過去ログ168(2002年〜8月13日)


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 流れに逆らって‥‥琉球事情   投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月13日(火)17時58分27秒

 太田さん、さっそくのお控え(ご応答)ありがとさんです。
 小生の夢は流れに逆らっていますよね。
 これまで、小生も常識どおりに沖縄から北上した文化の風が基本となって、日本文
化ができたと思ってきました。
 しかし、先日奄美の唄の中にでてくる語彙をかいま見た瞬間から、その思いは吹っ
飛ばされました。
 まだトコトン追求したわけではありませんが、沖縄、鹿児島の語彙は紙にかいて凝
視すれば、大半は本土標準語との関連でわかります。しかし、奄美の解らぬ語彙は質
がちがう。むちゃくちゃにワカランです。
 徳之島と青森県木造町は選挙のたびに‥‥‥、好戦ムードいっぱいの土地柄です。
 そして、与那国 ./.台湾のあいだには言語での深い断絶があります。
 
 ヅ−ヅ−弁は、今でもウルマ(本島)国頭では立派なもんです。伊計、宮城、平安
座の島々にはインド特有の bha kha gha dha zhu などの子音が残っています。
 もしかしたら、これがヅ−ヅ−弁の元かもしれません。
 でも、沖縄、薩摩、五島、津軽のイントネーションはウ(大)、マンジューなどを
含みながら同一で、これはヅ−ヅ−弁ではありません。
 ウチナーぐちには E 音と O 音がないことになっていますが、古い挨拶語の中には
メンソーレ、マーカイメンソーチ(どこ行くか)のように、E も O も立派にあって、
いまでも発音されています。あ、この「マーカイ」は台湾・アイヌにもあります。

 そうですねぇ‥‥「奄美を飛び越えて、北から南へ」は、まだちょっと発表は早す
ぎたかもしれません。
http://www.you-i.org/



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焼尻さん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月13日(火)13時19分24秒

私も森浩一さんの説には賛成です。石川県に限りますと、大体手漕ぎ船で1日位のところに、湖沼があります。当時には、灯台やGPS,ロランやデッカーなんていう、航海支援装置がないでしょうから、夜は危なくて沿岸航行は、不可能だったと思っています。矢張り、夜はこんな湖沼に入港していたと思っています。
私も、焼尻さんのおしゃるように、日本の出発点は、出雲だったと思っています。東北弁も、それに似た方言が、島根県地方の山間部にあるそうなので、この東北弁も出雲の標準語が、東北に行ったと思っています。任那の日本府という、わけのわからない機関も、朝鮮半島の倭人のテリトリーでなかったかと思っています。しかし、焼尻さん海流から見ると、日本列島から南下すると、黒潮本流に逆らうように思いますが。それより、中国大陸の舟山列島あたりから、北上した方が楽なように思います。



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ことばで出雲・薩摩・沖縄 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月13日(火)12時06分40秒

 太田さん、いいことおっしゃった。
 日本海にも詳しい森浩一先生は、もう25年も前に湊の名前についている「カタ(潟)」は
湊という意味だと看破しておられる記事を読んだことがあります。
 中公新書『古代の日本海文化』などには点々と“潟湖”が紹介されています。この点はもっ
と稠密で、“陸道”の駅逓(17キロごと)みたいに日本海沿いに停泊地が確保されていたの
ではないでしょうか? 
 また、この本でも「潟湖」という用語になっていますが、この潟そのものが湊からの転意で
できたことばではなかったでしょうか。ネパール語 GHAT(岸)は類似語だと思います。これ
が開音(母音づけ)されると「ガタ」になります。
 とまれ、「“裏”ニッポン」という用語はやめにしたいもんです。

 舟が10年もしたら腐る……は、おどろきの情報です。
 小生はこのほど、出雲に高文化を伝えた第一陣はタジク語系言語集団であることに確信を持
てるようになりました。そしてこの言語集団は薩摩を拠点にして「奄美をとびこえて」沖縄侵
攻を遂げているのではないか‥‥と、ひとりアテずっぽうな推測を楽しんでいます。
 日本文化は沖縄起源ではないのです。
 ところが、鉄鉱脈の露頭が容易に見られる沖縄に、入るべきはずの金属精錬技術が入ってい
ないのです。
 そうしますと、そうしますと、タジク語系氏族は、出雲到着から10年以内に、若衆ばかり
が五島〜薩摩〜沖縄へ南下して行ったのではないか‥‥です。
 太田さん、ゆめの素を有り難う!

 ※  5800語彙が掲載されている『基礎ネパール語事典』から、日本語との類似語彙が
   1180ペアも出たのです。アイヌ語との類似は460ペアに達しました。
   これは一国の語彙数の三分の一が極東に流れ出たことを意味しています。
   類似語彙が多い多いといわれたタミル語は350ペアしかないのです。
   ミナシャン、おらのいうことにもっとまじめに耳傾けてけれじゃ。

『ユー・アイ掲示板 2 言語篇 』 http://www.you-i.org/treebbs/0/index.html

http://www.you-i.org/



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月13日(火)09時03分40秒

私は、古代にあっては、海の側の汽水湖よりも淡水湖や海の方が、港として有効だったと、思っています。原因は、フナクイムシです。まー,丸木舟程度であれば、陸地に上げとけましょうが、ある程度の大型船になると、陸地にあげるのは一仕事だと思います。フナクイムシは、海水と淡水が混ざり合う、汽水域に多く生息します。次は、海水域ですが、汽水域に比べるとまだましらしいです。そこで、木造船は、この汽水域を外し、うんと上流の淡水域か海水域に停泊した方が、いいそうです。また、フナクイムシは、南に行けば行くほど増えるらしく、太平洋戦争中、日本海軍が量産した、木造漁船をベースにした、木造の掃海艇や哨戒艇は、南方に行くと、半月で船底が、フナクイムシで、スポンジのようになったそうです。大航海時代は、ドックのない地方では、滑車とロープで、船を砂浜に上げ、それをひっくり返し、船底を修理したそうです。ところが、船が大型化すると、そう簡単に引き上げれない、そこで、船底に青銅の板を木の船底の上に張り、フナクイムシを防止したそうです。これを、造船用語で、木皮銅覆い船というそうです。しかし、鉄の船がポリュラーになると、青銅の覆い板が腐食する時に出る、電子イオンが、鉄船の船底を腐食させることが分かり、この木皮銅覆い船は急速に廃れますが、フナクイムシとは、このように長期間戦ってきました。北前船は、大体10年位で、船底をフナクイムシにやられ、代船を建造せざるを得なかったそうです。古代にあっては、海の近くの淡水湖が、もっとも理想的な港だったように思います。



