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韓国 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月13日(日)22時34分53秒
に限らず中国でもそうですが、彼らが日本人を相手に犯罪を犯した時の言い訳が「かつて日本に迷惑を被ったのだから当然である」というような話を良く聞きます。
特に北朝鮮の拉致事件の時に、北朝鮮シンパの人がこのような意見を色々な掲示板等で見ました。
これらの意見が論理的に成立していない(というよりもごじゃっぺ)というのは子供でも分かる理屈だと思うのですが、彼らはこれによって自己弁護をするばりではなく、犯罪の罪すら帳消しにしたいと画策しているように思われます。
それは中国人のピッキング犯人がこのように自己弁護したとか、韓国に行った旅行者がぼられたのを抗議した時に同様の言い訳をしたという例を聞いた事があるからです。
このようになった原因の大きな一つには、朝日等の巨大な影響力を持った第四勢力が自己規制能力を欠いたまま、政争の具として捏造を韓国や中国に伝えた(更には訂正もしなかった)という事が大きなものだと思っています。
そして相手側では日本と比べて極めて未成熟な部分が大きい社会であるというのも、訳の分からない屁理屈がまかり通った要因だと思います。
マスコミのあからさまな政治的活動とは、自由な発言をするという現代の恵まれた環境を逆手に取ったものですから、これによって自分の首を締め付ける結果が訪れ無いとは言い切れないように感じています。
政治的活動をするのであれば、マスコミではなく政党を作って活動すべきだと考えています。
勿論、批判者であるのは良いと思うのですが、日本全体が子孫にわたってまで不利益にならないように活動して欲しいと思っています。
今の状態が進むと、全ての日本人が凶悪犯人の標的にされてしまう可能性を否定できません。
編集済
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日: 7月11日(金)13時21分16秒
>北朝鮮の事件の場合には、朝鮮総連系が組織的営業妨害をして仕事にならないという悪質なヤクザ以上の手法を使っていたというのは今ではかなり有名になっています。
ひょっとしたら、これと同じような「テロ」行為があるからなのかも??と勘ぐってしまいます。
私もそう思っています。でも,韓国の船主が,「感情的にならず,冷静に対応してくれ。」と言ってるようですが,それなら,冷静に対応できるような誠意を見せろ。と言いたいです。
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Toshyさん 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月10日(木)22時17分08秒
200年前のジャケットの写真を拝見しました。
かなり痛んでいるようですが、それでも200年前の服なんてなかなか残っていませんよね。
これからは、しっかり保存されるはずですから、「偉大な平民」を証明する大きな役割を果たすのかなと思いました。
編集済
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なるほど 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月10日(木)22時16分08秒
ぶらいとさん、有難うござしました。
これは事故を報道をしていないマスコミの方が多いということなのでしょうか??
一体どうしたのでしょう??
不思議ですよね。
一応。。。読売新聞には両方の韓国船による衝突事故の事が書かれていました。
実はテレビはあまり見ないので分かりません^^;;
事故の原因は恐らくは安全確認を怠った単純なミスなのでしょうが、太田さんの説明にあるように、日本の船に優先権があるにも拘わらず、自分の方が大型船であるために相手があわてて避けるであろうと考えたふしが見受けられますよね。
安全に関して極めていい加減な人間が大型の移動物を運転している事自体が間違っていると思います。
不幸にも亡くなられた方がいるのですから、此奴らは刑務所に50年くらいぶち込んで起きたい気持ちがしています。
マスコミが無視を決め込んでいるというのは何か理由があるのでしょうか??
北朝鮮の事件の場合には、朝鮮総連系が組織的営業妨害をして仕事にならないという悪質なヤクザ以上の手法を使っていたというのは今ではかなり有名になっています。
ひょっとしたら、これと同じような「テロ」行為があるからなのかも??と勘ぐってしまいます。
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弩 投稿者:太田守人 投稿日: 7月10日(木)12時50分50秒
>強弓の中でも最大級の弓を「弩」と呼ぶのでしょうか??
古代中国では,戦国時代に「弩」が発明されたそうです。矢継ぎが早いのが特徴で,今の機関銃のようなものだそうです。この「弩」が,ヨーロッパに伝わり,ボーガンになったとも言います。中国では,攻城兵器として位置付けられていたそうです。城を攻めるときは,矢の代わりに石を飛ばしていたそうです。「弩」を「いしゆみ」とも言ったと言います。
江戸時代,犬吠崎沖で海難が多発した為,この海域を避け,利根川から荒川だったかに出て,江戸にくる河川改修を行ったそうですね。この時,川の流れをも変えたとか聞きました。利根川を変えたか走りませんが・・・。銚子沖は,利根川の流れと,黒潮がぶつかり合い,三角波が立ち易いそうです。そして,この三角波が原因で,漁船の大量遭難が発生し易いそうで,銚子海上保安本部配属の巡視船艇は,この三角波対策を特別に施してあるそうです。銚子沖は,伊勢の大王崎沖とともに,江戸時代からの航海の難所でした。そして,最初は利根川河口で,千石船から川船に荷を積み替えていましたが,海上も川も航行出来る,五大力という特殊船が発明され,飛躍的に荷の取り扱い量が増えたそうです。この五大力は,仏教用語で千手観音だったかの能力を言ったと聞いた事があります。この五大力は,戦前まで使われたそうです。
それと,戦前鹿島に,海軍の鹿島射爆場という演習場があり,真珠湾攻撃の直前,アメリカ戦艦の装甲をぶち抜く為,40cm主砲弾を改造した,800kg徹鋼爆弾を,ここで実験したそうです。この実験は,ユナイテッド・スチール社から,アメリカの戦艦と同じ装甲板を,海軍がどこだったかの商社の名前で輸入し,この装甲を800kg徹鋼爆弾が,ぶち抜いたので,真珠湾攻撃に使用し,戦艦アリゾナの火薬庫をこの爆弾が,誘爆させました。その後が,真珠湾のアリゾナ・メモリアルです。アリゾナは,第1戦艦戦隊司令官のキッド少将や艦長以下1,500名以上の乗員を乗せて沈没しました。3年くらい前ですが,この時,アリゾナに乗っていて,爆発で海に跳ね飛ばされて助かった人が,96歳で亡くなったそうです。その人の遺言で,死んだ仲間と一緒にいたいので,アリゾナ艦内に葬ってくれということで,火葬されたこの人の骨を,アメリカ海軍のダイバーが,アリゾナの艦内に葬ったそうです。
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海上交通安全条約 投稿者:太田守人 投稿日: 7月10日(木)09時35分02秒
