過去ログ165(2002年〜7月12日)


たぶんこんな所でしょう 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月12日(金)14時16分17秒

あの俳優が元不良であったのは間違いないでしょう。芸能界なんてツッパリとスケバンの集合体なんですから。

で元不良仲間が「もとは俺らと同じ穴のムジナのくせして1人だけいい目見やがって、いっちょ締めたる」と、と警察に垂れ込んだら、天下の大阪府警は
「そういえばあいつは2,3年前までワルやった、あいつならそれくらいのことやりかねんな、よっしゃ逮捕や!」とまあろくに調べもせずに逮捕。

私が何も言わなかったのはウルトラマンには何の興味もなかったからなだけですが。



--------------------------------------------------------------------------------
綏靖天皇 投稿者:太田守人  投稿日: 7月12日(金)14時13分25秒

私は、綏靖天皇が兄を殺し即位していますので、神武王朝は一代限りの短期政権だったと考えています。綏靖天皇は、ニギハヤヒ系の天皇だったと思っています。
万世一系も安部さんのおしゃるように、日本人の紐帯を強めるためだったかもしれません。



--------------------------------------------------------------------------------
いやみな一言 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月12日(金)13時49分28秒

ウルトラマンが復帰しましたね。

みなさんが大騒ぎしていた時になにも言わなくて良かった。

だからマスコミは信用できないのですよ、それと大阪府警。



--------------------------------------------------------------------------------
フィクションの効用―2 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月12日(金)13時34分08秒

 白江村の戦いで負けて、日本が危機に陥ったときに、もう一度日本人としての紐帯を思い出すために作られたのが記紀神話であると思います。
 律令制度が作られて、日本人はある意味日本人であることをやめてしまいます。それまでは豪族も天皇家と同じような血縁原則で家督を譲ったり、自分の神を祀っていたはずなのですが、それを薄めて、実力者に家督を譲る、そんなに祭祀にはこだわらないようにして、律令制度のもとでの有能な官僚、あるいは労働者として生きる道を選びました。よく日本人は自分の生きる姿勢をすぐに変えてしまう、その点が「機能的だ」とか「いや節操がない」と言われますが、イザヤ・ベン・ダサンが言ったように、ユダヤ人は一人一人がモーセとかエリヤといった預言者並の節義を求められているのに対して、日本人は純日本人であることは全て天皇家に任せてしまっているので、残りの人間は好きなように生きることができるではないでしょうか?やはり記紀神話には、現在にまで続く日本人の思想が込められていたのです。

 記紀神話を探っているとどうしても袋小路に入ってしまうのは、記紀神話が真実のつぎはぎで日本人思想とでも言うべき物を述べているからで、全ての材料はこの思想を述べるために配置されているので、真実を知るためには肝腎なことが隠されているからです。記紀神話が伝えようとしたのは歴史ではなく、日本人思想をテーマにして再編集された日本の歴史です。

 
これ「尊皇思想の研究」のエピローグにしようかな。



--------------------------------------------------------------------------------
フィクションの効用―1 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月12日(金)13時33分38秒

 以前に物語は、大きな嘘をつくために、小さな真実を積み重ねて作ると書きました。
 「旧約聖書」は、エジプトの貧民と、シナイ半島の遊民が合体してできたことを隠すために作られました。「旧約聖書」に書かれていることは、特異な表現を除くと、モーセ以降はほぼ真実を述べていて、モーセ以前もユダヤ人ではありませんが、中東のいろんな民族の伝承を正しく伝えているそうです。
 モーセの部分だけは真実を伝えていない。それが「旧約聖書」の核心であるからです。私は「旧約聖書」はモーセの部分で嘘をつくために、作ったのだと思います。「嘘」というのに語弊があるのならば、人間をまとめるために必要な「虚構」であるといっても良いでしょう。ユダヤ人は民族をまとめるために「GOD」という仕組みを考え出したのです。

 では記紀神話が隠している嘘とは何でしょうか?私は「万世一系」であると思います。これは納得してくれる人も多いでしょう。
 天皇家の万世一系と、豪族の祖先も天皇家であるという虚構を日本人は「日本」という国をまとめる仕組みとして採用したのでしょう。これは現在も続いています。
 どういうことかというと、他人同士が集団を作るときに、日本人は組織に「家族的」であることを求めます。組織の長に父親的、あるいは母親的な役目を求めたり、組織内で家族のような扶助を求める。擬似的な血縁関係を結んで、人間集団をまとめていく。これを古代日本人は採用して、それを宣言したのが記紀神話であったのではないでしょうか?
 もう一つ嘘をついているのは、記紀神話には戦争の神話がほとんどないことです。普通神話には戦記物がいっぱいあるはずなのですが、日本の神話には珍しいことにありません。しかし考古学的成果を見るに、古代日本では熾烈な戦いが続いていました。縄文人が住んでいた日本列島に、中国から、朝鮮半島からボートピープルが流れてきて、戦いを続けていました。なのになぜそれが書かれていないのでしょう?
 これは現在まで続く私たちの人間集団をまとめるための知恵が、この倭国大乱の中から生まれたからだと思います。
 まず対立を一時的に「水に流して」棚上げする、その上で擬似的な血縁関係のもとで仲良くなる。倭国大乱も終わり頃になると、縄文土器と弥生式土器が一緒にでてきたり、縄文人の石器を使って水田農業をする人々がでてきたりと、縄文人と帰化人の融合が見られるます。
 記紀神話を見ると罪の追求に不徹底で、明らかに殺された大国主を「黄泉に隠れた」と隠すなど対立を隠す視点が見られます。元々水に罪を流すとか、血縁関係で集団を律するという智恵を縄文人が持っていて、それを帰化人も採用するようになったのだと思います。
 古代の天皇家は少なくとも神武王朝、崇神王朝、応神王朝の3つに分けることができます。これらは全く別の王朝でしょう。細かく見ていくと、応神王朝の中でも応神から雄略に続く系統と顕宗から武烈につながる系統は別王朝とみられないこともありません。崇神王朝も、ヤマトタケルの系統を別系統として持っているみたいです。継体天皇は明らかに新しい王朝を立てています。継体天皇と応神王朝が親戚であるというのは「東北の戦国大名がみんな親戚」と同じ次元での「親戚」でしかありません。いえ、それよりも薄いでしょう。
 そして古事記では神話上の大王の事跡を延々と述べたあとで「この○○大王は××氏の祖先でした」と書きますが、はじめの真実はこの最後の一行の嘘をつくために書かれているのです。



