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近代における三種の神器 投稿者:安部奈亮
投稿日: 9月18日(月)00時04分54秒
南朝が正統とされてしまった結果,北朝である現天皇家が正統性を主張するには,三種の神器の後継者であることをアピールしなければならなかった,と述べている研究者がいます。
でもこれを突き詰めるとむしろ今の皇室に危険なのだが。
この矛盾を打破する方法は,後醍醐天皇がどうしようもないスカタンであり,全国民に愛想を尽かされたことを認めることでしょうね。
そして大多数の人間の声望を荷った足利尊氏によって北朝が選ばれた。だから今の天皇家があると。
そして南朝の天皇家は,いたずらに内乱を助長した犯人としてむしろ糾弾すべきですね。もちろん皇位も剥奪すべきだ。
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更新 投稿者:Toshy 投稿日: 9月17日(日)22時43分16秒
ユートピアのコーナー、漂流民のコーナーを更新しました。まだまだ続きます。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm
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崇神朝とヤマトタケルについて最終回 投稿者:勇者ロト
投稿日: 9月17日(日)17時58分42秒
ができました!いまいち自分でも納得いかないのですがお暇なときにでも読んでやってください!
ご意見おまちしてます。
http://kigaru.gaiax.com/home/dragon_suplex20c/bbs
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やわらちゃん 投稿者:勇者ロト 投稿日:
9月17日(日)11時36分10秒
かっこよかったですね!!
実力があるとはいえ、期待に応えるというのは凄いプレッシャーでしょうね?
巨人軍もそうなのかも???
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オリンピック 投稿者:kituno_i 投稿日:
9月16日(土)23時48分47秒
田村亮子ちゃん、本当に良かったですね!
日本中の期待と自ら「最低でも金」というプレッシャ−をかけ挑んだオリンピック。
一本が決まった瞬間、一緒に泣いてしまいました。
夕方、オリンピック放送を後目にkitunoのHPで『常陸風土記』や藤原氏に関する
ことをアップしました。
文章を作っているとき、姫がラルクの曲をかけてくれました。
「flower」です。何だかとても懐かしく、ちょっぴり涙ぐんでしまったり...。
涙腺が緩くなっているみたいです。^^;
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お知らせです^^ 投稿者:きんたろう 投稿日:
9月16日(土)22時46分45秒
お薦めのページに本の検索を付けました。
大体のタイトルで調べだしてきますので便利ですよ。
例えば「道教」と入れると道教がタイトルに入っている本名が色々と出てきます。
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おめでとう!! 投稿者:きんたろう 投稿日:
9月16日(土)22時41分42秒
田村亮子金メダルV_(^O^)_V
まさか初日の今日が試合とは知りませんでした^^;;
(迂闊でした)
野村も水泳の女の子も大したものですね、笑
教育勅語は実のところ読んだことがありませんでした。
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訂正 投稿者:安部奈亮 投稿日: 9月16日(土)17時18分10秒
×未ンや新ン→○明や清
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教育勅語 投稿者:安部奈亮 投稿日: 9月16日(土)17時17分23秒
全文
朕惟ふに
我が皇祖皇宗國を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり
我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世世厥の美を濟せるは此れ我が國軆の精華にして教育の淵源亦實に此に存す爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭儉己れを持し博愛衆に及ぼし學を修め業を習ひ以て智能を啓發し徳器を成就し進て公益を廣の世務を開き常に國憲を重じ國法に遵ひ一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし
是の如きは獨り朕が忠良の臣民たるのみならず又以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん
斯の道は實に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すべき所之を古今に通じて謬らず之を中外に施して悖らず
朕爾臣民と倶に挙挙服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾ふ
明治二十三年十月三十日
御名御璽
もっともなことが書いてあるだけですね。
問題は,何の法的根拠も拘束力もないこの文章が,不思議な威力を発揮したかだと思います。
未ンや新ンの皇帝が発した六諭の真似かもしれないですね。
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天の安川 投稿者:勇者ロト 投稿日: 9月16日(土)11時24分14秒
安部さんの新作よみました。
教育勅語ですが、残念ながら私は勅語の内容をほとんど覚えていません(爆)
確か、そんなに長い文章ではなかったですよね????
天皇のために尽すことが、ひいては自分たちの先祖を顕彰することにつながっていくという論法だったと思います。
天皇家だけでなく、臣(国民)も万世に連なるものなんだよ。という感じがしました。
これは、当時の人たちにはある意味感動的だったでしょうね?歴史の重みを感じさせます。
深読みすれば臣は臣でしかない。という感じもしますが、この解釈は変かな???
「天の安川の神話」とは「岩戸隠れ神話」のことでしょうね。
アマテラスが隠れてしまったのは、アマテラスの御心に沿わぬことがあったからだ。
と、高天原の神たちは安川に集まってアマテラスが「どうすれば岩戸から出てきてくれるか?」、頭を悩ませます。
「どうやって引っ張り出すか?」と結果的には同じなんですが、「アマテラスの御心に沿う」ということが、第一義なんですよね。人事を尽して天命を待つといった感じでしょうか?
そういわわれれば、「天の安川での会議」というのは、「朝議」を意味してるわけですよね???
もしかして、朝議で大事な役割を担った氏族たちの祖先神が安川に集まっているのだろうか??
もし、そうならここにあつまった神の子孫が朝議に参加している時代をモデルにして創られた神話なのかもしれませんね>岩戸隠れ
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おくれながら 投稿者:Toshy 投稿日:
9月16日(土)08時03分07秒
安部さん、おめでとうございました。(^^)
>孔明には当てはまらないのでしょうか?