海上交通安全条約と言う物が有ります。海上では,左側通行です。そして,大型船と小型船がであったら,小型船に回避義務があります。これは,小型船の方が,小回りが効くためです。しかし,第18光洋丸は,行動不自由船の信号を上げていたようです。行動不自由船とは,網を引いたり,上げ下ろししている漁船,艦載機を発着艦させている空母,洋上補給中の艦艇,エンジントラブルの船等があたります。このような船は,黄色国際信号旗を揚げますし,夜間は灯火で合図をします。そして,行動不自由船は,海上交通安全条約では,最優先船と規定されています。このような船は,大小に関係なく,優先権が与えられてます。韓国船は、この信号を見落としたと思います。それで,自分の方が大きいので,向こうに回避義務があると思ったのでないでしょうか?ただ,これが,韓国船でなく,自衛隊やアメリカの艦船だったら,ジャーナリズムはもっと感情的に報道したでしょう。
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太十郎のジャケット 投稿者:Toshy(雪狼) 投稿日: 7月 9日(水)22時44分30秒
http://homepage2.nifty.com/snowwolf/tsu02.htm
に、太十郎さんが持ち帰ったロシアの服の写真を載せました。
200年前のロシアのお土産です。
http://homepage2.nifty.com/snowwolf/tsu.htm
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パナマ船籍貨物船「フン・ア・ジュピター」 投稿者:ぶらいと 投稿日: 7月 9日(水)22時05分07秒
Yahoo!検索エンジンで「フン・ア・ジュピター」を検索してみたところ、全国紙の報道は少ないようですね。中国新聞、山陰中央日報、静岡新聞、すぽにちアネックス、くまにちCOM、京都新聞、NIKKEI NET、Sannkei Webなど。
Sannkei Webによると、事故は7月2日午前2時半頃発生、貨物船「フン・ア・ジュピター」は、第18光洋丸の左舷中央にほぼ直角に衝突し、第18光洋丸は沈没、網長が死亡、8人が重軽傷、6人が行方不明となっているとのことです。第18光洋丸の乗組員らは、「漁灯や汽笛で合図したが、貨物船は減速せず衝突したとのことです。貨物船オーナーである韓国企業は、「逃げも隠れもしない。落ち着いてから話し合おう」と言っているそうです。
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これについてテレビでも余り報道されておらず何か変ですね。場所は、九州の北の玄界灘、あの「竹島」は韓国との間で領土問題となっており、韓国側の今回の行動は多少気になります。
>安部奈亮さん
>行方不明者を捜索中の水産庁の漁業取締船「からしま」(499トン)=宗邦エンタープライズ(宮城県気仙沼市)所有=に韓国貨物船「コレックス・クンサン」(4、044トン、13人乗り組み)が衝突した。
他の掲示板によると「からしま」に韓国貨物船「コレックス・クンサン」がぶつけて来たような感じがします。
編集済
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いえいえ^^;; 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月 9日(水)19時23分41秒
太田さん、全然すまないという事はありませんよ、笑
超弩級の語源については、単なる私の思いつきです(;^_^A)
辞書によると「同類のものよりも、けた違いに大きいこと」とありますから「弩」とは通常の弓よりも遙かに大きな物だったのですね。
大きいという事は当たった場合の威力がすごいのは当然ですが、蔓を引く力がかなり強い者でないと不可能です。
強弓の中でも最大級の弓を「弩」と呼ぶのでしょうか??
武士の興る付近について調べて見ると、太田さんはご存じだと思いますが、三善清行が書いた「意見封事」には「唐にも弩はあるが神功皇后の「弩」の方が性能的には上である」と書かれています。
そう言えば、弓が貧弱だったのは武士の恥であるというのは、義経の逸話にありましたよね。
安部さんの紹介された記事を読むと韓国人の船員の能力が無いのか、あるいは「ヤク中」だったのではないかと思えてきますよね。
大型ダンプを飲酒運転して人殺しをしたようなものと同じだと思います。
どちらも大型の船が小型の船にぶつかっています。
これは正に小さい方が避けるべきであるという、国際法を無視した劣悪な発想だと思います。
何人もの方が無くなっています。
ご冥福をお祈りしたいのですが、犯人を極刑にしないと浮かばれないように思いました。
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マイケルさん 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月 9日(水)19時22分08秒
千代川村の村長さんが亡くなられたのですか!??
何かと大変だと思います。
そういえば、今朝のニュースによると、千代川村に住民登録をしたエトランゼが100台以上も自動車の登録をしてあって、これが犯罪に使われたとありましたね。
田舎の朴訥とした良いところを逆手に取る憎むべき犯罪だと思いました。
ゴルフはへろへろのままです、自爆(;^_^A)
利根川は江戸時代に今のように川の流れを変えたのだと思います。
ちなみに鬼怒川は「毛野川」とかつては表記されていたようですねv(^o^)
藤とか茨とか葛などは「蔓系」の植物という点に共通項があるのはよく指摘されています。
大阪と茨城の地名の共通性は偶然の比率を超えていると感じています。
話がうまく纏まらないのですが、古代における生活圏というものは、道路が未発達であるという条件を忘れてはならないと思っています。
そうなると水辺のほんの近くが人間の居住空間に当たるはずなのです。
将門の時代になれば、岩井のようなちょっと高台になっている場所が「牧」として注目されていますが、これは時代が違います。
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なるほど^^ 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月 9日(水)19時21分08秒
Toshyさん
「前九年・後三年」とは明らかに勘違いによるものなのですね。
この戦いを調べても何処にも9年間という数字が見つからないので変だなと思っていました。
でも、この名前が定着してしまったために、そのまま使われているという事なのだろうと理解しました。
「承久の変」を最近では「承久の乱」と呼ぶそうですから、名称の変更も十分に吟味した後ならば可能ではないかと思ったりします。
例えば、と言いながら(何故か古代東アジアの話題に飛んでしまうのですが。。。^^;;)今の中学の歴史では「百済」のことを「ペグチェ」とルビが振ってある訳ですが、これが当時の発音に近いという保証がされている訳ではないですよね。
日本の中学の歴史で高句麗を「コギュリ」とまでルビを振る必要があるとは到底思えないでいます。
いつ頃からこのような表記ななったのかはよく分からないのですが。。。
教科書業界も朝鮮半島重視過ぎ路線の書き方になったような気がしています。
でも、この場合問題になるのは、「贖罪意識」による過大評価という点が真実の姿を隠す結果になっている事だと思っています。
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源三郎さん 投稿者:マイケル 投稿日: 7月 9日(水)14時23分01秒
ありがとうございます。
そうでしたか。
私も少し興味がわいて来たので調べてみます。
先に書いた「千代川村史」ですが
ゆうべチョット読んでみたのですが
えらぁ〜い先生が書いた本なので
出土した土器の図面などや
原文に近い古文書などが並んでいるだけで
私のような 無知なものには難解すぎて
だからなんなのという疑問を抱いた事柄は
今後の課題であろうとか書いてあって
三億円もかけたものにしては…???