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今日は 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月12日(月)23時01分20秒

ようやく涼しい一日でしたが、昨日までの暑さではこの部屋でパソコンに向かうのは体力的にかなりきつかったのです、笑
エアコンが付いていないだけなのですが。。。自爆(;^_^A)
でも毎日暑い日々が続いていますが、夕暮れは早くなってきたなと感じられますよね。

日本は海洋国家であり、つまりは「伸び伸びとした大らかな気質」を持っていた筈だと思っているのですが、稲作が食糧備蓄に関してあまりに優れた点を持っている事により、律令制度は農業国へとベクトルを向けたような気がしています。

徳川時代の農本主義も同じ方向性だと思います。
確かに安定の時代はそれなりに素晴らしいものなのですが「シュトルウム・ウント・ドランク」という言葉の響きについ誘われそうになってしまいます、笑

太田さん
加賀市塩屋町にも鹿島があるのですか??
それは知りませんでした。
鹿島とは「海辺の素晴らしい場所」という意味から来ているように思っているのですが、同じ地名が海に面した場所に全国的にあることから考えると、遠方にもかかわらず共通の認識を持っていた事が伺われると思っています。

Toshyさん
鹿島台団地という場所はこちらにもありますが、「鹿島」とどんな繋がりがあるのかはよく分かりません、笑
でも「鹿島神宮」は東北地方にも多くありますからこの関係による地名なのではないでしょうか??



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下書きファイルより、笑 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月12日(月)22時41分59秒

6世紀末の隋による強大な統一国家が成立したことにより東アジア世界は緊張した国際関係に入りました。
ところが8世紀後半以降にこの国際関係は大きく変貌しはじめる事になります。

8世紀半ばに起った安禄山や史思明の反乱、さらにはウィグル族の侵攻を引き金として唐王朝は衰退に向います。
9世紀には異民族の侵入や豪族〈藩鎮)・農民の反乱が日常化し、10世紀初の907年についに滅亡します。

その後は不安定な五代・十国持代を経て約半世紀後の960年に宋による大陸再統一が実現します。
しかし、もはや唐の全盛期のような対外膨脹を図ることはできなくなっていました。

中国帝国の弱体化は当然のことながら周辺の諸民族と国際秩序に大きな作用を与えずにはおきませんでした。
大陸と陸続きの朝鮮半島では、帝国への朝貢こそ続けられましたが、それも形式化し、社会内部への帝国の圧力はほとんど失われました。

8世紀後半の新羅が日本との従属外交を断ち切ろうとしたのも、9世紀の朝鮮半島において相次ぐ反乱で群雄割拠の状態が生れ、918年に高麗による朝鮮半島再統一が実現されたのもその影響が大なのです。



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今日の仙台は 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 8月12日(月)14時29分09秒

雨降りで、寒いくらいです。
昨年のこの時期も冷夏で、田舎の盆踊り大会ではカキ氷屋さんの姿はなく、
あたたか〜いおでん屋さんが売れていたという現象が(わら

鹿島といや、宮城県には鹿島台というところがあるけど、関係あるのかな?



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Toshyさん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月12日(月)13時15分15秒

仙台も35度ですか!!昨日の夜から、金沢は豪雨です。雨が降ったら蒸し暑くなるし・・・。でも、先週の土曜日、虫の音がしました。この日も、35度でしたが、季節は秋に向っているのですねー。

きんたろうさん。ワニと言えば、和邇や王仁ですよねー。ワニがサメかどうかは別として、日本は矢張り、海洋民族国家のように思います。信州の山奥に、安曇野がありますしね。
オホド王の出身地の福井県三国町ですが、ここもこの時代、きんたろうさんのおしゃるように、鹿島に近い地形だったようです。鹿島というとこは、石川県に2箇所あり、ひとつは七尾市、もう一つは、加賀市塩屋町です。この近くに、蓮如の北陸布教の拠点となった、吉崎御坊があります。
私は、女性の子宮のような形をした地形を、古代には鹿島と言ったのではないでしょうか?確かに,大本は、鹿児島の錦江湾かもしれませんが。



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この一週間 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月10日(土)22時08分48秒

は暑さと不意に訪れた予想外の仕事のために頭がほとんど停止状態になっていました、笑
それにしてもまるで遠赤外線でジリジリと体の芯まで焼かれるような日差しが続いていますね。

太田さん
わに=(鰐)がかつて日本に生息していたのかどうかよく分かりませんが...笑
鰐は世界中で神格化された動物であることは確かです。

鮫の古名がアイヌ語に続いているのはやはり同じ縄文語が枝分かれした言語であるという事になるのではないかと考えています。

もっとも古代史で「わに」といえば「王仁」の漢字を思い浮かべる人の方が多いような気がしています^^

みのるさん
終戦後半世紀以上経ってようやく「自虐史観」に対する正当な反論が出来るようになってきたと感じています。
どの国の人でも、その国の人のために命を賭けた人に対して敬虔な気持ちを持つべきなのは当たり前なのです。
日本には日本の伝統としての祭祀がありますから、これを用いることに異論を挿む余地は無いと思っています。

日本と正面から戦ったアメリカなどの連合国サイドからは中国、韓国のような反応を見ることが出来ないのはある意味では傑作ですよね。
つまり、中国や韓国がしている事は、自らの外交上のメリットを得るが為の行動であることは明白なのです。
反日的日本人と呼ばれる人達が水先案内人になってこのような事態になっているのは明らかですが、いかにも「さもしい」行動ですよね。

結局これでは日本の世論の多数が中国や韓国に対して好意を持つことは不可能だと思います。
長期的に観点から見れば結局はペニー・ワイズだと思います。

Toshyさん
さすがにこの時期は仙台も暑いと思いますよ、笑
クーラー病もありますが、熱中症はもっと怖いので気をつけて下さいね。

はは^^;;
輔住さん、東京の暑さは水戸よりも3度は高いのではないでしょうか??
それにしてもヒートアイランド化が急激に進んでいるような感じがしますよね。



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厳しい残暑 投稿者:輔住  投稿日: 8月 9日(金)23時33分39秒

>なんだかんだで35度はあります。
35度ならましという状態なんて数年前まで
考えられませんでした。

嗚呼、暑い!



