過去ログ183(2003年〜1月13日)


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そうです 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月13日(月)22時37分53秒

ブルネイでした^^
武来人さん、有難うございました。

あの国が独立したときには日本よりも個人所得が多い豊かな国がアジアに誕生したなどと言われたと思います。
国民の労働者の約半数が公務員であり半分が民間人らしいですよね。
税金は莫大な石油収入のためにタダで公務員は10年も勤めるとご褒美に海外旅行をプレゼントしたくれるなどと聞いたような気がします、笑
羨ましいです。
ブルネイはあまりに小さなイスラム公国だったためにマレー連邦に入れてもらえなかったのですが。。。
何が幸いするか分かりません、笑

「風薫る」で義時が「あれは介殿のために戦ったのではない」と言っていましたね。
北条氏は系図的には平氏と言っても意識としては伊豆の豪族というレベルだったのではないでしょうか??
そしてそれは板東武士の標準的感覚であったのでは??
少なくとも源平合戦などという意識は無かったように思います。

安倍晴明は茨城県人だったのではないでしょうか。
でも下総かも??(;^_^A)
たしか筑波付近の出身だったと聞いたような気がします。
岩井や伊奈町の付近だったと思いますからひょっとしたら平将門と面識があったかもしれないですね^^

奥州藤原氏といえば毛越寺の大きな池を思い浮かべました。
編集済



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あの部分はちゃんとしていました 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月13日(月)22時26分15秒

古代もちゃんとしてはいるのだけれど、なんとか王朝と言う部分とのギャップが不思議に思えました。



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そうですか 投稿者:勇者ロト  投稿日: 1月13日(月)22時21分29秒

あの部分しか読んでませんでした。

あの部分の妥当性についてはどうですかね?



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ロトさんの紹介してくれたページ 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月13日(月)19時10分12秒

古代に関しては倭王朝だとか九州王朝だとかなんだとか分けの分からないことをいっていますよ。



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前九年の役 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月13日(月)12時52分29秒

これは中央では藤原頼通と弟の教通の戦いと連動しているのではないか?

奥州安部氏が勢力を伸ばしたのは道長と頼通の時代でした。奥州の安部氏と道長・頼通はパートナーだったのでしょう。教通は兄の権力を崩すためにいろいろ策謀を繰り広げます。安部氏を弱体化させようとしたのもその一環では?

平忠常の乱も同じような目で見直すべきかもしれない。

頼通は息子の師実に位を譲るまでの中継ぎとして教通の地位を上げます。
教通は内大臣になったのが1020年ですがその後40年も昇進がありませんでしたこの間に兄への恨みを膨らませたのでしょう。
教通が左大臣になったのが1060年
関白になったのが1068年。1070年太政大臣

あれ、でも前九年の役は1056〜1063だからそう簡単には行かないか。でも教通の昇進と奥州の騒乱は無関係ではなさそうな気もするのですが。

むしろ教通のパートナーとしては清原氏を考えた方がよいかもしれないかな?

後三年の役も、関白藤原師実と後三条天皇の対立が関わってきそうです。後三条天皇や白河天皇が源義家に冷淡であったのは、吉家が藤原氏の暴力装置であることを知っていたからだと思うのですよ。
編集済



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柳之御所遺跡 投稿者:勇者ロト  投稿日: 1月13日(月)12時35分03秒

かなり以前にこちらの掲示板で話題に出たような記憶もあるのですが、、、。「柳営」の話です。

主として奥州藤原氏の三代目である秀衡の時代の政庁であったことが発掘調査で認められてます。吾妻鏡などの中世資料には『柳之御所』の記載はなく「平泉館」として記されているのですが、
もし当時から『柳之御所』と呼称されていたと仮定すればですが、「柳」という文字は『柳営』つまり将軍そして幕府を指すもので、頼朝の幕府の思想的原点がここにあるのではないかとも思えるのです。

ちなみに、通説としては吾妻鏡などに記載されていない以上、「柳之御所」というのは『アトヅケ』であって後世にそう呼ばれるようになったのではないかと言われています。

素人考えとしては何故、焼け跡に「柳之御所」なんて大層な地名を付けるのかと思うのですが・・・。

秀衡の居館は「伽羅御所」と呼ばれているそうで、これは吾妻鏡にも記されている名です。これに対応させてわざわざ『アトヅケ』したという説が通説なのですが、私なんかは逆に思えたりするんですよね。

建物や遺物自体は秀衡の時代のものだとしても、この土地は鎮守府「将軍」清衡の時代にすでに『柳営』つまり『将軍府』を意識して名付けられたのではないかと思えるのです。

以上のような私の妄想が成り立つのであれば、安部さんがおっしゃっている「奥州藤原氏はエポックメーキング」というのも一つの見方として成り立つのではないかなとも思います。
編集済



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安倍氏が日本史を作ったのじゃ 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月13日(月)12時01分59秒

後鳥羽上皇は(もちかしたら後白河法皇も)「奥州藤原氏型の半独立国は認めないぞ!」と言いたかったのかも。

「関東分国」と言う言葉があるけれど、じゃあ源頼朝がやろうとしたことは、まかり間違えば謀反扱いされる危ない橋だったのかもしれないですね。

だとすると、奥州藤原氏の王国ができたことはたいへんエポックメイキングな出来事だったのではないでしょうか?

前九年の役と後三年の役を、源氏の東北侵略と言う面からだけではなく、奥州の武家にとっては奥州に独立国を作るための積極的な戦いだったと見ることもできるかもしれない。

あるいは、前九年の役と後三年の役の間に、自分達の王を作らないと源氏のように中央から来てちょっかいを出す奴らに太刀打ちできないと学習したのかもしれない。前九年の役の発端も、奥州を委任されていた安倍氏を見て中央からきた官人がビックリしてご注進でもして「謀反だ!」とか言う話になったのかもしれないですね、あるいは摂関家が奥州に楔を入れようとして源氏を送りこんだ、よく知りませんが。安倍氏によってすでに半独立国は事実上できあがっていたけれど、前九年と後三年はその事実を正式に認めてもらうまでの戦いと言えるかもしれない。

律令国家に組みこまれて日が浅い奥州から「半独立国」というアイデアが出てきたのは自然なことのような気がします。

安倍氏にしても藤原氏にしても、中央から送られてきた総司令官の子孫ですから、これは中央と奥州の人々の間にできた妥協なのかもしれないですね。

・・・・あれ?

と言うことは遠征地の総司令部が自治を敷くと言う幕府制は丸っきり奥州の安倍氏のコピーといえます。

うちのご先祖様も立派なもんです(笑)私のご先祖様は讃岐に流された安倍宗壬ですから。
そう言えば安倍清明も讃岐出身である説があります。安倍氏がいるから讃岐に流されたのでしょうか?軍事の家の安倍と陰陽師の安倍も同じ家なのでしょう。と言うことは軍事と呪術の一致がここに始まるのかな?東北遠征に成功した安倍氏には怪異を払う呪力があると考えられた。

安倍清明もただの呪術者としてだけではなく、東北で勢力を張る安倍氏の中央での代表だったのかもしれないですね。だからあれほど注目されたし,藤原氏も一目置いた。もし化したら藤原道長の富の源泉は奥州の安倍氏だったのかもしれない。安倍氏が半独立国を認めてもらうために御堂流を援助したとは言えませんか?

