過去ログ192(2003年〜4月24日)


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その2 投稿者:きんたろう  投稿日: 4月24日(木)23時26分15秒

日本の場合は「孤立論」だと余りにも偏狭な感覚と言うことで、東アジア全体像からの発想こそが第一であるという意見を声高に言う人がいます。
私自身もマクロ的な発想は好きなのですが、やはり程度問題だと思うのです。
バイアスがかかった意見である場合は困りますよね^^;;

特にこのような意見は、中華人民奈共和国を「無条件に支持」する人の意見に多いのが特徴だと感じています。
私の感覚としては、鋭い(と思われるような)意見や発想をバシバシ飛ばして来るにも拘わらず、対象が現代中国に関すると途端に「無条件降伏」してしまうその二重性感覚が信じられないのです。

数年前のことですが、日本に対して個々の特徴をみるという極めて柔軟な発想をしている(と思われた)人が、中国に対しては漢民族とは歴史的背景が異なる多くの少数民族を抱えているにも拘わらず「中国人」としか言いようがない、と発言したのをみた時にはトンデモないゲス野郎だと思ったものです(;^_^A)

その人のHPを見た時に自虐的日本人のメンバーに違いないとは思ったのですが。。。
確かにその通りでした。
こういう人が中国の核実験には知らぬ顔をするのだろうと思います。
勿論、北朝鮮の拉致も自分の身に置き換えて感じるのではなく、他人事にしか感じないような人なのだと思いました。

このような人の場合は知性も教養も空しく思えて仕方がありませんでした。
英知を持たない知識は子供の感情と何ら変わるところがないと思います。
編集済



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日本列島 投稿者:きんたろう  投稿日: 4月24日(木)23時23分12秒

は海外との交流が皆無であったわけではありませんが、それでも陸続きの所との頻度と比べれば正に雲泥の差があるのは明らかです。
特に時代を遡れば溯るほど航海技術が未熟だったばかりではなく、船の技術や航海先の情報があまりにも貧弱だったという厳然たる事実の前にはとても気楽に海を越えてくる事などが出来たはずがありません。

このような環境にある日本列島ですら、ハイブリッド化が行われているのですから、大陸で自分たちのアイデンティティを維持する事はとても困難だったと思います。
日本では、日本人というID感覚(古代なら、「おいらたち」みたいな感じ^^;;)を普通にしていても自然に持てるものですが、流動性が高い地域においては人工的に保とうとしないと自然に崩壊してしまうような脆さを感じてしまうのです。
だからこそ、大陸では日本人というような漠然としたイメージの集団ではなく、「血縁」による一族のまとまりが発達したのかなと考えています。

太田さんが書かれているように日本列島は隔離された世界であり、確かに大陸世界から見れば外敵のいない無菌状態のように見えるのかもしれませんね。

Toshyさん
イギリスとフランスを隔てるドーバー海峡は玄界灘よりもバリアが低かったと言うよりもフランス側(というか大陸側)の圧力が高かったのは間違いがないと思います。
日本と朝鮮半島の関係をみると、神功皇后から始まって日本からの外征ばかりが目立ちます。
最終的原因とは国土の環境の差による生産力によるのではないかと思っているのですが。。。
編集済



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同じ島国でも 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 4月24日(木)20時47分19秒

日本とイギリスは、こう考えると、えらい違いですな。
イギリスは大陸の侵略を何度か受け、しかもフランスとしょっちゅう戦争している。
日本と半島の距離のほうが狭いはずなのに。
江戸時代に日本が鎖国できたのは何故か。「鎖国するぞ〜」と発言しても無理な話で、
やはり外圧がなかっただけだったのかもしれない。
問題は、何故外圧がなかったか、である。



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ゴー・ストップ事件 投稿者:太田守人  投稿日: 4月24日(木)17時24分51秒

昭和の初めに(昭和2・3年頃),大阪で陸軍の二等兵が,信号を無視して,道路を横断しようとして,警官に止められ,喧嘩になり,激昂した陸軍兵士が,警官を殴りつけ,この兵士は留置場に留置された事件です。翌日,陸軍側は連隊旗を先頭に,兵士が留置されている,警察署に押しかけたそうですが,埒があかず,大阪の第4師団長と警察の本部長の喧嘩に発展し,結局,これがエスカレートして,陸軍大臣と,警察を所轄していた内務大臣との喧嘩に発展しました。最後は,有耶無耶で終わったらしいですが,庶民は,軍隊と警察という,国家権力の象徴のような機関同士の喧嘩を面白く見ていたそうです。