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仙台は気温が低い 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 8月 9日(金)22時05分47秒

とはいえ、なんだかんだで35度はあります。
それでも日向に車を止め、中で熟睡できる俺は、
回りの人たちからすごいと誉められる。

クーラーは嫌いですね。
体が冷えて、ひどい時には痛みが走ることもあります。



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オヲド 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 9日(金)17時27分52秒

出身地の福井県三国町には、彼の銅像が有ります。三国は、オヲドの時代は、湖沼が多くあり、特に三国湖という大きな湖があったそうです。この時代の地形を見ると、きんたろうさんのおしゃっている、鹿島に似てます。オヲドは、応神の五世の孫になってますが、ここで,日本書紀の応神紀の一書に曰くが生きてくると思います。つまり、敦賀の気比神宮の大神と名前を交換したと言うことです。つまり、ホムタワケは2人いたということで、この応神は、気比大神と名前を交換する前のホムタワケでないかと思います。気比の大神(私は、ツヌガノアラヒト若しくはアメノヒコボのどっちかと思っています。)に負けた、前半のホムタワケは、ここに子孫を残し、その子孫がオヲドのように思います。



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暑いですね。 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 9日(金)09時39分12秒

金沢もここ2・3日は、35度あります。でも、きんたろうさんはえらい。私なんか、怖くて寒暖計を見たくありません。金沢って、いつから砂漠になったんでしょうか?今日も、熱波が吹いています。しかし、今年はもう日本海に秋雨前線がありますし、この前、赤とんぼもみました。秋は、早いんでしょうね。東京は、このままいくと、10年以内に最高40度を超えるとか。そのうち、野生のバナナやパイナップルが、東京名物になったりして。



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今日は 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月 9日(金)03時39分25秒

会社の入り口の脇に吊してある寒暖計が39度を表示していました^^;;
これを見た時にはさすがにびっくりしました。
昼食を買いに出かけた時窓を全開にしていたのですが、熱風が入ってくるだけでした、自爆(;^_^A

明日からは普通の生活に戻れそうです、笑



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みのるさん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 8日(木)17時31分43秒

>しかし、靖国問題に対する中国、韓国の態度は許せない。
内政干渉も甚だしいです。

このご意見には賛成です。北も含め、朝鮮・中国人は、まだ日本人を蛮族ぐらいにしか見てないのではないでしょうか?特に、今の中国はそう思います。
でも、いつも思うのですが、広島の原爆記念碑の「過ちは繰り返しません。」ってあの過ちは、何を指しているのでしょう?まだ,戦争は繰り返しません。なら意味が分かります。アメリカの原爆投下でしょうか?ならば、アメリカ人が反省すべきで、我々日本人は関係ないですね。あの戦争のことでしょうか?太平洋戦争は、日本には日本の言い分がありました。では、300万とも500万とも言われる日本人は、過ちで死んだのでしょうか?では、あの戦争で死んだ日本人は、犬死ってことになります。私も、叔父が、あの戦争で戦死しています。とてもでないが、犬死とは思いたくありません。広島の原爆忌で、アナウンサーが「過ちは繰り返しません。」ってました。そのアナウンサーに過ちってなんだ。って聞いてみたいです。



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きんたろうさん 投稿者:みのる  投稿日: 8月 8日(木)01時51分31秒

今年も終戦記念日が近づいてきました。
靖国神社後援会終身会員の私としては
忙しくなります。私は靖国神社に相当の寄付を
しております。
しかし、靖国問題に対する中国、韓国の態度は許せない。
内政干渉も甚だしいです。
先日、ブッシュ現大統領が来日した際
明治神宮に記帳しましたが、靖国神社に記帳すべきだったと
おもいます。



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ワニ 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 7日(水)12時49分56秒

ワニはサメってことになっています。まー,今でも中国地方では、サメのことをワニといいますからね。ただ、古代には長江の一部に、長江ワニと呼ばれる、小型のワニが生息していたと言います。今は、この長江ワニは絶滅したらしいですが。ワニは淡水が専門のように思っている方がいらっしゃいますが、海にもいるそうです。特にニューギニア辺りでは、淡水ワニより、海のワニの方が凶暴で恐れられているそうです。因幡の白兎は、サメに噛まれたとなっていますが、長江ワニのように、今は絶滅したが、かって海に、ワニがいたということはなかったのでしょうか?長江ワニの亜種が因幡にいたとか。それとも、昔からサメをワニと言っていたのでしょうか?

きんたろうさん、道君という、とんでもない変なおっさんが、欽明の時代、越の国にいました。この道君の氏寺が、金沢の隣町の野々市町にある末松廃寺ですが(これ前に書いたと思いますが。)、この寺域は、奈良の東大寺にも匹敵すると言っています。これから考えると、道君は相当勢力があったと思っています。このおっさん、高句麗から欽明天皇に当てた貢物を、「我こそ大和の大王なり。」と言って、取ったとあります。この時は、今の加賀温泉あたりに勢力を張っていたと思われる、江沼君の説得で、傾子に返したそうですが、継体天皇の大和進出に、道君も江沼君もなんらかの貢献をしていたと思います。そこで、その論功行賞の段階で、継体天皇から道君に、「お前。高句麗からの貢物のどれだけか取ってもいいぞー。」ってお墨付きを貰っていたと思っています。高句麗の使者も、大和の大王か、どうか分からないというのも、トンマな話で、継体天皇の時には、高句麗の貢物は、道君経由で継体天皇に行っていたのではないでしょうか?ところが、欽明天皇になってから、そのようなことも、滞りがちだったのではないでしょうか?そこで、頭に来て、こっちにゃお墨付きがあるんじゃい。ってことで、ポッケに入れちゃったのではないでしょうか?継体・欽明は、私は武力で、欽明が政権を奪取したと思っています。そこで欽明は、継体の政策を、チャラにしたかったのではないでしょうか?ところが、道君の軍事力が大きく、戦争するにはちと腰が引ける。そこで、説得工作ってことになったと思っています。私は、加賀の一向一揆の時代とこの道君という変なおっさんが、郷土の英雄として好きです。



