戦いというとものすごい死者が出るのを思い浮かべてしまいますが、昔はそれほどではなかったのかもしれないと思いました。戦闘よりも戦争によって社会が混乱して(順番は逆かな社会が混乱するから戦争になる?)それで食糧生産が減ったり、衛生状況が悪くなって疫病が流行ったりして大量の死者が出るのではないでしょうか。

しかし、十字軍みたいな宗教戦争とか、ゲルマン人や五胡の侵入みたいに、相手が死に物狂いになって向って来る時は戦死者が多いかもしれません。しかしこの場合は戦闘員と戦闘員の戦いとは言いがたいですよね。



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誤記 投稿者:トータス砲(輔住)  投稿日: 6月16日(日)22時35分53秒

>義経が官位をもらった義経に対する怒る気持ちがよく分かります。(笑)
>義経が官位をもらったことに対する頼朝の怒る気持ちがよくわかります。(笑)



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怒りと哀しみ 投稿者:トータス砲(輔住)  投稿日: 6月16日(日)22時33分42秒

きんたろうさん・Cafeおねーさん
>30年の歴史の中で初にして最大の汚点ですよね。
このニュースを知ったときの怒りといえば、
義経が官位をもらった義経に対する怒る気持ちがよく分かります。(笑)
(別次元の話ですが!)

逮捕された某氏はとある雑誌のインタビューで「僕は
カオスヘッダー(とりあえず怪獣の邪心と思ってくれれば、いいと思います)とも
仲良くなってみせる!」とかいってましたが、よくもまあ...。

本当に残念な事件です。



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ウルトラマン 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月16日(日)21時01分14秒

30年の歴史の中で初にして最大の汚点ですよね。
Cafeおねーさんの意見は尤もだと思います。

早速昨日の放送分から切り替えたようですね。
それにしても45万円も恐喝するとは見た目は好青年でもやくざだったのですね。

小さい子供達は正義の味方を楽しみにしていたでしょうからとても残念に思います。



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刀と言えば 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月16日(日)21時00分15秒

伝説の「雷神剣」が鹿島神宮に飾られていますね^^

時代がごじゃっぺで申し訳ないのですがやくざの刀はとても人を斬り殺せる様な物ではなかったと読んだ事があります。

相手を一撃の下に刀で斬り殺すというのは柳生又右衛門くらいの手練れにして初めて可能だったのではないでしょうか??
彼は上田城攻防戦で孤立した秀忠を守って10人くらいを斬り殺して窮地を脱したと言われていますよね。

相手を殺せなくても大きな切り傷を与えられれば相手の戦闘力を削ぐ事になりますからそれで十分だったのではないでしょうか??
戦国時代でも相手の首が大きな価値を持つのは「大将首」だったと思います。

そう言えば信長は桶狭間の戦いにおいて「首取り」を禁じたと記憶していますが...
これは義元だけに焦点を当てたのだと思います。
でもしばらく信長から離れていたので確信はありません、笑

長刀の柄の部分を切り落とすというのではなく、お互いの武器が衝突した衝撃によって長刀の柄の部分が緩むのではないかという疑問です^^

室内での戦いの場合だと長い刀は柱や梁に当たるので自在に振り回すことが出来ないので実用的ではなかったように思います。
でも屋敷の中でのチャンバラは「暴れん坊将軍」くらいでしか見たことがありません^^;;
編集済



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ああでもどうだろう? 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月16日(日)14時47分14秒

私が読んだのは戦中に日本軍がぶら下げていた日本刀にはいかに威力がないか書いた本でした。

でも博物館においてある源平とか南北朝の頃の日本刀の刀身は結構太くて長いですよね。
あれなら青龍刀みたいにたたっきることも可能かもしれないですね。

江戸時代の間に日本刀は装飾品になってしまったのでかもしれないですね。青瓢箪でも持てるように細くなっちゃったのかもしれない。



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とすると日本刀での戦い方は 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月16日(日)14時39分57秒