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無菌状態の日本人 投稿者:太田守人  投稿日: 4月24日(木)08時06分54秒

誰だったか,日本人は,日本列島という母親と,海という父親に,昔から守られてきた。外国でおいたして,泣いて帰ってきたら,この両親が,「おー。よしよし。」としてくれた。例えば,日本人は過保護な子供のようで,外交音痴や軍事音痴もしかたがない。というようなことを,言っていた人がいました。



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どうも 投稿者:きんたろう  投稿日: 4月24日(木)01時10分07秒

最近は疲れが体の芯まで達しているためか、夕食後にちょっと横になると12時過ぎまで寝てしまうと言うパターンが多くて困っています^^;;
もう少し規則正しい生活をしようと思っていますが、なかなか難しいですよね。

>たまにしか見ない外国人という意味だったのかも知れませんね。
確かに太田さんの言われるような感じかな??と思います。
ところで「みしはせ」はどうして「みしはせ」と発音するのだろうかという疑問を持っています。
「粛慎」という漢字を当てたのは何となく分かるのですが。。。
どうして「みしはせ」なのでしょうか??

>異人に対する恐怖
恐怖とはちょっと意味合いが違うのですが、外人さんは話す時には瞳の中までのぞき込むように??こちらの表情や仕草を注意深く見ようとしますよね??
これは音声だけでは理解できない部分を補うための行為であることは明らかです。
そこには意思疎通が不十分であるための誤解を与えない、受けないという異民族との交流のノウハウがバックとしてあるのではないかと思っています^^
Toshyさんはペラペラでいけますからひょっとしたら違うかも??

ただいま部屋の整理中なのですが、「トンデモ本1999」というかなり面白い本が隠れていた事を発見しました、自爆
編集済



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日本人は 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 4月23日(水)21時07分56秒

こう考えると、いわゆる<島国根性>は昔からのものなんでしょうか。
江戸時代なら鎖国の影響もあるんだろうけど。

異人に対する恐怖は、漂流した人たちの記録からよく伝わってきます。
津太夫さんもアリュートを見て鬼かと考えているし、
他の漂流民でも親切・歓待に対してびくびくしていた様子がわかります。
例えば1756年、朝鮮に漂着した陸奥の漁民4人。
馬に乗せられて屋敷の門をくぐった途端、
礼砲が撃ち鳴らされたのに戦闘の人がびっくりして落馬した。
後続の3人は、彼が撃ち殺されたと考え観念した…と帰国後語っています。
日本で話した時は笑い話になったんだろうが、
異国人を目の前にしていた時はどれほど怖がっていたか、わかるというものです。
http://homepage2.nifty.com/snowwolf/tsu.htm



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そうですね。 投稿者:太田守人  投稿日: 4月23日(水)08時01分35秒

私が,蝦夷と粛慎が違う民族と思うのは,もし,粛慎(みしはせ)が蝦夷の一派であれば,蝦夷と書いたと思います。蝦夷には,熟蝦夷等の言葉もありますので,倭人にとっては,お馴染みさんだったと思います。当時の「みしはせ」というのは,紅毛人とか南蛮人と同じ意味合いで,たまにしか見ない外国人という意味だったのかも知れませんね。



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白川先生 投稿者:きんたろう  投稿日: 4月23日(水)01時12分58秒

と梅原先生の対談本である「呪いの思想」という本はとてもお勧めの一冊ですよ。

以下は読売新聞の本の紹介のところからの抜粋です^^
この紹介文は完璧だと思いましたので参考にさせてもらっています。

白川曰く、孔子は「流浪の民」であり、「葬送を司る者」であり、「巫女の私生児」である。
偶像破壊にも等しいが、やんちゃで人間臭いのが孔子だ。
「悟った人間にしたらあかん」のだ。
こうして孔子を、私たちのすぐ手の届くところに引き寄せてくれる。
それはあたかも塩野七生描くマキアヴェッリやカエサルにも似て、遙かなる時空を越えて蘇ってくるのである。