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極悪忍者さま、笑 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月 7日(水)01時09分27秒

お疲れ様でございました(^O^)g
またよろしくお願いします。

それにしても四国一周旅行中に東京まで呼び出してしまって申し訳ありませんでした。
でも、とても楽しい会話をたっぷり出来ました。
またよろしくお願いしますね^^

みのるさん、帝国ホテルですか!!
帝国ホテルのバーラウンジには「とらいあむす・21せんちぇりー何鱈間鱈^^;;」というカクテルがあったはずなのですが。。。??
果たして今でもあるのかなと思いました。
とても美味しいカクテルだった記憶があります、笑

それにしても、私も帝国ホテルで1週間くらいのんびりしてみたいです。
そう考えると、みのるさんが羨ましいです^^

ちょっと、言葉足らずの言い方になってしまいましたが^^;;
大三元さんの話はとても参考になっています。

呼び名が意味を持つものであるという視点で考えると、海に関する単語が予想以上に多くあることが分かると思います。
稲作が普及して内陸部の開発が相当進むまで「海」の比重はかなり高かったものなのだと思います。

>今の総合商社の社長のようなものであったと思います
太田さん、これは超グッドです^^
「網元」よりも遙かにイメージが伝わりやすい言葉だと思いました。
私も「総合商社の社長」を使わせて貰いますねv(^o^)
編集済



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 6日(火)12時40分39秒

私はこの頃、神武は降臨神話を持っている物部の祖先で、天皇家の祖先でなかったのではないかと思っています。どうも、橿原は巻向より、唐古鍵の勢力圏のように思います。崇神が天皇家の祖先であったように思います。記紀が、ニギハヤヒに冷たいのも、物部を乗っ取ったということだと思います。物部は、皇后は出さないという不文律があったようで、(これっていつ頃からでしょうか?昔からとも思えませんが。)このため、天皇家の一族であった可能性はあるように思っています。



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万行遺跡 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 6日(火)12時29分01秒

石川県七尾市万行町に、万行遺跡という、日本一の倉庫遺跡が、今年発見されました。兎に角、でかいらしく、越の国若しくは倭全体の大物流センターだったと言います。七尾市は、ゆくゆくは,遺跡公園として整備することを考えていると言います。石川県は、古代にあっては、能登の方が大和朝廷の影響を色濃く受けているようです。それに比べ、加賀は出雲系のようです。大和朝廷から見れば、能登は近国、加賀は遠国であったようです。
継体天皇は、大網元より貿易にも手を染めていた、今の総合商社の社長のようなものであったと思います。



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ワニ 投稿者:大三元  投稿日: 8月 6日(火)10時41分02秒

きんたろうさん wrote:

「おきなが」は「沖にある獲物」から来ているのではないかと大三元さんが
 言われています。
 因幡の白兎と同じようにアイヌ語からも古代日本の断片をうかがい知る事が
 出来ると思っています。

リファありがとうございます。沖とワニのつながりを考えています。
海神からオキナガタラシ姫まで、なんとか連続していそうな感触を得ています。
長くなるのでメモをアップしておきました。
http://www.dai3gen.net/wani01.htm
なお、『「おきなが」は「沖にある獲物」』という意味には捉えていませんで、オキ、ヲキ、ヲチつながりの間に「イソ」(獲物)が見られる、という観察をお話ししたことがありますね。

http://www.dai3gen.net/wani01.htm



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静養 投稿者:みのる  投稿日: 8月 6日(火)05時09分58秒

鬱病治療のため、夏休みは帝国ホテルで過ごします。
このホテルは会社から近く、自宅よりもおちつけるスペースです。



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ただいま帰還いたしました! 投稿者:極悪忍者  投稿日: 8月 6日(火)01時43分22秒

足が痛いでござる。
水曜日から出張でござる。
きびしー!



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隼人 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月 5日(月)22時14分26秒

は海幸彦の子孫という事になっていますからね^^

兄弟けんかの話は家督相続争いがあった事を意味していると思いますが、それでも兄の一族は対外的には第一に信頼できたという事なのかな??と思っています。
霧島からみて東の日向に山幸彦の領地があって南の鹿児島付近に海幸彦の本拠地があったのでしょうか??
私の説では鹿児島=かぐしま=鹿島ですから、この一族が海流に乗って日本列島を北上した可能性を考えています。

もっとも私の基本的な考えは「現地化」ですから、各地で婚姻を繰り返したものであろうと思っています。

kitunoさん
聖霊会と蘇莫者ですね。
早速拝見しますね(^O^)g

「おきなが」は「沖にある獲物」から来ているのではないかと大三元さんが言われています。
因幡の白兎と同じようにアイヌ語からも古代日本の断片をうかがい知る事が出来ると思っています。
海幸彦・山幸彦の話は古代日本列島に住む人たちがいかにこの環境が恵まれたものであるかと感謝の心を表しているように感じています。
編集済



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そう言えば 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月 5日(月)22時09分33秒

カリオストロのルパンはルパンらしくありませんでしたね、笑
絵が可愛すぎました^^

>宮崎世界は時代考証の不要なお話です。
ペギラさん説になるほどと納得してしまいました^^
確かに鎌倉時代から室町時代のような感じでもありますが、鉄砲が伝来している事から見ても時代は設定できてしまいます。
まして浅野氏といっていた点から見ると。。。笑
そうすると秀吉隊が中国路に侵攻していった頃の話になるのかなと思いますが、それでもあれほどの「たたら」は果たして存在したのかという疑問が出てくると思いますよね、笑

宮崎さんま頭の中で創り上げられたイメージ。。。
そのために渾然一体となった時代を表しているのならとても納得しやすいと思います^^
どちらかというとアメリカで発達した「サガ」に似ている様な感じですよね。

バック・トゥー・ザ・フューチャーは私も大好きな映画です。
あれも当初の予定は4部作だったのですが予想を遙かに超えてヒットしたために??短縮されてしまったのですよね。