薙刀とか青龍刀?みたいな大物の攻撃はかわしつつ相手の懐に入り込んで何度も斬りつけて相手を弱らせると言うことになりましょうか。示現流でもない限り日本刀で一刀両断は難しいでしょうから何度も斬りつけないと倒せないでしょうね。

となるとこてと胴くらいは装備しておきたくなります。腕とお腹は日本刀でも簡単にダメージをくらいそうです。

気の棒と言うのは結構堅いですから、日本刀で槍や薙刀の柄を切り落とすのはよっぽど手誰じゃないと無理な気がします。

私は日本刀には殺傷能力はあまりなかったのではないかと考えています。組み打ちになったときに相手の首を切り落とすか、突撃したり逃げたりする時に適当に斬りつけて相手の動きを鈍らせるような武器だったと考えています。ナイフの延長のようなものではないかと。



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がっかり 投稿者:Cafeおねーさん  投稿日: 6月16日(日)12時05分46秒

きんたろうさん、知ってますか。
ウルトラマンコスモスの主役が過去の恐喝容疑で逮捕されたって。
このニュースをいち早くネットで知った私はショックでした。
だって、コスモスの主役やってる子(おばさんらしい言い方)って、なんか好青年って感じで
イイ感じだったのに、驚きです。人は見かけによらないものなのですね。陰で何やってるんだか
わかんない。TV放送も打ち切られましたぁ。毎週楽しみにしていた子供達が可哀想。



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足軽 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月16日(日)01時50分01秒

のような下人が騎馬武者が戦うための補助として何人か付いていた筈ですね。
安部さんが書かれているように彼らは馬に乗った武士に刀の予備を渡したりあるいは矢を渡したりしたものと思われます。
彼らは非戦闘員として存在していましたが戦闘員の武士がその能力を発揮するためには必要不可欠の存在だったと言えるわけです。

時代が下るにつれて足軽は武士階級に取り入れられていくようです。
足軽の給金は江戸時代の同心程度だったと読んだ記憶があります。
これは大体年間30俵扶持くらいに相当したようですね。
給料レベルの最低保障は戦国時代も江戸時代も同じくらいだったのでしょうね。

刀は鉄で出来ていますから当然の事ながら相当重いです。
日本刀も細身の刀とはいえ、かなり重いですよ。
私はあまり重くて振り回すのが困難な刀は実用向きとは言えないと思っています。
日本刀ですら重いのですから青龍刀やヨーロッパの刀を使える人間は筋肉隆々だろうと思ったりしています、笑

>厚い刀身の重みを使って振り落とすと、誰でも簡単にざっくりと人が斬れるそうです。
これを自動化したものがギロチンですね。
でもお互いに動いている戦闘状態の場合の殺傷能力と静止した物体に対する切れ味は別物だと感じています。

薙刀は長刀とも書きますね。
長刀といえば僧兵の主要武器だったと思います。
これは一種の槍のようなものですから実践的な武器なのだろうと思います。
でも固い物にぶつかった場合に杖の部分と刀の部分の接触力が弱まるような気がしています。
ですから切れる物だけを切っている分には理想的な武器なのかも知れませんが実践で相手の武器と衝突した場合に刀の部分が外れてしまう可能性が高かったのかなと思ったりするのですが...^^;;
編集済



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ですから源平の頃の武士は 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月15日(土)15時17分53秒

下っ端に刀を担がせておいて、切れ味が悪くなるとは「ハイ次!」という風にどんどん刀を替えて戦ったらしいです。

日本の武器で一番切れ味がよいのは薙刀です。あれは刃の形が半月形ですし、長い柄を使って遠心力でものすごい威力を出すことが出来ます。だから力のない女性でも薙刀ならば男と戦えるのですね。むしろ江戸時代になって本来威力抜群のはずの薙刀を男が練習せずに、組み打ちの時の補助武器に過ぎない日本刀の練習ばかりしていたのが不思議ですが。



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日本刀 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月15日(土)15時13分16秒