全編を貫いているのは、中国古代の思想を読み説く鍵は「呪」にあるということだ。
文字とは「神との交通の手段」としてできたものである。
「道」は「異族の首を持って進む」という意味で、道そのものが呪的対象だった。
お祓いしながら進まなければならなかったのだ。

では儒教の「儒」とは何か。
それは「雨を求める人」「雨請いの時に焚殺される身分の人々」のことであり、儒家というのは巫祝(ふしゅく)の出身なのである。
これらはほんの一例だ。
漢字の背後には、人知では及ばない神や自然、人間存在そのものへの畏れや敬虔なる気持ちがあることを思い知るのである。
編集済



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ツングース 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 4月22日(火)19時20分35秒

太田さん>
そうですね、来ていないと考えるのは難しかった。
この欽明五年の<みしはせ>は、正体不明の人ではなかったか、という意味です。
だから彼らを恐れ、「鬼」と呼んだのではなかったかと。
もしどこの人かわかっていたら、恐れないと思うので。
http://homepage2.nifty.com/snowwolf/tsu.htm




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Toshyさん 投稿者:太田守人  投稿日: 4月22日(火)12時25分31秒

>欽明の時代に本当にツングースが来たと思えない。

どうでしょう。渤海使節は,能登の福浦港に出入りしていますし,石川県の第2の都市小松市は,昔は,高麗津と書いたのが小松になったとも言います。鬼は,漂流民でしょうから,沿海州あたりのツングースが漂流し,日本に,漂着した可能性はあると思います。日本を目指していないとしても,嵐等で意志に反し日本に来たツングースもいたように思います。




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条里制 投稿者:きんたろう  投稿日: 4月22日(火)02時05分03秒

の発想とともに「史」についての理解が古代史をイメージするのに大きな比重を占めているのではないか、と感じています。

史とは例えるなら「右筆」のような存在ですよね。
史が右筆であると理解すれば、この人達がいくら漢字力があったとしても、それはトップではなく、せいぜい中ぐらいのポジションであるとイメージし易いのではないでしょうか。

古代では仮名遣いが8音だったという話などから考えると、史とは帰化人によってかなりの部分を構成されていたような感じがします。
史料に残された漢字力から、政治的影響力という次元まで幻想を抱いてしまう場合があるわけです。

しかし、史はつまるところ「代筆屋」ですから、彼らが政策決定権を持っていたわけではありませんので、過大な期待は誤解を生むような気がします。
編集済



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粛慎 投稿者:きんたろう  投稿日: 4月22日(火)02時01分11秒

を単語登録しました^^
粛慎のような難しい漢字などはIMEにどんどん登録していくと便利ですね、ってようやくATOKの機能を理解し始めています、自爆^^;;

粛慎という言葉は元々は沿海州方面におけるツングース族を夷狄と呼んだ言葉ですよね。
この言葉は秦の頃に現れているとありますが、実態については不明らしいですね。
太田さんが書かれているように、満州の方からやって来た人たちであったのか、Toshyさんが書かれているように正体不明の異邦人を指した言葉だったのでしょうか。

常陸風土記では「国巣」とか「やつかはぎ」「土蜘蛛」である佐伯という部分があります。
土蜘蛛とは良く聞きますので一般名詞のような感じがしますね。



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思いつきだけど 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 4月21日(月)22時09分12秒

<みしはせ>は、もともとツングースではなく、正体不明の異邦人を指した言葉では?
それがやがて、ツングース系の人たちに対する言葉へと変わっていった……
日本書紀の時代、ツングースは日本人の知識の外にあったと思われます。

 これこれの漂着者がいた。
 きっとみしはせの奴らだろう…

という具合で、欽明の時代に本当にツングースが来たと思えない。



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国巣・佐伯・土蜘蛛 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 4月21日(月)20時13分18秒

いずれも土着の人種、という意味を持った言葉ですね。
これらは閉ざされた人々、山岳の人たちを指していたようです。
だから民族・人種というよりも生活空間の違いでしょう。
山の中のユートピアというより桃源郷・隠れ里伝説と関係あるのかも。

面白い隠れ里は<酒泉郷>でしょうか。
修行僧が南吉野の山の中で道に迷い、辿りついた村に酒の泉があったのです。
僧はそこで道を教えてもらい無事に帰るのですが、
口止めされていたにもかかわらず酒泉郷のことをしゃべり、
探検隊(?)を結成して再び山に入っていきました。
そして彼等は、二度と戻ることはなかったのです……