--------------------------------------------------------------------------------
元伊勢神宮 投稿者:太田守人  投稿日: 7月12日(金)13時15分54秒

大江山の麓に、元伊勢神宮があります。ここも、内宮は天照、外宮は月読命だそうです。邪馬台国東遷説の私は、この元伊勢神宮がなんでこんなとこにあるのか、説明できずにいます。
丹後から若狭にかけては、出雲の影響がすくないように思います。石川県の加賀地方になると、また,四隅突出型古墳があったりしますが。この、元伊勢神宮がなんで、丹後のしかも鬼で名高い、大江山の麓にあるのか、ご存知の方は教えてください。



--------------------------------------------------------------------------------
この季節は 投稿者:きんたろう  投稿日: 7月12日(金)04時02分43秒

4時頃になると空がもう明るいです。



--------------------------------------------------------------------------------
那珂川・久慈川 投稿者:kituno  投稿日: 7月11日(木)22時41分51秒

危険水位を超えるほど増水していて、とても心配しました。
台風6号のあと、また7号も近づいているようですね。

きんたろうさん、
私が留守中、トピックの書き込みをありがとうございました。
私も少しずつ復帰していますので、また遊びに来てくださいね。^^



--------------------------------------------------------------------------------
北条政子もそうですね 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月11日(木)14時55分54秒

まあ,私は政子の裏には弟の義時がいて,政子の行動の殆んどは彼が考えたことだと考えているのですが,でも義時が表に出ていたら鎌倉幕府は分裂して決してあのようには危機を乗り切れなかったと思います。

日野富子は・・・でも母親が自分の息子に家督を継がせようとするは当然であって,それを内乱にしてしまったのは旦那や守護が悪いのであって,富子に罪を着せるのは江戸時代の儒者連中の女性蔑視でしょう。それに富子が生きている間は,彼女の財力で足利幕府は維持できましたし,富子の死後も彼女が残した財産のおかげで,足利幕府は20年くらいは持ちました。その後はぼろぼろ。

かといって女性が政治をにげれば万事解決という話にはならんでしょうが。



--------------------------------------------------------------------------------
訂正 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月11日(木)14時43分26秒

最低→裁定



--------------------------------------------------------------------------------
神話には 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月11日(木)14時42分23秒

父を殺す神話はあっても,母を殺す神話はないんですよね。

母神に象徴される性格と言うのは,人間が人間である限り常に伝えていかなければならない考え方とか技術とかを象徴していて,

父神に象徴されるものは,時代時代によって作り直したり,しなければいけないものであるのかもしれません。それが「父神を殺す」と言う神話になるのかもしれません。

日本は3世紀末か4世紀ごろに何か変化があって,大和朝廷ができたしいですが,そのときに今までの文化を消すわけではない,継承するのだ,と言う意味で母神が出来たのかもしれません。

日本の古代は,何らかの変化が起こるときは男性大王(天皇)が立って,それを維持あるいは世の中にあうようにアレンジする時には女性の大王(天皇)が立っていますが,これは我々の祖先の知恵なのかもしれません。

摂関政治においても,天皇に嫁いだ藤原氏の姫君たちは,国母と呼ばれて敬われ,主体的に政治に口を出していたそうです。道長の長女で,頼道のお姉さんである,彰子などは,まさにゴッドマザーで道長の死後は藤原氏の真の当主であったそうです。めったなことでは表に出てこないのですが,いざ彰子が最低を下すと,藤原氏の面々はそれには必ず従ったそうです。道長のお姉さんの詮子もそうでした。



--------------------------------------------------------------------------------
以前ロトさんとお話した時 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月11日(木)14時23分28秒

神功皇后の話題が出ました。

この人(神?)は,結婚するまでが息長足姫(おきながのたらしひめ)で,結婚して応神天皇を産むときは神功皇后です。

息長足姫は播磨,丹後,但馬などの今の兵庫県や京都府北部の神様です。父方の祖先が新羅から流れてきた冶金の神様である,天日矛(あめのひぼこ)で,母方の祖先が地元の神様です。農業や機織の神様のようです(ここの所ちょっと記憶があいまい).

神功皇后は北九州と河内の神様で,明らかに朝鮮半島の帰化人(渡来人)の息がかかった神様です。太陽神の性格を持っています。

この二柱の神様は元々は別の神様で,どこかで合体したのではないか?と言う議論でした。
ロトさんによると,はっきりと別の神様であると言うには,まだちょっと証拠が足りないとのことです。

息長足姫が,継体天皇にとっての祖先神の一つであることは間違いないと思います。また,アマテラスの母体の一つと言われる奈良や伊賀の山中を彷徨する女神(名前忘れた)と共通した性格が多いそうです。

神功皇后の方は,5世紀に朝鮮半島に積極的に介入し,大陸とも密接な関係を持って,河内に巨大な古墳を作った応神王朝の祖先神の一つでしょう。一年半の妊娠期間の話は,仲哀と応神に血縁がないことを隠す神話であることは明白だと思います。

私の意見としては,古代から日本各地にいろいろな女神がいるのは確かだけれども,伊勢にいるアマテラスは,後世になって作られた新しい神様である,です。「古事記」や「日本書紀」が作られた時に神統譜が編集しなおされたわけですが,その時に新しく作られた神様であろうと思います。

しかしアマテラスの母体になる神はそれこそ日本中にいます。当然と言えば当然なのかもしれませんが,その神々はみな,父性を持った人間界を支配する王を生む母,あるいは育ての親(オバ神)です。これは世界中にある大地母神と同じだと思います。

ここからは想像が混じってきますが,元々世界に母神を崇拝する母系社会があって,それが何らかの理由で父性社会になった。その継承が,人間界を支配する王を生む母なる神と言う形で残っているのではないでしょうか?