日本刀は上手に切った時の切れ味は抜群だけれども、実際の戦闘ではあまり役に立たないそうですね。それに日本刀は刀身が細くて薄いのですぐに折れる。さらに刃の部分が繊細なので血糊が付くとすぐに斬れなくなりなります。レマルクの「西部戦線異常なし」に、カチンスキーという古兵がスコップを抱えて戦場へ斬り込みに行くシーンが出てきます。人を斬るのに一番適した形は、スコップとか青龍刀とか矛のような半月の形だそうです。厚い刀身の重みを使って振り落とすと、誰でも簡単にざっくりと人が斬れるそうです。青龍刀や矛は、刀の重みで叩き切るので、技術は必要ないし、血糊が付いても切れ味が鈍ることはありません。これらのことは日本刀の専門家も認めています。

私は、日本であのような刀が発達したのは、日本に鉄鉱石が足りなかったからではないかと考えています。砂鉄から鉄板を作ろうとすると、どうしても鍛造になります。鋳造になると分厚い鉄板を作れないので、あのような格好にならざるを得ません。



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面白い^^ 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月14日(金)23時34分06秒

イメージが活性化しそうなのですがサッカーを見ながらビールを飲んでいた後遺症(笑)がまだ残っているので上手くまとまりません^^;;



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きんたろうさん 投稿者:kituno  投稿日: 6月14日(金)17時39分05秒

私の更新ペ−ジに、いつもすぐに目を通して下さって、ありがとうございます。
(すごく感謝しています。)
とても嬉しく思います。

今日もサッカ−の実況を耳にしながら、HPの更新をしました。
昨年6/22に法隆寺を訪れた時の写真を掲載しました。
最近すっかりご無沙汰している勇者ロトさん、昨年播磨にお邪魔してからもう一年です。
あっという間です。

今は時間に追われるように更新しています。
いつ更新できなくなるかわからないので、せめて太子関連の旅日記だけでもアップしておきたいです。

サッカ−、勝ちましたね!!



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江戸時代の戦いは 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月14日(金)15時08分04秒

殖産工業と産品の販売戦略でした。
そのため、民政や商業に関する技術は向上しつづけました。資本主義に関しては、江戸時代の日本は欧米と遜色ありませんでした。一部では欧米の先を言っていた分野もあります。
現在の国際関係と似ていますよね。現在の戦いは工業や商業ですからね。

やっぱり実際に必要なものしか発展しないと言うことなのでしょうね。



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軍学とは 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月14日(金)14時57分00秒

おそらく「大戦略」や「信長の野望」といったシュミレーションゲームのようなものと考えれば良いでしょう。

軍隊を、限定された条件だけで決まるものと想定して、その条件をどうやって高めるか、あるいは限定された国力(信長の野望で言う石高とか商業価値とか)の中で最大の兵力を作るための、軍団編成とかを考える。

そして戦いも兵隊の数や限定された要素(訓練度とか武器の装備)によって損害が決定するとして、シュミレーションして勝った負けたをする。

軍学者と言うのはシュミレーションゲームの攻略本を書いている人のようなものでしょう。

ただし、シュミレーションゲームでは、新しい武器が発明されることは無視されていますし、マップの外から敵が来ると言うことも無視されています。地方ごとの民情も無視されていますし、国力と言うのはシュミレーションゲームのように金をいくらかけたからすぐに上がると言うものでもありません。それにシュミレーションゲームでは家臣の個性も無視されています。スタッフが生み出す力も無視されています。

信長の野望のチャンピオンが軍隊を指揮してもおそらく戦いに勝てないでしょう。そう言うことだと思います。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 6月14日(金)11時53分01秒

