過去ログ169(2002年〜8月21日)


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疲れました 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月21日(水)20時54分05秒

さすがに半日以上歩きまわると疲れます(^_^;



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焼尻さん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月21日(水)08時55分13秒

日本の船については、本当に文献が少ないです。纏めたのは,ほとんどない。まあ、源平以前は、皆無に近いです。その点、ヨーロッパは違います。遣唐使船にしても、構造が全然分からない。何人乗っていたかとかは分かりますが、構造船だったかすら分からない。航法にしても、天文航法をしていただろうけど、どうやっていたかが分かりません。人差し指と中指で、天体を測るという方法は、漂流した時良くやります。そこで、そうしたんだろうと推測するしか方法がない。
日章旗ですがね、これって元々軍艦旗だったんですよ。それが、明治26年に今の軍艦旗が制定されて、軍艦旗でなくなりました。島津のお殿様が、ヨーロッパにエンサイン(軍艦旗)ってもんがある、そこで日章旗をエンサインにしたらどうだ。って建白書を、明治2年に出したましたしかし、日章旗は遣明船が上げていたためらしいですが、遣明船がどこから引っ張ってきたかが分かりません。以前になにかの船に上げていたかも分かりません。日本の船ファンは、大体帝国海軍から入っていきます。なぜなら、帝国海軍ほど資料が纏まってるものがない。まー,それでも列強海軍に比べリャ微々たるもんですが。その点、イギリスは船に関しての資料は、腐るほど有ります。日本の船ファンは、9割は軍艦ファンで、商船ファンなんてほとんど居ません。その軍艦ファンの7割位は、帝国海軍艦艇命ですが。これは、商船の資料が大変集め難いことに由来します。ただ、日本で、欧米の船の歴史を調べようと思ったら、資料は割と簡単に手に入ります。日本の船の歴史を纏めたものは絶無に近いです。皇太子は、イギリスの内水面交通史が専門のようですね。
ただ、石川県では、手取川は昭和30年代までは、山間部への物資輸送の大動脈でした。40年以降のモータリゼーションでの道路開発が、内水面交通を破壊したと思っています。

きんたろうさん。明石海峡大橋ですが、神戸の港めぐりで、その橋の下に行くコースがありますよ。途中、造船所を通りますが、海上自衛隊の潜水艦は、神戸でしか作っていません。修理も神戸でしかできません。運がよければ、潜水艦が見れます。潜水艦の外板は、合金で金より高いとも言います。更に、溶接が非常に難しい。そこで、アメリカも潜水艦は、エリックボート社でしか作れません。その点、日本は、三菱重工と川崎造船所という2社の神戸造船所で作っています。神戸には、新明和工業って会社もあります。ここでは、世界で唯一3mの波高まで着水出来る、US−1という救難飛行艇を作っています。この飛行艇、海上自衛隊の救難飛行艇ですが、滑走路がこの会社にないので、神戸港を水上走行し、危なくない沖に出て、離水します。運がよければ、港めぐりでこの飛行艇にもあえるかもしれません。確率的には、潜水艦の方が高いでしょうがね。



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明石大橋 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月20日(火)21時21分29秒

を初めて見ました。
漢文の書き込みは削除しました(^_^;
書き込みの場合は日本語でおねがいします、笑



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  川の文化 投稿者:焼尻紋次郎(本名;生田)  投稿日: 8月20日(火)20時01分00秒

太田さん、巨大情報、いつもアマカネ(これニューギニア高地石器時代人の挨拶語)

 16世紀でしたか、17世紀だったでしたか、忽然として日本列島から川の文化が消え
てしまった‥‥みたいなことを、なにかの本で読んだような記憶があります。

 沖縄にあるマホガニーという木はシッカリしまっていて、これで剣とか刀を作ったので
はないかと思います。
 ところが、日本は多湿でほとんどの木はホヤァ〜ッとなってしまりがありません。
 また、日本列島は仮りに道路を作っても、台風がやってきて作った道路のドシャを洗い
流してしまいます。
 アイヌもそうでしたが。運搬は船に負うところが多かったのではないでしょうか。
 そして、よその國と較べて車による運搬は極めて少なかったのではないでしょうか。

※ 固い木がない
※ 作った道路はすぐダメになる

 そこへ全国組織を持っていたらしいボッカ(運搬人)の出雲系サンカが顔をだします。

 わがくには太古のむかしから、あっちのくに・こっちのくにをウロつきまわった芸人
職人でしたか(?)が、ワンサといました。‥‥自由人です。
 それらを背景にしながら、16世紀でしたか、川舟文化が忽然と姿を消す‥‥。

 淀川での物売りの生態はかなり分っているそうですね。「オイ、コラ、これ買え」てな
調子でしょうか。なにしろ“海賊”を彷佛とさせます。
 皇太子は川船〜川の運搬の専門家だとか。
 「視野の空白」を埋めることを羊さんが奨めたのでしょうか。
 太田さん、川文化、船についてなにか本がありましたら、ご紹介アマカネ。

http://www.you-i.org



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三角波 投稿者:太田守人  投稿日: 8月20日(火)16時22分56秒

>瀬戸内海は海とはいっても外洋とは違って穏やかな海ですから、ひょっとしたら似たような物かもしれないと思いました。

瀬戸内海等の内海の方が、外洋より安全と思っておられる方って、結構いらしゃいますよね。ところが、嵐になったら外洋の方が安全なんです。洗面器に水を張って、ザブザブ波を立てると、波が洗面器の壁に当たって,波が成長します。そしてその波が、四方八方から来て、三角の波が起きます。これが、三角波といい、船が一番転覆し易い波です。このような時は、さっさと外洋に出た方が安全です。外洋の波は、どの方向から来るか見分けがつき、波はそんなに発達しません。三角波は、四方八方から来るので、対策が非常に建て難い上に、波が大きく成長し易いのです。1935年に、イギリスの駆逐艦8隻が、日本に親善航海に来て、神戸を目指して瀬戸内海を航海中、嵐に遭遇し、三角波により、8隻とも転覆寸前になり、これが元でイギリスは、駆逐艦を従来の2倍に大型化しました。また、日本海軍も水雷艇友鶴が、佐世保入港直前に、あの多島海でこの三角波にやられ、転覆し、艇長以下100名の殉職者を出しています。内海の方が、ほんとの嵐になると怖いのです。



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きんたろうさん 投稿者:kituno  投稿日: 8月20日(火)14時13分44秒

台風一過の晴天。楽しいご旅行になりそうですね。^^
帰ってこられてからの旅報告を楽しみにしています。

それから私のトピックにいろいろ書き込みをして下さり、ありがとうございます。
今日の私の書き込み、帰ってきたら読んで下さいね。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月20日(火)09時05分48秒