日本と言うのは2〜3世紀は女王によって治められていたらしいですから,その時の母系社会の名残が,神功皇后や息長足や木花咲くや姫などに残っていて,そこに何らかの理由で男性の王が支配する時代がきて,王を生む母と言う形の神話になったのではないでしょうか?


こう考えると,出雲というのは特異かも知れないですね.出雲は最初から男性神が治めている国です。男性の王が支配者である大和朝廷というのは出雲の分家かもしれません。その出雲の分家が母系社会を支配する過程で様々な神話が作られた?



--------------------------------------------------------------------------------
久慈川 投稿者:きんたろう  投稿日: 7月11日(木)13時44分20秒

は古い方の橋は通行止めになっていました。
新しくできた橋の方へ迂回措置が取られていました。



--------------------------------------------------------------------------------
那珂川は 投稿者:きんたろう  投稿日: 7月11日(木)13時41分37秒

危険水位を超えてしまいました。
今見てきたところですが、流れの速い見渡す限りの泥水という感じです。
堤防が大体出来てきたのでそれほど被害は無いと思いますが、地域によっては避難勧告が出されたようです。



--------------------------------------------------------------------------------
神功皇后 投稿者:太田守人  投稿日: 7月11日(木)12時45分09秒

>応神天皇の母親が架空の人物とは変な感じを受けるからです。

これは、仲哀の息子だったらそうですよね。しかし、日本書紀の一書に曰くの、敦賀の気比大神との名前の交換が、本当だとしたら、親子関係は成立しないと思います。
私は、日本書紀のこの記述を始めてみて、驚いたと同時に、日本書紀は、巷間に言われているほど、改竄されていないのではないかと思いました。特に、一書に曰くは、伝承のブレもありましょうが、真実を書くのをためらわれる事項にも、もちいられたのではないでしょうか?
この、応神の一書に曰くは、最後に今は詳らかでないと書いてあります。詳らかでないものを、どうして入れたのか?詳らかでなければ、記述の必要はないと思います。そこで、この一書に曰くが、当時の伝承であったが、それを書くと非常にまずいということで、詳らかでないになったのではないかと思います。
神功皇后と応神が親子関係であれば、それは、気比大神と名前を交換した前のホムタワケとは、親子関係はあったと思いますが、交換後のホムタワケは、赤の他人となるわけです。仲哀の皇后で前のホムタワケの母が、このような巴御前そこのけの女傑だったかも知れませんがね。



--------------------------------------------------------------------------------
台風いかがでした。 投稿者:太田守人  投稿日: 7月11日(木)09時56分03秒

きんたろうさん、台風いかがでした?朝のニュースで、水戸方面の川が増水してるとか言っていましたが。石川県も能登の門前・富来方面で土砂崩れがあったそうです。



--------------------------------------------------------------------------------
きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 7月11日(木)08時32分13秒

歴史クイズですが、佐竹とか黄門様がどこに隠居したかなんてのは、ちんぷんかんぷんでした。
私は、倭は朝鮮半島に軍事介入していたと思います。天皇家の故地であったかどうかは兎も角、出雲とは非常に関係は深かったと思っています。古代日本が、朝鮮への介入をあきらめたのは、白村江の敗戦だったと思っています。軍事的には、第2位の軍事大国が倭だったと思っています。
ただ、三国史記に言う倭人の侵攻の内、大部分は九州の勢力だった可能性もあると思います。矢張り、大和から遠征すると、費用や人員、時間もそれなりに掛かると思いますので。
朝鮮人は、日本の創氏改名を悪く言いますが、古代朝鮮にあっては、今のような、中国風の一字姓でなかったと思います。記紀等をみると、日本的な姓名が多かったように思います。ということは、いつの時代にか、日本と同じことをした、王なり支配者がいた8私は、統一新羅かなと思っていますが。)ということで、このような暴挙(その国の文化を無視したと思っています。)をした、日本政府を弁護する気はありませんが、この中国風の一字姓にした、朝鮮の当時の政府も批判されるべきだと思います。その上で、日本のしたことを批判するのであれば、大変フェアーだと思いますが、今の韓国あたりはそうではありません。私は、これなども日本人蔑視の産物だと思っています。



--------------------------------------------------------------------------------
太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 7月10日(水)22時54分27秒

歴史クイズをやっていただけましたか??(^o^)
84点ですか!!^^;;

神功皇后が架空という説は私にとってはちょっと奇異な感じを受けてしまうものです。
というのは応神天皇の母親が架空の人物とは変な感じを受けるからです。
勿論日本書紀は「伝承」を集めた物ですから誤差も多いとは思いますが、それにしても無から有を生み出すとは不自然だと思うのです。
でも古代史の説は色々あって面白いと考えています。

応神天皇といえば八幡様ですよね。
ひょっとしたら全国で一番祭られている神様は八幡様ではないでしょうか??

よく当時の倭国が新羅を攻める国力を持っていた筈がないという説を聞きますが、これは実は単なる思いこみなのではないのかなと思っています。
中国大陸に近いから朝鮮半島の方が文化水準が高い、当時の文化は軍事力が密接に関係している、よって朝鮮半島の方が倭国よりも強い、つまり倭国が朝鮮半島を攻めたのは捏造である。

という論理展開をしているようですが、これについては疑問を持っています。
というのは中国大陸を見ると匈奴は文化的には漢より下でも軍事的にイコールという訳ではなかったからです。
もっとも文化に差をつけるのはあくまで主観によるものですよね。
風習の違いに優劣や上下があるはずがないからです。

古代ローマ帝国を滅ぼしたゲルマンも蛮族と言われましたが結局滅ぼされてしまいました。

朝鮮半島は統一が新羅までありません。
要するに小国ばかりだったわけですから各国同士で抗争をしていた地域であると認識した方が正しいように思っています。

輔住さん
88点ですか!!