証明できる材料が少なすぎるために、なんとも。
Sinさんとはしばらく歴史論をやっていませんでしたね。
三成と孔明が似ているのは、同じ考えです。(^^)
個人的には三成の方がずっと好きですが(笑)
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蜀相 投稿者:きんたろう 投稿日: 9月16日(土)02時41分21秒
杜甫が孔明について以下のように詠んでいますV_(^O^)_V
三顧頻繁天下計
両朝開済老臣心
出師未捷身先死
長使英雄涙満襟
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安部さんの 投稿者:きんたろう 投稿日:
9月16日(土)02時37分22秒
尊王思想の研究22をアップしました。
是非ご覧になって下さいね。
さすがに安部さんですねV_(^O^)_V
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久しぶりに 投稿者:Sin 投稿日: 9月16日(土)00時45分29秒
熱い論議が交わされてますね。
孔明について、Sinのイメージは「有能な官僚」です。
じつはこれは石田三成に対するSinのイメージと同じなんですが。
この両者の違いは後世の評価の違いではないでしょうか。
出張疲れで頭回らないので(爆)今日はこれだけにします。
ところで安部さんおめでとうございます\(^^@)/
時間があいてしまったのでちょっとおまぬけですが(^^ゞ
きんたろうさんから携帯メールで聞いていたのでこっちに
帰ってくる前から知ってましたが・・・
というわけで(どんなわけだか)今回、私の名前の所をクリックすると
携帯のメアドがでてきます(だいぶ前にも公開した気がしないでもないが)
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参謀は名を秘す 投稿者:安部奈亮 投稿日:
9月16日(土)00時15分13秒
とも言われますが,これは孔明には当てはまらないのでしょうか?
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といいつつも 投稿者:Toshy 投稿日:
9月15日(金)22時51分34秒
一つだけ訂正させてください。
>諸葛孔明が劉備軍に加わってから短期間で劉備の勢力が急激に増大した
いえ、増大したのは赤壁の戦いの後、荊州を手に入れてからです。呉との同盟によって、孫権としゅうゆが劉備に荊州を与え、それではまだ足りないので数州借りた、ということです。益州を攻める力をつけたのはその後ですね。
で、孔明の外交能力で呉との同盟がなったから孔明の手柄か?というと。
まずは呉れからの使者ろしゅくが江夏にある劉備のもとをおとずれ、同盟を申し出たのです。そして孔明を返礼の使者として送りました。だから孔明が<同盟に慎重な態度の呉を動かした>というわけではありません。
もともと呉の方に劉孫同盟の気があったのです。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm
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おそれいります(汗) 投稿者:Toshy
投稿日: 9月15日(金)21時43分16秒
でもやっぱり、歴史の話よりも文学の方が自分に合っている。
「ユートピア」について執筆開始です。
http://village.infoweb.or.jp/~fwjd2293/utopia.htm
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徳について(笑) 投稿者:ホグニ 投稿日:
9月15日(金)20時40分41秒
徳について考えてみました。
徳を人の魅力とイコールで結ぶと、悪人にも徳があることになります。
カリスマは徳とイコールでは結べない。
道徳の言葉が示すように、道と徳は近いものかもしれません。
孫子いわく、『道とは民をして上と意を同じくせしむるなり。ゆえに以ってこれと死すべく、以ってこれと生くべくして、危うきを恐れざるなり』。
上の行いが民の意に叶っているかぎり、君主は有徳の人なのかもしれません。
Toshyさんは論理的ですね(笑)。
でも、源さんの言には浪漫があるしなあ(笑)。
両方好き!
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もうひとつ追伸 投稿者:Toshy 投稿日:
9月15日(金)20時31分01秒
あらゆる行程を経て評価が変わらなくても、それはそれでOKです。
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ですから 投稿者:Toshy 投稿日: 9月15日(金)20時30分10秒
孔明の「直接戦闘能力」は一流だと買っているのですよ。
だからしばいは、無理な戦いをしなかったのでしょう。食糧に問題のある孔明は、直接戦闘ではなく間接戦闘によって敗者となったのです。
ちなみに直接戦闘の超一流といえば項羽がいますが、残虐で政治力ゼロの項羽にくらべ、孔明は格段に優っていると思うのですよ。
>不満ではないか
不満、というよりも、現在の反孔明の評論を書きつづけている人と同様、「演義」を史実だと思って陳寿やその他の歴史家を間違っていると攻撃する人に史実を見て欲しい、ということでしょうか。
源さんに対しては少し辛目のコメントをしましたが、源さんに望むことは、最悪でも陳寿の書いた「三国志」だけは目を通して欲しい、ということです。陳や植村その他の本にあることが本物か偽者かが分からないと、残念ながら私の相手にはならないでしょう。
できれば、その後で反孔明の論を“冷静に”読んでいただきたいです。
三国志論のことはここで打ち切りにしますが、実は私の書いたことの中に「史実の歪曲?」もあるから、あとであら捜ししてください(笑)
PS
孔明のことを「三国志」と「演義」の両方について言及し、それも中立的立場で書いてある本の紹介。お勧めです。
「諸葛孔明」by渡辺精一、東京書籍出版
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm
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孔明の出陣 投稿者:きんたろう 投稿日:
9月15日(金)16時28分23秒
については無謀だったという説は確かに魅力的だと思っています。
しかし、本当にそうなのでしょうか??
当時の魏と蜀の国力差とは大体7対1くらいだったと見られています。
(これは恐らく人口比だと思います??)