歴史学などを学んだ人には良い書物なのかもしれませんが
私にとっては外国語の本を読んでいるより難解です。
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たしか関宿に運河が 投稿者:畝源三郎 投稿日: 7月 9日(水)11時42分54秒
私は、以前、江戸川下流の原木中山というところに住んでいましたが休日となると、
江戸川沿いを自転車で60kmさかのぼり、利根川との合流点までよく行ってました。
たしか途中、関宿に、利根川と江戸川を結ぶ運河(名前度忘れ)があり(今は公園の
ようになっています)の跡がありました。時代小説にも、この運河のことはよく出て
きます。
この運河は誰によって築かれたものか知りませんが、北関東の運河や河川改修は、江
戸期前半、八州廻りが出来る前の関東総代官であった伊奈家がかなり行ったようですね。「伊奈半十郎上水記」(新人物往来社?)という非常に面白い本がありますので、もし読
んでいなかったら、読んでみてはいかが。
茨城県西部もなつかしですね。
平将門ゆかりの岩井市では、辺田(へた)という所で、中継ポンプ所の仕事にたず
さわっていたし(たしか将門の砦跡の石井の近くだったような・・・・)、守谷市も
同じ下水の仕事でよく行きました。
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訂正 投稿者:マイケル 投稿日: 7月 8日(火)23時43分45秒
桜川は土浦市で霞ヶ浦に流れ込んでいるんでした。
じゃぁ利根川は…?? 小貝川へつないだのかな??
でも小貝川へは常磐道守谷インターの北あたりで
鬼怒川が流れ込んでいたはずだし…
現在の鬼怒川と利根川の合流は、守谷市あたりの運河だし…?
江戸からの船はどうやって宗道河岸へ来ていたんだろう???
ご存知のかたがいらっしゃったら教えてください。
それから、藤代町が藤原氏所縁との記述がありますが
藤代の地名のあたりはヒッジョーニに低い土地です。
今でも舗装された道路がうねってしまうような土地です。
龍ヶ崎市の北部、取手市の西部、伊奈町城中地区あたりでないと
人が住んでいたとは思えません。いわゆる「ドブッ田」です。
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一体どういうことなのでしょうか? 投稿者:安部奈亮 投稿日: 7月 8日(火)21時51分54秒
パナマ船籍の貨物船「フン・ア・ジュピター」が鳥取県境港市の巻き網漁船
「第18光洋丸」漁船と衝突。1名死亡、6名が行方不明、その他重軽傷者多数
さらに、
行方不明者を捜索中の水産庁の漁業取締船「からしま」(499トン)=宗邦エンタープライズ(宮城県気仙沼市)所有=に韓国貨物船「コレックス・クンサン」(4、044トン、13人乗り組み)が衝突した。
1週間のうちに、同じ場所で2隻日本の船が韓国の船に沈没させられたことになります。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/1917/
http://www.sankei.co.jp/news/030706/0706sha056.htm
一体どういうことなのでしょうか?
この2つの事件をまともに報道しない日本のマスコミもどういうつもりなのでしょうか?
編集済
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素朴な疑問 投稿者:マイケル 投稿日: 7月 8日(火)14時06分45秒
やっと、きんたろうさんの歴史のページを読み始めました。
やはり、なるほどなぁ〜と私の軽い頭を刺激してくれます。
ところで、私の思い違いかも知れませんが、
利根川は昔、江戸湾といったかどうか知れませんが
東京湾に流れ込んでいたのではなかったのでしょうか?
そのために、私の住む千代川村は
江戸から日光に向かう舟運で栄えたように聞き及んでおります。
坂東太郎という暴れ川で江戸に水害をもたらすため
桜川あたりに運河で繋ぎ鹿島、銚子のほうに流れるように
したらしいのですが???
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すいません。 投稿者:太田守人 投稿日: 7月 8日(火)09時43分02秒
きんたろうさん。下の投稿,私の早とちりだったようで,神功皇后の「弩」から来ているという,ご趣旨のように解釈しましたが,どうも違うようですね。失礼しました。ただ,ド級や超ド級の新人は,ドレットノートのドです。ただ,日本海軍が,ドに弩を充てたのは,古代中国の弩らしいですよ。
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日: 7月 8日(火)08時53分11秒
>超怒級という言葉は「弩」からきているような気がします。
神功皇后の「弩」とは大和の主砲級の威力を持っていたのではないでしょうか??
あっ、勿論これは「その当時の最大級の威力を持った兵器」という意味です^^;;
違います。今,新聞等のド級や超ド級の新人は,イギリスの戦艦の名前から来ています。戦艦度レッドノートのドです。この戦艦,当時スピード狂のイギリス海軍軍令部長のフィッシャー大将が,日本海海戦で,日本の装甲巡洋艦が戦艦に伍して,活躍したのを見て,戦艦に装甲巡洋艦なみのスピードを与えたらいいのじゃないか。ということで,反対を押し切って建造しました。当時の戦艦は,30cm砲4門が標準でしたが,これが倍の8門になり,排水量も戦艦が15,000T標準のところ,ドレットノートは,19,000Tと余り変りませんでした。そして,当時の装甲巡洋艦が20ノットに対し,この戦艦は23ノットを記録しました。これは,レシプロから,タービンエンジンを採用した為です。このため,列強の戦艦は,一夜にして旧式化しました。そこで,ドレットノート級戦艦の建造競争が始まります。日本海軍は,ドレットノート型戦艦を弩級戦艦という字をあてました。ただ,このような戦艦は,アメリカ海軍のミシガン級の方が早く完成しましたが,この戦艦も30cm砲8門で,16,000Tでしたが,機関に従来のレシプロエンジンを使ったので,速力は18ノットと従来型戦艦と変りませんでした。そこで,このミシガン級戦艦は,歴史に埋没しました。これ以後,日英独米の間で,大艦巨砲主義が始まり,主砲の口径が,32cm,34cm,36cm,40cmと大型化していき,最後は,戦艦大和の46cm砲になりました。そして,主砲の口径が30cmを超える戦艦を,スーパー・ドレットノート型戦艦と言い,日本海軍では,これを超弩級戦艦と言いました。これが,弩級,超弩級の語源です。そして,フィッシャー提督は,戦艦と同じ砲を積み,戦艦より高速化した装甲巡洋艦を計画します。これが,巡洋戦艦です。ただ,この巡洋戦艦は,装甲が巡洋艦並なので,第1次大戦のジュッとランド沖海戦では,イギリスのクイーン・メリー,インビンシブル,インデファチカブル3隻が,第2次大戦フッドが,1発の砲弾で火薬庫が爆発し,沈没しました。
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歴史音痴 投稿者:マイケル 投稿日: 7月 7日(月)23時53分22秒
Toshyさん
茨城県の県西部、平将門にも所縁があるようですが、
千代川村と言う所です。
昔、鬼怒川の舟運が盛んだった頃は、栄えていたようです。
もっと昔は、上総の国や下野の国、常陸の国の境目でしょっちゅう領地や殿様が
変っていたんじゃないかと思います。(私の勝手な思い込み?)