中国は、歩兵と戦車ですよね。中国に戈という、独特(私が知らないだけかも・・。)な武器がありますが、あれは、戦車戦に都合が良かったのでしょうね。趙の武霊王も、胡服騎射では苦労しているようですね。大平原だから、戦車が発達したのだろうと思っています。日本刀も、そりが出てくると言うことは、騎馬同士の戦闘が多くなったためだろうと思っています。欧米の戦闘機の空中戦で、一撃離脱という戦法がありましたが、これなども、重騎士の戦法があったからだと思います。日本の戦闘機は、巴戦を基本としていましたが、あんなヨーロッパの騎士のような重い甲冑じゃ、組討なんて出来ないでしょう。一回ついて、さっと引き上げるという戦法しかなかったように思います。



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なかなか2位になれない 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月13日(木)22時09分50秒

もうあと一歩だったのになあ。「Wカップにみんながかまけている間にスワローズが首位」作戦はもう一度やり直しです(笑)

江戸も後半になってくると、生活に困った旗本が御家人株を商人に売ってしまうようになります。そして町人が養子と言う形で武士になり始めます。裕福な町人は才覚のない息子(笑)を定収入のある武士にしてやることが多かったそうです。勝海舟の祖父がそうですよね。勝海舟の祖父は盲人で、金貸し業を営んでいました。幕府は盲人を保護していて、高利貸しを許可していました。そして息子に御家人株を買ってやります。(と言うことは、盲人ではない盲人の子女には高利貸しは許可されていなかったのでしょうか?)

町人から武士になった人の中には、武士以上に武士らしくあろうと頑張った人もいますが、大方はできぞこないの武士で、評判は悪かったそうです。



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kitunoさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月13日(木)21時45分25秒

の聖徳太子について調べられている内容は本格的なのでとても参考になっています。

「聖徳太子の軌跡3」は日本語になっていない部分を滑らかにすれば完成なのですがつい飲んでしまってなかなか推敲に入れないでいます、自爆^^;;



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日本 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月13日(木)21時44分16秒

の戦争形態は古代においては集団戦法であったようです。
例えば平将門の頃は一騎当千の強者達による戦いというよりは歩兵による集団戦法のほうがまだ優勢だったらしいと言われています。
尤も将門達は指揮官として馬に乗っていました。

これが源平の頃になると一騎当千の強者達の戦いが完全に主役になります。
そして戦国時代になってまた集団戦法へと変化していきます。

安部さんの説はなかなかグッドだと感じましたよ(^o^)
安部さん説に付け加えるとしたらやはり異民族間戦争ではなかったためと思われます。
異民族間戦争の場合は「土地」の所有こそが目的であり、勝った場合はその住民そのものを追い出して自分たちが使う(色々な意味で)意味合いが強かったと思います。
ところが日本の場合は支配者間の戦争という意味合いがより強く出ているためだと思われます。

中国などでは古代からずっと歩兵中心の集団戦法が主だったようですがこれは日本の場合とはかなり違っていますよね。

中国の青龍刀やヨーロッパの剣は日本刀と比べると機能性に劣るような気がします。
切れ味勝負というよりは叩き潰すといったイメージに近いものがあります。
太田さんの言われるように重騎士の装備が甲冑だけで60キログラムもあるのでは重すぎてとても馬には乗れませんね^^;;



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由井正雪 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月13日(木)21時42分44秒

が町人だとすると「軍学」のような武士の専売特許の分野に町人が参入しても大丈夫だったという事になりますからもっと特筆されていいように思いました。
これは身分制度の意識が元禄時代の始まる前にすでにある程度ファジーになっていた為からなのでしょうか??
それとも逆に私たちが思っているような固定化した身分制度のイメージは江戸時代が250年も続いたからこそであり、まだこの時代は身分制度固定化への過度期に当たるのでしょうか??