>話は変わりますが源平合戦の時に平氏側にあった「ござ船??」とはこの大型たらい船のようなものだったのでしょうか??笑

ところが、源平時代の御座船はじめ、平家の船は、宋船だったと思っています。宋船は、隔壁を世界で最初に持っており、更に、それまでは舵は櫂(舵櫂と言います。)だったのが、今のような舵を世界で最初につけました。ヨーロッパで舵櫂が、今の舵になるのは、大航海時代以降です。更に、元寇の時の元の船には、ブリッジまであります。ヨーロッパにブリッジが出来たのは、19世紀でした。この当時は、大和船といい、この宋船の構造を大幅に取り入れていたようです。
又、今に残る遣唐使船の絵は、平安から鎌倉に書かれたものが多いらしく、確かにほとんどが、大和船の特徴(反り返った船首と船尾)をもっています。ですから、大和船=遣唐使船と考えると、とんでもないことになると思っています。(専門家の中にも、こんな人が結構居ます。)



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ハッキングは止めましょう 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月19日(月)21時23分55秒

追跡した結果はこうでした。

2002/08/19 21:18:30 61.214.146.5:2092 (p8005-ip02higasisibu.tokyo.ocn.ne.jp) 61.193.107.27:80 World Wide Web HTTP

World Wide Web HTTP (2092/80)

HTTP は、WWW ページを提供および要求するために使用されます。


発信元のコンピュータがユーザのマシンで Web サーバをスキャンしたか、またはトロイの木馬「Executor」をスキャンした可能性がありますが、NeoWatchのセキュリティ フィルタによってブロックされました。「Executor」 は、標準の HTTP ポート 80 を使用するトロイの木馬です。

渋谷からこんな人の迷惑をしている君のことです。
反省するように!!

このイベントはHackerコミュニティーの活動と関係があるかもしれません。このイベントを報告することをお勧めします。メイン画面の『イベントを報告する』リンクから実行してください。



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よかったですね^^ 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月19日(月)21時11分52秒

みのるさん、ホッとしました^^
紋次郎さんの言われるように寝るのが一番の回復策だと思いますv(^o^)

ところで明日から関西方面に遊びに行って来ます。
悪名高いUSJにも行く予定です^^;;
空いているだろうと期待しています。



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 六日間 捨てた気持で 寝てください   投稿者:焼尻紋次郎(本名;生田)  投稿日: 8月19日(月)20時25分35秒

 よかったですネェ〜〜!!

 小生の実体験からは「とにかく・すべてを抛って眠ること」が最上の策です。
 あのとき、似たような体験者がいて、「オレは30日間眠た」と云ったのでしたが、
仕事に追われてあっしは眠ませんでした。

 できたら、30日間寝てください。たのみます。 

http://www.you-i.org



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脳梗塞ではなかった 投稿者:みのる  投稿日: 8月19日(月)19時30分45秒

今日も病院から呼ばれて東京女子医大へ救急車で行ってきました。
神経内科医の診断は脳梗塞ではなく末梢神経不随病といわれました。
とりあえずほっとしました。
この投稿も左手で打っています。



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古代史のイメージ 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月19日(月)18時38分37秒

時代は漢でも唐でも良いのですが中国の中原地方を東京に例えると、水戸や宇都宮が百済とか新羅に比定する事ができると思っています。
そうなると日本は仙台あたりになるのでしょうか??笑

仙台と水戸、宇都宮を比べれば誰が見ても仙台の方が大都会ですよね。
ところが私が勝手に命名している「百済絶対史観」の場合だと、仙台よりも水戸や宇都宮のほうがすごい(どこが??^^;;)という論法になってしまうのです。

いろいろな理屈をつけていますが、結局は水戸(=百済など)の方が仙台(=日本)よりも東京(=中国)までの物理的な距離が近いという一点のみが彼らの論理を支えているようです。
でも果たして東京に近いところが果たして無条件にアドバンテージを得ると決めつけていいものかと疑問に思っています。

恥ずかしながら私は子供の頃は水戸が東京の次にすごいところだと思っていました、自爆(;^_^A)
当時は京都とか大阪にまでは思いが至らなかったのですが、仙台や札幌よりは東京に近いのだからより文化的であり大都会だと思っていたのです。

どうも朝鮮半島だけを重視する文章を読むと子供の頃の自分が蘇ってくるのです、^^;;
勿論、無視すべきであるとは思っていませんよ。



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紋次郎さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月19日(月)18時37分26秒

>見解の相違ではなかったんですヨネ。
そうですね(;^_^A)

海は日本列島の外に広がる「可能性」を大いに持った道だったのですが、これが拡大解釈されるのは史実の捏造に繋がるような気がしています^^;;
誰もがいつでも安価に安全に確実に使えるものであるという、現代人が持っている海外旅行に対する感覚を古代史に無批判に適応させようとする人がいるために敢えて書いているところがあります、笑

これはやふーなどで見かける意見であってここに書き込みをされている人にとってはもちろん常識なのですが。。。

この困難さは陸続きの朝鮮半島の歴史をみればいかに日本と比べてハイブリッドであり征服などの歴史を持っているかがわかります。
また、中国史をみても歴代の王朝がいかに北方異民族との関係に苦労しているかわかるのですが。。。^^;;

このような認識の上で話しを進めるのではなく、「意思」があれば全てが可能であるというような短絡した発想をみるからです。
二元論的なというかロールプレイング・ゲーム的な発想は想像力が不足していると思っています、笑

太田さん
流石に太田さんの船に対する知識の広さ、深さはものすごいものがありますね(^o^)
話は変わりますが源平合戦の時に平氏側にあった「ござ船??」とはこの大型たらい船のようなものだったのでしょうか??笑

瀬戸内海は海とはいっても外洋とは違って穏やかな海ですから、ひょっとしたら似たような物かもしれないと思いました。



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デンマルク国 投稿者:太田守人  投稿日: 8月19日(月)15時54分39秒

内村鑑三の「デンマルクの国」と言うのが、日米戦が避けざるを得ない時、条約派と言われる、開戦反対の海軍士官の間で、ベストセラーになったそうです。これは、デンマークが軍部に引っ張られ、戦争に大敗した時、焦土と化したが、砲兵大尉だった人物が、武力で負けたが、経済で勝とうといって、農業を起こし、デンマークを経済大国にした話だそうです。この人達は、もうこうなったら仕方がない。悲惨なことになるが,負けて出直そうと思っていたそうです。米内なども、もうデンマルクの国しか日本の将来はない。と言っていたそうです。高須四郎という海軍中将がいます。この人は、戦艦艦隊の第1艦隊司令長官で、山本五十六戦死後、連合艦隊の指揮を、次の古賀峯一大将に決まるまで、代行をした人で、この時の激務がたたり、指揮代行後、死亡しますが、この時、小児麻痺で兵役と関係がなく、当時大学の助手をしていた三男に、このデンマルクの国を今際の際に渡し、「あんた。こっち方面で飯を食っていくなら、これをよく読んでおきなさい。日本は、間違いなく悲惨な結果になる。その時は、あんたの出番だ。」と言ったそうです。



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河船と海船 投稿者:太田守人  投稿日: 8月19日(月)10時51分37秒