なんとなく、まとまらない地域ですな?
昨日亡くなった村長が「千代川村史」と言う、
三億円もかけて10年がかりで作った本が有ります。
その本に書いてあるかなぁ???
宗道神社については、調べてみます。
きんたろうさんホントにおひさです。
ゴルフの調子はどうですか?
きんたろうさんのページに佐竹氏は清和源氏所縁の…と
有ったような気がしたので、やはりそうでしたか。
きのう村長が…というわけで我が村は、今、ドタバタしています。
まだ、この掲示板にお邪魔したばかりでH.Pに辿り着いていません。
きんたろうさんのH.Pでまた勉強させていただきます。
(でもすぐ忘れる―〈笑〉)
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前九年 投稿者:Toshy(雪狼) 投稿日: 7月 7日(月)19時53分19秒
>それとも二つある戦いのうちの前の方は9年かかって、
>後のは3年かかったという意味なのでしょうか??
はい、明治期の命名はこの意味です。
実際のところ、昔は「奥州十二年戦争」と呼ばれていました。
1051〜1062年と足掛け十二年に渡っていたから。
ところがなぜ「前九年」になったかというと、義家の文書に、
<奥州で十二年戦い、後に三年(注:後三年の役のこと)…>というのがあって、
正確には<12年の戦いの後に、また3年戦い…>なのですが、
これを<12年戦った、その後半の3年…>と誤読したのが始まりです。
>源三郎さん
いやあ…初めて見た名前です。
奥州藤原氏の場合だと、二代目の基衡とその弟の間に対立があり、
敗れた傍系は他国に逃亡したらしいから、
もしかするとその系列かな、と思いました。
ただし系図そのものも結構いい加減だと思います(わら
というのは、その基衡の妻が宗任の娘だという記録があるくらいですから。
こんな感じ↓
┏貞任
┣(女)━清衡━基衡
┃ ┣━秀衡
┗宗任━(?)━(女)
>マイケルさん
おお、面白そうな話ですね! どちらなのですか?
なにかその神社に関する情報、他にあったら教えてください。
http://homepage2.nifty.com/snowwolf/tsu.htm
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確かに 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月 7日(月)18時52分30秒
前九年・後三年の役は確かに不適切な名前だと思っています。
そもそも前九年とはどういう意味なのでしょうね??
何かの基準点の9年前という意味なのでしょうか??
後三年の場合は、何かの3年後に起こったという意味なのでしょうか??
それとも二つある戦いのうちの前の方は9年かかって、後のは3年かかったという意味なのでしょうか??
Toshyさんの言われるようにヘンテコリンな名前だと思います。
源さん
感叡上人という人物は知りませんでした(;^_^A)
ちなみに西光寺という名前の寺は浄土宗系ではポピューラーな名前のような気がしています。
(単に思っているだけです、笑)
マイケルさん、久しぶりですね^^
武田氏の始祖と佐竹氏の始祖は兄弟になります。
ちなみに武田という「名乗り」はひたちなかの武田に由来するものです。
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日教組 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月 7日(月)18時45分49秒
も先生方の労働者としての権利を守るという面で果たした役割は確かに大きなものがあると思います。
これはメーカーの労働組合と同様です。
しかし、日教組の場合は労働者とは言っても、特に公立学校の先生の場合は「公務員」ですから厳密な意味での労働者というものには相当していません。
勿論働いている人という意味は持っていますよ^^;;
基本的にいえば、労使交渉とは自らの「頸」をかけた、つまりは生活権をかけた「ストライキ」が武器なのです。
そう考えると、身分保障されている公務員に「ストライキ」が認められるわけがないのです。
とまあ言っても、一般的な労働環境を改善するという事は、労働資源が許せば公務員であっても民間労働者であっても、良い事だと思いますので反対する理由はありません。
しかし、先生の場合はパブリックサービスが顕著であり、採算性とは無縁のものですから、組合員が活動する場合には、逆説的ですが自分の生活という面から逸脱した観念論的な活動になりがちなのかなと思えたりもします。
身分保障がされていて、仕事が採算性から自由である仕事の場合は、その職業に従事する人の理性が他の職業よりも重大なのだろうと思いました。
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ランダムな感想^^ 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月 7日(月)18時38分43秒
超怒級という言葉は「弩」からきているような気がします。
神功皇后の「弩」とは大和の主砲級の威力を持っていたのではないでしょうか??
あっ、勿論これは「その当時の最大級の威力を持った兵器」という意味です^^;;
この弩の射手には平安時代になると蝦夷と呼ばれた人たちを連れてきて使ったたようです。
蝦夷人は弓の名手であるという認識がされていたのだろうと思います。
太宰府の場合は新羅海賊に対抗する防衛ラインのような感じでしょうか??
聖徳太子の登場までの日本の国際関係史はなかなか興味がありますので、そのうちにまとめますねv(^o^)
辺境軍司貴族の代表である常陸平氏とは、本来は「平氏」と呼べる者ではないという考えを持っています。
元々は独自に勢力を拡大した地方豪族の元に、京都にいては日の目を見ない三流貴種が寄生したのが、地方の平氏や藤原氏だと思っています。
彼らは「平氏」を名乗る前にどのような名前を使っていたのかという記録が残っていないので、本来の名前が分からないだけだと考えています。
東北地方への「やまと」の侵略??は新羅に対するのと同じようなものだったのかもしれません。
同じ列島内であり陸続きだったために、影響力が内陸部開発とともに増大していったのかなと思ったりしています。
5000人の兵士がホームグラウンドで戦うというのは、アウエー側の10倍くらいの兵力に相当するのではないでしょうか??