「一書に曰く」については「伝承の揺れ」を現していると考えた方が自然かなぁと私は考えていますが、楽しみ方は色々ありますよね^^

太田さんも書かれているように
>私は、これに為政者に都合の悪いことも、入れたのではないかと思っています
このようにした態度は「科学的」というか「公正な歴史を後世に伝えたい」という意欲の表れであると感じています。
何とでも言える、もしくは、言いくるめる事が出来た??時代なのですから、これは極めて特筆すべき出来事であると思います。

恐らくは数人の功績を一人の人物に載せてしまった部分はあるのだろうと思います。
でもそれは信長が行った岐阜城攻めを「秀吉」を主役にして書き直すようなものではないでしょうか??^^
編集済



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再度アテルイ 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 5日(月)17時27分22秒

桓武が、もしアテルイを助命していたら、東北はもっと早く大和に入っていたように思います。孔明の七禽七放じゃないですが、アテルイに東北経営を任せていたらと思います。桓武は、明君だという人もいますが、私は、後醍醐と同じ欠徳の天皇だったと思っています。



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またトンデモ説です。 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 5日(月)17時00分36秒

隋書倭国伝のタリシヒコ大王に、姓はアメとあったと思います。天皇家には、姓はありません。日本には、江戸まで庶民にも姓はありませんでした。日本では、最上階と最下層に姓がなかったことになります。そこで、天皇家の姓はアメ(この場合,天という字のように思いますが。)だったのではないでしょうか?天皇家はアメという姓だったので、姓を名乗る必要がなくなったとはかんがえられないでしょうか?そして、このアメ姓は、アメノヒコボあたりと関係あるのかなーと思います。



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宣伝^^;; 投稿者:kituno  投稿日: 8月 5日(月)16時33分55秒

「聖霊会と蘇莫者」についてまとめたものを更新しました。
もう皆さんの記憶からは忘れられてしまった話題かも知れませんね。^^;;
興味があったら読んでみて下さい。

ところで『日本書紀』の「神功皇后」について私もきんたろうさんの意見に賛成です。
「一書に曰く」と同じ書かれ方をしていると思います。
「中国の歴史書『魏志』倭人伝に書かれている「卑弥呼」とは、神功皇后のことです」と『日本書紀』の中で主張しているような感じがします。^^;;
とはいえ、私も『日本書紀』の編者が主張するように卑弥呼=神功皇后という見方には否定的です。
『日本書紀』の編者達は、様々な国の歴史書の研究をした上で編纂に取り組んでいることがわかりますよね。

神功皇后の母の生家がアメノヒボコ(なつかしい^^;)の子孫の但馬の出石族であることが『古事記』の中には明記されていて、『日本書紀』では近江の豪族息長氏の出であるとしています。皇后の名の「オキナガタラシヒメ」はこの息長氏の出であることを示しているような感じがします。
三品顕英氏は神功皇后ゆかりの地と記紀や風土記に伝える地が殆どアメノヒボコ・ツヌガアラシト・ヒメコソの神ゆかりの地と重なり合っていることを指摘しています。
きっと勇者ロトさんなら詳しいかと思うのですが、すっかりご無沙汰ですね。^^;



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隼人 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 5日(月)12時38分58秒

隼人は、天皇の警護を担当してますよね。警護担当ということは、一族か頼りになる味方かでないと、危なくてしょうがないと思います。隼人は、今の鹿児島あたりにいたと思います。邪馬台国は、魏との交渉を絶っています。これは、邪馬台国が滅亡したか、海への出口を敵対勢力に押さえられたかのどっちかたであると思っています。この時点で、邪馬台国の国力は衰亡したと思っています。隼人の天皇警備を見ると、このあたりの勢力が東征し、大和朝廷になったと思います。そこで、邪馬台国より南にあった勢力が、邪馬台国を乗っ取った。しかし、この勢力も、別の勢力に追われ、大和盆地への移動を余儀なくされたと思っています。そして、この勢力が、大和の天皇家の祖先ではないでしょうか?古代にあっては、大陸に近い九州こそが先進文明圏であって、大和は片田舎だったと思います。この勢力と,今の天皇家が結びついているかは疑問ですが・・・。この、邪馬台国を滅ぼした勢力を、九州から放り出した勢力が、磐井の先祖であったかも知れません。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 5日(月)08時46分44秒

日本書紀の、一書に曰くの私ときんたろうさんの決定的な違いは、きんたろうさんは、長い間の言い伝えのブレのみと見ていらっしゃいますが、私は、これに為政者に都合の悪いことも、入れたのではないかと思っています。ちなみ、応神の敦賀の気比神宮の大神との名前の交換が、最も顕著な礼だと思います。私は、一書に曰くは、後者の為政者に都合の悪いことは結構入っていると思います。要は、結構自発的な一書に曰くがあると思っています。神功皇后は、実在したかどうかは別として、正統な九州系皇統とは、別の人物だと思っています。(私は、架空と思いますが・・・。決定的証拠がありません。)神功皇后は、もし実在しても、マイナーな人物で、メジャーでないが、しかし、捨てるわけにも行かない。そこで、他人の功績を入れ易かったうえに、中国向けの日本の皇統はこんなに長いんだー。ほら、お前達の知ってる卑弥呼は、この時代だぞ。その前に何人の天皇がいると思ってるんだー。ということを強調したかったのだと思います。
神功皇后の業績は、なんとなく、後世の毛利元就の三本の矢の教えのようなものだと思います。応神天皇(後半)は、朝鮮半島からきた人物の可能性が高いと思っています。播磨国風土記を読むと、あのあたりが応神の故地のように、それこそ佃煮にするほど有ります。私は、次のように解釈・想像しています。前半の応神が、敦賀あたりで、気比大神で戦争に負け、気比大神がホムタワケを奪い、その前半の応神を支持していたのが、吉備勢力だったので、気比大神の後半の応神が、なおも前半の応神に忠誠を誓う、これら吉備勢力の討伐に向い勝ったが、その戦後処理が当を得ていたため、その話が残ったのだと思っています。古代においては、勇者の名前を勝者が奪うということは、よくあったと思っています。