このようなクイズ形式だと面白いですよねv(^o^)
自画自賛v(^o^)
編集済



--------------------------------------------------------------------------------
私は88点でした。 投稿者:輔住  投稿日: 7月10日(水)17時40分11秒

結構、難しいですね。



--------------------------------------------------------------------------------
記紀 投稿者:太田守人  投稿日: 7月10日(水)17時23分45秒

私も、古事記は兎も角、日本書紀は良心的な史料だと思っています。一書に曰くは、私個人としては、こっちの方が事実に近いのではと、ヘソ曲がりなことを考えています。日本書紀も、まったく改竄がなかったとは思いませんがね。

戦前、対馬の人たちは、医療等は本土より、釜山に行っていたそうです。本土に来るより、近いし早かったそうです。このように、古代にあっては、朝鮮半島も倭人のテリトリーだったと思います。



--------------------------------------------------------------------------------
歴史クイズ 投稿者:太田守人  投稿日: 7月10日(水)15時34分10秒

歴史クイズ、84点でした。



--------------------------------------------------------------------------------
きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 7月10日(水)08時28分53秒

私は、神功皇后架空説に賛成です。日本書紀読むとまんま魏志倭人伝という箇所がある。神功皇后は、お前ら野蛮人って馬鹿にしてるが、日本は、古いんだぞーということで、挿入された人物だと思います。倭人で、中国でも通用する人物は、卑弥呼しかいなかった、そこで、神功皇后を創作したと思います。ただ、応神の一書に曰くに、敦賀の気比神宮の神様と名前を交換したと言いますが、私は、応神は新王朝の創始者であったと思っています。この前、播磨国風土記を読みましたが、応神の故郷は播磨でないかと思うほど、応神が出てくる。それこそ、佃煮にするほど業績がある。そこで、私は応神(以旧ホムタワケといいます。)下を倒した、敦賀の応神(以下新ホムタワケといいます。)は、新王朝を建てたが、その旧ホムタワケの応援団で、新ホムタワケに対立していた、吉備から播磨にかけての勢力を鎮圧した、しかし、新ホムタワケの治世が宜しきを得ていたため、播磨に佃煮にするほど業績が出来たように思います。
神功皇后のモデルとなった人物は、卑弥呼とこの新ホムタワケの母であったと思います。神功皇后は、新ホムタワケとワンセットで考えるべきであって、新羅を攻めたのではなく、反対に新羅からきた人物であったように思います。



--------------------------------------------------------------------------------
宣伝^^ 投稿者:きんたろう  投稿日: 7月 9日(火)23時53分29秒

ぱんださんに歴史クイズを作ってもらいました。
ウェブ上で動くクイズです。
プログラムを書けるというのはすごいですよね。

是非満点を目指して一度トライして下さいねv(^o^)。
下記のページがぱんださんのHPです。
トップページメニューにリンクをつけましたのでこちらからでもオーケーです。

ちなみに問題は私が作りました^^;;

http://www.bf.wakwak.com/~panda/



--------------------------------------------------------------------------------
日本書紀 投稿者:きんたろう  投稿日: 7月 9日(火)23時48分00秒

には百済や新羅、任那が調を持ってきている、とありますので事実この通りだったのだろうと思っています。
これは一種の冊封体制と言えるのかも知れません。
でも新羅がなかなか持ってこないとか、任那を支配したとか書かれているようにとても客観的な記述だと思います。

新羅が出てくるのは神功皇后の部分からですよね。
ところが、この神功皇后は架空の人物とされてしまっているのです。
架空説でも良いと思うのですがその根拠がどうも弱いと感じています。

私は基本的にいって日本書紀は事実だと思っています。
一書に曰くとあるように説を並記してある点などは「伝承の揺れ」(大三元さんみたいですね^^)の結果をそのまま表記したものだと思っているからです。

北朝鮮の学者が好太王碑文の「トンデモ読み」を発表して日本の学者でも飛びついた人がいたようですが漢文の本家からあっさりと否定されてしまった事はあまり知られていない様な気がします。
古代において朝鮮半島優位説に対して何となくそうかな、と思ってしまいそうですが記録で見る限り正反対ですよね。

朝鮮半島優位説の根拠とは「中国に近いから」というものですがよく考えてみるとそれは根拠としてあまり意味のない事なのかも知れないと思っています。
ただし優位とかどうとかいった感覚は古代の人達のものというよりは現代人特有のものなのかも知れませんよね。

玄界灘を中心とした地中海社会の人にとって関東よりも釜山のほうが距離だけではなく心情的にも近いものを感じていた様な気がします。
事実交易関係はそうだったと思います。
出雲や越と新羅、渤海方面との交易もまた想像以上のものがあったような感じですね。
現代の国境線は古代に生きる人達を縛ってはいなかったのです。



--------------------------------------------------------------------------------
う〜ん。^^; 投稿者:kituno  投稿日: 7月 9日(火)23時18分16秒

天智や天武、白村江など興味津々の話題で盛り上がっていますね。
皆さんのそれぞれのご意見、とても興味深く読ませていただきました。
井沢元彦氏が『逆説の日本史』の中で 述べられていることに私はあまり賛同できないのですが、天武天皇はとても魅力的な人物のように感じています。
また、亡くなってまで天武天皇を独占しようとした持統天皇の想いには、とても強烈なものを感じてしまいます。



--------------------------------------------------------------------------------
鎖国 投稿者:太田守人  投稿日: 7月 9日(火)15時23分23秒

鎖国は、江戸時代が有名ですが、私は、平安時代の遣唐使廃止後の時代も、鎖国時代だったと思っています。鎖国をし、唐からの文化を咀嚼し、消化した時代だと思っています。私は、日本の歴史は、文化的に満腹になると鎖国をし、空気が澱んできたら、開国をするということの繰り返しだったと思っています。



--------------------------------------------------------------------------------
きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 7月 9日(火)13時05分09秒

私は、朝鮮半島南部にも倭人がいたと思っています。出雲は、国引き神話でもそうですが、このあたりの民族と出雲人と同じだったと思います。出雲滅亡の時、亡命というより、あこにいとこの××がいるから、いこうかーぐらいの軽い気持ちだったように思います。



--------------------------------------------------------------------------------
天武 投稿者:太田守人  投稿日: 7月 9日(火)08時50分16秒