そうすると司馬懿の取った戦法とは誰が見ても当たり前のもので平凡ですが理に叶ったものと思わ
れてきますよね。
しかし、人の評判についてのカリスマが大きく左右する戦場に置いてそのような意見はいわば「コ
ロンブスの卵」ではないかと思うのです。
孔明の知略ならばどのような戦法に出るか分からないと言ったイメージを強く持った普通の武将が
出陣していれば例え大軍を率いていたとしても孔明率いる蜀軍と引き分けにする事が果たして出来
たのか疑問に思っています。
このような対戦の場合は下手に動いたら陣形が一気に崩れるものなのです。
それに中国の歴史上では負け戦となると何十万の大軍が蜘蛛の子を散らしたように何処かへと霧散
してしまっている例は数多くありますからね、笑。
日本史でも豊臣秀長は守備を完全に成し遂げた点が秀吉軍の勝利に大きく貢献しています。
普通の能力の将軍であればあるいは魏軍が大軍であることから相手を無闇に攻めて逆に墓穴を掘っ
た可能性が最も高いのではないかと思っています。
敵に倍する兵力を持って引き分けと言うことは自分の無能を戦後に魏朝廷において責められる可能
性が非常に大きいことも忘れてはならないと思っています。
このようなプレッシャーを抱えているにも係わらず司馬懿の取った行動はさすがだと思っています。
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劉備は 投稿者:きんたろう 投稿日: 9月15日(金)16時25分52秒
旗揚げしてから20年間も中国のあちこちを転戦(うろついただけかも??)して自分という人物
を売り込んだと言ってもいいのかなと思っています。
劉備と言えば関羽、張飛という豪傑が付き従っていた訳ですが20年間ほとんど負け続けたという
実績でした。
ところが諸葛孔明が劉備軍に加わってから短期間で劉備の勢力が急激に増大した事から見てもこの
人の能力が超一流だったという証明になるのではないかと思っています。
孔明に対するToshyさんの二流発言はそのために例えば周瑜の活躍を「演義」では書き換えて
しまっているといった点への不満ではないかと思っています。
しかし三国志演義とは元の時代に作られたと言われていますがそれはゼロから作られたものではな
く今まで伝説として語り継がれてきた物をまとめたものであると言われていますね^^
個人的能力において見れば孔明の能力は劉備とは比べものにならないほど優れていたと思っています。
しかし、孔明は「核」になるべき多くの人物を自分の元に引きつける磁力が備わっていなかったの
ではないかと思うのです。
劉備の死後において蜀の人材が不足していきますがこれは「魅力」を持った人物(=劉備)を失っ
たためではないでしょうか??
それが前回の「徳」についてなのです。
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徳とは 投稿者:きんたろう 投稿日: 9月15日(金)16時23分53秒
人徳に代表される使い方をする言葉ですがこれは中国の歴史を語る上で大きな役割を演じています。
中国では王朝の交代の理論武装として禅譲・放伐があるのは有名ですよね。
禅譲とは帝王がその位を世襲せずに天命を受けたとされる(筈がないですね??^^;;)有徳者
に譲ることであり尭、舜、禹の関係がそれにあたります。
一方、放伐とは徳を失った君主を討伐して放逐することを言います。
でも王朝交代劇とは武力革命に他ならないにも係わらず誰が見ても「放伐」の筈なのですが表面上
は禅譲の形式が取られています。
さてこの「徳」ですが実のところ非常にファジーな使い方をされていると思っています。
要するに王個人が超越した力を持っている必要は全くないと言うことなのです。
(持っていて悪いと言うことではありません)
つまり王とは武芸に優れた者、戦略に優れた者、あるいは外交、内政に優れた人物たちに仕事をさ
せればいいのです。
そうすると王とは単なる凡人でもいいのかという事になりますがそうではなく「徳」を持った人物
であるという点が必要になった来るのです。
この「徳」とは目に見えるものではないく例えて言うならば「磁力」のようなものではないかと思
っています。
要するに人物的魅力が大きくてこの人物の回りに多くの人材が集まって来るという事なのではない
でしょうか??
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安部さん 投稿者:きんたろう 投稿日: 9月15日(金)00時05分31秒
焼き肉パーティーで会いましょうねV_(^O^)_V
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皆さんありがとうございます 投稿者:安部奈亮
投稿日: 9月14日(木)23時17分53秒
こんなに喜んでもらえて嬉しいです,私はただただほっとしているだけです。
日立には10月7〜9日に帰ると思います。
これから,できるだけ多くの技術を身につけていきたいと思っています。
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歴史評論のコメントの言葉 投稿者:Toshy
投稿日: 9月14日(木)23時06分32秒
前にも述べましたが(たぶん)、三国志の評論のほとんどは、はじめに演義ありきのもので、史書に関する考察をしているものは少ないのです。陳の小説も、時代背景は入れていても演義がはじめにあってのものです。
少なくとも、陳の小説や植村の評論よりも、史書に目を通す方が正確であることは認められませんか?
私の意見は極論です、もちろん。ただ、これも歴史評論家の言葉だといえばどうでしょう。事実その様な論を書いている人は多いのです。早い話、どちらの説を採用するかの水掛け論にしかなっていません。
>余計に憧れや理想として特筆されるに十分な出来事だったのではないか
というきんたろさんの意見全く同感で、当時から孔明という人物の過大評価のためにさまざまな脚色が施されてきました。「空城の計」や「七きん七放」「死せる孔明〜」の古事はそこから生まれたもので、史実ではありません。
正直、私が源さんに期待していたのは、<私の史料に対する読みの間違い>の指摘で、むきになって孔明を否定してたのではないのですが、期待していた返答がなく残念です。
>史料を自分ですみずみ読んだわけでもないのに、史料史料というのはどうですかね
すみずみまで読むとさらに裏が見えるというのは、私が読んだ限りでの感想ですよ。ただ、政治力に対する疑問まで投げかけることはないし、その気がないというだけです。
史書に目を通さず奇書を根拠に話をされても、私は苦笑するだけです。
「徳」に関しては、孔明は徳のある人物だと思っています。そうでなければ、死後神格化されることはなかったでしょう。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm
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諸葛孔明 投稿者:きんたろう 投稿日: 9月14日(木)22時17分54秒
について盛り上がっていますね^^
源さんやToshyさんの意見は水と火のように食い違っているようにも見えますが実のところそ
うではなく単なる表現の違いだけのような気がしています^^;;
一般的には諸葛孔明とは中国史上最大級の戦略家であると言われていますよね。
また、彼の生涯はその子供に至るまで蜀のために捧げたと言っても過言ではないように思っています。
孔明の赤心については疑いようが無いものでした。
それはこの時代に限らず中国大陸において非常に希な出来事だったのではないでしょうか??