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蝦夷と粛慎 投稿者:太田守人  投稿日: 4月21日(月)12時26分04秒

きんたろうさん。私は,蝦夷と粛慎は,違う民族でないかと思っています。というのは,「みしはせ」を粛慎と書きますよね。中国にも粛慎はいましたが,いつの間にか姿を消しています。中国に駆逐された,粛慎が沿海州経由で間宮海峡,宗谷海峡を通り,北海道に来たと思います。
斉明天皇の条に,阿倍比羅夫が七尾(能登の香島)を出港し,北伐した時に,能登臣馬身竜というのが,粛慎との戦いで戦死していますが,どうも蝦夷とは,別の民族のように思います。
蝦夷は,縄文系の先住民族に,出雲等の政争に敗れた民族との混血でないでしょうか?「みせはし」は,蝦夷とも違う民族のように思います。倭の時代,日本列島には,南から隼人・クマソ,倭人,蝦夷,粛慎の順でいたと思います。粛慎に関しては,沿海州にも,いたたかも知れません。この蝦夷と粛慎との混血が,アイヌのように思います。



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Toshyさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 4月21日(月)00時18分17秒

佐渡島の北の御那部(みなべ)の崎にいた「みしはせ」という集団の事ですね。
「みしはせ」とは蝦夷の一部である説と沿海州ツングース族であるという説があるようですね。

隼人、熊襲、蝦夷、更には佐伯とか国巣、土蜘蛛、あるいは出雲もそうかもしれませんが、表現の違いがあると云うことは、何か基準があったと思うのですが。。。??良く分かりません^^



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最近 投稿者:きんたろう  投稿日: 4月21日(月)00時17分37秒

一気に10冊くらいの本を購入してしまいました。
数年前まではほとんどが立ち読みで済ましていた事を思うと、一人で感激をしてしまいました(;^_^A)

でも、本も一旦買ってしまうとそれで満足してしまう部分がありますよね、笑
たまに買った本は、埃をかぶった頃に取り出すというパターンが多かったような気がします。

今ちょっとごちゃごちゃしているので、上手くまとまらないのですが。。。
条里制の発想はすごいものがあるような気がしています。



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鬼 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 4月19日(土)20時20分20秒

きんたろうさん>
「日本書紀」の鬼の話は、欽明天皇五年十二月にあります。
手元に同書がないし内容も忘れたので、ご確認ください。

他にも似たような話があって、1170年頃ですが、

「玉葉」
 紫檀造りの船に乗った「鬼」が伊豆に5人ほど現れて、
 島の人たちが交流するうちに鬼たちは弓矢を求め、
 これを拒むと体から火を放って逃亡した。

「古今著聞集」にも、やはり同じ頃、皮膚が赤く(褐色?)
腰蓑を巻いて入墨を全身にしている男たちが伊豆に漂着しています。
この人たちも「鬼」と呼ばれています。
http://homepage2.nifty.com/snowwolf/tsu.htm



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なるほど 投稿者:きんたろう  投稿日: 4月19日(土)01時18分29秒

「めんさま」と読むのですね。
太田さん、有難うございます^^
(お)めんさま と言った感じですねv(^o^)

大三元さんも言われているように、古代は「越」と言われた地域が大きな比重を占めていたように思っています。
と言っても実はよく知らないので曖昧なイメージのままなのですが。。。笑

その地理的環境の中で地図を改めて見てみると、能登とは正に半島の突端であり、輪島付近はどちらから見ても最大の遠隔地にして、重大な「息継ぎポイント」であったのではないか??と思います。
変な例えですが、三角州のような場所であるといったイメージがあります。^^

まいむさん
ローカルネタ大歓迎ですよ^^
能登はその地理的要因から伝統がとても良く保存されているのだろうと思いました。

>悲しいけれど、地元の人に、自覚が・・・・・m--m
これって全国共通のものなのかもしれませんね(;^_^A)
こちらで行われた大祭礼にしてもそんな感じです。

おおおお^^
Toshyさん、漂着民の可能性は確かに高いような感じがしますね。
言葉の分からない異様な風体の男を表現するには「鬼」という言葉が最も適切だと思われたような気がします。

彼らは水や食料の補給だけをしてまた旅立っていったのでしょうか??