よく覚えていないのですが。。。
200人くらいの蝦夷が山野に隠れていると、これに対抗する為には数千の兵士を導入しなければならないために、実質的討伐は不可能であると何かで読んだ記憶があります。
(数に自信なし、自爆)
編集済
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厳しい出張^^;; 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月 7日(月)18時37分32秒
今回講習のために初めて川崎に行って来ました。
川崎駅の感じは山手線の駅のそれにとてもよく似ています。
尤も蒲田から一駅ですから当然かなと思いますが。。。
ホテルにはLAN配線がされていて、ノートパソコン持っていれば無料でインターネットが出来るとありました。
流石に大都会のホテルは、ビジネスホテルといえどもひと味も違うと思いました、笑
ちなみにロビーにはノートパソコンが置かれていました。
(これが立ったまま使ったものです)
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きんたろうさん 投稿者:マイケル 投稿日: 7月 7日(月)13時09分25秒
お久しぶりです。
武田信玄に関するホームページを見ていたら
甲斐武田と佐竹氏はごく近い親戚なんですね?
それを見ていたらきんたろうさんのページが見たくなって来ました。
Toshyさん私の住む近くに安部氏の宗任を祭る神社が有り
そのすぐ近くに宗道神社と言うのがあります。
その神社は、「貞任」が「そうどう」になった
といういわれがあるようです。
私は歴史音痴なので詳しいことはわかりませんが、
なにかの参考になれば…。?
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畝源三郎さん 投稿者:太田守人 投稿日: 7月 7日(月)08時35分18秒
七尾にお住まいですか。私は,金沢です。よろしくお願いします。
>門前の石碑に「奥州藤原3代孫感叡上人開基」って書いてあります。手元の年表に載っている奥州藤原家の系図をみても載っていませんが、ああいうのって、やっぱいいかげんなのかな?
藤原秀衡は,白山信仰の信者だったそうです。そこで,今の美濃白鳥〜庄川村にかけては,秀衡の勧奨で建てたという,白山社が相当あるそうです。そこで,門前に,秀衡の子孫がいてもおかしくないかなー,と思っています。
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下記訂正 投稿者:畝源三郎 投稿日: 7月 6日(日)13時17分34秒
×高橋克人→○高橋克彦
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感叡上人知ってますか? 投稿者:畝源三郎 投稿日: 7月 6日(日)13時15分36秒
うちのちかく(能登七尾)に、浄土宗ではこのあたりで一番由緒のある西光寺という
寺があるのですが、門前の石碑に「奥州藤原3代孫感叡上人開基」って書いてあります。
手元の年表に載っている奥州藤原家の系図をみても載っていませんが、ああいうのっ
て、やっぱいいかげんなのかな?
今たまたま高橋克人の「北の耀星アテルイ 火怨」を詠んでました。
そしたらまたまた偶然こちらに、無名塾でしたか上記の舞台がやってくるようです。(^^)
阿弖流為関係の小説も、本当、最近多くなってきましたね。
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わしの伯父上は 投稿者:Toshy(雪狼) 投稿日: 7月 5日(土)21時17分21秒
正確に言えば、わしの母者人の従姉の旦那殿は、
安倍貞任公の復権のために情熱を燃やしてきた郷土作家です。
残念ながら故人になってしまいました……
そのあとを継いで前九年の役を研究しようと思ったことあったけど、
結局漂流研究のほうが今は大事ですねん。。。
それはどうでもいいことなんですが、
奥州十二年戦争を「前九年の役」と呼ぶのが不満ですね。
対外戦争を示す<役>は、まあいいとして、
九年なんていう数はどこをどうやっても出ない。
明治期のアホな歴史家が命名したのが定着しているけど、
いい加減、文部省もその意味をなさない名前を削除したほうが良い。
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広島県はおかしいのではないか? 投稿者:安部奈亮 投稿日: 7月 5日(土)19時20分49秒
尾道市で、民間人から登用された小学校の校長が自殺しました。
職員からしかとを食ったのが理由でしょ。
そして、この校長をかばい続けていた教育委員会の教育次長が自殺しました。
さらに、この校長自殺事件を調べていた教育委員会の職員も過労で寝込んでしまったそうです。
日教組は、教育界からかなり駆逐されたのですが、まだ広島では力を持っていて、コントロールに従わない人間に仕事を押し付けて追い込んでいるようなのです。
教師をやっていた私の知り合いによると、校長は実務が多いので民間人では勤まらないだろう。苛められやすい。教育委員会の委員に民間人を選ぶべきだ。教師が従わなければならないのは文部省でも、自治体でもなく、法律の上では教育委員会である。といっていました。
教育委員会は戦争直後は民選であったが、いつの間にか官選になってしまってそのままである。校長に民間人を選んでも教育は変わらない。教育委員会を民選に戻して(法律上は今でも民選)教育を変えなければならない、と私は思います。
つまり、校長を民間から選ぶというのは、教育のおかしい核心を隠そうとする教育関係者の偽装です。切り込むべき場所は教育委員会です。
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立って使うPC 投稿者:Sin 投稿日: 7月 5日(土)16時06分41秒
なんて健康的なPCだろう(爆)
http://s1.buttobi.net/sin_f_007/
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ははは、笑 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月 4日(金)21時27分34秒
実は今夕食を食べて帰って着ました。
このpcは立って使っています。
酔っ払いにはちょっときついですよ、自爆
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最近の 投稿者:Sin 投稿日: 7月 4日(金)20時05分36秒
ホテルってサービスいいですね。
それだけネットが普及したってことですかね
http://s1.buttobi.net/sin_f_007/
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(無題) 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月 4日(金)17時39分25秒
今日は川崎に来ています。
ラッキイなことにこのホテルにはinternetが使えるpcがありました。
でも使いづらいです、笑
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菊池さん 投稿者:太田守人 投稿日: 7月 4日(金)16時44分52秒
私は,桓武天皇や源義家,頼朝は,侵略者であると思います。そして,郷土解放の英雄アテルイを悪路王と呼んでいる。長いこと,これには,腹が立っていました。しかし,今はアテルイの功績を見直す動きがあります。遅きに失した感はありますが,まずは良かったと思っています。
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暴君武烈 投稿者:太田守人 投稿日: 7月 4日(金)16時27分29秒
>紀での武烈の暴虐の記述は真実に近かったため、大伴金村を始めとする側近達に見放され、一族共に始末されたんではないでしょうか?
でも,武烈の暴君が真実でも,自分のご先祖様を,あんな暴君に書きますかね?私は,武烈は,紀を書いた時の天皇のご先祖様でなかったと思います。そして,武烈の後継者の倭彦王ですが,金村が,儀杖を整えて、迎えに行ったら,逃げて行方不明になったとありますよね。これは,金村が,俺も殺しに来たー。と思ったのでないでしょうか?武烈を担いだのは,金村ですから,自分のロボットにしようと思って,担いだ武烈が,優秀でロボットどころか,自分が危なくなったので,代わりに倭彦王を担ぎに行ったと言うところでないかと思っています。或いは,金村が武烈を殺したのかも知れません。まあ,これは私の想像ですがね。
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武烈天皇 投稿者:菊池元宏 投稿日: 7月 4日(金)16時11分32秒
太田さんの継体新王朝説で思いついたのですが。
書紀での武烈の暴虐ぶりについては、本当にこんな天皇いたのかと思ってしまいますよね?