ですから余計に憧れや理想として特筆されるに十分な出来事だったのではないかと思っています。
しかし彼の偉大さを示すために必要以上に他の武将達の能力を低く描いている場合が多かったよう
に思っています。
Toshyさんはそのような点に注目されているのではないでしょうか??
私は孔明に唯一欠けていたものとは王者としての「徳」ではないかと思っています。
(でもこれを欠点というのは酷ですよね^^;;)
一方、劉備は武将としての個人の力量は大した訳ではありませんでしたが王者としての「徳」を持
っていたように思っています。
ですから目覚ましい実績をほとんど持っていないにもかかわらず彼の「徳」に惹かれて多彩な人材
が集まってきたのではないでしょうか??
この人材があって初めて孔明の知略が生きるのだと思っています。
つまり劉備と諸葛亮の2人が揃って初めて曹操に対抗できたのかも知れません??^^
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みんなすごいなあ 投稿者:ホグニ 投稿日:
9月14日(木)21時42分44秒
Toshyさんと源さんの二大スターの競演はどこまで続くんでしょう(笑)。
ずっと続いてほしいなあ。
すごく楽しみです(笑)。
まるで陸象山と朱子のようですね(笑)。
かっこいいですよ!
安部さん、こちらでもおめでとうございます!
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安部さん! 投稿者:kituno_i 投稿日: 9月14日(木)20時20分43秒
おめでとう!!
お祝いするから、常陸に帰ってこいよ〜!!
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おめでとうございますV_(^O^)_V 投稿者:きんたろう
投稿日: 9月14日(木)18時30分38秒
安部さんなら楽勝だと分かり切っていました^^
やりましたね!!
\(o|o)/ (V)o\o(V) V_(^O^)_V
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祝・合格!!!! 投稿者:勇者ロト 投稿日:
9月14日(木)17時08分12秒
安部さん
おめでとうございます\(^o^)/
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報告 投稿者:安部奈亮 投稿日: 9月14日(木)16時20分56秒
京都大学の大学院に合格しました
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時間がなくてなんですが 投稿者:源さん 投稿日:
9月14日(木)14時13分58秒
史料を自分ですみずみ読んだわけでもないのに、史料史料というのはどうですかね。
三国志演義のことばかりいっているつもりはないですよ。れっきとした植村さんとか
歴史家の本をみてもそこまで否定していません。
それに陳さんは小説家で、たしかに創作の部分が多いですけど、それも当時の時代背景
を入れての小説家としての創作であり、別に歴史を知らないで書いている訳ではないで
すよ。私が述べたのも小説の記述でなく、歴史評論のコメントの言葉からです。
孔明に自分が活躍する場を望む気持ちがなかったといえば嘘になりますが、Toshy
さんの見方は極論すぎるでしょう。
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陳さんの小説 投稿者:Toshy 投稿日:
9月14日(木)13時24分51秒
は、どうみても史実に忠実とは言えません。私は、だから、この人の説を論じられても無視するだけです。
>孔明の策が嘘だというのは大間違いでしょう。
>何か証拠でもありますか?単なる説です。
というところですが、言葉不足ですみませんでした。疑問視しているというのは、孔明は正気か?という意味ですね。つまり知将であれば、こんなことは考えるはずがなかったということです。
>連環の計を用いて
>長安の戦い、ドウカンの戦いなどで、馬超を動かして曹操を攻めさせたり
「演義」から離れてください。(苦笑)
>資料の表面しか捕らえられない程度の低い歴史家の考えで
もし史料になくても可能性がある、で論じたら、先に否定された人物来敏その他が史上最高の軍師だった、という勝手な説も成立つので、史料にないことは「なかった」とはいわないにしても「あった」という考えは賛成出来ません。
>より大きな信頼は孔明にあったという方が正しいでしょう。
これも「証拠はありますか?」というレベルですよ。史料をすみずみまで読むと、もっと孔明という人物の裏が出てきます。私はそこまでする気はありませんが、最近の研究書にはこの傾向が見られます。
ところで、孔明が連合の使者として呉に入った後、ある人が孫権の家臣になるように勧めました。その時「孫権は自分の能力を活用できない」という理由で断ったのです。
自己の能力を活用する場として劉備を選んだのであり、関羽のようなところはなかった、という評価が<当時>あったのをご存知ですか?