>シナから乗ってきた船‥‥をそのまま造り続ける技術を維持していたら遣唐使などのポン
コツ船はあんまし出なかったのではないでしょうか。
 戦争とか、社会的混乱期に造船技術が衰退したことは事実ではないでしょうか

焼尻さん。私は、中国は宋までは、海の船より、河船だったと思っています。隋の煬帝の龍船も、上部構造物の大きい河船のように思います。海船と河船の大きな違いは、喫水の浅いか深いかです。河船は、1mmでも喫水が浅い方がいいのです。河は、出水期と渇水期では、水深が大きく違います。河船は、渇水期を考えて建造されています。喫水が浅い船は、転覆しやすくなります。そこで、幅を広げます。河船は、たらいのような船になります。たらいのような船は、風や波の影響を受けやすく、海に出ると、真っ直ぐすすめません。更に、河船は乾舷(船の水面から出ている舷側のこと。)が低く、上部構造物が大きいです。この乾舷が低いと言うことは、喫水を出来るだけ浅く出来るということです。これも、風の影響を受けやすくなります。海では、転覆しやすくなるということです。これに対し、海の船は、出来るだけ喫水を深く、波がありますので、乾舷を高く、且幅は狭い方が、操船しやすくなります。つまり、河船と正反対にしなくてはならないのです。戦争中、アメリカ海軍が、1,500隻近く量産した、LSTという戦車揚陸艦がありますが、この軍艦は、海岸に乗り上げ、戦車を揚陸するという任務のため、河船に近い構造になっています。つまり、喫水が浅く、幅が広いたらい船の構造です。このため、通常は、バラストタンクを大量に作り、そこに海水をいれ、喫水を少しでも深くし、海岸に乗り上げる寸前に、海水を排水し、乗り上げていました。海岸に乗り上げた時は、幅が広くないと不安定になるので、幅を出来るだけ広くしてあります。今、世界の海軍艦艇で、一番操船が難しいのが、この海岸に乗り上げる、LSTらしいです。河船の技術は、そのまま,海に使えません。中国の造船技術は、ある意味で、リセットする必要があったでしょう。



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 造船技術と生田姓    投稿者:焼尻紋次郎(本名;生田)  投稿日: 8月19日(月)06時50分25秒

 きんたろうさん、お手数かけてもうしわけないです。
 要は「造船に要する技術水準は橋や家などとはケタちがいに高度なものが要求される」と
いうことですかね。
 数年前、小矢部市の桜町遺跡から縄文期の“高度木組み技術”が出土して学者さんたちを
驚かせたことがありました。アレは当時の造船技術の粋かもしれませんなぁ。
 ついでですが、おらにはどうしてもクリカラとは「クリ(荷運び人夫)カラ(通路)」と
いう解釈がひっかかっています。

 日本語とのあいだに大量の類似語彙をもっているネパール語での「大工」は 「*DA(柱)
kar(造る)MI(尊身)」のほか、あと二つありますが、いずれも末尾に“MI”がついてい
て大工が社会的尊敬を集めていたことが知れます。
 前のおらのカキコは、「こういう神に近い技術者の家族を造船専業として指定しておき、
これに5〜6家族を従わせる。そうすれば、ゼニはかからないで舟が入手できる」‥‥をヘ
タに表現したのでした。
 見解の相違ではなかったんですヨネ。

 シナから乗ってきた船‥‥をそのまま造り続ける技術を維持していたら遣唐使などのポン
コツ船はあんまし出なかったのではないでしょうか。
 戦争とか、社会的混乱期に造船技術が衰退したことは事実ではないでしょうか。

 福岡(備前長船‥‥船!)の殷賑は、津山への川船による交易と瀬戸内交易が後背となっ
て出現したのでしょう。鍛冶屋の技術もさることながら、牛窓に伝わった造船技術は見逃せ
ないような気がします。このへん、きんたろうさん、太田さん、教えて頂けませんか。

 おらの父方の血は大きな楠の木伝説で有名な「豊後森町(童話の里で売りだし中)」の、
その「切り株山」です。生田家は明治の混乱期にツメ判捺して没落しました。
 没落したあおりで詳しい家系がわからなくなりましたが、どうも、この大楠伐採にまつ
わって、牛窓あたりから来た神官みたいなのが“生田姓”に絡んでいるのでは? との疑念
が残っています。

http://www.ypu-i.org



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 脳 硬 塞    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月19日(月)05時46分01秒

 みのるさん、わが敬愛する高橋稔も4年前、脳硬塞に倒れました。
 ひとごととは思えません。
 小生のバカのひとつ覚えですが、今からでも少しはお役に立つのかもしれません。
 まず、梅干しを食べてみてください。大きな柔らかいのを3ヶぐらいはいいのかな? このへん、よくは知りません。それと、水を1日に2リットルぐらい、ぼつぼつ飲みます。
 ビタミン C とコラーゲン(魚・とくにかれいの煮汁)もお忘れなく。
 大量の汗をかくと、血の濃度が強まって脳硬塞にかかり易くなるそうです。
 上の観点や対処法は、倒れる前のほうが効果的であることはもちろんです。倒れる前の方も、大いに水を飲んでください。汗とともに塩分やビタミン C が失われることに留意してください。

 みのるさん、右手だったのは幸いでした。
 高橋稔は左手だったので、たいして暮らしに不便を感じないのか、リハビリはサボってばかりいます。脳硬塞は本人の努力で必ず全快します。



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みのるさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月18日(日)22時33分02秒

いすずの主要車はジェミニでしたよね。
確かにいすずで造っている自動車の商品ラインナップはトヨタやホンダと比べると数段落ちると思います。
でもアサヒビールの例もありますから、将来もいすずがパットしないとは言えないと思います。
何とか頑張って欲しいと思います。

それにしてもふざけているのは首都高速ですよね。
毎日毎日あれだけ大量の車が利用しているにもかかわらず、赤字を出すなんてどう考えてもあり得ないと思いませんか??
コストを無視した新線建設が妥当かどうか再検討しなければ支持を得るのはもはや難しいと思います。
もちろんコスト積算については第三者監査が入るくらいのことはすべきだと感じています。

脳梗塞の疑いありではとても心配だと思います。
十分な再検査をして原因の追及をして欲しいと思いました。
また右手のリハビリ・プログラムも頑張って実行欲しいと思いました。
でも無理はしないで頑張ってくださいね。

紋次郎さん
例えば、橋を造る場合と家を造る場合と船を造る場合などを思い浮かべてみてください^^
橋を造る場合は、強度が必要とされますが「防水」の必要は全くありませんよね。
家を造る場合なら屋根の部分の「防水」が必要になります。
船を造る場合だと「防水」は絶対的に必要になります。

昔でも10人〜20人くらいの乗組員の船であれば荷馬車30台分くらいの荷物の運搬が出来る能力を持つはずですよね。
するとこれだけの「財産」を最低でも目的地まで運ぶには他の木造建築物よりも遙かに精度が求められるわけです。
更には人の命がかかっているわけですから、それこそいい加減な仕事ではとても許されるレベルではないのです。