10世紀の摂関家の内部争いも日本全国を巻き込んだ戦いだったのかもしれない。兼家兼通の戦いもただの京大喧嘩ではなくて、日本の支配の仕方を書けた戦いだったのでは?
編集済



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返信ありがとうございました 投稿者:勇者ロト  投稿日: 1月13日(月)11時49分46秒

そういえば、お話するのは久しぶりですね(^^ゞ>輔住さん。ありがとうございました。

鎌倉が源氏縁のものを推戴しなかったのは、ここまでのみなさんのお話からも源氏というだけでは関東の盟主、武家の盟主には何か不足があったのでしょうね。

宮将軍拒否についてなんですが、昨日あれから考えたのですが鎌倉の行政府を朝廷と一体でない下部組織であるという区別を後鳥羽天皇は宣言したかったのかとも思いました。ネットで見つけた「梅松論」のページ

http://homepage1.nifty.com/sira/baisyouron/baisyou03.html

にある泰時の言葉

『国は、すべて王土です。和漢ともに、勅命に背いた者は、今も昔も無事であった者はいません。平相国禅門(平清盛)は後白河院を悩まし奉ったため、故将軍頼朝卿が密かに勅命をこうむり、平家一門を誅伐することになりました。その結果、頼朝卿は忠賞官録をきわめました。中でも、祖父時政らはその賞に預かるところの随一でした。それなのに今この身が勅勘をこうむることは、嘆いてもなお余りあることです。天命逃れ難きことなので、やはり合戦は止めて降参すべきです。』

からも当時の律令制の中の天皇への通念的意識が読み取れるのではないかと思いました。

それと、この時代のことを検索している中に面白いページをみつけました。下記アドレスです。

http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/2-1.htm

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/cgi-bin/user/sakura-komichi/wforum.cgi



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日本的易姓革命史観 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月13日(月)11時23分10秒

御内人と言うのも見直すべきかもしれません。

日本の実質的な国王となった北条氏は、御内人と言う形で、身分に関係無く有能な才能を政治に参画させようとした(そのつもりは無かったかもしれないけど)とは言えないでしょうか?

大体北条氏にしても足利将軍にしても、最後に負けたから彼らが終わりごろにやったことは皆彼等の私利私欲のためにやったかのように私達は信じがちだけれどこれじゃあ中国の易姓革命と同じですよね。

昔は、家産と統治機構が一緒だから、権力者が自分の家の発展を進めたからと言ってそれが即私利私欲に走ったことにはならないわけですよね。北条氏も勢力が大きくなって日本全国に及んだ時から、日本を統治する責任が生じたのです。あのまま北条氏がどんどん強くなって日本国王になってしまっても何ら問題はなかったわけですから。足利義満と織田信長だってやっていることは同じなんだから。

普通大陸だったら、最強の家がどんどん膨張してそのまま国王となるところですが、そうならない所が日本史の不思議です。
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摂関家の分裂 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月13日(月)11時12分27秒

保元の乱と平治の乱は、天皇家と摂関家の分裂によって起きました。それ以外にも平安時代後期の反乱の原因はほとんど相続争いのこじれです。

だから鎌倉時代に、均等相続の線で相続争いをまとめようとしたのでしょうね。
摂関家がまだ強かった、天皇家がまだ強かったから、両家の分裂は再び全国を巻き込んだ戦乱に発展する可能性があった。

でも北条氏は、均等相続の副次的な意味にも気付いていたと思うのですよ。分裂させることによって弱体化させる。摂関家が分裂したことと、摂関将軍の排除は連動していると思います。敵のNo.2と手を結んで敵を倒して、次に新しいNo.2と手を組んで…と言うのが摂関家の常套手段です。どこかで摂関家は北条氏から三浦氏へパートナーを移そうとしたのでしょう、それに対して北条氏が機先を制した。

執権と言う地位を一族の持ちまわりにながら、権力は得宗に集めた北条氏は、均等相続の利点と弱点には気付いていたと思うのですよね。他の家が均等相続でどんどん弱体化していく中で,権力を一家に集中させた北条だけは生き残るわけですから。

天皇家を2つに分ける方法で紛争を調停した背景には、摂関家で成功していたと言う事実があったのでしょう。家を分けて、地位を持ち回りにしてもうまく行ったからこそ天皇家でもそれをやった。



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初めは 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月13日(月)10時50分54秒

半信半疑だった坂東武士も頼朝が連戦連勝するにつれて徐々にその気になっていったと言うことかもしれませんね。

でも戦時に於いての指導者は望んでいたけれども、手に入れるだけのものは手に入れた後まで自分達の上に君臨する君主はいらなかったと言うことになるのかな。源氏が滅ぼされたのは。

となると坂東武士がカリスマを認めていたのは頼朝個人で、源氏の血にはあまりカリスマは感じていなかった。頼朝の子孫と言うだけでは自分達の王に頂く気にはならなかったのでしょう。頼朝は奥州藤原氏の真似をしようとしたと私は考えているのですが、それにたいして坂東武士が拒否反応を起こしたとは考えられないか?

能力のある指導者ならば二流の貴種でも認める。世襲で君臨する君主なら一流の貴種じゃないと嫌、もちろんその君主には実権は与えない。これが坂東武士の考えだったのではないか?

頼朝が勢力を全国に及ぼしだしたあたりから摂関家と頼朝の蜜月は終わり始めますね。摂関家は頼朝が第二の伊勢平氏になると疑ったのではないか?

それに対して、天皇家の方は強くなった頼朝と結ぶことによって、力を全国及ぼそうとした。もちろん摂関家への牽制の意味もこめて。

御家人が宮将軍を求めたのは、お飾りとしての王が欲しかったからでしょう。
それを後鳥羽上皇が拒否したのは、鎌倉が摂関家と気脈を通じた御家人の手に落ちていることを実朝の死よって知ったから、宮将軍を送っても取り込まれるだけだと思ったからではないか?実朝が死んだ時点で後鳥羽上皇は鎌倉の遠隔操作を諦めて実力行使に作戦を変更した。

宮将軍を送ってしまった後からでは、鎌倉を攻めずらいし、宮将軍を旗印に鎌倉が反朝廷的な行動をされたとき後鳥羽上皇はやりずらい。鎌倉によって遵法闘争でずるずると鎌倉の権利を認めさせられる恐れがあるわけですよね。

昔から言われている話とほとんど同じになりましたが、摂関家と言う要素を入れることによってより理解が深まったと思います。
編集済



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なるほど 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月12日(日)23時03分21秒

いろいろ参考になりました、Toshyさん輔住さんありがとうございます。

指摘された点をもう一度見直して考えを深めようと思います。



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(無題) 投稿者:武来人  投稿日: 1月12日(日)20時51分14秒

随分書き込み数が多いですね。もうページが変わっています。

>スマトラ付近と言えばあの付近にものすごく石油とか天然ガスの出る王国がありましたよね??

ブルネイのことですね。正しくは「ブルネイ・ダルサラーム国」と言います。マレー半島の西に沿った島がスマトラ島、マレー半島の東側にあるのがボルネオ島です。その島の北部にちょこんとあるのがブルネイです。小さくても千葉県位の面積で、人口はおよそ35万人です。石油と天然ガスの産出国です。



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源氏と藤原氏 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 1月12日(日)20時39分49秒

>前九年の役の勝者は清原氏でしょう?土地と官職も清原氏がせしめたのですから。
勝者は清原氏ですね。しかし、清原氏が出てくるまで関東武士が源氏に従っていたという事実は説明がつきません。清原氏が出てくるのはかなり後ですよ。


>私は源頼朝はホンの少し残っていた先祖の栄光と京都育ちと言う経歴をうまく利用して、ほとんど自分の力だけで鎌倉幕府を作ったのではないかと言いたいのです。

安部さんのこういったご意見には賛成なのです。ただし藤原氏が武士の棟梁だった、義経は正規の司令官だった、というのにはうなずけません。
源氏は平忠常の乱以降台頭した成り上がりで、その流れを汲む頼朝も絶対的な権力は(はじめのうちは)確立していませんでした。
でも頼朝は事実、旗頭として兵を集めることに成功している、悪く言うと関東武士は頼朝を御輿に担いで糾合している。
これは頼朝の名が一方の大将になりうる血筋であることを証明していると思うんです。木曽義仲が北信越地方を制圧できたことも、源氏の流れの利用価値があったからでしょう。
頼朝つまり清和源氏が絶対的な支持を得ていないからといって奥州藤原氏が盟主と仰がれていたというわけじゃないと思うのです。



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返信ありがとうございます 投稿者:輔住  投稿日: 1月12日(日)17時01分14秒

安部さん
>状況証拠から見れば北条が摂関家を弱めたといえると思うのですが。
たしかに摂関家と北条家が合わなかったとは思います。
(摂家将軍家と北条家の対立などを見れば)
だけどだからといって北条家が摂関家を分断したというのは飛躍しすぎだと
思います。

>鎌倉時代まではまだ律令制度は健在であり、さらに律令制度と言うのは
>まんざら悪いものでは無かったことを忘れてはいけない。
これはその通りだと思います。ただ、鎌倉時代の律令制が完全に
無力だったとも書いた記憶がないですが?