法正というと、「演義」では法律のことでやり込められる場面があるけど、実際には孔明がやり込められ、評価を甚だしく落としました。
ところで、劉巴という影の薄い人物がいますが、この人にまつわる話では、やはり孔明の立場の弱さが見え隠れしてます。
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下記の続き(再び孔明の弁明) 投稿者:源さん
投稿日: 9月14日(木)12時18分21秒
新野にあっての劉備の軍はまだ国といえるものでなく、組織も充実しておりません。
荊州や益州に入る前ですから、なおさら人がいません。劉備が孔明以外に参謀にでき
た人物はいないはずです。
劉備が、ホウトウを孔明より高く評価していたといいましたが、赤壁の戦いで、彼の
連環の計を用いて、魏に大賞できたにもかかわらず、なおかつ孔明が推薦状や、呉の
魯粛の推薦状があったにもかかわらず、劉備は最初、彼を一県の小役人に任命してい
たにすぎません。孔明が、そんな人物でないと説得してやっと高い地位に登りました。
それに益州攻略で、孔明に代りホウトウが劉備に参謀としてついていきますが、それ
は荊州という後方の守備が絶対不可欠であり、一番信用のおける人間でないとできな
かったからです。しかし、ここでも荊州攻略にあたっては、戦略を孔明に聞いて、個
々の戦況での戦術をホウトウに聞くというやり方で、実際上はやはり孔明を実質上の
軍師としています。
それに軍師将軍という言葉は、陳さんなんかも言っているのですが、荊州に入り、職
名を考えるにあたって今までの驃騎将軍や車騎将軍ではどうもしっくりいかず、軍師
的な役割及び国の政治をあずからせる意味で軍師とつけているといっています。そし
てそれも日本の黒田如水や竹中半兵衛などの役割よりはるかに大きいと言っています。
>のちに曹操の5000騎によって劉備軍はちりぢりになりますから、荊州をとる力
>も、その後曹操を防ぐ力もなかったことでしょう。
博望坡の戦い当時は、荊州は劉表がなくなり混乱状態です。生きている時さえ、劉備
を怖れていた家臣が多かったくらいですから、孔明の策が嘘だというのは大間違いで
しょう。何か証拠でもありますか?単なる説です。奇抜な説ばかり採ってもしょうが
ありません。それに博望坡の戦いで単にちりじりになったという見方をとるなら、そ
の成果は大きな間違いです。孔明はその策が受け要られなかった後は、荊州に一角で
も取る策を講じて、夏口へ集結することをやっています。むしろバラバラになって逃
げたということで、その後の反抗の足がかりを築くことになります。
孔明は益州入国前にも、長安の戦い、ドウカンの戦いなどで、馬超を動かして曹操を
攻めさせたり、色々やっています。軍についていかなかったからといって活躍してい
ないというのは、資料の表面しか捕らえられない程度の低い歴史家の考えで、間違い
です。中国は地理的にも、軍の大きさからもスケールが大きく日本の軍師などとは違
うのです。日本の軍師は戦略家というより戦術家程度です。戦略家は、大方針だけ示
して、後はそれを実行するに一番最適と思われる人選をして、後は任せるものです。
法正が、益州に入って以降、孔明よりも官位が上になったなどとは大きな誤解です。
法正は、揚武将軍兼蜀郡太守です。孔明は軍師将軍です。陳さんもいうようにこれは
日本でいうとことろの単なる軍師ではなく、内情を見ると実質上、首相でもあるのす。
もう性質上は、丞相とほとんど変わりないのです。法正は単に首都の知事に任命され
ていばっていただけに過ぎません。劉備も、特に規制しなかったのは荊州に入る際の
彼の功績から免じたものと、蜀の君主となって間もない時期にあって混乱をおそれた
だけです。より大きな信頼は孔明にあったという方が正しいでしょう。
孔明が大きくクローズアップされることで、他の国の武将や軍師の影が薄くなったの
は、事実ですが、蜀にあってはやはり彼に勝る人物はなく、それだけに何人分もの活
躍をしなければならなかったのでしょう。陳寿も彼の国内政治の在り方は高く評価し
ています。彼が他の人間が活躍することを望まなかったかのような考えは、孔明の人
物像を全く理解していないと言っていいと思います。
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再び孔明弁明 投稿者:源さん 投稿日: 9月14日(木)12時17分27秒
>すでに漢は魏王への禅譲をすませていました。これは剥奪というものではなく、
>むしろ理想的な禅譲だったのです
禅譲とは、帝王がその位を有徳者に譲ることです。伝説時代の尭舜ウ以外の禅譲は
禅譲という名を使っての、簒奪以外の何物でもありません。つまり中国において
理想的な禅譲なんて一度もなかった訳で当時の人も誰も本当の意味での禅譲をやった
などとは思ってません。それゆえに復興なのです。またこの度の禅譲はこのような悪
しき、この後の禅譲の手本となる禅譲です。王などと名乗る僭称はあっても、このよ
うな皇帝の禅譲は初めてです。それだけに、力による政権交代とは誰もが思っても、
後世のように禅譲としての国譲としてはそれは正当と思ったかどうか疑問です。
>孔明が魏に降らなかった理由は、自分に対抗しうる人材のない場
>で、自己の能力をフルに使いたかったからだと思います。
うがちすぎでしょう。陳舜臣さんは三顧の礼で迎えてくれた義理立てと言ってます。
彼は典型的な宰相型の人物で主君の使命達成のために喜びを見出す人だと言ってます。
ちなみに、陳瞬臣さんは、「三国志」の著者・陳寿の評価、つまり彼の有能な宰相であっ
た後、「然れども連年衆を動かして、未だ能く成功せず、蓋し変に応ぜし将略は、其の
長ずる所に非ざるか」という評価や、諸葛孔明に関する最近の研究書での評価の下がり
を勿論、知っていますが、孔子の評価などと同じく、中国独特の両極端に走る傾向で、
彼の偉大さに変わりはないとしています。そしてその著「諸葛孔明」でも、それらの説
を採用していません。私も、中国の歴史家はどうも、奇抜さ斬新さだけを狙って深い
研究はされているように思えません。
>ご指摘の呉との同盟における外交官の役割でした。
赤壁の戦いで、実際には兵力はほとんどもたなかった劉備にあって、あの呉における
それ以上の成果はあったのでしょうか?