いずれにしても乱の首謀者として歴史に名を留めている人物の身分が士農工商の武士階級以外の出身者なのはこの人はよほどの才能があったのだろうと思います。
尤も家光の頃は容赦なく大名家を取り潰していましたから禄を離れた大量の浪人が大都市の江戸に流入したものと思われます。
パックス・徳川を達成出来たのは家康だけではなく秀忠、家光がことごとく主に外様大名を潰した結果だと思います。
確かに浪人が増えた事により社会の不安要因が増大しましたが禄を離れてばらばらになった武士は幕府にとってさほど怖いものではなかったのでしょう。
家光が死んでから200年間も江戸幕府が続いたのは、この時点までに徳川幕府に対抗出来る勢力を潰したからに他ならないと思っています。

由井正雪は駿河国の農業兼染め物屋に生まれたようですね。
江戸に出てきて太平記読みになって、更には楠木正成の子孫と称したようです。
勿論、楠木流軍学を極めた事になっているのだと思います。
紀州の徳川なんとか??(紀頼??)黒幕説は本当なのでしょうか??^^;;
それにしても門人5000人とか2000人とか言われていますちょっと信じられないスケールです。

輔住さん、太田さん、安部さんの言われるように江戸時代の軍学は太平の時代の学問だったので机上の空論だったのだろうと思います。
これは実戦がないのですから仕方がないような気がします。
本当に必要な場合は空論にはなりませんよね。



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宣伝^^ 投稿者:kituno  投稿日: 6月13日(木)17時02分18秒

本日「聖徳太子の遺跡と霊場」を更新しました。
昨年秋、思い立って「難波の聖徳太子霊場巡り」をしてきた時の報告です。

聖徳太子に関わる遺跡に建てられたお寺が多く、その由緒沿革を調べていると『日本書紀』などではわからなかったことが見えたり、特に叡福寺は太子信仰を知る上でもとても重要です。
どうして超人伝説が生まれたのかについて、もう少し詳しく追及できそうです。
(このことについてはただいま文書作成中!)
また、難波の霊場は、渡来人の聖徳太子との関わりを推察させてくれます。
随時更新予定です。

聖徳太子についてもっと知りたい方は必読!(大袈裟な言い方^^;;)
知りたくない方は、kitunoの撮った写真だけでも見てね^^;

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/



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騎士 投稿者:太田守人  投稿日: 6月13日(木)12時47分24秒

ヨーロッパの騎士は、最後の方は、甲冑だけで60kgくらい有ったと聞きました。そのため、落馬したら、クレーンで吊り上げればならなかったとも聞きました。ヨーロッパでは、身分の高い騎士は、身代金が高かったとかいいますが。
日本陸軍が、明治に騎兵を作った時に、ヨーロッパの重騎兵は、その維持費や体力で維持が困難で、軽騎兵のみの騎兵隊を作ったといいますが。



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あと思うのですが 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月13日(木)12時29分37秒

昔の剣や槍を操って戦っていた時代ならば、今のオリンピック選手並みの体力があれば鬼神のごとき戦いをすることも可能ではないでしょうか?アキレスのような伝説に出てくるような超強力な戦士と言うのは、本当にいたような気がします。



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戦いというのは 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月13日(木)11時49分00秒

生死がかかっていますから、どうしたって物量に裏打ちされたリアリズムの戦いにならざるを得ない。もちろん時代によって必要な兵種とか戦法は変わってくるのでしょうが、その時代なりに揃えられるだけのものは揃えた戦っていたのでしょう。

リアリズムを無視した、優雅な戦いと言うのは多分江戸時代の軍学者と、帝国陸軍と海軍の参謀の頭の中にしかなかったといえるでしょう。



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一騎討ちも物量のうち? 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月13日(木)11時38分56秒

「アラブが見た十字軍」に、あのヨーロッパの鉄で出来た甲冑に身を固めた騎士のどこが強かったのかを書いてありました。

やっぱりあれだけの甲冑を着けると身動きが出来なくなるそうです。しかし、刺しても突いても全然ダメージが与えられないということです。ですから、騎士と言うのは、相手に攻撃をされてもずんずん進んでいって、相手が疲れたところを攻撃する、という戦法をとっていて、これがかなり強かったということです。