ロトさん
>鎌倉はどうして源家縁の者を探そうとせず宮将軍をもとめたのでしょうか?
議論するのは、久々ですかね。
源氏将軍を探さなかったのは私もわからないです。
全成(頼朝の弟)の子である阿野時元なんか母は
北条政子の妹ですし、北条家から見て都合よさそうですけどね。
でも彼も実朝の死後に殺されてしまうし。

>また後鳥羽天皇は何故「宮将軍」の派遣を拒否したのでしょうか?
実朝暗殺事件後は疑心暗鬼になって「宮将軍」=「鎌倉への人質」と
考えたのかもしれません。

また頼朝以前は武家の棟梁というものは、あいまいかもしれません。



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その通りです 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月12日(日)16時48分19秒

>安部さんの言いたかったのは「頼朝の血筋=武家の棟梁」という意識は頼朝が実力を手に入れるまでは、{なかった}ということだと思うのですが、どうなのかな?>安部さん

私は源頼朝はホンの少し残っていた先祖の栄光と京都育ちと言う経歴をうまく利用して、ほとんど自分の力だけで鎌倉幕府を作ったのではないかと言いたいのです。

貴種としては無名だった、だから京都の朝廷も初めのうちは鎌倉をなかなか認めたがらなかった。また、源頼朝が率いた武士団と言うのは、それまでの感覚で言えば「侍」とは到底言えない集団であった。ほとんどごろつき暴力団のように(京都の側からすれば)見えた。実際ルール無視で鎌倉の連中は戦っていることですし。鎌倉武士のような戦い方をされると、近畿に住んでいた平家や奥州藤原氏のような古き良き武士は太刀打ちできなかったのでしょう。

藤原秀郷竜や摂津源氏といった武士は、律令国家の中に位置付けられて、中央貴族からも軽蔑されるどころか敬意を持って見られているのです。でも鎌倉武士団というのは京都から見たら武士ではなく、ただのゴロツキであったからあれほど馬鹿にされた。それ以降も馬鹿にした。源平合戦ではそれまでは侍といわれなかったような下層の人達も参加した、それまでの前九年後三年や平忠常の乱のような侍同士の戦いを越えた、全階層を巻き込んだ内乱であった。その意味ではやはりあの戦いを期に日本史は変わっているのです。


朝廷も、11世紀くらいまではちゃんと政治をやっていて日本を統治していたと思うのです。平安貴族は天下泰平を祈って歌を歌っていただけではないはずです。ただ、どこかで現実と遊離したのだとは思います。そこは…マルクスっぽいですが荘園の領主層が力をつけてきて、律令制からはみ出した人たちの方が世の中を動かし始めたからではないでしょうか?中央貴族の感覚では、所領を認めたり官職(官職には荘園が付随します)を上げることによって武士を警察として雇う、つもりだったのだろうと思います。そして律令の枠からはみ出した人達が求めたのは律令の破壊ではなくて、あくまで律令制度の末に連なって、自分達の生活を安定させてくれることだったと思うのです。

となると、中央とコネクションがあり、律令制度にも精通している没落貴族が、地方で争って迎え入れられたのも理解されると思います。それを最も大きな形でやったのが頼朝だったのではないか?


それで、北条氏は自分が正面に出てきたら誰もついてこなくなるのは分かっていたから、源氏を持ち上げようとしたのでしょう。頼朝の死の当たりから承久の乱までの北条氏はかなり危険な綱渡りをしています、北条政子を前面に出したのも安全策だったと思います。いざと言う時に「あれは女がやったことだから」と言えば丸く治まるからです。政子がやったとされていることは義時がやたのでろうと私は考えています。それと律令官僚として京都のやり口を熟知していた大江広元と三善康信が参謀となったのでしょう。
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王様ははだか 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月12日(日)16時34分12秒

と誰かが言うまでは王様がはだかなことに誰も気付かない。

戦国大名にしても、自分の国はほとんど独立国で京都なんか全然関係無かったけれど、でも律令国家の官職や室町幕府の官職が無いとやっていけないと信じていた。

織田信長は「王様ははだかだ」とまあ世の中の真の姿を叫んだだけだと。でもそれが叫べたからこそ天才なのだろうと。

てなことを考えると、海の向こうからヨーロッパ人がやってきて、自分達の世界が相対化されたことの意味は非常に大きいのかもしれません。天皇とも仏教徒も儒教とも全然関係無い世界がこの世に存在する。それまでの日本人は人間の世界といえば律令制(中国もそうですから)から発展した世界しか知らない。そう言うものとは全く関係無い世界があることを知って、完全に律令制度や王法護国からの呪縛が解けた。



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また 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月12日(日)16時25分46秒

源平合戦から承久の乱までの朝廷の立場や戦略は,応仁の乱から三好が京都を占領するあたりまでの室町幕府に似ているのではないでしょうか?

京都に本拠を持った政府の基本的な戦略は、畿内を直接に統治して、周辺部を強力な豪族の自治に任せて互いに牽制させ合う。

律令制度が鎌倉の末期までそれなりに機能していた(もちろん奈良時代や平安初期の律令とは全然違うのですが)ように、室町幕府も16世紀の中頃まで傀儡などではなくちゃんと権力を持って機能していたのではないか?

応仁の乱と言うのはあくまで室町幕府の役職を奪うための戦いだったのです。室町幕府の役職が権力の源泉であった。だからこそ10年間も戦いつづけた。

そう言った意味で京都に上ることにはやはり意味があると思うのです。京都に上って室町幕府の要職につけば天下を動かすことができる,これは夢ではなくてかなり現実的な話だったのではないか?今川義元も武田信玄も今までに言われていたようにやはり京都を目指していたと考えてよいのではないか?



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鎌倉幕府 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月12日(日)16時05分23秒

がスムーズに行政を施行することができたのは国衙のシステムをそのまま使ったからではないかと思います。
日本は形式的にはずっと律令制度が続いたことになっていますが、実態が離れた理由は勇者ロトさんが書かれているように警察権を鎌倉に渡してしまった事だと思います。

一旦形成された権力システムは容易なことでは崩壊しないという事を歴史は示していると思います。



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おもしろいですね(^-^) 投稿者:kituno  投稿日: 1月12日(日)16時01分50秒

ピンポイント歴史研究に生きがいを感じているkitunoですが(;^_^A、今話題になっている時代にもとても興味があるので、皆さんの書き込みを携帯から覗いて感心しています。
複雑な要因が入り乱れて内乱に繋がっていく様子が、皆さんの書き込みを繋げていくと見えてくるような気がします。
携帯からの書き込みなのでうまく表現できずすみません。
現実問題として携帯料金が心配になってきた(^o^;



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武家政権誕生 投稿者:勇者ロト  投稿日: 1月12日(日)15時30分18秒

>律令体制の乗っ取りのようなものだったのでしょうか??