もしかしたら、紀での武烈の暴虐の記述は真実に近かったため、大伴金村を始めとする側近達に見放され、一族共に始末されたんではないでしょうか?
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清原武則 投稿者:菊池元宏 投稿日: 7月 4日(金)15時31分27秒
太田さん。そう言われると、岩手の人間としてうれしいです。
安倍貞任にしても、源頼義と天下の八幡太郎義家をさんざんに悩ませましたが、清原武則の裏切りによって敗れてしまいました。
もっとも、安倍氏の子息は多く、つわもの揃いですので、大和の軍が京に引き上げた後、清原氏の出羽に侵攻してた可能性高いですけどね。
鎮守府将軍まで登りつめた清原武則の判断は、敵ながらあっぱれという所です。
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菊池さん 投稿者:太田守人 投稿日: 7月 4日(金)13時37分56秒
アテルイがあのまま,朝廷に抵抗していたら,多分,朝廷が負けたと思いますよ。ヴェトナム戦争も,損害は米軍と南ヴェトナム軍が軽微でした。しかし,アメリカは負けました。戦争は,兵器の優劣,経済力の優劣だけでありません。要は,やる気です。蝦夷は,自分のホームグランドで戦っています。山河も草花も味方です。朝廷軍の方が,よほど部が悪いと思います。
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日: 7月 4日(金)08時37分36秒
私は,継体は応神の五世の孫だからこそ,大王家と血の繋がりはないと思っています。孫武と孫ひん(ひん変換できません。)も孫武の五世の孫が,孫ひんですから。この2人血の繋がりはないそうです。そこで,五世の孫としたのでないでしょうか?記紀は,なんでか分かりませんが,万世一系の家系を,基本方針にしています。私は,中国に日本は平和な国だ。ということをアピールしたかったのだと思っていますが・・・。
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エミシ征伐 投稿者:菊池元宏 投稿日: 7月 3日(木)22時40分47秒
最後の最後に残された陸奥。
大和に征伐されたアテルイとモレ。
実は、私の地元周辺では、アテルイは、負けた訳ではなく、戦争引き分け。講和成立後、大和が一方的に約束を破って、アテルイとモレを殺してしまったのだという見解を持ってる人達が多いです。
ですが、これは、地元びいきな見方で、もし戦争を続けてたなら、エミシは、国力からして壊滅してたと思います。
5千の兵で何万もの軍隊に恐怖を与えたことは確かですが、その時の大和の軍は陸奥の地形に慣れてなかったので、当然の結果のようにも思えます。
戦争を続けてたならば、大和の軍は地形になれ、初期のようなみじめな敗退はしなかったでしょう。
これ以上語ると地元の人達に怒られてしまいますのでこの辺で(笑)
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領土は 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月 3日(木)21時44分23秒
「飛び地」よりも陸続きの方が有利であるのは大部分は正しいと思っています。
そうした面からいえば「やまと」の方向転換の先魁に当たると思えたりもします。
継体天皇が朝鮮半島に対して、領土的関心を失ったように感じる理由に太田さんが挙げられた推理もあり得るように思っています。
尤も私の場合は、継体天皇を新王朝だとは思っていないのですが。。。^^;;
でも彼は本家が途絶えたために迎えられた「五世の孫」の立場ですから、強力なイニシアティブを取れなかった可能性は十分にあり得ると思います。
何しろ金村ばかりではなく、「やまと」を構成する大豪族に対して生まれながらの跡取りではなかった継体天皇はどうしても気を遣った面が出てきても不思議ではないからです。
更に考えれば。。。
継体天皇は越の殿様のような者であり、国際関係に関心が薄かったのではないかと思うのです。
これは天皇家の血筋とは言っても「地方豪族」として育ってきた人物の限界なのかもしれません。
あるいは、海の向こうにある飛び地ではなく足下を固めるという着実さを持った人物である事なのかもしれませんよね。
ひょっとしたら、家康のような面を持った人物なのかなと思ったりします。
その上ですが。。。
新羅の「やまと」へのロビー活動というものが功を奏していたのではないでしょうか??
これは日本から中国へ巨額のODAが行われている背景と同じような理屈です。
自分たちに対して有利に働くように活動してもらうために、有力国会議員をターゲットとして、この人達に対してキックバックを行う訳です。
こうした疑いが持たれているように、特定の有力者に対して「贈り物攻勢」をかける事は、戦争行為に比べるとかなり安上がりで効果が期待できる方法だと思うのです。
色々な方向から様々な思惑が複雑に絡み合って、あの当時の日本と朝鮮半島諸国の国際関係は動いてきたのでしょうね。
歴史は新羅の半島統一という政治的勝利を語っていますが、日本では「やまと」の東国(関東以北)への支配を得た(強化した)という面があり、菊地さんの言われるように「やまと」としては朝鮮半島と関東・東北地方を秤に掛けた上で東国の方を選択したのかもしれません。
編集済
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日: 7月 3日(木)12時33分30秒
>継体天皇から欽明天皇の頃とは、日本が朝鮮半島に対して急速に興味を失っていく時代のような印象を受けています。
>この理由としては、朝鮮半島は既に「やまと」の番国として安定したものであるので(調を持ってくるというだけなのですが)、東北地方に対する関心が増加したという事なのでしょうか??
東北に関心を持ったと言うより,継体〜欽明は,政権基盤が弱かったのでないでしょうか?継体は,新王朝の創始者だと思います。そこで,半島に出兵しようにも,国内が不安定で,軍を出そうにも出せなかったのでないでしょうか?武烈朝と継体朝は二朝並立になったのでないでしょうか?この二朝並立は,推古の時代位まで続いたのかもしれません。タリシヒコ大王が,推古と並立した大王でなかったのでしょうか?武烈の死から大化の改新まで,天皇の力は大変弱く,日本の政局が混沌としていたのでないでしょうか?崇峻暗殺にしても,この二朝並立の混乱により起きたことだと思います。日本書紀には,崇峻がイノシシをみて,「このイノシシのように,憎い相手をしたいものだ。」と言い,それで馬子が,崇峻を暗殺したことになってますが,なんで,崇峻がそこまで馬子を憎んだか,馬子がなんで暗殺という非常手段に出たか,それについては,沈黙を守っています。これは,日本書紀が本当は,都合のいいように書き直しかったが,近・現代史の分野なので,そう無茶苦茶ができない。そこで,沈黙したのだと思います。もし,二朝並立であれば,万世一系を原則とする,記紀は沈黙せざるを得ません。継体政権は,足腰が弱かったのでないでしょうか?