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項羽と劉邦 投稿者:Toshy 投稿日:
9月14日(木)12時02分29秒
の楚城・漢城のにらみ合いに、五丈原の戦いは似ていますね。
食をたっぷりとかかえた劉邦は無理して戦わず、兵站に難を持った項羽の自滅を待ちました。直接戦闘では、項羽は超一流でしょう。しかし間接戦闘―戦略では、二流以下という判断を下さなければなりません。
孔明は項羽同様、直接戦闘のほうが強かったのでは。だから不利な兵力でも負けなかったのでしょうが、間接戦闘という意味ではあきらかに負けていました。
魏としては無理に戦う必要がなく、蜀の自壊を待てばよかったのです。そしてその目論見通り、孔明は自滅しました。
ところで魏延の叛逆についてですが、しょうえんは事情を調査して、「叛逆ではなかった」という結論を下しました。もしその気があれば、蜀に帰らず魏に降っていたと私は思います。
劉備が張飛をさしおいて漢中の太守に抜擢したほどですから、この人物の能力は相当のものだったのでしょう。もし小人物なら、囲碁でいう「コウ」にあたるような漢中を10年も守ることは出来ませんから。
孔明も魏延も、ともに相当の自信家でした。だから意見が合わないとどこまでも対立することになったのでしょう。後代は魏延を一方的に悪者扱いしましたが、最近見直されつつあるのは歓迎です。
重ねて言うと、天命を知りつつ(?)天とも戦おうという項羽や孔明のような考えは私も好きです。ただし好悪は別として、戦略家としては誉められる人ではないというわけですね。
ホグニさん魔異夢さん、ご声援ありがとうございます(^^)
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おっ、盛り上がってる、盛り上がってる^^ 投稿者:魔異夢。
投稿日: 9月14日(木)11時10分24秒
さすが、マニアックでディープな歴史フリークのみなみなさま。そこら辺のお堅い中国文学書よりも咀嚼されていて、わかりやすい!!!期待!期待!
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日本シリーズのON対決は実現するか??^^ 投稿者:きんたろう
投稿日: 9月14日(木)02時34分03秒
アマチュアで1番だった実績がプロに入っても続くというのは幻想に過ぎないという厳然たる事実
については誰でも熟知しています。
ところがドラフト支持者の意見とはプロに入ってからもアマチュアの実績がそのまま永遠に続くも
のだと言っているようにしか聞こえてきません。
プロの世界とはもっと厳しいものであり下克上の世界と言えるのではないかと思っています。
南海が立教の先輩である大沢親分を通して長嶋監督にアフローチしてほとんど南海入りが決まりか
けたというのは有名な話ですね^^
ところが、1800万円の契約金の中に飲み食いさせた分を含めようとしたせこさに長嶋さんが辟
易して巨人に乗り換えたということが真相らしいですよね??
元々長嶋さんは阪神ファンでしたからどうしても巨人じゃなければダメというタイプではなかった
ようです。
もし南海に入っていたら野村さんとのNN砲でV9時代を築いたのかもしれないと思っています。
結果として、当然王ダイエーは存在していない事になりますね。
勿論今日の巨人人気もなかった筈です、笑
南海ホークスは狭い大坂球場(左中間、右中間に膨らみが無くほとんど直線)を本拠地としていま
した。
この球場でホームランをかっ飛ばしたのが野村さんです。
長嶋さんのホームラン数も444本を遙かに越えて700本くらいには達していたかも知れません
よV_(^O^)_V
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それにしても源さんもToshyさんも三国志に超詳しいですねV_(^O^)_V 投稿者:きんたろう
投稿日: 9月14日(木)02時32分41秒
と言いつつ野球の話題^^
野村監督はテスト生として南海に入りましたからとても自分からチームを選べるような立場ではな
かったのです。
掛布もまたアマチュアの実績が皆無と言っていいレベルでしたからプロ野球に入れば大満足という
次元だったのではないでしょうか??
でも誰でも巨人に入るだろうと考えるのは間違っていると思いますよ^^
先日亡くなられた大洋でピッチャーをされていた秋山さんは立教時代のチームメイトが同時に5人
も入ったとありましたよね。
キャッチャーをされていた方とは高校生の時から大学、そしてプロでバッテリーを組んだとありま
したからものすごく長いつき合いだったと思いました!!
>クールさを持ってもいいと思います,野球選手は。
これは野村さんが成功者に成れた大きな要因の一つなのでしょうね、笑
でもそれだけでは観客に感動を伝えられないような気もしますね^^;;
スポーツばかりをやってきた少年にそのような面までも冷静に判断する事が出来る事を期待するの
はちょっと酷だと思っています。
それにこの世界は正に「少年老い易く」の世界です。
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私は三国志に 投稿者:輔住 投稿日: 9月14日(木)01時12分13秒
関しては横山光輝さんの漫画とその他三国志関連の本を
少し読んだだけなのであまり知識はないです。
でもぼくは今までの孔明の評価が高すぎたと思います。
私はあれだけ北伐を繰り返すなら魏延のような策を使って
大勝負してみた方がよかったのではと思います。
(むろん、これはかなりのリスクを負い、蜀が滅亡する可能性もある)
ただあの戦法では大局的に見たら勝ち目はほとんどないでしょう。
国力的には魏が圧倒的ですから。
無論、全滅などは避けたいと思うのも分かるので全く評価できないという
わけではありませんが。
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孔明 投稿者:Toshy 投稿日: 9月14日(木)01時03分26秒
>蜀の大義名分は、漢を復興すること
すでに漢は魏王への禅譲をすませていました。これは剥奪というものではなく、むしろ理想的な禅譲だったのです。蜀としては、魏が漢室を簒奪したと糾弾して自分たちを正当化するほかありませんでした。
>劉備に死後を託された、そして義に生きる孔明としては、当然の行動でしょう。
これは同じ考えです。そして、孔明が魏に降らなかった理由は、自分に対抗しうる人材のない場で、自己の能力をフルに使いたかったからだと思います。
孔明の前半の活躍は、ご指摘の呉との同盟における外交官の役割でした。益州に入った後、新参の法正が孔明よりも高い地位尚書令に就いたことは、劉備の孔明に対する信頼がさほどではなかった証明になっています。
なお、孔明がほとんど軍事にかかわらなかったというのは史書からわかることです。孔明の「はくぼうは」〜益州平定までの活躍を肯定する研究書はありません。
むしろ「活躍はほとんどない」と書いている研究書が多いのですよ。だからといって孔明の人物評価が下がるわけではありませんが、現実にないことで評価を上げることはできません。
>曹操の南征に対して色々を策を献じた
もしかして劉備が却下した荊州簒奪の献策ですか(笑)。
のちに曹操の5000騎によって劉備軍はちりぢりになりますから、荊州をとる力も、その後曹操を防ぐ力もなかったことでしょう。
中国のなんとかいう歴史家は、この孔明の献策を疑問視しています。
評価が下がったというよりも、演義の脚色がはがされつつある、というべきでしょうか。
>劉ショウ時代の弥漫した国家の在り方を一掃して国家の建て直し
孔明の能力は、軍事よりもこの方面であることは間違いありません。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm
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諸葛亮孔明 投稿者:勇者ロト 投稿日: 9月13日(水)23時30分38秒
源さんに一票!!