ここ数日の安部さんとの会話でそのような気がしてきたんです。
鎌倉は律令制の枠組みの中の政治(特に軍事・警察)代行者であって、その意識が朝廷側にも頼朝にも強くあって、成立当初は土地制度なども封建制度へ移行してしまうとは当初は思ってなかったし、天皇にしても政治の実権を幕府に委譲するというような気持ちはさらさらなかったのではないかと思うのです。

政治の実権というのは軍事警察力によって保持される。軍事警察力が律令の枠外にまで広がってしまい恒久機関になるということを朝廷は読めなかったのではないかと思います。それほど実際の行政と朝廷の仕組みがズレてしまっていたのが解からなかった。

今までは表面的に鎌倉幕府の成立=律令制の崩壊と思っていたので新鮮な歴史の見方のように感じたのです。



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確かに 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月12日(日)14時49分28秒

西国は商業の発達が関東とは段違いに進んでいたと考えていいように思います。
すると関西の土地よりも東北の土地の方に、より価値観を見いだしていた可能性は考えられると思います。

文治元年11月25日に義経・行家の追捕捜索の命令が頼朝に与えられ、29日には諸国を時政以下の頼朝の御家人に分賜し、荘園・公領を問わず、反あたり5升の兵根米を徴収し田地を知行・領掌することが承認されました。
そして12月6日、両者は正式の宣旨として発布されました。

こうして頼朝は、義経・行家の追捕捜索のための日本国総追捕使(=総守護)・総地頭に任命され、有力な御家人を国ごとの総追捕使(=守護)・地頭に任命して全国の軍事警察権を掌握し荘園・公領の地頭たちを支配することになります。
一国におかれた総追捕使(=守護)・地頭は国中の御家人を指揮して治安警察の任にあたるだけでなく、国衙を支配し在庁官人に命令を下しつつ、反あたり5升の兵糧米を賦課し徴収します。

御家人ばかりではなく、国衙在庁や荘園・公領の下司・押領使はすべて鎌倉殿の支配に属するとの宣旨がくだされて、在庁官人による文書の作成など、いわば役人としての能力は、鎌倉幕府側に吸収・利用されます。
荘園・公領の下司などの武士たちは今度は頼朝の責任によって実施されることとなった、京都の内裏守護の役にかり立てられます。

そして平氏一族の旧領(平家没官領)や敵対者の所領(謀叛人跡)は没収されて、御家人武士が新たにその地頭に任命されました。
それまで地頭・下司と称していた多くの在地領主も彼らの非法を調査し、処罰するという頼朝の監督権のもとに立つことになります。

要するに律令体制の乗っ取りのようなものだったのでしょうか??
編集済



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西国へ行った御家人 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月12日(日)14時46分27秒

千葉氏の本家は大隈へ行っています。伊達氏の分家も鹿児島の方へ行っている。

あるいは、平家打倒が摂関家と天皇家と源氏の暗黙の了解のもとに行われたのだとしたら、平家を倒したからと言ってもそれほど土地の分割は行われなかったのかもしれません。西国では承久の乱までは朝廷の力が強くて頼朝と言えども手出しはできませんでしたから。

関東は摂関家と天皇家によって砕氷船とされる予定であったのかもしれません。
平家と源氏を戦わせて弱体化させた後、鎌倉を律令制度の下で認めてやる。鎌倉と平泉を牽制させ遭う。これが京都のプランではないか?

ただ鎌倉が強くなると平泉も困りますから、摂関家も天皇家も奥州藤原氏も、平家が滅亡することまでは望んでいなかったと思うのですよ。そこは義経と頼朝の才能が勝利したと言うか時代が動いたと言うか。



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承久の乱の後に 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月12日(日)14時38分24秒

西国へ向っています。

承久の乱は、武士一人一人にとっては、西国の土地を奪うことも目的の一つだったはずです。
承久の乱の後に京都側についた領主がごっそりと没収されて坂東武士に分け与えられています。

伊勢平氏と言うのはあるいはあんまり土地はもっていなかったのかもしれません???
伊勢平氏は律令制度を利用して権力を振るいますから、それと日宋貿易、彼らが持っていた地面は少なかった、だから坂東武士の目が奥州へ向ったとは言えないでしょうか?



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毛利氏は 投稿者:勇者ロト  投稿日: 1月12日(日)14時32分46秒

義経追討の前後に移ったのですか?

鎌倉初期の西国と鎌倉の具体的な関係は本当によく知らないのですよ。
なら書き込むなという声も聞こえてきそうです。すいませんm(__)m



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近畿 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月12日(日)14時24分04秒

西国にも向かっていますよ。
例えば毛利氏は相模付近の字名から取って付けたと言われていますよね。



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関東の大土地経営者 投稿者:勇者ロト  投稿日: 1月12日(日)14時20分11秒

の意識が、どうして東北に向かったのか?
何故近畿西国へとは向けられなかったのか?

という疑問は無意味でしょうか?

追討された義経が東北に逃げたからということなのかな?

編集済



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確かに 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月12日(日)14時14分50秒

大義名分が無いと人間はものを壊すのに後ろめたさを感じるものだと思います。
その代わり一旦「錦の御旗」が手に入れば相当悪どい事もどさくさ紛れにやってしまうものかなと思ったりしています。

奥州攻めについては源氏歴代の悲願という理由が頼朝にはありましたよね。
しかし、これが集団にとっての最大動機であったかと言えば疑問符が付くように思うのです。

奥州攻めの理由とは東北の土地を略奪して自分の物にしたいからとは関東の大土地経営者である豪族たちは堂々と言いづらいのは今と同じだと思います^^;;
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欲望を果たすために 投稿者:勇者ロト  投稿日: 1月12日(日)14時07分43秒

大義名分を整えたり自分達の欲望や権益を正当化するために思想が生まれたり語られたりするのではないでしょうか?

ということは、ある人物や集団が欲望を果たしたり利益を正当化するために動き出した時点においては、彼らの意識は前の時代の思想や正義の中にある。っていうことだと思うのですが。。。。。。。。



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第二次 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月12日(日)14時05分35秒

世界大戦までの状況についてふと思ったのですが。。。

アフリカの植民地化にしてもそうですが、彼らは部族間の対立をいいように利用されて土地を奪われ奴隷とされていまいました。

日本は欧米に対抗して東アジアとして団結して白人世界と対決しようと考えましたが、朝鮮や中国では日本の意見をまともに相手にしませんでした。
これは一体どういう事が原因なのでしょうか??

一見して別人種と分かる白人達が世界を分割しているために対抗するために清や朝鮮を自分と「近い関係」であると日本人は考えていたのです
でも彼らにはまだ民族意識とか国家意識が無かったためにある意味ではコスモポリタンであり、しかも無知故に無邪気でありすぎたところなのでしょうか??
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なるほど 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月12日(日)13時59分46秒

陸軍には備蓄がほとんど無かったのですか!!
これでは石油資源の確保に走るのは理解できます。

武来人さんも太田さん同様に詳しいですね^^
スマトラ付近と言えばあの付近にものすごく石油とか天然ガスの出る王国がありましたよね??
名前は失念(;^_^A)

日本もアメリカも捕虜をちゃんと助けているのはさすがに世界大戦を行えるだけの国力があるところはひと味違うなぁと思いました。
難破した人たちを奴隷としてしまうという事を読んで海外旅行に来ている人たちを狙う泥棒やテロリストのことを思い出しました。

普通の感覚で考えれば、わざわざ遠い外国からやってくるというのはその国に対して好意を持っていると理解するはずですよね。
ですからそれなりの対応をしたいと考えるはずだと思うのです。
日本の場合の対応といえば、昨年のワールドカップを見ても何処の国にも優しかったと評判が高かった事を見ても良く分かると思います。