東北に関しては,私は東北の蝦夷は,出雲の残存勢力のように思ってます。そこで,大和は出雲平定に,長期間が係り、非常に梃子摺った。そこで,もしお家再興ということになれば,エライコトになる。その恐れが,最初でなかったでしょうか?出雲の大和への服従の祝詞も,その延長でないでしょうか?そこで,出雲を根絶やしにするのが,大王家歴代の悲願だった。ところが,蝦夷と戦争したら,東北地方に金や大和の欲しい物産が,大量にあった。そこで,ある時期から,東北地方に対する,欲が出てきたのでないでしょうか?
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任那四県割譲 投稿者:菊池元宏 投稿日: 7月 3日(木)11時53分33秒
継体の任那四県割譲後、国内整備又は統一が進んだとしたなら、大伴金村の任那四県割譲問題は、全然失政ではなかったとも思えますよね。
まぁ、任那の件とは別に。真相は、物部との政争に敗れた。とも採れますが
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継体天皇から 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月 2日(水)22時18分42秒
欽明天皇の頃とは、日本が朝鮮半島に対して急速に興味を失っていく時代のような印象を受けています。
この理由としては、朝鮮半島は既に「やまと」の番国として安定したものであるので(調を持ってくるというだけなのですが)、東北地方に対する関心が増加したという事なのでしょうか??
任那割譲あたりから朝鮮半島に対する領土の関心が低下していくのですが、その対策というのもトンチンカンな感じを受けてしまいます。
任那4県を百済に割譲した事により、この地域における日本の信頼性が一気に低下したであろう事は簡単に想像がつきます。
支配するからにはその土地に対して執着心を持っているのが普通なのです。
ですから、自軍の損害があっても兵士を派遣するものなのです。
それに、神功皇后から約200年間もかなりの投資(人的にもそうだと思います)をしてきた地域に対してあっさりと譲るはずがないのが普通の考えだと思います。
ところが、継体天皇が百済に領土をやってしまったという事は、任那に対する領土的関心は無いと宣言してしまったようなものだと思います。
これによって任那地域の人の心は「やまと」から一気に離れてしまい、一方では新羅の領土的野心を増加させたのではないでしょうか??
つまり「やまと」相手では分が悪いにしても百済相手なら勝ち目があるということです。
「やまと」は「調」さえあれば実際に支配する相手が誰であってもよかったという本音をさらけ出してしまったのかなと思っています。
任那にしてみれば百済にも新羅にも支配されたくないために、日本を頼りにしていたと思うのですが。。。
勝手に百済に割譲するとは「裏切り」以外の何物でもなかったと思ったはずですよね。
編集済
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貴種 投稿者:菊池元宏 投稿日: 7月 2日(水)14時35分53秒
平将門ですか。
中央から地方へ流れて来た子孫平将門。
中央での戦に敗れ伊豆に流されてきた源頼朝。
同じく中央での戦に敗れた足利尊氏。
地方から見れば、あこがれの血統であったのでしょうか。
この血筋は地方ではものすごい結集力の源泉となってますよね。
中央ではいくら落ちこぼれたって、それなりの貴種であれば東国や九州では、羨望のまなざしで受け入れられたという、地方での独特の現象が面白いと思います。
尊氏にせよ頼朝にせよ最終的に覇者となってるので、足利義昭の例のように地方の勢力信長に利用されたのとは、違うとも思います。
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ヘソマガリ説 投稿者:太田守人 投稿日: 7月 2日(水)12時24分56秒
>孝徳天皇は東国に国司を派遣してますよね。
これは、東国支配の一大転換点のようにも思えます。
国司といっても,律令制の国司と違うと思います。国司のようなものって感じでないでしょうかね?国司のような権限は,持っていなかったと思いますが。
>継体の擁立は、北陸、東海の勢力と大和の合体であり、これも東国社会における一大転換点と言えると思ってます。(大和にとってもですが)
合体というより,中国で言う武力で政権を取る,放伐でしょう。20年も,明日香に入れなかったことを考えても,継体は新王朝の創始者だと思います。武烈系王朝と継体朝は,一時並立していたのでないでしょうか?
>九州の磐井が反旗をひるがえしたのではなく、北陸、東海と合体した大和が九州掌握のため、磐井を挑発したのではないかと思ってる所です。(もちろん、紀の記述が真実かもしれません。)
私は,磐井は継体が天下を取ったので,自分も天下に覇を唱えたいと思ったと思います。逆説的に言えば,この時期の継体朝は,反乱を起こしても勝てると,磐井が思うほど政権基盤が脆弱だったと思いますよ。この反乱に,火の国も参加してるようですが,私は,日本書紀の記述が,驚いているように感じますし,戦後,物部に下関から西は,勝手にしろ。といってるのも,政権基盤の弱さの証左のように思っています。
>まぁ。祟神の時も北陸、東海に四道将軍を派遣してますし、
日本武にしたって、東国に派遣されてます。
これって,反対に東国や越という,大和以外の勢力が,大和を占領した可能性もあると思います。
大変ヘソマガリですが,大和が軍事行動できるということは,これらの地域が,反対に大和に対し,軍事行動を取り,攻め込むことも出来ると思います。特に,ヤマトタケルは,常陸国風土記では,倭武天皇とあり,これはヤマトタケル天皇と読めないこともありません。そこで,ヤマトタケルは,常陸あたりから,大和に攻め込み,一時占領下に置いたということも考えられると思っています。そこで,記紀は,ヤマトタケルをぼかしたと・・・。
>東国に関しては、征討の歴史であり、いつ、中央集権に組み込まれたのかは、判断に困りますけどね。
これには,色々ご意見もあるでしょうが,私は,将門の乱もありますし,相当遅くまで東国(関八州の意味ですが・・・)は,半独立国だったと思っています。東北地方まで入れるとすると,頼朝あたりの時代まで下がるように思ってます。
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真犯人は日本人では 投稿者:菊池元宏 投稿日: 7月 2日(水)08時26分32秒
私も4だと思ってた所です。
日羅が百済の真意、筑紫侵攻を知りすぎていたため、百済は日羅を消したのではと以前思ってましたけど、当時の百済には、そんな余裕はなかったと考え直して居ります。
あるいは、新羅の仕業かと考えましたが、紀の記述で、日羅は大袈裟に新羅人犯人説を否定されてますから?
消去法になってしまいましたけど、日本人が怪しいです。
百済のスパイだと思われてしまったのか。
考えて見れば哀れの方です。
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日羅 投稿者:きんたろう 投稿日: 7月 2日(水)01時44分15秒
ですか!!