つまり、橋大工程度の技術では問題にならないというわけなんです。
ですから、どんな業界でも富士山のように天辺の技術を持っている人間を使う場合には、それぞれの時代で最大のコストがかかるというわけです^^

ちなみにこれは昔の事を想定していますから、レインボーブリッジや瀬戸大橋のような斜張橋はどうなんだというような反論は想定していませんので、念のため、笑

話はずれますが宮大工のレベルがすごいのは確かですね^^
それもかつては20代で宮大工の棟梁をこなしている例がありますから、仕事を覚える集中力が飛び抜けていたのだろうと思います。



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脳梗塞 投稿者:みのる  投稿日: 8月18日(日)17時54分34秒

本日、右手の感覚がなくなり、東京女子医大に受診しました。
CTの結果、脳梗塞の疑い有りということでした。
この投稿も左手で打ってます。



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 日本の海賊 筑豊 投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月18日(日)15時12分43秒

 勉強ぎらいで通してきたあっしなんざには、原理原則をシカとみつめることだけが、残
されたたったひとつのテになってきます。
 太田さん、お蔭さまで、あのころの船のレベルが掴めたこうな感じです。
 きんたろうさん、どこが論のくいちがいやろか? ドカンにもわかるようなご解説を。

 オレ、下北半島の尻屋岬に「ストーン・サークル」のマークが地図に出ていたので、い
まから15年ほどまえに、見に行ったのでした。
 民宿をやっているオバチャンその他に訊いたのでしたが、誰もその所在をしりませんで
した。二十歳前後の青年が「そういえば、小学校のとき、みんなで行ったことがあるけど
それがどこだったかは忘れた」といいました。
 オレは「それでいい」と思いました。「ここがその遺跡だ」と表面に出てしまえば、あ
とは荒らされるだけですから。
 そのあと、クルマに乗ったままで、双眼鏡をもってギラギラした目つきで海のほうを見
ている70歳前後の老人がいました。
 そのひとにストーン・サークルの様子だけでも聴いて帰ろうと声をかけました。
 老人はチラとこっちを見ただけで、海から目を離そうとしません。とにかく目が血走っ
ていて異様なんです。
 老人は海を見つめたまま、ぼつぼつ語りはじめました。
 それによると、国籍不明の海賊船がやってくるそうです。やってくるや、わずか15分
ぐらいの短時間のうちに、えいえいと育てた牡蠣を網ごと抜いて、超高速で逃げて行くん
だそうです。普通の舟よりも速く走れる舟はドロボーができるのですね。

 海の出会いは一期一会だだなァ〜と、つくづく思いました。そして、あっしが生まれ
育った筑豊のことを想いました。
 筑豊を流れる遠賀川のオンガとは、あちこちのことばで洪水とか「水びたし」の意味と
なっています。
 筑豊の太古は葦蘆の原が広がっていて、これほど稲作に適した土地はないと思えるので
すが、巨大農耕ポリス国家は宮崎のほうが先に発展したようです。これは海岸線が単調で
海賊がかくれ棲む葦蘆原がなかったからだと云ってもいいでしょう。佐賀・熊本方面も筑
豊にいた海賊からうける被害で、ポリス国家の形成が速度ダウンしたことは容易に想像で
きます。
 遠賀川の舟といえば、明治期に石炭を運んだゴヘェタ舟です。流路を先に行こうとして
荒くれ男どもが、このゴヘェタ舟でさかんにケンカしました。仲を取りもったのが麻生と
いう直方(のうがた)の親分です(麻生太郎系とは別)。「のう」は舟です。
 ゴヘェタ舟とはへさきに御幣を立てたからでしょうか。なまえの由来など、まったく知
りません。ここにはなにか古代高速舟の跡はみられないでしょうか。なにかありました
ら、また高級情報をお願いします。

 川スジオトコの唄
 √♪ 遠賀川原の水増すころは 意気と度胸でやろうじゃないかヨ ヨ〜オ
    さあさ ○○の 羽ばたきだ 羽ばたきだ 

http://www.you-i.org/



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高校野球 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月17日(土)16時36分46秒

を久し振りに見ました。
一所懸命にやっている姿は何だかんだと言ってもやはり美しいと思いました。
でもこれだけの猛暑(今日はちょっと涼しいですが)の中ですやるわけですから、安全面には十分気をつけて欲しいものだと思います。

あまりにボーっとしているために頭の中に何も浮かんでこない状態です^^;;



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無料体験版の 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月17日(土)00時09分11秒

ファイアー・ウォールソフトを昨日インストールしてみました。
これはハッカー対策ソフトなので私には無縁のものだと思っていたのですが。。。
なんとアクセスをしてくる人がいるようなのには驚きました^^;;

実態についてはよく分からないのですがロサンゼルスとかシカゴとかシンガポール、ソウルなどからもアクセスがあるようです??
驚きました(;^_^A)

多分HPを置いてあるサーバーに立ち寄ってそこから来るのでしょうが全くと言っていいほど原理を理解できていません、自爆



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実は 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月16日(金)22時02分05秒

近代史の詳細については良く知らないことが多いのですが。。。
米光さんについては名前くらいの知識です。
それにしても無条件降伏をした時に海軍再建について指示を出すとはものすごい見識の持ち主だと思いますね。

アメリカとの戦争を選択した事自体が愚かだったと思いますが最近の韓国のやっていることをみると日本に対する挑発行為がかつての日本が行ってきた歴史にだぶってきます。

国防力の為に国土を荒廃に追いやった事実はどう考えても本末転倒だったと考えざるを得ません。
海軍もそれなりに省益に拘っていたのは理解できますが、やはり何と言っても陸軍が省益を大優先して本来の立場である日本のガードマンだとの認識を忘れた事が大問題だと思います。

日比谷講堂焼き討ちにしても攘夷の変形であり、列強に対するプレッシャーに対するストレスの様なものだったと思うのですが、ぷっつんしても何の改善にもならないのは分かりますよね^^;;



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焼尻さん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月16日(金)09時51分13秒