ところがそのような人たちを「かもネギ」としか見ないというのは、彼らの小さな世界がそのまま外国の大きな世界に繋がっているからなのでしょうか。
しかし、自分たちの常識が世界の常識であると勝手に思うのは余りにも傲慢すぎると思います。
これは日本人特有のものなのでしょうか??^^;;
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勇者ロトさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月12日(日)13時57分46秒

のところでは安部さんと面白い話題が続いていますね^^

確かに武士の成立を怨霊の面から考えるのは面白いと思います。
話がずれるかもしれませんが、怨霊が重視されるというのは現代的な物理的万能主義が支配していた世界ではなく精神世界が大きく比重を占めていた世界であると言い換える事が出来るのかもしれませんね。
とは言っても人間の行動を決定する欲望は時代が違っても大きな違いがあるとは思いませんが。。。

安部さんの新作が出来るのは私も嬉しいです^^
「武士の起源」が出来るのをを楽しみにしています。
勿論新作コーナーでよろしくお願いしますね。

ではToshyさんや輔住さんの疑問、質問にちょっと追加してみます。。。笑
打倒平氏で関東がまとまった理由としては、京都近辺でまともな政治をしていたとしても関東に対する搾取が酷かったという面があるからだと思っています。
そのためにデモ(笑)をする側としてみると旗頭として頼朝の存在は好都合であったはずです。
ですから初期に頼朝についた相模・武蔵の武士たちと頼朝とでは同床異夢だったのかもしれませんね。

また、奥州攻めについては頼朝の意思と言うよりも関東武士が新たな領地を欲したという面こそが最大のものではなかったかと思います。
これは一所懸命・安堵の法則です。
勿論九州から渋々やってきた武士はいたはずですが。。。笑

頼朝としてはこの要求に応えることは絶対に必要とされたものであり、拒絶すれば組織崩壊(というか頼朝の指導力が失墜する)に繋がる程の重大事項であり反対などとても出来ない事柄だったのかもしれないという感覚を持っていますが。。。??(かな??笑)



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Mayoさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月12日(日)13時55分41秒

久しぶりですね。

武士と侍については混同されている部分が多いように感じています。
もっとも時代とともに侍が武士化していったり婚姻関係を重ねていくというのが人間生活といえますから分かり難いのかもしれませんね。

同じ漢字を当てているために両者は同じものであり不変であるとどうしても捉えがちになりやすいところがありますよね。
Mayoさんのところは鎌倉の根本なした相模武士の本拠地ですから面白い話などがあったら教えて下さいねv(^o^)

みのるさん、お母さんとは仲良くして下さい(;^_^A)
とは言っても田園調布での一人暮らしとはゴージャスな感じがしますね。
羨ましいです。
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輔住さん、質問です 投稿者:勇者ロト  投稿日: 1月12日(日)12時58分43秒

このあたりの時代には疎いのですがちょっと興味が湧いたので質問したいのです。

鎌倉はどうして源家縁の者を探そうとせず宮将軍をもとめたのでしょうか?
また後鳥羽天皇は何故「宮将軍」の派遣を拒否したのでしょうか?

この辺りは、不勉強なもので実は「宮将軍」の要請があったこともはじめて知りましたのでよろしくお願いします。

>群雄割拠でまとまっていたとはあまり思えません。

ここは秀郷流や摂津源氏流が実際的に力を持っていたという意味ではなく、京をはじめとして全国で鎌倉幕府成立前に武家の棟梁という概念が存在し、それを挙げるとすればですが、貴族化して滅亡した平家を除けば当時の人々の社会通念とかいった意味で「実力はともかく血統的には藤原秀郷流・摂津源氏流=武家の棟梁の有資格者」という意味ではないでしょうか?

安部さんの言いたかったのは「頼朝の血筋=武家の棟梁」という意識は頼朝が実力を手に入れるまでは、{なかった}ということだと思うのですが、どうなのかな?>安部さん
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http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/bbs/index.shtml



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つまり 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月12日(日)12時38分56秒

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とりあえず 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月12日(日)12時30分36秒

平家物語と吾妻鏡と太平記は忘れてもらいたいです。

まだ確定した訳ではありませんが清原武則と武衡は平家出身です。
同じ名字が多くてややこしいのですが,私は坂東平氏の方は伝統ある武家として平安時代から見られていたと考えています。でも伊勢平氏の方は成りあがりだと思うのです。
前九年の役の勝者は清原氏でしょう?土地と官職も清原氏がせしめたのですから。

摂関家はこの時代以降は分裂して交代で摂関を務めるようになります。この頃から摂関の権力が弱まります。それに北条氏は西園寺家の方をパートナーとして選ぶようになります。状況証拠から見れば北条が摂関家を弱めたといえると思うのですが。

鎌倉時代はまだ摂関家と天皇家の暗闘が歴史の主筋であると考えた方が正確だと思うのです。それに北条氏が絡んで来る。天皇家と摂関家は室町幕府が半済令を出すまでは日本のオーナーであったわけですから。

相手の顔を立てながら弱体化を図るのが北条氏のうまいところだと私は思います。

宮将軍を後鳥羽上皇が拒否したのは忘れていました。これはもう一度考えてみます。でも結果から見ると源氏滅亡から承久の乱までは摂関家の要求が全て通っているのは間違い無い。

Toshyさんにしても輔住さんにしてもピンポイントで知識は深いのだと思うのですが歴史全体でみるとおかしなことを言っている。鎌倉時代まではまだ律令制度は健在であり、さらに律令制度と言うのはまんざら悪いものでは無かったことを忘れてはいけない。股、天皇家が受身であった事実が後期水戸学や明治時代の歴史書き換えで隠蔽されたのも忘れてはいけない。



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安部さんの説への疑問その2 投稿者:輔住  投稿日: 1月12日(日)12時08分02秒

続きです。

>九条と二条と一条と鷹司に分裂する。これは北条が摂関
>家の相続争いに介入して摂関家を弱体化させたのだと思います。
なにか、推論の根拠となるものがあれば教えてほしいです。

>天皇家もそうですね,意図的にニ家に分裂させたのです北条氏が。
大覚寺統と持明院統に分かれた、最大の原因は後嵯峨が第2後継者の亀山を偏愛したためで、
それが不満で第1後継者の後深草が北条時宗に泣きついたためです。
後深草に落ち度があったわけでもなく、亀山だって悪くない。
片方だけに決めると、反発が大きくなると判断したのだと思います。
*問題先送りに近い感じもかも(苦笑)

>平家滅亡に一番後ろめたい思いをしているのは摂関家だと思う。
確かに朝廷で藤原氏と平家がライバルだったとは思います。だけど
平安時代ほどの謀略を藤原氏が使ったなら、分かりますが
うしろめたさを感じる理由はないと思います。
(比叡山と平家が戦ったことがそんなにうしろめたいとも思えないです。
 平家がてこずったのは事実ですが、滅亡の主原因とはいえないでしょうし)

>実朝の次の将軍は摂関家から来ています。
>承久の変は京都から見ると,力をつけてきた天皇家を摂関家が排除しようとしたのだといえる。
この時、鎌倉幕府は皇族から将軍を出そうとしました。
それを後鳥羽が拒否したので、仕方なく摂関家から将軍を出したというのは有名な話です。
この事実からすると無理があると思います。



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安部さんの説への疑問その1 投稿者:輔住  投稿日: 1月12日(日)12時06分26秒

安部さん、正直わからないことだらけです。

>本来武家の棟梁とは藤原秀郷の子孫と摂津源氏を指すのであり,
>義家の子孫や平家は傍流に過ぎません。
関東で藤原秀郷の子孫の武士団が多くいたことは
事実ですが、(佐野氏、小山氏、藤原流足利氏等)
三浦、畠山、千葉など平氏も数多く存在し、
関東=藤原という意識が強かったのでしょうか?