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宮崎ワールド 投稿者:ペギラ  投稿日: 8月 5日(月)00時04分23秒

もののけ姫もそうですが、宮崎世界は時代考証の不要なお話です。
宮崎さんの世界は、現代人の作る記紀の神話のようなものです。

ものすごく柔軟な発想で、マジカルワールドなのです。
もののけ姫も細かく見てみると、おおおおっ!!なんてのも数多くあります。
古代物のアニメなんてそうそうありませんので、
こんなことを思いつくこと事態、不思議な感覚をもっている方だと思います。

これと同じような気分にさせてもらった洋もの映画があります。
「バックトゥーザフゥーチャー」
何度見ても新しい発見がある。

見ればみるほど味が出る。



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例えば 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月 4日(日)23時45分58秒

継体天皇とは当時の巨大な「網元」のような存在だったのではないでしょうか??^^

「易姓革命史観との衝突1」にも書きましたが、日本列島は膨大な長さの海岸線を持っていますから、「大きな勢力」は時代を遡れば遡るほど「海」に関わる比重が高かったものであると考えています。
北陸地方も他の地方と同様に交易などをしていた筈ですから、福井付近の「大豪族」でもあった継体天皇が朝鮮半島の文物を手にしていたとしても、それは当然だと言えるはずだと思うのです。

そしてこれは継体天皇だけに見られる特徴ではないのは、日本列島の地形から見ても「海の幸」に大きく依存していた社会であるという事実が有るからだと思っています。
彼らが巨大な豪族であるということが、乃ち巨大な網元(のようなもの)であるという理屈も同様にして成立すると思っています。



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高坂さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月 4日(日)21時41分07秒

が書かれているように卑弥呼の事を実は当初は知らなかったのではないか??と私も感じています。

江戸時代は約250年間で将軍が15人いました。
同様に室町時代も250年間で15人ですから、一人当たり平均在位年数は江戸時代とほとんど同じくらいですよね。
それでこれを(一応^^;;)基準に考えて15代で250年間であると規定してみました。
この期間を当てはめてみると、推古は34代目で即位したのが西暦592年ですから、ここから逆算していくと初代の神武天皇は500年くらい前の時代と仮定する事が出来ます。
西暦0年から100年くらいを誤差の範囲とします。

するとこの時代はちょうど「いいな、金印、光武帝、57年」(=漢委和奴国王印)と同時代の頃なのかなと思いました、笑。
この頃に九州北部にあった奴国と日向付近にあった(と思われる)神武天皇の本拠地(=大和の前身)は直接の関係は無いと思いますが。。。

それに57年というと新羅建国神話による建国年もちょうど同じ年に当たりますね。
要するにこの頃に極東にある小国家が成立し始めたという事なのでしょうか??

神功皇后の時代は15代前なので推古天皇よりも250年前と仮定すると約350年頃の話ではないかと思えてきます。
すると卑弥呼の時代よりも100年くらい後の時代になるのではないでしょうか??

史実からみると百済、新羅は日本に調を持ってきていましたし、王位継承権のある人物が人質として日本に来ていましたから当時の日本との力関係は一目瞭然だと思います。
この始まりを日本書紀では神功皇后の時代だと書いているわけですが、好太王碑文が391年ですから、時代的に近いものを感じています。

なお、新羅や百済は当時の朝鮮半島で群雄割拠している小国の一つでしたから、戦国時代のように同盟を結んだり、敵対していたものと考えています。

その場合、基本となるのは「遠交近攻」政策ですよね。
要するに戦国時代はどこでも合従連衡を行うものであるという例だと考えています。

朝鮮半島の新羅や百済はそのために海の向こうにある倭国に朝貢してきたのだろうと考えています。
勿論倭国の軍事力がずば抜けていたのは日本書紀ばかりではなく、好太王碑文によっても証明されていると思っています。

時代はちょっと後になりますが、仁徳天皇陵の巨大さから見ても当時の大王の動員力がものすごいものであった事が伺われると思っています。
編集済



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神功皇后 投稿者:高坂英吾  投稿日: 8月 3日(土)20時34分41秒

このきんたろうさんの紹介して下さった文の通り、
『日本書紀』は、消極的に「神功皇后=卑弥呼」としているわけですよね。

架空かもしれない(少なくとも新羅をコテンパンにやっつけたということはないであろう)はずの神功皇后の扱いは、『日本書紀』内では破格の扱いだと思います。
なにしろ、他の天皇と並んで一巻立てになっていますしね。

つまり、『日本書紀』は「神功皇后はスゴイんだぞ〜」と言っているわけです。(実際にスゴイのかどうかは別として)

卑弥呼はレッキとした「親魏倭王」であり、倭国内30国を束ね、魏と公式に交流を持った偉大な人物です。

ここが不思議だと思います。
つまり、『日本書紀』は「神功皇后はスゴイぞ〜」と言いつつ「親魏倭王だぞ〜」とか「金印をもらったぞ〜」とか言っていないわけです。
まるでひと事のように、「魏志倭人伝にはこう書いてあります」と言っているだけです。
神功皇后を持ち上げるのであれば、卑弥呼の功績を誇張して書いてもいいだろうに・・・。(自分の文章では書いていないわけですからね)

このあたりから、『日本書紀』は本当は卑弥呼は誰か知らなかったのではないかという説があります。「時代的に、神功皇后の頃かな」という程度だったのかもしれません。

いずれにせよ、何となく解せない部分ではあります。



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日本書紀へのこだわり^^ 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月 3日(土)08時38分49秒

四十年、−魏志にいう。
正始元年、建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。

四十三年、−魏志にいう。
正始四年、倭王はまた使者の大夫伊声者掖榔耶ら、八人を遣わして献上品を届けた。  

六十六年、
この年は晋の武帝の泰初三年である。
普の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。


太田さんが指摘されているのはこのあたりですね??
これは日本書紀を読んでみると異聞的に書かれている事が一目瞭然だと思います。
要するに「一書に曰く」の一例になるのではないかと思っています。
それにしても邪馬台国と大和が直接的な繋がりを持っていない感じがこの部分からも伺われますよね。

神功皇后を卑弥呼に比定する意見については私はどちらかというと否定的な意見を持っています。
つまり、神功皇后は確かに巫女的に神のお告げを聞きましたが、彼女は仲哀天皇の夫人であり、また応神天皇を妊娠していたというシチュエーションから考えても卑弥呼と似ているとは言えないと思っているからです。

日本書紀が真実ではないという意見の場合にはどのレベルにおいて真実ではないのかという線引きが実は重要になってくるのではないでしょうか??