つまり重戦車なんです。

そうしてみると、源平合戦の頃の日本の騎馬武者と言うのも、もしかしたら違った風に見えて来るのかもしれません。

私達は騎馬武者がまったく機能的ではなくて、優雅な戦いをしていたと考えていますが、あれは彼らなりのリアリズムに裏打ちされた戦い方なのかもしれません。つまり、あの時代は武器がものすごく高価でした。矢も一本一本が工芸品と言って良く、無闇には打てませんでした。西洋の合戦でも、長弓と言うのは戦いの最初に機先を制するためにに三発打つだけなのですが、それは矢が高くて大量に買えないからです。刀ももちろん工芸品。鎧も工芸品。となると、強力なフル装備が出来る戦士と言うのは、一つの村でやっと1人維持できるか出来ないかと言うことになります。そして、ヨーロッパの騎士で見たように、フル装備の戦士と言うのは、足軽とか鉄砲隊などによる集団戦法が編み出されるまでは「一騎当千」でした。ですから必然的に騎馬武者がメインの戦いになる。

少し時代が遡りますが、ホメロスのイリアス(トロア戦争の叙事詩)では、戦いをしたあと両陣営から戦士が出てきて、死者の鎧や剣を拾いに行くシーンが必ず出てきます。これは武器と言うのがいかに貴重であったのかを証明するシーンです。

これは丁度一台の戦車や戦闘機を維持するために大勢の整備員が揃えられているのに似た状態といえるでしょう。騎馬武者の周りにいる雑兵というのは、騎馬武者の鎧刀、弓矢を揃えて、騎馬武者が刀を要求したらそれをすぐにわたして、弓を要求したらそれをそろえる。これは戦車に弾を込めるのに似ているでしょう。近代軍どうしの会戦において、戦車や戦闘機を失った歩兵は無力です。ですから、近代戦では戦闘機や戦車を攻撃します。残った歩兵は無力なので、それは攻撃するまでもないと言う考えです。一騎討ちもそれと同じ考えなのではないでしょうか。

従って、一騎討ちは優雅な戦いではなく、彼らなりのリアリズムに裏打ちされた物量の戦いであったのです。

そうかんがえるとモンゴルの戦法がいかに衝撃的であったかも浮かび上がってきます。モンゴル軍は計装備の騎兵だけで出来た軍隊を使い、長弓ではなく短弓で戦いました。短弓というのは長弓ほど射程距離はありませんが、近くから打てば、かなり強力です。それにモンゴル軍の矢は羊の骨で出来ていたはずですから、安上がりに大量に作られたでしょう。軽装備の軍隊を大量に集中的に使用することによって、重装備の軍隊を撃破できると言うことが、その後のヨーロッパと日本の戦いに革命を起こしたと考えられます。その後はヨーロッパでも日本でも足軽のような兵種が主流になっていきます。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 6月13日(木)08時31分46秒

軍学って、時代小説のようなものですかね。明治になって、西洋の兵法が多く信奉されたのは、日本に机上の空論の軍学が蔓延り、実際の戦争をしてみたら、全然役に立たなかった。そこで、孫子や六韜三略という、従来の中国の兵法も山師的なものだと思われたのかもしれません。徳川幕府にすれば、実用的な兵法より、観念的な軍学の方が、よっぽど安全だったでしょうし。



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建前だけじゃ勝てない? 投稿者:輔住  投稿日: 6月13日(木)06時22分31秒

>明治になって廃れた理由はピンぼけだったからなのかなと思ったりしています。
私もそう思います。
江戸時代が進むにつれ、机上の空論となっていったイメージもありますし...。
戦国時代の朝倉孝景の「戦争は犬畜生と呼ばれても勝たなきゃならない」という方が
役立つかも!