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藩政時代 投稿者:太田守人  投稿日: 4月18日(金)12時44分06秒

能登の方が,庶民の教育水準が,加賀より高かったそうです。能登は,地面が肥沃でないぶん,出稼ぎに行かなければなりませんでした。そこで,読み書きソロバンは,必修項目でした。
古代にあっても,能登は物流で栄えたと思います。七尾市の万行遺跡のような,古墳時代の大倉庫群遺跡がありますから。石川県の遺跡では,加賀より大和より遠国の能登のほうが,大和の影響が大きかったそうです。これも,能登が,海上交易で栄えた証明だと思います。海上交易では,言葉は悪いですが,権力者に阿るということも必要だと思います。古代の能登は,出雲勢力が強い時は,出雲と仲良くし,出雲の国譲り後は,大和と手を結んだのだと思います。藩政時代まで,加賀より能登の方が豊かで,先進地帯だったと思います。



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日本海 投稿者:太田守人  投稿日: 4月18日(金)10時38分35秒

>日本海側にこのような話が集中するのも面白い。

古代においては,日本海が国際航路であったのだと思いますよ。特に,能登半島や佐渡は,沖に出ているような感じなので,漂着しやすかったのでしょう。





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あっ^^;; 投稿者:きんたろう  投稿日: 4月18日(金)08時38分45秒

書き込みをしたつもりだったのに。。。自爆(;^_^A
寝ぼけていたのかな??



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鬼の話 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 4月17日(木)19時50分31秒

太田さん>
わしも「なまはげ」や「あまめはぎ」などを外国人だと思っています。
「日本書紀」でも佐渡から伝わった漂着人の不思議な話があって、
人々は彼らを鬼だといっているわけですね。
日本海側にこのような話が集中するのも面白い。

「今昔物語」では、
・蛇とムカデが戦い能登の漁師が蛇に加担してムカデを倒す話(巻26)
・新潟に一尺ほどの小舟が漂着する話(巻31)
・佐渡の漁師が漂流して大男の島に流れ着く話(巻31)
などなど。

漂流民と異人について、ちょっと資料を当たってからまた書き込みしてみる。
http://homepage2.nifty.com/snowwolf/tsu.htm



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すんません^^; 投稿者:まいむ  投稿日: 4月17日(木)18時50分20秒

久しぶりで、ローカルネタで・・・そうなんです。能登ほど神様と今も仲のいいところないとおもうのだけれど、悲しいけれど、地元の人に、自覚が・・・・・m--m



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まいむさん 投稿者:太田守人  投稿日: 4月17日(木)18時08分40秒

お久しぶりです。

>面様年頭ですか〜〜〜奥能登は奇祭の宝庫ですよ!ね、太田さん^-^*(な、なれなれしいですか??汗

いいえ。そんなことはありません。そうですよね。能登島の向田の火祭りも奇祭ですよね。すんません。ローカルな話で・・・。向田の火祭りは,能登島の向田(こうだ)である祭りですが,大松明を振り回します。私は,ゾロアスター教に関係あるのでないかと,勝手に思ってます。まあ,夏なので,虫送りの巨大版かもしれませんがね。








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めっちゃ、おひさしぶりです〜〜〜 投稿者:まいむ  投稿日: 4月17日(木)15時55分47秒

こんにちは〜〜〜〜^^*〜〜〜〜
みなさん、めっちゃ、おひっしぶりですぅ〜〜〜
面様年頭ですか〜〜〜奥能登は奇祭の宝庫ですよ!ね、太田さん^-^*(な、なれなれしいですか??汗

能登ほど祭りの多いところはないでしょうし、万葉のコロの地名を残しているところも珍しいのじゃないでしょうか・・・・と、思うのですが・・・・

http://www3.nsknet.or.jp/~maimu/



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 4月17日(木)08時29分32秒

面様年頭と書いて,「めんさまねんとう」と言います。お面を付けた神様を面様(めんさま)というようです。年頭は,年の初めです。奥能登に「あまめはぎ」という、秋田の「なまはげ」に似た祭りがありますが,この面様も輪島の御陣上太鼓(ごじんじょうだいこ)のお面に,よく似たお面をつけます。「ごじんじょう太鼓」は,侵攻してきた,上杉謙信軍を驚かす為,鬼の面をつけた村人が,太鼓を叩いたことに由来していますので,面様も鬼でなかったかと,個人的に思っています。また,外国人を鬼と言ったのだと思ってますので,一言も言葉を発しないのも,漂流してきた,外国人なので,言葉が分からないという,設定でないかと思っています。
鵜様道中にしても,羽咋の気多大社は,オオクニヌシがご祭神で,羽咋もオオクニヌシがこの付近で,狩りをした時,猟犬が鳥の羽を咥えて,戻ってきたことに由来していますので,鵜はオオクニヌシの代わりか,その関連だと思います。まあ,厄病や貧乏までに,神様があるのは,日本だけだと思いますよ。