歴代天皇で、天武ほど不思議な天皇はいないように思います。記紀の勧進元とされながら、その勧進元の日本書紀では前半世がほとんどわからない。常識的に考えて、パトロンは良く書くものだと思います。しかし、パトロンの前半世が分からないことは、詳しく書きたくなかったのだと思います。天武=漢皇子説があります。高向王と宝皇女の間に出来た子ですが、私は、天武=漢皇子に魅力を感じています。漢皇子も、高向王と宝皇女の間に出来たとしか書いていない。どうでもいい、皇子であれば書かないでしょう。で、この漢皇子はどうでもいい皇子ではなっかったと思います。
大化の改新は、歴史の教科書では、非常に良いことをしたというか、中大兄や鎌足を英雄視していますが、日本書紀を読む限りにおいて、時の天皇皇極は、どうも中大兄や鎌足の行動を事前に知っていなかったようです。いくら謀議は密を持って善しとするとは言え、実の母の天皇にまで黙っているのは、異常な行動だと思います。これは、矢張り、皇極に打ち明けると重大な故障が入ると実行グループが思ったものと考えるのが至当のように思います。
更に、蝦夷・入鹿滅亡後、中大兄は天皇位に即位していません。これも不思議です。すくなくとも、教科書に言うように、君臣もろ手を上げて喜んだほど蘇我氏が横暴なら、最大功労者が天皇になるのに、どこからも反対はなかったと思います。わたしは、蝦夷・入鹿親子滅亡後、彼らの喪に服すことを許したとあるように、蘇我の治世はそう悪いものではなく、中大兄は母を風除けとして使わざるを得なくなったと思います。皇太子の方が、動き易かったという議論も、的を得ていないと思います。古代にあっては、君主の方がよほどオリジナリティを発揮できたと思います。
また、天武は天文・遁甲をよくしたと書いてありますが、天皇が何故このようなものを良くしたとあるのでしょうか?これは、言外に近江朝を乗っ取ったといいたかったと思います。
更に、斉明の葬儀も、葛城山から鬼が除いていたとか書かれています。中国では、鬼は幽霊のことを意味すると言います。これが、もし、入鹿の幽霊だとすればどうでしょう。飛鳥寺の後ろの入鹿の首塚は、このあたりが旱魃になった時、入鹿の祟りとして立てたものだと言います。このあたりでは、将門のように入鹿は、相当長期間民衆の英雄だったように思います。



--------------------------------------------------------------------------------
白村江の後に亡命してきた 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月 9日(火)00時17分03秒

百済の貴族の中には物部・巨勢・科野といった日本の姓を持つ人達も少なくなかったそうです。

彼らは4世紀から5世紀にかけて日本が百済再興を援助した時に渡ってそのまま百済や任那に取り立てられた人達の末裔であるらしい。

渡来人と言っても、一方通行ではなかたったのですね。



--------------------------------------------------------------------------------
光仁天皇 投稿者:きんたろう  投稿日: 7月 9日(火)00時05分55秒

は770年に62歳で皇位に付いているようですね。
当時62歳といったら今の80歳以上の感じですよね。

この時の唐は8代皇帝代宗の時代ですが既に絶頂期は過ぎていました。
天皇が土下座をして使者を迎えたという事は知りませんでしたが、これは遣唐使によって中国冊封体制のスタンダードが良く知られるようになったからではないでしょうか。
実際には日本は唐の冊封体制の外にあったのにもかかわらず、幻惑されてしまったような気がします。

書物だけから想像して朝鮮を理想郷であると勝手に思った人はいると思いますが人口比率から言ったら限りなくゼロに近いと思いますよ。
確かに科挙を合格した科挙が政治を行う国に対して羨ましく思ったに違いありませんね。
でもこのような人は自分が科挙試験に受かるものだと思っている場合が多いと思います。

光圀などは中国にはかぶれていましたが朝鮮にはその様なことはなかったようです。

人の動きはもっとフットワークがあるものだと思います。
輔住さんも言われていますが利害関係や力関係を推しはかって臨機応変に対応するのではないでしょうか??^^
編集済



--------------------------------------------------------------------------------
時によって国力は代わるし... 投稿者:輔住  投稿日: 7月 8日(月)23時46分51秒

>外国からの恐怖で国の政体を変えると言う日本のパターンの原型がこの時にできたのではないかと言っているだけです。
それは一理あると思いますが。

べつに弱小国とかそういう問題とは少し違うと思いますよ。
Aという国がBという国に対して下手にでるということは
その時の様々な事情でありますよ。それをもって何百年も
弱小国だったとはいえないと思います。
(国の力は長い間の中で強い時期も弱い時期もあります)
自信がある時代(結果はどうあれ)秀吉は明を責めようとしているし。

逆に自分達の足元が固まっていないときに頭を下げるのは
よくあることです。中国だって匈奴に何度頭を下げてるか!



--------------------------------------------------------------------------------
日本列島 投稿者:きんたろう  投稿日: 7月 8日(月)23時42分57秒

に住む大多数の人々にとって海の向こうに描く世界とは一種の「バーチャル・社会」だったのだろうと考えています。
つまりはテレビの中の世界と同じ様な物であり、現実感を喪失した観念の世界だったと思います。
これがあったからこそ西方浄土が支持を得るのではないでしょうか。

国際関係とか弱小国という概念は日本の歴史の中ではまず見ることが出来ません。
何しろ四方を海に囲まれた島国が「世界」だったのが日本なのですから。
日本が外国の衝撃を感じたのは元寇をおいて他にはありません。
そして明治維新の黒船がこの次に来るものだと思っています。

勿論、知識としては「外つ国」があるのを知っていたのは当然ですが、それはあまりにも遠いところにあるもので大多数の日本人にとって現実のものとして捉えていたのかどうか疑問です。

知識人にとってみると中国についてはまるで打ち出の小槌のようなものすごい国であると考えていたように思っています。
でもそれは書物によるものでしたから実際の中国人の体温や臭いを感じる訳ではありませんでした。
ひたすら頭の中で創り上げた中国人がいるだけだったと思います。

そしてこのようなイメージを持っていたのは江戸時代の日本人でもほんの一握りの知識階級だけだったと思っています。
ようするに他の大多数の日本人は外国の事など実感として考える事など無かったというのが事実だと思います。