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再度の弁護 投稿者:源さん 投稿日: 9月13日(水)23時22分18秒
三国志演義でなく、歴史関係の図書をひっくり返してみました。
百瀬明治さん、植村清二さん、貝塚茂樹さん・・・
>孔明は事実、北伐までほとんど軍事を担当しませんでした。
ということと、参謀役として活躍したこととは、違うのではないですか。
色々本を斜め読みしましたが、三顧の礼以降、劉備の展望が開けたことは事実
だし、それに、曹操の南征に対しては、やはり色々を策を献じたことが書いて
ありますよ。
正式な軍師将軍となったのは確かに益州に入ってからとしても、すでに荊州に
入る時など、軍師・中郎将になってますよ。
それに赤壁の戦いの前の呉の孫権の説得や、呉との縁組みや色々と活躍しています。
益州の一郡の長であったときなども、劉備は孔明に今後の方策などを聞いたりしています。
植村さんなども、劉備は相談相手は孔明ぐらいしかいなかった事を書いています。
またどこを見ても、有名な赤壁の戦いの前の活躍などを史実でないなどと書いてはありま
せんよ。
>戦って勝ち目のない北伐を、何度となく繰り返したからです。
蜀の大義名分は、漢を復興することです。当たり前のような気がしますが。
これこそ法家の人でありながら、その義に生きる姿勢から、また出師の表などから、
後に朱子学の鑑、バイブルとなった所以じゃないですかね。
大義名分は、洋の東西えお問わず、時代を問わず戦いには不可欠です。
大義名分のない戦いは絶対に負けます。間違っていても、必要なのです。
それがその時代を真剣に生き抜くものの指標なのです。
劉備に死後を託された、そして義に生きる孔明としては、当然の行動でしょう。
それが愚かだといえば、それまでです。
私はしかし、そんな生き方の孔明の方が、やっぱり好きですね。
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源さん 投稿者:Toshy 投稿日: 9月13日(水)22時19分44秒
すれ違いになりましたね。
実は議論が好きなので、結構楽しんでいます。これからもよろしくお願いします。
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いやいや 投稿者:Toshy 投稿日: 9月13日(水)22時18分49秒
反孔明というよりも、私はこの人物を「治世にあって有能ではありえても、乱世の英雄ではない」という評価をしているのです。
源さん、少し私も感情が走ったみたいですみませんでしたが、ご容赦ください。
>博望ハの戦い、長坂ハの戦い、ケイ州平定、蜀の奪取
実績は孔明にほとんどなかったことをまずご理解ください。「演義」は史実ではないです。はくぼうはのときは孔明はまだ幕僚になく、長坂では曹操に追われて逃亡するのみ。防いだのはちょうひ・ちょううんの二人だったことはご存知でしょう。
けいしゅう平定ですが、孫権が劉備にその土地を任せたというのが本当です。えきしゅうの簒奪も、孔明が出てきたのは成都奪還の時だけ。
孔明は事実、北伐までほとんど軍事を担当しませんでした。孔明が遠征をはじめた時、魏では「劉備以外に人物はないと思っていたから」という、意外な驚きを示しています。
>孟達を見殺しにした
蜀書費詩伝に、<猛達は信用できないから救援にいかなかった>という記事があります。信用できないといっても、それ以前に連絡を取り合っていたのだから<信用できない>は言い訳にしかすぎません。
注意したというのは、「演義」の作り話です。
なお、もともと劉備は孔明よりも、ほうとう・ほうせいを重要視していたのです。しかしほうとうが早死に、高齢のほうせいが死に、この後継者と考えていたもうたつは魏に逃げたため、“しかたなく”孔明に託したというべきなのです。
孔明が二流といわれてもしかたないのは、戦って勝ち目のない北伐を、何度となく繰り返したからです。遠征だけで国は疲弊します。無謀な戦いをするのは、一流の軍事家なら避けるでしょう。
ちなみに私は、孔明を嫌いというわけではなく前にも書いた通りご贔屓です。残念ながら高い評価は出来ませんが、「不可能とわかっていてもやろうとする」姿勢は好きですよ。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm
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あー阪神巨人戦を見るのを忘れた 投稿者:源さん
投稿日: 9月13日(水)21時58分28秒
>ホグニさん
私は大したことありません。中国史関係のサイトへ行くと、ひよっこです。
ハンニバルのことは数年前、塩野七生さんがカルタゴのことを書いて、
そこで彼のことも詳しく書いています。評論家の森本哲郎さんや歴史家
の服部某さんも、カルタゴの本の中でハンニバルを詳しくとりあげています。
>Toshyさん
別に個人的怨みは勿論ないので今後ともよろしく!