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太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 4月17日(木)00時38分51秒

面様年頭とは「おもよう ねんとう」と発音していいのですか??
確かにとても興味深いお祭りですね。

面様とはどのような顔をしたお面なのでしょうか??^^
男女一組というところからは、「ひょっとこ」と「おかめ」を想像してみたのですが。。。??
きっと小さい子供が付けて似合う顔が描かれているのでしょうね。

あきんどさん
こちらの掲示板には初めてですね。
良くいらっしゃいました^^

広開土王碑文解釈についての詳しい説明を有難うございます。
確かにあきんどさんの言われるように漢文は難しいですよね。

漢字と万葉かなという小文にもちょっと書いてある事なのですが。。。
一般論ですが、漢文の場合は同じ漢字が名詞にも動詞にも使われるところや、更には時制の区別が無い点などが誤読し易い最大の欠点だと考えています。
また、漢文とは簡潔を最上のものとしているために、人名をフルネームで表現するよりも一文字で現す場合が多いというのもまた誤読しやすい理由に挙げられると思っています。

好太王碑文の新説については、本場である中国の学者である王氏が改竄など行われた形跡はなく、読み方も従来のものが正しいと結論付けた時点で、ワイワイ言っていた人たちの声は小さくなったといったところだと思っています(;^_^A)

特に、北朝鮮の金何鱈館鱈という人は七支刀についてもトンデモ説をぶち上げていますから、元々の動機は歴史への真摯な対応というものではなく、朝鮮上位論という願望からか、あるいは北朝鮮のプロパガンダの一環であったと考えた方がいいと思っています。

広開土王付近については、何冊かを超速読で目にした記憶はあるのですが。。。それらについては本屋か図書館のものですから確認が出来ません(;^_^A)

広開土王の碑文には永楽5年(395)条の「国、躬(みずか)ら率いて往きて討つ」などのように、広開土王が自ら征討に行く場合の表現と、そうでない場合とでは表現に違いがあります。

8年条の「偏師を遣わ教む」、10年条の「歩騎5万を遣わ教む」、17年条の「歩騎5万を遣わ教む」などのように、広開土王が軍隊を派遣する場合の表現があることに着目すると、「王、躬ら率いて〜」の場合には、王が自ら征討に赴く理由が明記されています。
これに対して、「遣わ教む」の方は年紀に続けてすぐ軍隊派遣の結果の内容だけが記されている、という構文の上での特徴が指摘されています。

この検討を通してみると、「渡海破」の主話は「倭」でなければならないと結論付けられているようですね。
あきんどさんの書かれているように、他の資料との整合性から考えて見ても、恐らくはこの通りなのかなと思っています^^
編集済



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広開土王碑文の件 投稿者:あきんど  投稿日: 4月16日(水)16時02分22秒

過日、きんたろうさんのやり取りの中で、広開土王碑文がありましたが、偶然資料が見つかりましたので改めて検証してみました。

まず、倭の渡海の記事です。一般の読み方です。

「新羅百残、旧是属民、由来朝貢、而倭以辛卯来渡海、破百残□□□羅、以為臣民。」

読み下すと、「新羅・百残は、もと属民であって、由来朝貢をしていた。しかるに、倭は辛卯の年をもって海を渡り来て、百残を破り、□□新羅、もって臣民となす。」となります。

きんたろうさん曰くの半島の学者による読み方

「新羅百残、旧是属民、由来朝貢、而倭以辛卯来、渡海破、百残□□新羅」

これを読み下すと、「新羅・百残は、もと属民であって、由来朝貢をしていた。しかるに、倭が辛卯の年をもって来たので、海を渡りこれを破った。百済が(倭を引き入れ新羅を侵し)、臣民とした。」となります。漢文のとめ方を代えて、読めない部分を補足してこのような読み方をしている訳です。