--------------------------------------------------------------------------------
全然違う話 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月 8日(月)23時04分54秒

今ビデオ屋でカルピス名作劇場の『牧場の少女カトリ』を借りてきて見ています。

前から気になっていたのですが、タイトルが分かりませんでした。輔住さんの所で教えてもらって探していました。

カトリがかわいらしいし、ストーリーもほのぼのとして面白そうです。セーラや若草物語みたいにやたらと不幸でもなさそうだし、ポリアンナみたいに不自然に「良い子」でもない自然体でいいですよね。



--------------------------------------------------------------------------------
私が使っている資料や文献には 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月 8日(月)22時35分59秒

別に朝鮮人の話は入っていませんよ。

外国からの恐怖で国の政体を変えると言う日本のパターンの原型がこの時にできたのではないかと言っているだけです。

光仁天皇が中国の使者に対して土下座したのは、ちゃんとした資料に残っている話です。

これの最初の提唱者の岸田秀さんなんかは、朝鮮に対してかなりシビアな物言いを言っている人ですしね。

私はその時の事情によって大国に頭を下げたりするのはありだと思っています。みんな誤解していますが、日本と言うのはポーランドとかフィンランドと同じような「弱小国」なのです。今の経済的繁栄などたいしたことではありません。弱小国と言うのはいろんなところに頭下げたりたまには卑屈になっていきる必要があるのです。



--------------------------------------------------------------------------------
金春秋の娘婿が 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月 8日(月)22時28分33秒

倭人の末裔です。



--------------------------------------------------------------------------------
1200年頃 投稿者:きんたろう  投稿日: 7月 8日(月)22時04分28秒

この時代はモンゴル帝国の勃興期にあたるのですがそれと共に十字軍の後期にもなっていますよね。
10世紀くらいになって広い範囲に渡ってダイナミックな歴史の動きを感じる様な気がします。

白村江の戦い付近の歴史も確かに面白いですよね。
新羅の王族は倭人だったはずですよね、たしか??
私のトンデモ説では新羅を作ったというよりも新羅が朝鮮半島の小国から軍事大国に成長した理由は大和に国譲りをした出雲遺民を吸収したためになっています、笑

出雲と新羅は関係が深かったようですから大和に出雲が滅ぼされた後も新羅へと亡命した人がいたと考えています。
亡命者達の考えがアンチ大和だったとのは間違いがないと思っています。
日本書紀では新羅の狡猾さがよく書かれていますが、これはこのような背景があったと仮定すると納得しやすいように思っています。

>こんなことを言うとたいていの日本人はいやがるのですが、奈良時代以降日本の支配者となったのは百済の遺民を主体とする人達で、これが日本と朝鮮半島のコンプレックスの根底にあると私は考えています。

これは全然違うと思いますよ。
百済が滅んで大量の難民を日本が引き受けた事は間違いがないと思います。
彼らが反新羅意識の固まりだったことも容易に想像できます。
百済遺民が日本の因子に成っていく上でこの記憶は拡散していったのでしょう。
新羅を「しんら」ではなく「しらぎ」と発音する事などは間違いなくそうでしょうね。

でも朝鮮半島にコンプレックスがあると言うのは真っ赤な誤解^^;;というか、朝鮮半島人のプロパガンダだと思います。
というのは日本人の場合は優れている人に対してはあまり文句を言いませんよね。
ところが韓国の教科書をみると「偉大な我が民族」とか「日本に教えてやった」などの記述がうんざりするくらいあります。

また古代史好きの人が古代において朝鮮半島との繋がりがあったと書くのは地理的条件から言っても当然なのですが、これを勘違いというか「何でも朝鮮」といったトンデモ説をみるので辟易しているというのが本当のところだと思います。

心理学的に言うと韓国人が唱える説は誇大妄想並びに脅迫概念が強すぎるタイプのように思えてしまいます。
彼らは歴史を語るのではなく、「差別」を語ろうとするから拒絶反応が出るのだと思います。
朝鮮人は日本人が知らないだけで日本人をずっと差別してきた歴史を持っています。
これには理由が色々考えられますよね。
差別をしている人から言わせると「相手が自分に対してコンプレックスを持っている」というのは彼らのエクスキューズになります。
つまり安部さんの言われている「日本人コンプレックス説」は朝鮮人が自分たちが差別意識を持っていた事を正当化するための屁理屈だと思っています。

正直なところトンデモ説を創るのであれば何でも可能だと思います。
問題は可能性がどの程度かという点だと考えています。

もし百済遺民が主体になったとすれば何故白村江以降新羅に干渉というかやり返さなかった理由の説明が全く付きません。

白村江の戦いの敗戦で国内が混乱しているとしたら壬申の乱のような内乱を起こす国力があるはずがありません。
白村江の戦いから壬申の乱の時間の流れは朝鮮出兵から関ヶ原の戦いによく似ていますが、朝鮮出兵が失敗に終わっても国内では侵略される恐れを抱いていた人などいなかった筈ですよね。

藤原惺窩のような頭でっかちが征服される事を望んだようですが、彼は占領されても自分もまた奴隷にされる事を想像できなかったようですからいかに想像力が無かったのかと思っています。

唐は確かに強力な国歌でしたが所詮は大陸国家であり玄界灘を押し寄せるパワーは持たなかったと思っています。
産業革命以前で海を越えて押し寄せる国力を持ったのは元だけなのが歴史的事実です。



--------------------------------------------------------------------------------
不思議 投稿者:きんたろう  投稿日: 7月 8日(月)22時03分30秒

なことにお茶はまずい水をわかして立てた方が美味しいと言いますよね。
これは硬水や軟水の差によるものなのでしょうか??
水戸よりも土浦のほうが水質が悪いのですが、実際に飲んでみるとお茶の美味しさは正反対のような気がしています。

中国は水が汚い事では有名ですからとてもそのまま飲むことは出来なかったと思います。
井沢先生が書かれていたと思いますが、中国でお茶にして飲む方法が発達したのは「必要は発明の母」の法則が働いたからだ思っています。
日本の場合だと全国至る所においしい「湧き水」がありましたから美味しい水を「発明」する必要が元々無かったのではないでしょうか??笑
この環境の差は大きいと思っています。



--------------------------------------------------------------------------------
見えてきました 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月 8日(月)20時23分33秒

安禄山・史思明の乱が755〜763年
それ以降唐は統制力がなくなって、軍閥の集合体になってしまいます。

新羅では780年に反乱が起こり、それ以降反乱が相次いで不安定になります。

光仁天皇が唐の使者に対して土下座したのが779年。

桓武天皇が即位したのが781年、長岡京へ遷都したのが784年ですから、桓武天皇は唐と新羅の弱体化を見越した上で、唐から「独立」するために奈良を捨てたとは考えられませんか?