バーバリー海賊が強いのは、剽悍なのもありましたが、この快速船ダウに、追いつく船がなかったことが原因でもありました。このダウが、ヨーロッパの快速船クリッパーに発展しました。クリッパーが発展したのは、奴隷船としてで、新鮮さが命の奴隷をいかに効率よく、早く運ぶという至上命題のためでした。更に、軍艦の艦長は、海賊船と奴隷船を拿捕した場合、国際法でその場で、船長以下を絞首刑に出来るという条約が出来てから、奴隷船の高速化に拍車が係りました。奴隷船の後半では、15〜16ノットという、今のタンカー並みの速度を持つ、奴隷船まで現れ、これが、ティー・クリッパーに発展します。ただ、この条約が出来てから、奴隷はより最悪の運命をたどりました。つまり、船員は絞首刑になるより、積荷を喪うほうを選び、軍艦に拿捕されそうになると、奴隷を全員海に、放りこんで証拠隠滅を図りました。この時代、海の上で、数海里先から悪臭がするのは、奴隷船か捕鯨船だと言われていたそうです。
赤壁の戦い時には、中国にはすでに艦種がありました。
1.闘艦・・・今の戦艦。艦隊の主力艦。
2.大船・・・闘艦より小さいが、高速の今の巡洋艦。
3.走舸(そうか)・・・現代の駆逐艦のような高速船。
4.蒙衝(もうしょう)・・・小型の闘艦。今の砲艦。
です。闘艦は大体200名、走舸は約80名、蒙衝は20〜30名位が乗り組んでいたようです。大船の積載人員は分かりませんでしたが、100〜150名くらいかなーと推定しています。
ただ、赤壁の戦いは、今の赤壁の場所でなく、もっと下流だったというのが有力です。まー、正史には、そんな派手な戦闘がなかったので、赤壁は、三国志演義の創作だとする説も強いそうです。
ちなみに、有名な孔明十万本の矢を狩るって話は、明の太祖朱元しょうが、翻よう湖で戦闘した時、彼の旗艦に大量の矢がささり、転覆しそうになったので、船を反対を向けてバランスを取ったという故事に、ヒントを得た創作らしいですが。

きんたろうさん。私は、昭和海軍では、米内光政をもっとも評価しています。米内は、盛岡の人で、海軍兵学校の成績は、真中ぐらいでしたが、見識は大変なものだったと思っています。この人は、昼行灯と言われていましたが、引かないところは絶対引かなかったそうで、もし、彼が、連合艦隊司令長官をやっていれば、山本のように,近衛首相に「半年や一年は、存分に暴れてご覧に入れる。しかし、二年・三年となると自信がない。」ということは言わなかったと思います。近衛は、じゃー半年くらいで講和したらいいんだなーと思ったと思います。米内が海軍大臣のときに、「日本海軍は、アメリカと戦争出来るように建造されていません。」といい、えらい顰蹙をかったことがあったそうです。米内連合艦隊司令長官なら、近衛に聞かれたら、「勝てません。」で終わっていたと思います。
戦艦ミズーリーで,降伏文書に署名し、帰ってきた軍務局長保科善四郎中将を、米内海軍大臣が呼び、「君。海軍の再建案を考えろ。トン数的には、日清戦争開戦時くらいか。」と指示したそうです。今、降伏文書に調印してきた、保科軍務局長は面くらい、「大臣のご命令なら考えますが、海軍の再建なんて100年は無理でしょう。」と答えたそうです。そうしたら、米内海軍大臣は、「保科君。今米ソは蜜月で、お互い勝った勝ったと騒いでいるが、ここ10年以内に、米ソの大喧嘩が始まるよ。その時、アメリカは絶対大海軍国だった日本の手助けがいるはずだ。日本をいつまでも、素っ裸でおくはずがないよ。」と言ったそうです。海軍再建案は、この米内案が核となり、日清戦争開戦時の保有トン数ということで、計画を練ったそうです。



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紋次郎さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月16日(金)08時39分51秒

私も「朝鮮半島絶対史観」には反対の立場です、笑
この発想をする人達は人と人の交流とはお互いが共に影響を与え合い、そして影響を受け合うという極めて基本的な発想に欠けていると、どうしても感じられてしまうからなんです。。。^^;;

インダス文明圏とメソポタミア文明圏は交易で深く繋がっていたようですね。
去年上野の古代文明展に行って来ました。
インド産のビーズ製品がメソポタミアにもたらされているそうです。

インドから陸沿いに船を向ければガンジス川からインドシナ半島を経てベトナム、中国へと行くことが出来ます。
後漢時代には航路がはっきりと記されていますね。
インドから日本への道筋とは例えばヨーロッパ直行便というよりも「南回り」でヨーロッパまで行くような感じではなかったでしょうか??笑
要するに各駅停車に乗って東京から大阪まで行くようなものですね^^;;

でも「道」が閉ざされていたのではない事は確かだと考えています。

>きんたろうさんは、舟を作るゼニ高を心配されておいでのようですが、太古にはゼニはなかった

はっきり言ってこの部分には残念ながら賛成できません、^^;;
コストの事を言っているわけですからね。
カレンシーについて語っているのではないのです。
また、船職人に対するコストが他の労働に従事している者に対して特別に高いものではないというのであれば、それは甘い認識だと思いますよ。



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  舟 の 建 造 費  投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月15日(木)19時15分09秒

 太田さん、有り難うございます。
 そういえばダウでした。
 このダウ解釈にネパール語をあてはめるのは、ほとんど%でまちがいだと推測でき
ますが、形容詞後置形で「大きな柱」となります。

 きんたろうさんは、舟を作るゼニ高を心配されておいでのようですが、太古にはゼ
ニはなかった。
 かなりアタマのいい地方名士に「船作り」みたいな名前と家人5〜6家族(と、ともに扶持つけて)をつけておけば、10年に3〜5艘の舟をタダ(ゼニなし)で入手
できたのではないでしょうか。
 この「扶持」もネパール語。
 大工‥‥とくに宮大工とか船大工はイバった暮らしをしていたと思います。
 *DA とは柱です。 KUR は刳り貫くのクルでしょう。MI は僧への尊称 スワミに見
られるように、“尊身”です。‥‥‥> タクミ。
 柱とは神そのものです。
 ネパール語の I-NAM(名前)は「褒美」です。イカダで南米からポリネシアに辿り
ついたコンチキ号の6名さんは、ぜんいん現地流の二つの名前をもらいました。



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いすゞは情けない 投稿者:みのる  投稿日: 8月15日(木)15時21分32秒

いすゞは情けない。うちの会社の半分の負債でみずほの
金融支援を仰ぐなんて・・・
5000億位の借金など社員が給与を返上して払いたまえ!



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焼尻さん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月15日(木)12時53分59秒

ダウです。三角帆の快速船です。唐代、インド洋が国際航路でした。大食と言われた、アラビア人は、中国人の発明した、指南針を水に浮かべた簡単な磁石と木の棒と錘のついた紐を組み合わせた、簡単な六分儀のようなもので、星を計り大洋を航海していたそうです。ただ、中国人は、中華思想で「なんで世界の真中にいる、俺達が野蛮人のところへいかにゃならんのだー。」と言い、海外には余り出て行かなかったようです。日本が、唐に勤務評定が良かったのも、兎に角ボロ船(遣唐使船)で、海を越えてくるけなげなものだー。ということらしいです。中国が、造船や航海で、世界をリードするのは、宋代になったからで、それまでは、内陸水運の方が盛んでした。

きんたろうさん。NHKは、なんでこの話をすっとばしたんでしょうか?彼女がいなきゃ、海上自衛隊は、あんなに早く生まれませんし、こんなに大きくもならなかったでしょう。なんせ、海上自衛隊は、良し悪しは兎も角、アメリカ海軍の母乳で育ちましたからね。取材不足だと思います。野村元大将は、開戦時の駐米大使です。バーク提督が、彼女に会わず、先に野村元大将に合ったら、精々が、「だまし討ちの元凶が何を言ってやがる。」ってことになったと思いますよ。