この両方を見ますと、漢文の原文を読む限り、どちらとも読めます。ですか、半島の学者の方が補足している分だけ恣意性が強くなっています。ならば、半島の学者の読み方が間違っているかといいますとこれは保留といえます。単にこの部分の原文だけを読む限り、一般の読み方の方が正しいかと思えますが、この文の次に

「以六年丙申、王躬率水軍、討科残国、」

という文章が続きます。つまり、「王躬が水軍を率いて、科残国を討伐した」と続くわけです。仮に、「科残」と「百残」を一般に百済と読むわけですが、すると高句麗は水軍で以って百済を討つと先の文の次に続くことになるわけです。これを考えますと、半島の学者の読み方もおかしく無い訳です。倭が高句麗の臣従していた百済・新羅を侵し、臣民としたのであるならば倭を討つべきであり、しかるに、そうではなく百済を討っています。これは奇妙です。これは見ますと、どうも百済が首謀者であるとような感がします。つまり、半島の学者の読み方の方が正しいというこになります。倭を主ではなく、百済が主であり、倭を引き入れて新羅を侵したとされる訳です。倭はあくまでも従である訳です。

しかし、これも簡単ではありません。さらに碑文を読み進めますとまた、倭は帯方界を侵したりと何度も現われ、そして、その数は万余を超える兵数が居たとされます。この倭を討つ為、広開土王は5万余の大軍を動員したとされます。兵数に関しては双方ともに誇張はあるにしても大軍であることは間違いがありません。また、他の半島側の記録を読みますと、倭が従だとは思えません。新羅本紀に記述にも倭が新羅の首都を侵した事実が記述されており、更に、百済・新羅の王子は倭に対して質を出している訳です。これらを考えますと一般の読み方の方が正しいと思われます。しかし、半島の学者の読み方も無視できず、完全に否定できないことも事実と思われます。



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面様年頭 投稿者:太田守人  投稿日: 4月16日(水)12時42分07秒

きんたろうさん。奥能登に,特に変った祭りがあるとおもっています。珠洲市周辺に,面様年頭という,行事があります。これは,旧正月に面様というお面をつけた神様が,各戸を回り戸主の年賀を受けるという行事です。戸主は,「面様。おめでとうございます。」と言い,金品を面様に渡しますが,面様は,一言も口を聞いてはいけないそうです。面様は,男女二神で,男女の小学生が面様になります。



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文字 投稿者:きんたろう  投稿日: 4月16日(水)02時10分36秒

記録が失われると、本当の理由が分からなくなり易いというのは真理だと思います。
でもそうすると、日本書紀や古事記を著した頃の伝承力はものすごいものがあるのを改めて思いました。
金砂神社の大祭礼と同じように伝統のある行事は年を経る事に、新たな伝説を加えていくものなのかもしれませんよね^^

先日井沢先生の新作を読んでいたらその中に書かれていたのですが、韓国の何とか言う人が言うには、向こうでは神社とは天皇だけを祭ってあると思っているそうです。
日本の場合は八百万の神様達がいるという基本的なことを全く知らないで、自分たちのスタンダードが日本でも同様に通用するであろうと考えているような感じがしました。

それにしても石川県のお祭りは時間的に大らかな感じがしますね^^
これは海民、や漁民にとっての基本的な部分であるのかな、と思いました。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 4月15日(火)12時11分58秒

美川のおかえり祭りですが,神様がどこかから帰ってくるそうです。でも,出雲ではないようです。大火で,記録が失われた為,おかえり祭りについて,非常に曖昧だそうです。いろんな説があり,霊峰白山から帰ってくるとか,豊漁になるように,海に出ていた神様が帰ってくるとかいう説もあります。元々は,出雲かもしれませんが,祭りは6月なので,この神様,相当サボって,出雲から帰ってくることになりますね。遊び人の神様かも・・・。(爆)

能登には,鵜様道中というのがあります。これは,七尾市の鵜浦で海鵜を捕らえて,羽咋の気多大社まで,その鵜を神様に見立てて,3日間かけて運んできて,羽咋の海に逃がすという祭りがあります。この祭り,一応日時は決まっていますが,肝腎の海鵜が来なかったり,捕らえなかったり出来なかったら,順延になるという呑気な祭りです。



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