桓武天皇の子供の平城天皇が「万葉集」を勅撰和歌集として出そうとするなど(薬子の乱の失敗で勅撰集にはならなかった)、平安時代になって日本独自の文化ができてきますが、これは唐と新羅の重圧がなくなったからではないでしょうか。唐がほとんど滅亡寸前になった時に、菅原道真が遣唐使を止めて、ボロボロになっていた律令制度に一大改革をして「日本的な律令制度」に作り変えたのも、無関係ではないはずです。

平安時代の意義がこれでやっとわかりました。日本は平安時代になってやっと中国から独立することができたのです。



--------------------------------------------------------------------------------
大海人皇子 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月 8日(月)20時10分29秒

が天智天皇の弟ではないのではないか?父親は天皇ではなくて朝鮮人なのではないか?と井沢先生は述べていました。

これも私は大変魅力的な説だと思っていますが、いま少し別のことを思いつきました。

天武・持統王朝が、唐の肩入れでできた政府だとしたら、日本人はこれを「屈辱」と感じて、何とか打倒したいと思っていたのかもしれません。

戦後の日本を復興させることにアメリカが熱心であったように、唐は日本を自分のコピーの国とすることに熱心であったのかもしれません。私は今は大和朝廷やそれよりも前の日本が中国に対して「日本の王」として朝貢していたとは考えていないのですが、奈良時代の日本ははっきりと中国の臣下として振る舞っていたのかもしれません。遣唐使の留学生もフルブライトの留学生と同じような感じだったでしょう。中国の方は間違いなく日本を臣下だと考え、その臣下が文明を学ぶためにここまでやってきたうい奴と考えていたはずです。もちろん今のアメリカもそうでしょう。

天皇家が大海人皇子の王朝を祭儀において味噌っかす扱いしているのは、この屈辱から目をそらしたいからではないかと思いました。だとしたら、大海人と天智が実の兄弟であっても、桓武天皇が自分の即位を新王朝の始まりとしたかったのも理解ができます。



--------------------------------------------------------------------------------
それは魅力的な説ですね 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月 8日(月)20時00分07秒

大海人皇子が白村江の総司令官で、唐との密約の下で王朝を立てたと言うのは面白いですね。
唐は白村江の後に軍事顧問団を大津朝へ送っています。これを停戦監視団、あるいはもっと踏みこんで敗戦国である日本を監視するために送られた軍隊だと見る人もいます。

白村江の後、新羅の方も唐の脅威から脱するために日本の支援を必要として、親新羅の日本政府を作ろうと画策していたらしい。

私は「日本」と言うのができたのは白村江の戦いの後だと考えています。それまでは漠然と『似たような文化を持つ人がまとまって住んでいる」と言う感覚はあったのでしょうが、ハッキリと「朝鮮とも中国とも違う文化を持つ日本人」と言う意識ができたのは白村江の戦いで負けて日本を防衛しなければ行けなくなってからであるでしょう。そのように考える学者も今は多いようです。

日本ができたときに唐・新羅・百済の遺民などが複雑に絡み合っていると言うのは、雄大で楽しい気分にさせられます。


以前井沢先生の掲示板で、日本書紀や万葉集を記述したのは、[u][o]の音の細かい聞き分けができる朝鮮半島の出身者(百済の遺民)だったのではないかと言う説を述べていました。掲示板でハ分がよくありませんでしたが、私は大変合理的で科学的な説であると思いました。日本で初めて書物を記述したのは百済の遺民でしょう。官僚となって律令制度を支えたのもそうだと私は考えています。律令制度の中で生きて行く知識を持たない豪族は、中央では藤原氏に、地方では官僚となった百済の遺民に実権を奪われていったと私は考えています。

こんなことを言うとたいていの日本人はいやがるのですが、奈良時代以降日本の支配者となったのは百済の遺民を主体とする人達で、これが日本と朝鮮半島のコンプレックスの根底にあると私は考えています。

「日本」ができたのは中国に対する恐怖であると私は書きましたが、この恐怖を日本人は未だに引きずっていて、朝鮮半島が不安定になるたびにヒステリー状態になって中国と朝鮮に帯して冷静に対処できなくなると私は考えています。白村江の恐怖がフラッシュバックするのです。元寇の時と朝鮮の役の時の日本の非合理的な行動はそれで説明ができるでしょう。現在は3度目のフラッシュバックの時期であると私は考えます。



--------------------------------------------------------------------------------
白村江 投稿者:太田守人  投稿日: 7月 8日(月)18時14分21秒

私は、朝鮮半島南部に、かって倭人のテリトリーがあったと思っています。その記憶が、倭宰になり、任那日本府になったと思っています。この前、韓国の学者が、出雲の人が朝鮮南部に来て国を作った。という学説を出したと言います。この、事実が朝鮮半島への度重なる出兵だと思っています。白村江もこの延長戦上にあったように思います。日本は、朝鮮半島諸国と戦争しても、中国と戦争する気がなかったと思います。ところが、白村江では唐が出て来た、少なくとも、天智は従来どおり、超大国唐が出てくるとは思わなかったのではないでしょうか。
この、白村江の敗戦は、日本に大変なパニックを引き起こしたと思います。太平洋戦争敗戦時、以上のインパクトがあったと思います。
この前、或る本で白村江の総司令長官は、大海人皇子だったという説がありました。日本書紀では、前・中・後軍の司令官の記載があっても、全軍を纏める現地軍司令官の記載はなかったと思います。
これは、高坂さんの掲示板でも議論したところですが、この戦闘後、唐が日本兵捕虜を返還していますが、これは、壬申の乱で大海人皇子軍の応援団として、捕虜送還にかこつけ、唐が軍隊を大宰府付近に派遣していたため、近江朝はこの唐軍に気を取られて、大海人の動きを見落としていたということは、十分考えられると思います。
幕末薩長と戦争をした、イギリスが幕府を見捨て、薩長に肩入れしたように、唐は大海人に肩入れしたのではないでしょうか?