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  セ・シ・ボンボヤ−ジュ    投稿者:焼尻紋次郎  投稿日: 8月15日(木)12時29分05秒

 船への揺り返しをごめんなさい。
 高校生が見る教科書に載っていますが「1世紀にはインド〜シナ間に“航路”がで
きた」とあります。
 だったら、これはインドの始発地はスリランカで、航路とは寄港地のそれぞれに同
意が得られたということでしょう。
 小生はエジプトとインドの交易についてもなんにも知らないのですが、知っている
ことは、エジプトはナイル河をぐ〜っと南下して、峠を東へ越えたあと、インドへ向
かったということをテレビで知った程度です。
 そのとき往復した船の名前を覚えておけばよかったのですが、太田さん、あれ何と
いいましたでしょうか。二つの三角の帆を持った交易船で、これは今でも活躍中だそ
うです。
 シナ〜インドの貿易は、この船に依ったのではないでしょうか。

 大野晋教授によれば、ア−リア人侵入まえのインド先住民の群れのひとつのドラビ
ダ系タミル語が日本に来ていて(類似語彙数は350ペア)、壱岐には凡インド語の
フレ(PURE‥‥集落)が数多く見られるそうです。
 小生は、このタミル語は1世紀に難破して壱岐に漂着したスリランカ人がもたらし
たものではないか‥‥と考えています。

 赤壁の戦いは208年だそうです。
 すでにこの頃、日本列島では遮光器土偶(3000年前)も入ってきており、クマ
リの日本版のヒミコが出現しています。これらの文化を運んできた船は、小型の舟
だったかもしれません。

 しかし、牛馬がどんどん運ばれてくるのは赤壁の戦いのあとからではなかったで
しょうか。呉軍から焼かれた魏の舟は平均してどれくらいの兵が寝泊まりできたので
しょう。
 このへんゼンゼン尻ませんが、尻たいこと焼尻のごとしです。
 オオクニヌシは馬に乗っていたそうです。

 このごろ聞いたハナシですが、俗にいう裏融資のM資金とは、ミリタリーとかスイ
ス銀行には関係なく、マ−・ナントカいう米人、個人の名前だそうです。日本復興の
ために作られたそうですが、それから先の事情は“裏ボン”だそうです。
 M資金にも帝国ホテルが憑き物のようです。
 横浜の高島桟橋はまさに心霊現象ともいうべき「高島易断の指導」で克ちとった資
金によってできました。
 アメリカという國はヘンなところにミョウなコトがあるようです。

 ※ クマリとは、インドの聖なる少女ですが、政治的には氏族連合の象徴だと思い
   ます。結婚式に現れるオチョ・メチョなどその名残りです。
   古代日本には物凄い数の「ヒミコ」がいた‥‥と、みるべきでしょう。
   コマラというのがクマルのパーリ語発音です。全国に散在するコマを高麗への
   みに結びつけて判断するのは危険です。朝鮮文化の先にはインドが見えます。

http://www.you-i.org



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太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月15日(木)11時37分58秒

はとても良い話をご存じなんですね。
いつもながら感心してしまいました^^

私も太田さんが書かれているように戦争などの悲惨な面ばかりではなく、人間の善(と言っていいのかはよく分かりませんが)の部分ももっとマスコミ等は伝えるべきだと思っています。

この女性の場合のように「凛」とした態度こそ堂々としたものであり「卑怯」の正反対に位置するものだと思います。

人はよく天使にも悪魔にもなりうると言いますが、確かにその通りですよね。
第二次世界大戦の責任の全てを日本に押しつけようとするのは極めて政治的な作為の元に行われているものであり、正確な事実からは極めてかけ離れたものだと思っています。

政治的に敗者になったのは負けた以上仕方がないと言えますが、それでも事実を曲げる事は勝者であっても許されないと思っています。

靖国神社に対するクレームなどは、正面からまともに戦いをしていない中国が言っているのですから正直言えば「下劣な精神」以外の何物でもないと思います。
このような感覚を悠久歴史を持つ国の末裔が持っている事は何というか哀れとしか言いようがありません。
単に難癖をつけているだけですからね。

勝てば官軍と言われるように、日本が敗戦を迎える直前には世界中の国々が形式上とはいえ日本に宣戦布告していました。
ですから、ある意味では日本もよくぞそこまで戦ったと思います。
結果としてはボロぞうきんのように悲惨なくらいにボロボロにされたわけですね。

それも世界中が日本に宣戦布告したという形式ではなく、実態はアメリカが正面から戦って日本を圧倒的に打ち負かしたというのが正確な事実です。
日本としてはアメリカと3年9ヶ月も続けたのですから、まるで明日のジョーの最終話のように真っ白に燃えつきた状態に近かったのではないでしょうか??

マッカーサーもバーク提督と同じように日本人に対して不信感や嫌悪感を持っていたはずなのですが、朝鮮戦争が始まった事によって日本側の主張が正しかったと更迭される前にアメリカの公聴会(だったかな??)で証言していたはずです。
要するに日本の行動とは一種の生存権を賭けた戦いであり、「悪の侵略」ではなかったと東京裁判の主催者が判決とは正反対の告白していたのです。

勿論、戦争は普通の人にとっては避けたいものであるのは言うまでもありません。
でも悪意による歴史の捏造によって日本人が将来も余計な負債を抱えるのだけは避けたいと考えています。
これは未来の日本に生まれる人に対する現代の日本人の責任だと考えています。
小中学生のような子供に対する責任でもあります。



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アーレー・バーク提督 投稿者:太田守人  投稿日: 8月15日(木)10時48分01秒