つまり年数だけをみればこれが不自然なのは一目瞭然ですよね^^;;
でもそれだけを持って書かれている内容の全てが嘘であるとは断言する事は出来ませんよね。
また、嘘であると断定した場合には、基礎となる資料が全く存在しなくなるわけですから他の説そのものが存在しなくなるわけです。

たとえば朝鮮の歴史書である「三国史記」の成立は1145年ですし、三国遺事については13世紀の成立である事くらいしか分かりません。
伝承の揺れの大きさは成立年代からみても日本書紀の比ではないと思います。

このあたりから朝鮮半島の歴史を再構築する最大の史料が「日本書紀」になるというわけなんですね。
もちろん中国側の史料もそうですね。

そう言えば、鎌足と中大兄皇子のエピソードを金春秋のパクリであるとして毘曇の乱を例に挙げた人がいましたが、これなどは本末転倒の典型だと思っています、笑
でもこのようなトンデモは結構多いように思います。

神功皇后の功績の全てが書かれている通りかという疑問を持つことは当たり前だと思いますが、架空説そのものについては私は逆に疑問を持っています。
というのは応神天皇の母親が架空の筈がありませんから。。。^^;;

その上当時の複雑な姻戚関係が想像上のものであるとする方が不自然だと思います。
日本武尊にしても複数説がほとんどだと思いますが、「小碓」は必ずやいたはずですよね。

これは聖徳太子架空説と似ている部分があると思いますし、水戸黄門架空説とも似ていると思います^^

神功皇后架空説については戦後になって「新羅征伐」に対する遠慮の思考から逆算して作られたような感じを受けています。
また、当時の勢力では「ありえない」という初めからの結論ですね。
でもこのような態度は学者の場合はとても謙虚とはいえないと思っています。
要するに自分の望むような結論があってそれに合わせて史料を整備するような手法だからです。

好太王碑文改竄説やトンデモ読みを北朝鮮の学者が唱えた時に、ほとんど無批判にその説に飛びついた日本の歴史学者がいたそうですが、この人達の悪影響が今でも残り火としてあるように思います。

もちろん私達が可能性を楽しむ分には問題はありませんv(^o^)



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もののけ姫 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月 3日(土)08時37分52秒

は私も見ましたよ^^

話からすると「もののけ姫」というよりは相手役の男の子の方が主役みたいな感じの話でしたよね。
時代設定が戦国時代末期らしいのがちょっと違和感がありました。
もう少し前の時代の方がしっくりとするかも知れませんね。

覚えている部分はダイダラボウと山の神である巨大なイノシシ、鉄砲、たたら製鉄と浅野氏だったかな??笑

宮崎アニメはナウシカとかトトロが好きです^^
千と千尋はまだ見ていません^^;;

ちなみに古代日本=縄文の痕跡は日本全国に地名として残っていますよ。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 2日(金)16時49分58秒

>魏志倭人伝に書かれていることが日本書紀にない点からみて邪馬台国と大和の間には直接的な関係はなかったのではないかと思っているのですが。。。笑

あのー,神功皇后の項で、そのまんま魏志倭人伝というところがあります。私が、神功皇后が架空だと思う一因です。日本書紀は、中国向けの顔もありますので、ここに卑弥呼の話をいれて、日本の皇統は長いのだぞーと、言いたかったのでないでしょうか?応神は、日本書紀の一書に曰くで、敦賀の気比神宮の大神と名前を交換したとありますので、応神は外来勢力でなかったかと思っています。私は、天日矛の話で、応神は朝鮮半島からきた勢力であったとも思います。



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宮崎アニメ 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 2日(金)12時50分10秒

私は、申し訳ないんですが、宮崎アニメ見たことがないんで、コメントできません。

マキさん、魏志倭人伝は里程と水行,陸行と二つの基準で書いてます。この違いは、里程の部分は、通いなれた道で、水行・陸行の部分は、行った事がなく、何処か(奴国あたり?)で聞いたか、初めてのところだと思っています。何故なら、初めてのところは、車でどれくらいと言い、何キロとは言わないのでないかと思うからです。



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いきなり 投稿者:マキ  投稿日: 8月 2日(金)00時40分01秒

私の知り合いに熱心に「もののけ姫」について語る人がいます。
美麗な映像はさることながら設定、中身が古代日本を
ガチっととらえていると絶賛してました。アシタカの住んでいるところ
とか、ヤックルはなんなのかとか、とにかくいろいろ話してました。
小さい子むけにみえて、歴史家からすると、語り尽くせない
重大なテーマが盛り込まれているそうです。
お二人の目からみてなにかかんじました?
ちなみに彼は今、千と千尋の神隠しの「車」のナンバープレートをみて
この作品の重要性を悟り、絶賛してます。



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はは^^;; 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月 1日(木)19時26分05秒

マキさん
妄想でも何でもここでは面白ければオーケーですよ。
でも仮説は仮説なりの説得力をもった動機が必要だと思っています。

例えば天皇家が朝鮮半島出身者だったとしても問題は全くないと思います。
ただし問題だと思うのは、天皇家(=倭国)の勢力が朝鮮半島に及んだあとで関係を持った事を後付的に考えて結論を断定する人がいることです。
これについては全くトンデモだと思っています。

可能性の一つとして私も文章を載せていますので見て下さいね^^
「藤原氏の秘密」とか「パスカルの言葉」に書いてあります。
編集済



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邪馬台国 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月 1日(木)19時18分50秒

についてはよく分かりませんよね。
私も心情的には「九州説」を支持したいのですが最近の大勢は「機内説」が有力とのことですね。

私個人の感覚としては陳寿にそれほど信頼を置いていないという部分があります。
勿論、嘘八百というつもりは全くありませんが、あそこに書かれた300字弱の文章で全てを分かろうとする事自体が無理だと思うからです。