--------------------------------------------------------------------------------
白村江 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月 8日(月)16時36分56秒

に関する本を読んでいるのですが、
日本が中国に朝貢したときに求めた称号というのは、常に朝鮮半島に対する軍事権を持つ称号であって、日本国内を治めるのに必要な称号を中国に求めたことはないそうです。
古代から日本は、日本列島の中は中国とは全く関係のない自分達の天地、朝鮮半島は別のクニなので、そこへ行く時には中国のお墨付きをもらう、そういうスタンスだったようですね。北九州と朝鮮半島南部はまだ未分化だったようですが。

と言うことは、日本の古代王朝が中国に朝貢したというのは正確ではないことになりますね。日本列島を統治する王として、日本列島を中国の皇帝に献上したことは一度もないのですから、朝鮮半島南部に介入することを認めてもらうために朝貢したと言うことになるみたいです。

光仁天皇の時に、中国の使節が100年ぶりくらいに日本へ来たそうですが、この時は光仁天皇が玉座から降りて、中国の使節に臣礼したそうです。奈良朝というのは中国に対する恐怖によってできた王朝だったと言うのがわかる気がします。奈良時代の遣唐使ははっきりと朝貢と認められるようです。



--------------------------------------------------------------------------------
お水 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月 8日(月)16時28分08秒

良く知らないですが、大陸の水は硬水と言ってカルシウムやマグネシウムといった鉱物が多く解け込んでいるので、飲用や洗濯には適していません。子供の頃から飲んでいる人は大丈夫なのかもしれませんが、慣れない人が飲むと体のミネラルのバランスが崩れるのか、消化器が異物と感じるからかよく知りませんがお腹を壊します。

日本の水は軟水と言って鉱物をおマリ含みません。ですからそのまま飲むことができます。イギリスの水はカルシウム分が多いのですが、大陸ほどではないらしく、日本人も飲むことが可能です。アメリカの水も飲めることができると言う話を聞いたこともあります。

大陸の河川は長いので、流れて来る間に汚物をいっぱい解けこませてしまうので汚くなってしまいます。その点日本やイギリスといった島国の川はすぐに海に流れて行ってしまうので、あまり汚くはなりません。

お茶はコロイドだったかどうか忘れましたが、お茶のようなものを溶かすと、水中の汚れと電気的にくっついて沈殿するので水を浄化してくれます。中国やヨーロッパでお茶を飲んだの元々の理由はこれでしょう。



--------------------------------------------------------------------------------
水 投稿者:太田守人  投稿日: 7月 8日(月)12時36分01秒

ヨーロッパは、相対的に水が悪いとは聞いた事がありますが、イギリスは別のようですが、これは、どうしてなんでしょうか?地質学的に、良質の地下水が豊富からでしょうか。
黒ビールは、イギリスですか?私は、ドイツあたりかと思っていました。そういえば、映画「史上最大の作戦」で、イギリスの戦闘機乗りが、黒ビール片手に、ブーツを貸した友人の行き先を聞く場面がありましたが。
水と言えば、北京のホテルで風呂を張ったとき、風呂の水が入浴剤を入れたように、真っ白になった思い出があります。中国人がお茶を良く飲むのも、水が悪いため、水の味をごまかすためだと聞いたこともあります。



--------------------------------------------------------------------------------
きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 7月 8日(月)08時45分44秒

>もちろん漢字という文字の存在については知っていた可能性は高いと思いますが、漢字の存在を知っている事と漢字を使いこなす事は全く別の次元ではないでしょうか??

私は、当時の江南からの難民は、相当金持ちで教養も高かったと思います。徐福伝説にあるように、船とかの準備に相当金も暇もいったと思います。まあ、中には食い詰め者もいたでしょうが、
矢張り、主流は政治難民でなかったかと思います。難民の教養は、非常に高かったと思います。
そこで、邪馬台国の時代に、漢字を使いこなしていたと思います。



--------------------------------------------------------------------------------
私の夢は 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月 8日(月)01時02分39秒

最後に世界中の将軍を1ヶ所に集めてとっても楽しい都市を作ろうと思っています。
うちの王様はアイユーブ朝のくせに十字軍で武装しています(笑)
だってヨーロッパは民度が低いからあんまり兵種が作れないんだもん!
○○の都はパチンコ屋にしか見えない…

以上オタクにしかわからない話でした。



--------------------------------------------------------------------------------
安部さん 投稿者:Sin  投稿日: 7月 8日(月)00時54分21秒

私はある意味王道のモンゴルでプレイしましたが、村と牧場たっぷり作ってました(笑)
モンゴルの初期段階だとそれ以外作っても・・・(爆)

わからない方にはまったくわからない話題でした(^^ゞ



--------------------------------------------------------------------------------
帝国の気持ち 投稿者:安部奈亮  投稿日: 7月 8日(月)00時43分55秒

アイユーブ朝で「青き狼W」に挑戦してます。
ふぬけたアッパース朝を倒し、キエフとの抗争で疲弊したビザンツを征服し、ハンガリーを落とし、5年に渡る抗争の末宿敵神聖ローマを打倒してやっと一息つけるかと思った矢先、ノルマンヴァイキングが活動を開始!

バルティック海を埋め尽くす船団。一隊一隊は弱いのですが、なにせ連中村と牧場しか領内に作っていないので兵隊だけは佃煮にするほどある。神聖ローマの残党が仕官したのでで武将も腐るほどいる。

後から後から来るわ来るわ…


ええいこの領民のことも考えずに兵隊ばかり繰り出すこの野蛮人め!この私が文明と言うものを教えてやる(てめえらの領内をローラー作戦で占領して同化してやる)

ローマやアメリカの気持ちが少しわかりました。



--------------------------------------------------------------------------------