昨日NHKで、海上自衛隊の誕生秘話をやっていました。アメリカ海軍のアーレー・バーク提督という、軍人がいますが、この人は、海上自衛隊の父と言われています。この人は、朝鮮戦争の時に、少将で極東アメリカ海軍副長として、横須賀に赴任します。アーレー・バーク少将(当時)は、生粋の駆逐艦乗りで、特に、中佐〜大佐にかけては、駆逐艦戦隊の司令官としてソロモン海域で大活躍をし、31ノット・バークと仇名されていました。この仇名の由来は、ある時日本艦隊が、接近してきた時、迎撃を命じられた、司令官のバーク中佐は味方艦艇に、発光信号で、「どけどけ。本隊、31ノットで航行中。」と信号したためです。このような、闘将ですから、戦後もずーっと半日感情を持ちつづけ、横須賀赴任もいやでいやでしょうがなかったそうです。ところが、彼を親日にしたのは、帝国ホテルの一従業員でした。朝鮮戦争の和平使節団に加えられた、彼は、北朝鮮と交渉したが、うまくいかない。そして、アメリカ人は、ご苦労のごの字も言わない。いい加減頭に来た、アーレー・バーク提督が、日本に戻り、宿舎の帝国ホテルに戻れば、従業員が「お帰りなさい。お疲れ様でした。」と言ってくれる、朝鮮に行く時は、「いってらしゃいませ。お気を付けて。」と送り出してくれる。更に、彼の滞在中、一輪挿しに花が生けてあり、それが毎日変る。始めは、ホテルのサービスと思っていたが、どうも違う。そこで、よくよく聞いてみると、彼の部屋を担当している、女性従業員が身銭を切って生けていてくれたと分かります。バーク提督が、彼女を呼んで礼を言い、話を聞いてみると、戦争未亡人で、夫は海軍士官で、駆逐艦に乗っていて、ソロモンで乗艦と運命を伴にしたらしいということが分かります。いくら闘将でも、どうも寝覚めが悪い、そこで、戦争中の話をし、あなたの夫を殺したのは、自分かも知れないといって、詫びたそうです。しかし、彼女は「いいえ。悪いのは戦争です。もし、夫を殺したのが提督でも、あなたがなにもしなければ、あなたが死んでいた。提督、あなたは悪くない。」と言ったそうです。彼は、この一言に頭を殴られた気持ちになり、俺は、なんでこんな日本人を今まで嫌っていたのだ。俺はなんと尻の穴小さい人間なんだと思い、一気に親日家になったそうです。以後、彼はアメリカ政府の説得にかかります。アメリカ政府は、日本海軍の復活を恐れていたそうですが、彼の精力的なロビー活動により、海上警備隊が発足します。彼は、後にアメリカ海軍のトップである、作戦部長に登りつめますが、この作戦部長時代も、海上自衛隊に厚遇を与えつづけます。一つは、域外調達です。域外調達は、アメリカの予算で、外国艦艇をその国に建造させるというもので、敗戦国でこの適応を受けたのは、日本だけです。この時も、日本海軍が再び強敵になったらどうする。という意見が、アメリカ政府部内に強硬にでたそうです。2番目は、P2Vという対潜哨戒機の供与です。海上自衛隊に16機、ロッキードの工場から出てきてすぐ供与されました。この飛行機は、最新鋭機でアメリカ海軍にも、数機しかまだ配備されていず、アメリカ第7艦隊や厚木基地のパイロットや士官達が、海上自衛隊に見学に来たそうです。
昨日の、NHKスペシャルはここをすっとばしたいました。もし、この帝国ホテルの一女性従業員が居なければ、海上自衛隊があんなに早く出来ていたか疑問です。
みのるさんのおしゃる、帝国ホテルのサービスは、長く培われたものだったのですね。アーレー・バーク提督は、長寿で1996年に96歳で亡くなりました。アメリカ大統領は、バーク提督に敬意を表すため、彼が墓地に埋葬される時間に合わせて、彼の名前を取った、ミサイル駆逐艦アーレー・バーク級駆逐艦全艦(この当時24隻いました。)に、31ノット・バークにちなみ、31ノットで1時間航行する命令を下しています。



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8月15日に。。。 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月14日(水)23時08分06秒

「俗」なるものしか感じることができない人間にとって、空間は無限の延長にすぎず、また時間も節目のないノッぺラボーの流れにすぎない。
ところが「聖」なるものへのセンスを持つ人間は、理論的には、等質の広がりである空間の一点に聖なる点を設けたがる。
これが「聖地」の意味である。
そして同じように均質な時間の流れの上に聖なる点を設けたがる。
これが「祝日」であり「記念日」である。

つまり「聖」なるものへのセンスを持つ人間というのは、特別な人間ではなく、普通の宗教感覚を持った人である。
むしろ「俗」なるセンスしか持たない人間こそ、徹底した唯物論者で珍しいということになる。

唯物論革命であったはずのソ連でも、レーニン廟があり、革命記念日がある。
レーニンの葬られた場所は、ほかの空間とは異質な空間である。
つまり「聖」なる空間である。
何年か前に革命をやった日と同じような太陽対地球関係の生ずる時間を記念日とするのは、本来、等質な時間のその点を別扱いにすることにほかならない。
つまり聖なる日、革命記念日となるのである。

共産主義が一種の宗教だと言われるのは、本米ならば、等質・無差別的な時間や空間の中に記念日や廟を置くことによって、共産主義が「聖」なる観念を持っていることを示していることからもよくわかるのである。

木当の唯物論者というのは、私の知っている人の中にもいるが、神社のお祭りだろうが、革命記念日だろうが、そういういっさいの「お祭りさわぎ」に無関心なものだ。

紀元節に対するもう一つの反対論は、それが日本の侵略戦争に利用されたということであった。
なるほど1940年の紀元節は皇紀2600年ということもあって、そのお祭りは盤大であった。
私も小学生であったが、記憶にはっきり残っている。
それは、なるほど大戦の前夜祭みたいなものであったことは確かである。

しかし戦争に利用されたものがすべて悪というなら、白然科学などは悪の最大なるものである。
それに大戦を日本だけが引き起こしたというのなら、紀元節は危険であるが、日本人が皇紀2600年の紀元節を祝う前の年に、ソ連軍はフィンランドを侵略し、ポーランドを分割している。
ソ連に神式天皇がいたわけでないのに、侵略や戦争の数が日本より多いのはどうしたわけか。
アメリカ人がインデアンの土地を奪い、イギリスがアフリカやインドを植民地としたのは建国記念日を祝ったからというわけではない。
ヒットラーも建国記念日を知らなかった。

常識的に言って近代の戦争の理由は、それぞれ別のところにあるのであり、それぞれの国が、その目的に便利なものを全部掻き集めて使ったのである。
ひどい目に遭ったのは紀元節のほうであり、迷惑したのは神式天皇のほうである。

渡辺昇一先生の本より

渡辺先生は歴史に対して深い知識があるだけではなく、日本列島が先祖を育んできた恵みに対して深い愛情を持っている事が彼の文章からにじみ出ています。

井沢先生の場合も、彼の基本をなす大きな要因の一つがこの渡辺先生であると私は勝手に思っています。
氏の表現は時にして熾烈といった印象を与えるかも知れませんが、その様に感じること自体がプロパガンダの影響を強く受けてしまっているせいなのかも知れません。



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天皇陛下へ 投稿者:みのる  投稿日: 8月14日(水)19時55分01秒

明日はぜひ、靖国神社へご参内願いたい。
先日は高円宮殿下にご参内頂いたので陛下も是非!
私は明日参ります。



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Toshy(雪狼)さん   投稿者:太田守人  投稿日: 8月14日(水)16時10分04秒

>遠洋航行の必要性がなかったから、造船の技術よりも経費を考えていたようですね。

というより、徳川幕府の大船禁止令により、型にはめられたようですよ。秀吉の時代の和船の方が、ヨーロッパ船と和船のいいところを持っていて、性能が良かったそうです。千石船は、当時の漁船を基にしたという説もあります。