群雄割拠でまとまっていたとはあまり思えません。

>なぜ義経が先頭に立つと戦争がうまく行ったかと言うと、
>坂東武士は頼朝を主人とは思っておらず,であるからその
>目付けの梶原景時もただの生意気な同僚に過ぎず,坂東武士にとっては
>奥州藤原氏の後ろ盾がある義経の方が正式な
>従うべき司令官であったからです。
だとすれば、頼朝と義経が対立したとき、もう少し従う人が
多くてもよかったと思いますが。

>それは前九年の役の勝者が源氏ではなく,清原氏であり,清原武則はどうも清原氏ではなくて,
>坂東の有力武士の平家の出であったらしいことと関係がないでしょうか?
>やはり坂東の武士も奥羽の武士も前九年の役で従ったのは成り上がりの源氏ではなく,古く
>から武勇がある直方流(だったかな?ちと手下に資料が無いのですが)の平家であった。
???よく意味が分かりません。
前9年の役の勝者は源氏でしょう。源氏が関東に本格的に勢力を持つきっかけですし、
頼朝が奥州を攻めるときは、前九年の役の例を意識しています。
こうしたことから考えると少し腑に落ちません。

長いので、その2に続きます。



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少し亀レス・・・原油の話 投稿者:武来人  投稿日: 1月12日(日)01時27分52秒

太平洋戦争で日本軍が欲しいのは原油でした。インドネシアのスマトラ島には多量の原油の埋蔵量があり、産出されていました。日本から近いインドネシアに日本軍が進出するのは、当然考えられます。しかもスマトラ島の北部地域には、良質即ち重質分が少ない軽質分(ガソリンなど)の多い原油が産出されます。普通、原油は蒸留により、ガソリン・灯油・重油などを取り出すのはご承知の通りです。ところが北スマトラのある原油は、蒸留(精留)せずに原油のまま航空燃料として使うことができ、そのままで戦闘機が空を飛んだという伝説的な話も聞いたことがあります(真偽のほどは定かではありませんが)。



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それで平家物語なんですが 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月11日(土)20時54分55秒

平家物語を書かせたのは慈円だったのではないかという説があるそうです。

平家物語では後白河法皇がたいへんな策士として描かれている訳ですが,本当にそうなのか?

私は,源平合戦の京都から見た姿というのは、強力なライバルである平家を摂関家がいかにして倒したかだと考えています。

源氏は昔から摂関家の暴力装置(走狗)であり,頼朝と関白九条兼実の親交は有名ですよね。慈円は兼実の弟です。そう言えば,平家が栄華を謳歌している時代にも比叡山の宗徒は平家を悩ましていますね,天台座主慈円の差し金だと思うのです。

平家滅亡に一番後ろめたい思いをしているのは摂関家だと思う。それに摂関家は絶対に表には出てこない,摂関家は平家滅亡の責任を後白河法王になすりつけようとした。

これは実朝暗殺と承久の変に関わってきます。
後鳥羽上皇は摂関家の暴力装置である源氏を取りこもうとした,天皇家に近づきすぎた源氏を摂関家と御家人が排除した。

実朝の次の将軍は摂関家から来ています。

承久の変は京都から見ると,力をつけてきた天皇家を摂関家が排除しようとしたのだといえる。


今思い出したのですが,摂関家はこの時代に分裂しますね。九条と二条と一条と鷹司に分裂する。これは北条が摂関家の相続争いに介入して摂関家を弱体化させたのだと思います。その後で,頼経と連動しようとした三浦が滅ぼされて,藤原将軍が追い出されて完全な北条の天下になる。まだ確認していませんが,摂関家の頭脳である慈円の死後おそらく藤原氏にたいして北条の策謀の手がのびたのだろうと思います。

天皇家もそうですね,意図的にニ家に分裂させたのです北条氏が。摂関家で味を占めたのでしょう。

北条氏は他の御家人の相続にも介入してどんどん分裂させていますよね。



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奥州藤原氏を滅ぼす時 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月11日(土)20時43分22秒

これもロトさんの掲示板に書きましたが,源頼朝が目指したのは,関東に奥州藤原氏の作った王国のコピーを作ることだったと思うのですよ。

律令国家に認められた半独立国。これを作ろうとした。
しかしコピーであるが故に,本家の方を倒さざるを得なかった。頼朝の真の敵は奥州藤原氏だったと思うんです。平家を倒すつもりは全く無かった。

うまい喩えかどうかわかりませんが,頼朝をヒトラーとし,奥州藤原氏をスターリンとし,平家をフランス,藤原氏をイギリスにすれば理解しやすいと思います。ヒトラーが本当に倒したかったのがソ連であるのは有名な話ですね。社会主義国としてのオリジナルがソ連であり、生存権としてのロシア平原を欲したとこともナチス・ドイツとソ連の関係は,鎌倉と平泉の関係に似ていると思うのですが。

渋る坂東武士を綱渡りで奥州遠征まで連れていったところが,鎌倉幕府成立最大の山場だったと考えています。

こう考えると義経というのが非常に重要な役割を果たしていたことになるのですね。
平家を倒した総司令官の義経から以下に軍事力を剥いだかを知りたいと頃です。
ここで梶原景時が活躍したのではないでしょうか?
主兵力を義経に奪われた頼朝は,奥州と義経の両方から攻められる可能性がありました。頼朝は神奈川県と千葉県しか掌握していないも同然ですからね,この頃はまだ。



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それは前九年の役の勝者が 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月11日(土)20時34分03秒

源氏ではなく,清原氏であり,清原武則はどうも清原氏ではなくて,坂東の有力武士の平家の出であったらしいことと関係がないでしょうか?やはり坂東の武士も奥羽の武士も前九年の役で従ったのは成り上がりの源氏ではなく,古くから武勇がある直方流(だったかな?ちと手下に資料が無いのですが)の平家であった。

前九年の役では,源氏は一度は負けているんですよね?

あとロトさんの掲示板に書きましたが,私は前九年の役は摂関家の暴力装置である源氏が,摂関家の命を受けて起こした戦いではなかったかと思うのですよ。



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えっと 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 1月11日(土)20時22分03秒

>義経の成功を彼の個人的素質だけにするのは少々おかしいと思いませんか?
おかしいです。というか、わしは義経の功績を認めているのは手勢だけで戦った屋島だけであり、他はむしろ坂東武者の活躍によるものでしょうね。義経の作戦勝ちに見えるのは「平家物語」以降の脚色で、実はその「平家」を読めば義経の手柄ではないことがわかると思うのです。

>源氏が3代で滅ぼされても,御家人の間に全く動揺が生じ無かった事もおかしいとは思いませんか?
頼朝が征夷大将軍になって「武家の棟梁」という名を得ても、所詮付け焼刃であったのは同意。いくら義家の時代に関東武士と主従関係を結んだにしても、義親−為義の代で関東武士は源氏から離れているのですから。
でも、もし安部さんの論を応用すると、前九年の役で藤原清経を倒したことや、頼朝の命で奥州藤原氏を滅ぼすことに、関東武士が動揺する思うのですが。



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議論は面白い 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月11日(土)15時35分10秒

今勇者ロトさんの「古代出雲王国の謎」掲示板で進めている議論は,ロトさんの豊富な知識と適切なツッコミによって,私も思っていなかったほど,平安時代に関する理解を深める方向へ進んでいます。

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/cgi-bin/user/sakura-komichi/wforum.cgi

喧嘩っ早い私の言葉のキャッチボールがこれほどうまく言ったのは珍しいことだと思います。

これは,私がきんたろうさんのページに頂いたコーナーで進めてきた古代天皇制の話と,尊王思想を繋ぐ話に発展しそうです。

菅原道真の怨霊と平将門がつながるとは初めのうちは思っていませんでした。でも道真の活躍した時代と将門が活躍した時代は30年くらいしか離れていない訳ですから二人は分けて理解することはできない。将門が生きた時代というのは道真によって作られた時代でした。