菊池さん、またディープな人物を持ってきましたね^^
日本書紀では殺害は百済の策謀だと書かれていますが、本当なのでしょうか??
もし本当ならそれなりの弁明があっても良いはずなのですが。。。
案外4番目の日本人というのが怪しいかもしれませんよね^^;;
太田さんの言われるように、白村江の戦いの敗北は遠征軍の敗北でしたから、「日本本体」の損害というものではなく余剰兵力を失ったに過ぎません。
これは秀吉の「唐入り」も同様ですよね。
どちらも巨大な兵力を動員したにも拘わらず外征に失敗しています。
そして、その後で国内を二分するような大戦争を行っているわけです。
もしこのような時に、外部からの侵略があるとすれば、壬申の乱や関ヶ原の戦いの兵力が合同して外敵に当たる事になります。
ですから、唐の最盛期であっても日本に攻めてきたとすれば、海の藻屑になったことだろうと思っています。
かつての三関が境界線を示しているように思っています。
安土城のCGは私も見ました。
想像以上のもので驚きました^^
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東国の反独立 投稿者:菊池元宏 投稿日: 7月 1日(火)20時46分33秒
そっかぁ。安土と大坂で1セット。両方を拠点に使ってたというのもありますね。
臨機応変に。
孝徳天皇は東国に国司を派遣してますよね。
これは、東国支配の一大転換点のようにも思えます。
でも言われてみれば、富士山が記されてないのも不思議であります。
継体の擁立は、北陸、東海の勢力と大和の合体であり、これも東国社会における一大転換点と言えると思ってます。(大和にとってもですが)
私は、継体紀の真相は、九州の磐井が反旗をひるがえしたのではなく、北陸、東海と合体した大和が九州掌握のため、磐井を挑発したのではないかと思ってる所です。(もちろん、紀の記述が真実かもしれません。)
まぁ。祟神の時も北陸、東海に四道将軍を派遣してますし、
日本武にしたって、東国に派遣されてます。
東国に関しては、征討の歴史であり、いつ、中央集権に組み込まれたのかは、判断に困りますけどね。
朝貢はするが、内政干渉は聞き入れない場合が多いという
太田さんの言われる反独立という言葉が妥当かもしれませんね。
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菊池さん 投稿者:太田守人 投稿日: 7月 1日(火)17時37分01秒
私は,信長は両方を拠点としたと思います。安土は,国内の軍事拠点。大阪は,海外の進出拠点。淀川使えば,移動にそう時間がかかりません。国内静謐になれば,信長は大阪に移ったでしょう。安土は,国内物流を抑える拠点になったと思います。琵琶湖には,湖賊という海賊のようなものがいました。特に,北陸の一向宗を考えると,安土は,その拠点になったと思います。
>斉明天皇は、駿河の者に船を造らせてるので東海は、ほぼ大和に掌握されてたと思いますが、
壬申の乱で,尾張氏は,大海人皇子側で重要な働きをしています。もし,東海が掌握されていたら,東海は大海人側でなく,近江朝についたと思います。もっとも,私は大海人は,宝皇女と高向王との間に出来た,漢皇子でないかと思っています。そうすると,天智の弟でなく,兄になります。そして,この高向王は,蘇我入鹿でなかったかと思っています。慮原君臣という人が,白村江の戦いで,艦隊司令長官になっていますが,この人は多分駿河辺りの人だと思いますが,君は多分半独立国の王で,臣は江戸幕府の外様大名のような存在だと思います。仁徳天皇の時代だったと思いますが,軽野という高速船の話があります。この軽野は,伊豆の狩野川あたりで建造した船なので,軽野でないかという説があります。古代にあっては,この辺りは,一大造船地帯だったのでしょう。そして船は,天皇家への献上物だったと思います。静岡市にある安倍川ですが,この川は古代の海人豪族の安倍氏が開発した川なので,安倍川というそうです。そして,尾張氏は継体天皇の母が,尾張氏の出身だったとか言います。越と尾張は,相当深い関係にあったと思っています。それに,記紀には富士山の記述がなく,万葉集にはあります。伊勢に行けば,富士山は見えます。そこで,知らなかったことはないと思います。もし,駿河が大和の勢力圏内にあれば,富士山の記述は残ると思います。そこで,まだこの時代,東海は大和の勢力圏外だったと思います。ただ,一種の朝貢貿易のようなことをしていたと思います。そこで,慮原君臣という名前になったのでないでしょうか?それに,日本書紀を読むと,阿倍比羅夫等が慮原君臣に,やたら気を使ってる感じがします。そこで,この慮原君臣は,日本軍の客将でなかったでしょうか?
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太田さん 投稿者:菊池元宏 投稿日: 7月 1日(火)16時59分24秒
斉明天皇は、駿河の者に船を造らせてるので東海は、ほぼ大和に掌握されてたと思いますが、越を中心に日本海エミシ勢力がまだ充分に征討されてなかったんではないでしょうか?
不穏な動きもあったかもしれません。
近江は、北への備えだとも思えます。
ところで太田さん、きんたろうさん、みなさん。話題は変わって恐縮ですが、信長も安土に本拠を移してますが、安土城の豪華な復元CGを見れば、これ以上他の場所に移る気があったとは思えません。
堺屋太一さんとは見解が違ってしまいますが、信長は大坂へ本拠を移してたんですかね?
大坂は、美濃から離れすぎて危険であったとも思えます。
安土はとてもバランスのとれた交通の要所であり、なんと500年後新幹線も通ってしまいました。
最近は秀吉よりも信長かと思ってます。
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近江遷都 投稿者:太田守人 投稿日: 7月 1日(火)16時21分00秒
白村江の敗戦以後,天智は近江へ遷都しています。これを,唐の日本侵攻に備える為としてますが,外国軍に備えるなら,飛鳥の方が守り易いと思います。どうせ,九州から瀬戸内海を進軍するでしょうから,淀川で大阪湾と繋がっている近江より,生駒,葛城山系で守られている,飛鳥の方が守り易いと思います。神武も,生駒山系に遮られていますから・・・。そこで,近江遷都は,外国勢力より国内勢力に備えたものだと思います。少なくとも,越や尾張あたりに,不穏な動きがあったのではないでしょうか?
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日羅暗殺事件発生? 投稿者:菊池元宏 投稿日: 7月 1日(火)09時18分54秒
敏達紀で日羅がなぜ、百済人によって殺害されたんでしょうか?
百済による筑紫侵攻計画を匂わす記述もみられ、この事件の真相はなかなか面白い刑事ドラマになるのではと思われます。
さて、どうなんでしょうか?
容疑者をおおまかに 1 百済人
2 新羅人
3 中国人
4 日本人 をあげてみます。
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