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由比小雪 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月13日(木)00時54分45秒

ただの町人で武家の生まれではなかったと言う説もありますね。



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よく分からない軍学について^^;; 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月12日(水)21時54分47秒

輔住さん、太田さん

軍学とは兵学とも言うようですね。
ちょっと調べてみたところ、狭義には日本の近代以前の用兵理論で中世より中国軍学の強い影響のもとで仏教・道教など雑多な要素を取り入れて形成されたとありました。
要するに「孫子」に代表されるような内容の事なのだろうと思いますが江戸時代の軍学はひょっとしたら特殊なものだったのでしょうか??
明治になって廃れた理由はピンぼけだったからなのかなと思ったりしています。

確かに宮本武蔵のような武芸者を兵法者と言いますが広辞苑によると両方とも兵法と言うようですね。
ちなみに私の軍学者のイメージは由井正雪あたりです、笑

由井正雪と松平伊豆をライバルとして描いた話があったと思いますが事実はどうなのか知っていますか??
由井正雪は浪人だったはずですから、関ヶ原で取り潰された何処かの大名の家臣に繋がる人物なのかもしれないですね。
それとも秀忠、家光の時代に取り潰された大名家の関係者なのでしょうか??



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今日は 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月12日(水)21時53分14秒

本当に久し振りに帰りに本屋に寄って来ました。
以前、安部さんに「サピオ」を読んでますか?と聞かれた事を思い出して初めてサピオを購入してきました。
ちなみに400円です。

本屋で仕入れてきたネタなのですが、何と靖国神社を訴えているグループがあるそうですよ。
いくら何でも神社を訴えるというのは常識を逸した行為だと思いました。

ついでにワールドカップ出場国の国歌の翻訳を見て来たところほとんど「軍歌」ばかりだなと改めて痛感しました^^;;
これでは日本国歌をワールドスタンダードに変えようとする人達は軍歌復活を狙っているのかなと言われても仕方がないような気がします(;^_^A)
編集済



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中里 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 6月12日(水)15時11分32秒

って、あちこちにあるんですね。
宮城県の石巻にも古川にも「中里」という行政区あります。
いずれも市の中央に近いところで、共通の意味がありそう。

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/index.htm



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日立市 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月12日(水)00時35分51秒

と常陸太田市との合併話は聞いたことがありません。
もし常陸太田との合併話があったとしても日立市側から拒否されるのではないでしょうか、笑

太田市と日立市の関係を例えるならばスケールや知名度は共に劣りますが、平城京と難波の宮のようなものでしょうか??^^;;
海にちょうど良い距離にある太田市は四方に街道が延びています。
物流の集積場所として昔は栄えていたのですが現代では日立市に大きく水を開けられています。
この点などもよく似ていると思っています(^o^)
編集済



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中里村 投稿者:太田守人  投稿日: 6月11日(火)16時22分01秒

茨城の中里村は、昭和30年ごろに合併されているんですか。じゃ、別の中里村かもしれませんね。

きんたろうさん、軍学というのは、個人の兵法に対するものだったのではないでしょうか?軍学は、軍隊を動かし勝つためのもの。兵法は、個人の身を守るもの。私は、そう解釈していますが。



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中里村 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月11日(火)13時17分50秒

日本中にいくらでもありそうです。多分その中のどこかではないかと。

ちなみに茨城の中里村は昭和30年ごろに日立市に合併されています。

常陸太田市と日立市はいずれ合併するのでしょうか?



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中里村 投稿者:太田守人  投稿日: 6月11日(火)08時38分35秒