菅原道真というのは思っていた以上に重要な人物です。聖徳太子や源頼朝や織田信長と並べられるほど日本史にとって重要な人物です。ただの怨霊のチャンピオンではありません。菅原道真こそ,律令国家と武家の時代をつなげるミッシングリンクです。

武士の誕生は律令国家と切り離すことはできない。むしろ,律令国家から武士が生まれたのです。そして武士と古代の神々も切り離すことは出来ない。武士の誕生は古代の呪術的な祭祀と密接に関わっている。

そしてこれを進めていくと,承久の変と鎌倉幕府の滅亡もちゃんと理解ができる。後鳥羽上皇と後醍醐天皇は時代が見えなかったパッパラパーではなく,彼等なりのちゃんとした理由と勝算があったのが分かる。

きんたろうさん,まだ時間がかかるかもしれませんが,まとまったら私のコーナーに「武家の起源」と言う題で新しいシリーズを書かせて頂けないでしょうか?
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家出 投稿者:みのる  投稿日: 1月11日(土)15時06分01秒

家を出ようかと思っています。私は長いこと田園調布で一人で暮らしていました。
今は収入も多いので懐かしき田園調布にかえろかな。
あそこは住み心地が杉並よりいいしな。



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母と徹底的に対立 投稿者:みのる  投稿日: 1月11日(土)11時56分47秒

父の看護をめぐり母とケンかしてます。私は会社を休み病院へ見舞いへ行くのに、ひまな
母は来ない。怒ると家から出てけという。貴様、誰の給料で飯くってんだ?と私が怒鳴る。あんたは日本国憲法の国民の義務に違反している。と私がどなる。



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そこらへんのことは 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月10日(金)23時14分07秒

おりこんであります

源氏が武家の棟梁だったと考えられるようになるのは鎌倉時代になってから北条氏が自己正統化する課程であって,それまではむしろ武家の中でも下級な部類に位置しているのです。

頼義の系統の源氏が無理をしているのは彼等が成り上がりであるからで,,,

まず源氏は大した貴種ではなかったと言う所から始める法が理解できると思うのですね。

今は酔っているので,また今度詳しく説明しましょう。でも義経の成功を彼の個人的素質だけにするのは少々おかしいと思いませんか?また、源氏が3代で滅ぼされても,御家人の間に全く動揺が生じ無かった事もおかしいとは思いませんか?

また、鎌倉幕府が武家の権利を守った公正な政権であったというのも,これは坂東だけで成り立つ話であって,陸奥や西国ではそうでは無い。西国では朝廷はそれほど悪い政治は行っていない。鎌倉幕府はむしろ侵略者に過ぎない。

私は,坂東武士は最初のうちは頼朝では無くて以仁王の綸旨に従ったのだと思います。



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安部さん面白いけど 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 1月10日(金)19時55分36秒

>元々坂東武士にとって正式な主人は源氏などではなく奥州藤原氏であるのです。
奥州藤原氏、というか藤原秀郷流は清経の代でほろぼされたも同然ですよね。
しかもそれを滅ぼしたのは源氏と清原氏で、関東武士団も荷担しています。
さらに関東武士団、頼朝の命によって奥州藤原氏を倒していますよね。
源氏が関東で勢力をつくるのは平将門の乱よりも後、
平忠常の乱を平定したからではなかったでしょうか。

頼朝は確かに絶対的な支持を受けていたわけではないけど、
源氏の血筋はやはり貴種に違いなかったと思います。
それは木曽義仲が北信越を支配出来たこと、
義経の兄義円が東海地区で兵を集めるのに成功したことから考えられます。



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太田さん 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 1月10日(金)19時21分38秒

漂流のことでしたら、わしも勉強しておりますので話にまぜてくだされ。

>漂流者が漂着すると殺されるか、奴隷にされるかどちらかだと思います。
知っている限りでは、東南アジアに漂着すると、
船は焼かれ(釘などの鉄製品が目的であった)船乗りのほとんどが奴隷にされています。

アリューシャンやカムチャッカも同様です。
ところがロシアが北太平洋岸を支配するようになってからは、
日本人の漂流者は手厚く迎えられていますね。
なお太田さんもご存知の「時規物語」のようにアメリカの船に出会った人たちも助けられてるし。
遠く北アメリカまで流された人たちもインディアンに奴隷にされていましたが、
イギリス人に見出されて客人扱いでした。

日本江戸時代は異人お断りの印象をもたれていますが、
フィリピンから漂流してきた人たちを助け、
わざわざオランダの船に乗せて故郷に送り返しています。



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海軍軍人は 投稿者:太田守人  投稿日: 1月10日(金)16時12分32秒

元々船乗りですから、溺者を捨ててはおけないのでしょうね。ただ、日本海軍将兵ほど、アメリカ艦艇に、救助されるのを嫌った者は、いなかったようです。そこで、アメリカ海軍は、ロープを投げても自主的に掴まらない為、鉤爪のついた長い棒で、襟口を引っ掛け、引き寄せていたようです。それでも、服を脱いで救助を拒否した、日本海軍軍人が結構いたそうです。もっとも、人道的見地より、捕虜から情報を取るという側面も、大きかったようですが。
連合軍海軍は、情報を取る為、捕虜は出来るだけ獲得せよ。という通達を、出していたようです。特に、敵の潜水艦情報は、捕虜の供述以外取れなかったので・・・。



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なるほど 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月10日(金)13時35分41秒

アメリカ軍も海軍の方は捕虜をちゃんと助けていたのですか。

しかし、アメリカ軍も陸軍の方は、「捕虜はできるだけ作らない」と言う方針でしたから、ほとんど戦力が無くなった日本兵でも虐殺していました。太平洋戦争で日本軍の死者がものすごく多かったのは、食糧が足りなかったからだと言うことになってはいますが、アメリカ軍の虐殺も大きいのではないかと私は疑っています。収容力が無くても捕虜を取ろうとした日本軍とどっちがましだかわかりません。

東京裁判や、日本軍無能説(もちろん無能だったっと私も思うけれど言われているほどだったかどうかは疑問)も太平洋戦争の時にアメリカ軍が日本軍を虐殺したことを覆い隠すために戦後流されたプロパガンダの影響もあると思います。



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漂流者を助ける 投稿者:太田守人  投稿日: 1月10日(金)12時46分45秒

漂流者が漂着すると殺されるか、奴隷にされるかどちらかだと思います。遣唐使の平群広成が遭難し、崑崙国に漂着し、そこで4名を残し,全員が殺されるか,奴隷として売られるかという形が、あたりまえのように思います。この時の唐の玄宗皇帝が、広成の話しを聞き「朕。聞くに耐えず。」と言い、途中で辞めさせたといいます。
その意味では、日本人は本当に優しかったと思います。日本海海戦の時、漂着した敵国のロシア海軍軍人を、女子供までが海に飛び込み助け、漂着遺体は丁寧に葬っています。このような、国民は余りいないと思います。日本人が、世界に誇るべき美徳だと思います。
ただ、太平洋戦争を見ると、ミッドウエーぐらいまでは、日本海軍が漂流している、アメリカ兵に水や食料、磁石等の航海器具をわけたり、泳いでいる敵兵を危険覚悟の上で、艦を止め救助したりしてますが、1944年以降は、アメリカ海軍の方が、このようなことをしているのが多いようです。矢張り、貧すれば鈍すで、戦争に勝ってるほうが鷹揚なんでしょうかね。
アメリカに捕虜になった日本兵は、一様に捕虜になってから、それまで、まったくなかった性欲が出てきて困ったそうです。これは、アメリカ軍の食事が良かったからでしょうか?