>和船独特の1本マストは逆風だと用をなさないし、

ところが、大阪である造船会社が、創立記念に、浪速丸という、菱垣廻船のレプリカを作ったそうですが、その試運転で、和船の常識を覆すことが分かったそうです。それは、間仕切り(逆風に向って走る能力)性能が、まったくないのが、今までの常識だったのが、西洋の帆船ほどでないが、間仕切り性能が、非常に高いことが分かったそうです。これには、海事史学者や造船所関係者も驚いたそうです。ただ、和船は、帆柱が一本しかなかったことが、決定的で、西洋船のように、複数の帆柱がないのが、漂流しやすい構造だったということらしいです。
木造船は、耐用年数が短いのは、今でも同じです。大体10年位すると、木が水を吸いスピードダウンは避けられないそうです。特に、モーターボート等の高速艇は、これが死活問題になるようです。また、海上自衛隊は、護衛艦等は20年経たないと廃棄できませんが、木造の掃海艇及び潜水艦は、老朽化が早いため、16年で廃棄し、代替艦を建造しています。世界の先進諸国の海軍でも、16年位で木造の掃海艇は、廃棄・代替しているようです。



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北前船 投稿者:太田守人  投稿日: 8月14日(水)15時39分03秒

>参入障壁はものすごい高さだったのですね。

加賀藩では、北前船の船主は、一種の御用商人で、有名な、銭屋五兵衛も始めは、藩船を借りていたそうです。ですから、加賀藩では、北前船の船主は、相当金持ちで、かつ政商のような人物が多かったようです。船員の食事は、米と味噌等の調味料や漬物は船主持ち、副食物は船員個人もちだったそうです。また、北前船では、船頭は船の航海には責任を持たず、どこで積荷を売るかだけが、職掌だったようで、有能な船頭は、すぐ高給で引き抜かれられたそうです。船の航海に関しては、親父(おやじ)という人が全責任を負っていたそうです。親父は、今では航海長と訳している文献が多いですが、実質の船長だったようです。ただ、行き先は、船頭まかせだったようですが。



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日本の船は 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 8月14日(水)15時27分17秒

遠洋航行の必要性がなかったから、造船の技術よりも経費を考えていたようですね。
和船独特の1本マストは逆風だと用をなさないし、
甲板がないことで積荷を大量に乗せる代わりに水船の危険性も高い。
そのくせ船そのものは堅牢だったから、
嵐に遭って帆柱や舵が破損し航行が不不可能になっても、船は沈むことなく持ちこたえた。
漂流↓はこうやって起こるわけです。

木材が水を吸うことによって、一方では水漏れを防ぐ機能も持っていたようです。
船を造る時、木材の接続部分を金槌で叩いてつぶしておくと、
船が海に入ったときその部分が膨れて木の隙間から水が入らなくなったと。

しかし太田さん、船の話はだれもついてこられないのでは。
わしは漂流の研究をしているから少し知っている程度で、
専門的なことにはついていけませ〜ん(わら
船の事をもっと知っておく必要があるから、教えてもらおうかな。

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/tsu.htm



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フナクイムシの餌 投稿者:太田守人  投稿日: 8月14日(水)10時46分19秒

石川県の北前船は、船底の外に、フナクイムシの餌(?)用の木を貼っていたそうです。それも、2・3年位で取り替えないと、今度は本物の船底を食い荒されたそうです。日本では、どうしてフナクイムシを駆除していたか知りませんが、ヨーロッパでは、松脂とタールで駆除していと言います。今、木造船は余りありませんが、掃海艇などは、磁気が多いと磁気機雷に触れますので、磁気の全く出ない、木かプラスチックで作られていますが、プラスチックの方が、磁気を帯び易いので、木造が主流です。木は、水を吸います。これが、腐食や重量が増え、スピードが落ちる原因になったりしますが、この対策の他、フナクイムシ対策として、木造の船体の上に、プラスチックを貼り付けたりします。和船の場合、ヨーロッパのように、フナクイムシ対策として、銅や青銅の板を貼り付けるという知恵が生まれませんでした。ヨーロッパは、南方に植民地を持っており、そのような場所に警備の軍艦等を派遣せざるを得なかったということが、木造船底の上に金属を貼るという知恵になったのかも知れません。



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あはは^^;; 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月14日(水)09時00分44秒

みのるさん、面白いです、笑

それにしても「みずほ」銀行は不祥事続きだったのに行員はまだ「タカピー」なんですね^^;;
もっともこちらにはみずほ銀行がないのですが。。。
尤も都市銀行はあまりに巨大化し過ぎて役所みたいな感じになっているのだろうと思います。



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さすが太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月14日(水)08時59分38秒

フナクイムシの名前は全く知りませんでした^^;;
紋次郎さん(久し振りですね^^)も書かれていますが、私も船の使用期間が10年くらいだとは全く思っていませんでした。
これでは自家用車並みの減価償却率を適応させないと損金が発生しませんよね、笑

船の購入費は今でもものすごく高いですから当然過去でもそうだと思います。
感覚的には「家」がたった10年しか持たないようなものだと思います。
参入障壁はものすごい高さだったのですね。

湖水港とは要するに海ではないので浅瀬の湿地帯のようなものですよね。
古代の船は水深をさほど必要とはしなかったと思いますから、こちらから見ても適合しますよね^^

紋次郎さんが書かれている事は「日本書紀」の正しさを別の角度から証明されているような気がします。



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焼尻さん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月14日(水)08時41分18秒

私は、夜間航行が自殺行為だと思うので、奄美を飛び越して沖縄は無理でないかと思っただけです。黒潮に逆らうわけですから。小笠原諸島が、長い間無人島だったのは、八丈島沖で、黒潮本流を横切ることの出来る船がなかったからです。私も、小笠原の父島に行ったとき、黒潮本流(船乗りの間では、黒瀬川と言われているとか。)を乗り切る時に、今までベタ凪だった海が、まっすぐ歩けないほど、船が揺れ、話に聞いてはいたが、黒潮は凄いものだと実感しました。この黒潮を横断するのは、今でも難しく、馬力の小さな船だと、はじき飛ばされることもあるそうです。大きな船でも、だましだまし横断しなくてはいけないこともあるそうです。黒潮本流は、3〜4ノットの(5.4〜7.2km)時速で流れているそうです。ただ、海底の状況によっては、枝分かれしたローカルな海流もあるそうなので、このような、海流をうまく利用ば、行けない事もないかも知れませんが、海流から言うと、矢張り、奄美あたりで一服しないと、沖縄は無理のように思っただけです。



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みずほ許すまじ 投稿者:みのる  投稿日: 8月14日(水)06時49分52秒

三井住友銀行の預金が一千万円を超過した。野村證券の預かり残高も数百万になっている。Tシャツを着て取引先の三井本店
へ行き小切手をつくり、帝国ホテルで食事をして
となりのみずほ銀行本店へ向かった。

みずほの態度は慇懃無礼そのもので鼻であしらわれた。
矢張り背広を着て社章をしてくべきだった。
そうすればぞんざいな態度は取れなかったはず・・・

うちの会社のほうがみずほよかデカイですからね!
仕方がないから私が株主をやってる某地銀の本店へいった。
感激した。女子行員がみんな可愛い。
私が株主だとわかると全行員土下座だった。
私はその地銀に小切手を渡した。
それもこれもペイオフのためである。



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