魏志倭人伝に書かれていることが日本書紀にない点からみて邪馬台国と大和の間には直接的な関係はなかったのではないかと思っているのですが。。。笑

場所を特定するよりもシャーマンと男王的な関係がを読みとる事が出来るだけで十分であるような気がしています。

私はやはり日本書紀をベースにして古代史を再構築している限り、部分だけ取り上げるのは「公平性」に欠けると感じています。
ここからは信じられるけど、こちらは嘘だと勝手に線引きされてもそれは「あんたの勝手でしょう、笑」と言いたくなってしまいます^^

日本書紀とは語り部によって伝えられてきた伝承を集めたものです。
そこには当然ですが「伝承の揺れ」があったであろうと思います。
このような点について、「一書に曰く」と異聞を並記している点から見ても日本書紀が公平であろうとした態度によって作られたものだと思うのです。

太田さんも書かれていますが、マキさんも遠慮せずに書き込みをして下さいね^^
頭の中で漠然と思っていたことも文章に現すとはっきりしたものになると思います。

二重投稿は消しておきましたv(^o^)



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勝手な妄想かも 投稿者:マキ  投稿日: 8月 1日(木)19時10分14秒

日本の天皇をさかのぼると武烈天皇までいけますが
あやしいものです。継体天皇は越前から迎えられたそうですが、
彼は本当に「日本人」なのかどうかぎもんです。
だってそうでしょう?自称なわけだし。
ひょっとしたら、朝鮮半島から逃げてきた普通のひとかもしれないじゃないですか。
もしそうだとしたら大変ですよね。日本人のアイデンティティ大崩壊って感じ?
だから、発掘させないのかな。
でも、もし今の天皇が「朝鮮人」の系統だったら
日本が朝鮮半島との友好を図っていく上で、重要な意味をもつと思いません?



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マキさん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 1日(木)17時04分01秒

指をくわえてみてるのじゃつまらないでしょう。意見が無理なら感想でも書いてください。



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マキは本当にあほなり 投稿者:マキ  投稿日: 8月 1日(木)14時59分09秒

同じコメントいれてすみません



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マキはあほなり 投稿者:マキ  投稿日: 8月 1日(木)14時57分07秒

私は歴史をかじり始めて間もないし、しばらくは皆様の会話を
指をくわえて見てるしかないですね。(じゃー、入ってくるなって感じ?)
そのうち、意見でも交わせるようになりたいもんです。



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下の補足 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 1日(木)13時47分49秒

邪馬台国を滅ぼした勢力が動いたか、邪馬台国が滅亡寸前までいき動いたかのどっちかだと思います。私は、神武東征伝説から、後者かなと思っています。



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邪馬台国 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 1日(木)13時29分17秒

私は陳腐ですが、邪馬台国九州説です。魏の使節が、邪馬台国に行ったかは、懐疑的ですが、日本列島が今の状態で、魏志倭人伝の記述が正解なら,九州だと思います。それが、東に移動して、大和朝廷になったと考えています。
道鏡事件の時、御神託を聞きに、皇祖神がいる伊勢神宮でなく、遠くの宇佐神宮まで行ってます。不思議です。手間も金も係ります。私は、宇佐神宮に皇祖神がいたのではないかと思ってます。九州系の皇祖神は宇佐神宮で、出雲系の皇祖神が伊勢神宮のように思っています。多分、大和は出雲を乗っ取たと思っています。そこで、崇りが怖いので、伊勢を皇祖神としてあがめたと思っています。邪馬台国は、中国と交流を絶ってますので、九州にせよ大和にせよ、その終りは悲劇的だっただろうと思っています。



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太田さん、きんたろうさん 投稿者:マキ  投稿日: 8月 1日(木)11時18分02秒

太田さんは、『日本書紀』説ですか?私はあんまり詳しいことは解らないんですが、
世間では、538年をとるのが定石のようですね。
ところで、私の知り合いに、「邪馬台国は何処にあったのか、
ぜひとも調べたい。」と言ってる人がいます。
北九州、近畿どっちだと思います?
やはり、後のヤマト政権と関係あるのでしょうかね?
彼はそれを調べるのに、何時間費やしても良いとかいってました。



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マキさん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月 1日(木)08時18分39秒

こんにちは。なんでもいいからと言われても一寸・・・。では、ローカルな話題から。日本書紀の欽明天皇の御世に越の国に、道君という、とんでもないおっさんがいました。このおっさん、高句麗の欽明天皇への献上品を、我こそは大和の大王だー。といって、自分のポッケに仕舞いこんでしまいました。ところが、それがバレてもお仕置きされずに済んでます。これは、継体天皇の即位に功績があったからでないでしょうか?私の住む金沢の隣町の野々市町末松というところに、大きな末松廃寺という寺院遺跡があります。これが、道君の氏寺だと言われています。大きさは、東大寺を凌ぐとか言ってますが。私は、歴史の教科書で、仏教の伝来は538年になってますが、特に日本海側の豪族を中心に、これ以前に、仏教は既に伝来していたと思っています。特に、馬子が守屋と仏教議論に勝利したということは、馬子は仏教の教義を相当深く理解していたと思います。でないと、議論に勝てません。



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暑い^^;; 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月 1日(木)06時15分25秒

昨日はものすごい暑さでしたが先ほど登ってきた朝日も既にじりじりと遠赤外線を感じます、笑
今日も猛暑になりそうですね。

みのるさん、気分が鬱になりやすいのは分かるのですが元気を出してくださいね。
藤原氏5あたりを読んで見て下さい^^
きっと元気が出ると思います、笑

太田さん、強烈な思い入れの部分って必ずありますよね。
だから歴史は楽しいと言えるのかなと思ったりしています。

マキさん、ようこそいらっしゃいました。
遠慮せずに会話に参加して下さいね^^



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太田さーん 投稿者:マキ  投稿日: 8月 1日(木)04時35分24秒

太田さーん。マキです。何でも良いから何か話題提供して下さい



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はじめまして 投稿者:マキ  投稿日: 8月 1日(木)00時17分09秒

マキと言います。皆さん色々とお詳しいですね。
特に太田さん、歴史関係の掲示板の書き込みランキングに
のってるの見ましたよ。たまたま私の教わっている教授と同姓同名だったので、注目
しちゃいました。私も会話にまざりたいデス。



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