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 1月10日(金)09時02分42秒

>それにしても陸軍がインドネシアまで行く必要は無かったのでは無いかと思うのですが。。。??

油田です。陸軍は専用の油田が欲しかった。海軍は、油の備蓄量800万トンで戦争に突入しましたが、陸軍は、備蓄量皆無に近い状態で戦争に突入しました。



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武士と侍! 投稿者:Mayo  投稿日: 1月10日(金)01時31分34秒

きんたろうさんお久しぶりです〜。
武士と侍とは一致しないのですね。
この二つのことでちょっと気になってた時期もあったので
興味深かったです。

http://happystr.vis.ne.jp/



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kitunoさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月 9日(木)22時51分41秒

のリニューアルページを拝見してきましたv(^o^)

改めて読み返すとなんて着実な内容に満たされているのかと感心してしまいました。
私も構成は出来ていますのである程度まとまった時間と気力がタイミングよく合えばアップ出来ると思うのですが。。。(;^_^A)
ちなみにタイトルはたった今決めました、笑
「きらめく神功皇后」(仮題)です。

安部さんと勇者ロトさんがされている怨霊の話ですね。
これは楽しみです^^

武士についてはその用語の発生については諸説あるようですから、簡単にまとめておきますね。

武士(ぶし)と侍(さむらい)は一致していない。
武士(ぶし)=軍人
侍(さむらい)=貴族、または尊敬すべき人

なお関連の語として、
さわもの=武士、または軍勢
もののふ=武人
むしゃ=武装した武士

などがあり、「武士」「侍」以外にも類似した「兵」「武人」「武者」などの用語が用いられています。

それらのなかで「侍」には一見すると軍事的、武的な意味が与えられていないにも拘わらず「武士」とされるのか若干の説明が必要とされます。

土田直鎮先生によれば、そもそも「侍」とは公卿、諸大夫につぐ家柄である。
諸大夫とは大体四位・五位あたりを中心とする家柄で、院や摂関家に仕える者も多かった。
侍とはその下の格で、多くは有力な諸家に仕え、官は大体判官級止りが多いようである。とされています。

古語辞典類では「さぶらひ=さむらひ」とは「貴人にお仕えする、伺候する」の意の「さぶらふ=さもらふ」から出た語であり
@貴人のそばに仕えて雑用をする者、従者
A貴人のそばに仕えて警固をする武士
B武家に仕える者、武士
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大三元さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 1月 9日(木)22時44分55秒

読みやすいカラーページなんですね。
ますます楽しみです
印税がたっぷり入ったらおごって下さいね、自爆(;^_^A)

本と言えば。。。
以前紹介したと思いますが「継体天皇は新王朝ではない」を読んであまりに感動し過ぎたために作者の南原先生に手紙を送ったところ何と返事を頂いてしまいました。
今年は年始早々運がいいような気がします^^

太田さんは本当にびっくりするほど詳しく知っていますね。
はっきり言って陸軍は井の中の蛙過ぎたような気がしますね
必要以上に威張ってしまうというのは最近では薄れてきましたが農耕型日本人の特徴かもしれないと思います。
それにしても陸軍がインドネシアまで行く必要は無かったのでは無いかと思うのですが。。。??

そういえばマレーシア辺りの抗日ゲリラは華人がほとんどだったと聞きますね。
彼らは華僑として英米仏に付くことで戦後大きな利益を得ていますから色々な思惑が複雑怪奇に絡み合っていたであろうと想像できます。



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豊郷町のリコール 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月 9日(木)17時50分24秒

請求は受理されました。けれどもその前に100人無効な署名があるのではないかという指摘があり,十数名の署名が無効になりました。

これは,私は左翼の活動家が大挙住民票を豊郷町へ移して,偽住民が作られたことを指しているのではないかと考えています。

何故急に滋賀県の片田舎がこのような活動家達に狙われてしまったのかは分かりませんが、巻き込まれた子供や教育長や校長は気の毒としか言いようがありません。もしかしたら町長も被害者であるかもしれません。



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義経の役割 投稿者:安部奈亮  投稿日: 1月 9日(木)16時21分33秒

今勇者ロトさんの掲示板でロトさんと私が進めている議論と関わってきます。

後でもっと詳しく書くつもりですが,取りあえず一番みなさんの興味が強そうな義経について大雑把な所を書きます。


侍の本来の仕事は,武芸の力で霊的に天皇や貴族を守ることでした。時代が遡るほど,怨霊や物の怪と言った怪異と現実に存在する盗賊や反乱軍や辺境の異民族の区別がつかなくなってきます。物の怪を祓う霊力を持った(とされる)武芸者には反乱を押さえる力があり、逆に反乱を押さえた武芸者には物の怪を撃退する霊力が備わっていると考えらようになるるわけです。

中世において,まず最初に武芸の頂点に立った武士は,平将門に勝利した藤原秀郷でした。
藤原秀郷の子孫は「武家の棟梁」として貴族に畏怖され、地方の侍からは尊敬を受けました。

本来武家の棟梁とは藤原秀郷の子孫と摂津源氏を指すのであり,義家の子孫や平家は傍流に過ぎません。源氏が昔から武家の棟梁であるかのように言われるようになるのは,北条氏が「吾妻鏡」で歴史を捏造してからなんですね。

奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫です。奥州藤原氏は坂東武士の総司令官である鎮守府将軍の官職にもついていました。


元々坂東武士にとって正式な主人は源氏などではなく奥州藤原氏であるのです。


ですから,源義経はただの頼朝の弟ではなくて、坂東武士にとっては「本当の主人である奥州藤原氏から送られてきた真の司令官」であったのです。

なぜ義経が先頭に立つと戦争がうまく行ったかと言うと、坂東武士は頼朝を主人とは思っておらず,であるからその目付けの梶原景時もただの生意気な同僚に過ぎず,坂東武士にとっては奥州藤原氏の後ろ盾がある義経の方が正式な従うべき司令官であったからです。



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初宣伝^^;; 投稿者:kituno  投稿日: 1月 9日(木)15時07分12秒

トップペ−ジ及び旅日記の太秦編と神話のペ−ジをリニュ−アルしました。(太秦編には本人の意思も確かめないまま安部さんの写真を掲載^^;)
トップペ−ジからご覧下さい!
皆さんのご感想をお待ちしています。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/index.html



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いいことを書いたので・・・ 投稿者:太田守人  投稿日: 1月 9日(木)12時35分53秒

次は悪いことを書きます。この話は、別の学徒出陣で海軍の予備士官として、インドネシアのジャカルタで終戦を迎えた方の話です。復員船が入港してきたので、復員船に乗ろうと岸壁に行った時、多数の陸軍兵が腕立て伏せをして、バテルと現地人の警備兵が殴りつけていたそうです。そこで、この人が止めに入ったら、その警備兵達が、「海軍,心いいから、船に乗ってもいい。陸軍,すぐ俺たちを殴った。だからダメだ。」と片言の日本語で言ったそうです。インドネシアの占領は、日本軍の初代占領軍司令官の今村均陸軍大将の人徳もあり、日本占領地では、非常にうまく行っていました。又、インドネシア独立の為に命を捧げた、日本兵も多数あり、終戦後、インドネシアの占領軍は、日本の占領軍に武器の引渡しを求めた時、日本軍は盗難にあったことにして、相当数の武器を独立軍に渡したそうです。初期のインドシナ空軍は、隼とかいう、日本陸軍の戦闘機を相当数装備していたそうですが、陰では、このようなことがあったようです。この人は、暗澹たる気持ちで、眺めていたそうです。



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きんたろうさん 投稿者:大三元  投稿日: 1月 8日(水)22時46分56秒

早速の、ご予約ありがとうございます。
今度のはカラーも使うため値段が上がってしまったようですが、
図表が見やすくなったのでご容赦

http://www.dai3gen.net/



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