ってなにかで聞いたことがあります。どこにあるのか、皆目見当もつきませんが。アメリカ海軍の40cm砲は50口径で、日本海軍の45口径砲より砲身が長いのが特徴でした。砲身が長いと、射程が長くなる、貫通力が大きい等いいことも有りますが、冶金技術に優れてないと、砲身の寿命が短い、暴発しやすい等の欠点があり、日本は、冶金技術でアメリカにかなわなかったようで、アメリカの艦砲は、砲身がダメになる、砲身命数が1,500発とかいう数字で、列強海軍の倍から2.5倍くらいあったそうです。あこには、ユナイッテド・スチールという会社がありますから。
戦艦大和の46cm45口径砲で、射程は42kmですが、このアメリカの戦時中の戦艦の標準主砲の40cm50口径砲は、射程40kmでした。戦後、アメリカが大和級3番艦信濃(途中で空母に改装)の主砲塔の46cmの厚さの装甲板を、この40cm50口径砲で撃ったところ、真っ二つ割れたそうです。
沖縄の大和特攻時に、大和はアメリカ空母艦隊の袋叩きで沈没しますが、始め、アメリカ太平洋艦隊司令長官の二ミッツ大将は、「日本最後の艦隊に、完勝できる、空母艦隊をぶつけるのは失礼だ。こっちも戦艦で迎撃すべきである。」として、リー中将の指揮する高速戦艦艦隊に迎撃命令を出しますが、空母艦隊司令長官のマーク・ミッチャー中将の出動要請を初めは退けていましたが、最後は根負けし、「リー艦隊の航空支援を行え。」と命令しますが、ミッチャー提督は、これを拡大解釈し、最大の航空支援は大和を撃沈することだ。とばかりに、攻撃をします。
ただ、もしアメリカ最新鋭の戦艦アイオワ級4隻の内の1隻と大和が、1対1で打ち合ったら、多分レーダーに優れたアメリカの勝ちだったでしょう。



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わたしもよくわかりませんが 投稿者:輔住  投稿日: 6月11日(火)06時52分42秒

きんたろうさん
>軍学とはどのようなものなのでしょうか??
>はっきり言って名前だけしか知りません。

私もよくわかりません。
日本では江戸時代にはやりましたよね。
「甲陽軍監」などとかが、
江戸時代は初期と末期を除けばほとんど戦争がありませんでした。
でも「武士」は戦争ができないでは話になりませんから
軍学が流行ったのでしょう。

鎌倉・室町・戦国時代は「学問」としてより「実施」しなければ
いけない時がありましたから。だから江戸より前は
戦争のことを勉強しても「学問」というより「生活必需」という
感覚でしょうし。



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でもお土産として売りに出されたと言うことは 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月10日(月)22時58分47秒

それ以前にもそれなりに名産品だったと言うことになりますね。それについては私は知らないです。



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日本人の質問で 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月10日(月)22時46分39秒

水戸納豆が有名になったのは、戦前に水戸駅がお土産として納豆を大々的に売り出したからだと言っていました。でもお土産の水戸納豆はあまり美味しくない気がする。私はオカメ納豆と旭食品の納豆が好みです。

和歌山出身の友人のうちで納豆料理を作って危うく絶交されかけたことがありました。後で調べてみたら和歌山県は日本一納豆の消費量が少ない県でした(笑)

勝田には電車基地がありますから、そこが攻撃されたのでしょう。平には常磐炭田がありましたから、こちらももちろん攻撃されたでしょう。



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中里村 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月10日(月)22時33分17秒

に届くというのは山を越えていくわけですからものすごいです!!

勝田付近の線路も壊されたと思います。
線路を壊すのは効果的な戦法ですよね。

あれ??いわきだったかな??



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納豆 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月10日(月)22時27分24秒

と水戸の関係についてはよく分かりませんので調べておきますね^^;;

東北攻略の兵站地は常陸太田付近だった??のでこの辺りで義家は軍事演習を行ったものと思います。
当然の事ながらこの付近に長期滞在したはずですから納豆との関係もその時に出来たものかも知れませんね。
多分関東以北では日常的に納豆を食べていたのではないでしょうか??
その中でも水戸納豆が有名になったのは時代が下がってからのような気がするのですが...??
はっきり言って全然分からないです、笑

輔住さん
軍学とはどのようなものなのでしょうか??
はっきり言って名前だけしか知りません。
それにしても竹中半兵衛あたりが高く評価されていれば普遍性を感じられたかもしれないのですが...^^;;



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艦砲射撃 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月10日(月)22時26分19秒

艦砲射撃の弾は中里村まで飛んでいます。すごいですよね(どれだけすごいかは…きんたろうさんしか分からないか)。
日立市は製作所の軍需工場が海岸に並んでいましたので(何たる無防備!)徹底的にやられました。私のうちの近くには防空壕がたくさん残っています。子供の頃は良く秘密基地にして遊びました。



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