ただ孔明の評価が最近極端に下がってきたことに納得できないだけなので。
孔明の戦略が、三国志演義によりかなり脚色され、他の人物の評価が相対的
に落ちたことは認めます。
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孔明 投稿者:ホグニ 投稿日: 9月13日(水)21時41分44秒
孔明は七禽七放の故事が好きです(笑)。
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人間って面白いですよね(笑) 投稿者:ホグニ
投稿日: 9月13日(水)21時30分06秒
ここに集まってる人達は本当にすごいですね!
源さん は三国志だけでも10種類読んでるんですか?
呂布はなんか子供ですよね(笑)。
おとこぎがあるから憎めないだけで(笑)。
班超は不屈って感じがして好きです。
思慮深いし。
ハンニバルも火牛の計使ってたんですか?
知らなかったです。
いいこと聞いてしまった(笑)。
安部さんは孔子が好きなんですね(笑)。
ホグニは論語では、『古の人の言をいださざるは、身の及ばざることを恥ずればなり』っていうのが好きです。
どちらかというと、儒教よりも道家の思想に惹かれていますが(笑)。
でも、孔子の怪力は文人のイメージとあいまって好きです(笑)。
へえ、ロトさんは孔明好きなんですね(笑)。
天才の代名詞ですね(笑)。
Toshyさん(トゥーシャイでしたっけ(笑))は反孔明派なんですね(笑)。
孔明には神秘的なイメージがありますよね。
三顧の礼にしても、よほど自信があったのか、それとも無かったのか(笑)。
ホグニはテイの子産のように、誰もが信じる預言を平気で無視するような理性的なキャラも好きなので、もし孔明が天下取ってたら孔明嫌いでしたね(笑)。
輔住さんも中国好きそうですね(笑)。
きんたろうさんは呉越同舟の故事が好きなんですね(笑)。
法華教徒と浄土教徒が同じ船に乗るようなものですね(笑)。
最近は違うのかな?
臥薪嘗胆は忠臣蔵のイメージです(笑)。
韓信は成功したけど、その後がついてなかったですよね。
葉隠れの思想よりも、韓信の股くぐりの方が好きですけど(笑)。
http://hogni.tripod.co.jp/
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諸葛孔明の弁護 投稿者:源さん 投稿日:
9月13日(水)20時39分48秒
輔住さんのいうように、孔明は、超一流の人物じゃないかもしれません。
ただし、私はやっぱり曹操と同じく当時を代表する知識人だと思います。
最初にいったように、私は彼を戦略家でなく、治世家として高く評価しています。
>贔屓目にも、やはり誉められた人ではなかったのです。
は言い過ぎだし、
>人材という点では、百歩譲っても孔明に弁明の余地はないと私は考えておりますが
という考えにはとても賛同できません。
孔明の一番の功績は、劉ショウ時代の弥漫した国家の在り方を一掃して国家の建て直し
を図り国力をつけたことです。彼は法家系の人物ですが、それだけに実務を重んじ、
有能な人材を駆使し、そにより蜀を立て直したのです。とりわけ目立った人物はいない
とは言え、彼は軍事よりも国の治世をまず第一に考えていた人です。Toshyさんの考えは
誤解もはなはだしいものでしょう。しかし、最近、Toshyさんだけでなく、そういう説を
書いた本が出てきたことは私も知ってます。その人達には、じゃーどうしてあの新野の
一領主に過ぎなかった劉備がここまで大きくなれたか説明してもらいたいと思います。
また三国志演義に書かれたほどでないといわれる戦略についても、博望ハの戦い、
長坂ハの戦い、ケイ州平定、蜀の奪取など立派な戦績をどのように説明するのですか。
あれなら劉備の戦略戦術でできたとでも言うのですか。
>あたしゃ決して、戦力を無視して人物評をする人間ではないです。
と言いつつ、それは結局のところ言葉だけで、国力のハンディを考慮に入れていない
考えだと私は思います。
>劉備は魏延を高く評価して漢中の太守を任せました。
しかし魏延のその尊大で軍規にしたがおうとしない態度はやっぱり、軍を掌るものとして
困ったものと考えるのは当たり前です。彼は孔明とは独立して軍の行動をとりたがり
ましたが、それを孔明が
>手柄を与える機会を与えなかった
というのは、無法者のやんちゃな反論に過ぎません。
現に魏延は、孔明の死後、寝返っているじゃないですか。孔明より能力なしと見て、
長史の楊儀の命令を聞かなくなりましたよね。楊儀と仲が悪いからという説がありますが
仲が悪いのは本当にして、それも彼の性格によるものと思われます。
孔明は自分の死後、魏延が寝返ることを予想して予防措置を取り、キョウイなどにいい含
めたという話さえもあります。つまりやはり危険人物だったのです。
>馬超は劉備よりも先に死んでいますので、彼が寝返らなかったのは孔明の功績とは直接
>結びつきません。
劉備の晩年は軍政も国政もほとんど孔明に一任しています。
魏延も含め、色々な人物を纏めていたのは孔明の力に大きく依存していました。
とんでもない誤解です。
孔明は天文家でしたが、法家もあり、実務能力や人格を重んじました。
私は、逆に孔明は人をみる鑑識眼があったと思います。
天文家の孟光・来敏という人物は、果たしてそんな優秀な人物だったのでしょうか。疑問です。
>自分の思い通りに国政を動かそうという意志が、この人事に見え隠れしているのです。
いいふるされた言い方かもしれませんが、ではなぜ孔明は、晋の司馬一族のように、劉備の死後、
国を簒奪しようとしなかったのでしょう。それはそういう考えは微塵もなかったからです。
それからちょっと書き忘れましたが、
>孟達を見殺しにした
というのは、ちょっと言いすぎではないですか。寧ろ孟達の司馬仲達を見る目が甘く、彼の
神速による攻撃で敗死したというのが正しいのではないですか。孔明はそれに、そのことを
孟達に注意しているではないですか。見殺しという言い方はおかしいと思います。
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