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そう言えば 投稿者:きんたろう 投稿日:10月
4日(水)03時00分18秒
コナンの声の高山さんとウイング・ガンダムの主題歌を歌っていたTWO MIXの繋がりは何か
あるのでしょうか??
ホグニさん、V_(^O^)_V
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ヘルッコラブリンクルクルリンクル(爆) 投稿者:安部奈亮
投稿日:10月 4日(水)01時54分17秒
ホグニさん,私も「クリーミーマミ」と「ペルシャ」と「パステルユーミ」はリアルタイムで見ていました。マミとペルシャは見ていた記憶が結構あります。
魔法のステッキを欲しいと思ったことはないけれど、グルメッポッポは欲しかったかな(核爆発)今じゃありませんよ、子供の時の話です。
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田中真弓さん 投稿者:勇者ロト 投稿日:10月
4日(水)01時46分31秒
といえば、ダッシュカッペイ????
声優さんてみなさん息が長いですよね?
最近はアイドル化しているとか?????
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ありがとうございます(笑) 投稿者:ホグニ
投稿日:10月 4日(水)00時55分33秒
リンク確認しました(笑)。
きんたろうさんこそ褒めすぎですよ(笑)。
それから、きんたろうさん自作のバナー、あらためて使わせてもらいました。
リンクのコーナーの一番下にあったんですね。
確認のときに気付くなんてあいかわらずぼけてます(笑)。
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私は最初 投稿者:安部奈亮 投稿日:10月
3日(火)23時39分29秒
高山みなみさん(乱太郎、コナンなどなど)と田中真弓(はに丸、ちびた、ワタル、きりちゃん)さんの声の区別がつかなかった。忍たま乱太郎での競演でやっとはっきり分かりました(笑)
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陸奥2 投稿者:Toshy 投稿日:10月
3日(火)23時26分45秒
>北条氏は陸奥の豪族の掌握に成功していたと言えるのでしょうか。
うーん。。。どのような政治をしていたのか、わかっていないのでなんとも。
しかし調べているうちに、東北人の自分も知らなかった事実が分かりました。これ、幕府の経済に関する話です。
津軽十三浜は、鎌倉の時代に日本海貿易で繁栄していたところだそうです。日本は神戸港での中国との貿易が盛んでしたけど、この青森でも広く貿易を行なっていました。奥州藤原氏も相当貿易で利をあげていたということですが、その路線で鎌倉も中国との交流を続けたのでしょうね。
津軽からは昆布や鮭を大量に、日本海沿岸の港や遠く琉球まで運び出していたようです。
いずれにせよ、南北朝争乱が豪族の利害に関係していたことは、陸奥でも同様です。それは北畠・奥州軍の2度にわたる上洛で現れてきます。
(つづく)
輔住さん、安部さん、きんたろうさんに煽られて、今まで考えもつかなかったことを発見しました。
みなさん、ありがとうございます(^^)
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm
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確かに 投稿者:きんたろう 投稿日:10月
3日(火)19時34分18秒
南北朝時代の九州の様子については余りよく分かっていないですよね??
私も所々で「点」として出てくる名前は分かるのですが「線」としては理解し切れていないといっ
たところです^^;;
日本の歴史をみるとほとんど連合王国のようなものだったのでは、とつくづく思われてきますよね。
ひょっとしたら、中原に当たる近畿圏さえ押さえてしまえばあとの地域は自然と臣従してくるもの
であるといった認識だったのでしょうか??
でも、これは七つの海を支配した大英帝国(連邦)=the Commonwealthを築いたイギリスにして
も本国ではあのような小さいエリアで4つの連合王国の集合体だった事を考えると当然の事なのか
も知れないとも思われてきます。
ところで名探偵コナンの声と忍玉乱太郎の声は同じです、笑
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ホグニさんのホームページへ 投稿者:きんたろう
投稿日:10月 3日(火)19時30分08秒
リンクを貼らせてもらいました。
皆さんも遊びに行ってくださいね^^
タイトルは「今よりも一万年のち」です
http://www.net-ibaraki.ne.jp/kintaro/sub2.htm
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未来少年コナンとのび太君は 投稿者:安部奈亮
投稿日:10月 3日(火)14時42分23秒
実は声が同じ、小原乃梨子さん。えらい違いですね(笑)でも2人とも優しさは一緒かな。
小原さんは「タイムボカンシリーズ」で悪者の女首領の役もしています。
で面白いのが太った手下の声で、これはたてかべ和也さん、ジャイアンの声です。
「ドラえもん」と「タイムボカンシリーズ」で攻守逆転しています。
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Toshyさんありがとうございます 投稿者:安部奈亮
投稿日:10月 3日(火)14時15分59秒
と言うことは陸奥はむしろ旧勢力の北条氏の力が強く残っていたゆえの室町幕府への反抗だったのですね。
と言うことは、北条氏は陸奥の豪族の掌握に成功していたと言えるのでしょうか。
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陸奥 投稿者:Toshy 投稿日:10月 3日(火)13時19分18秒
は鎌倉政権=北条氏が得宗体制、つまり執権の直轄地として力を入れて支配していたところです。どのような方法を取っていたのかはわかりませんが、ともかくも北条氏とかなりのつながりがあった土地、と考えてよいでしょう。
陸奥の人々が恐れたのは、幕府崩壊後の「朝敵所領没収令」でした。北条氏支配下に置かれていた陸奥は、幕府崩壊後の新体制についていくことが出来ず、各所で北条氏残党の一揆が起こっていました。
陸奥軍を率いた北畠あきいえは、こんな混乱にある陸奥を制御した、実に有能な人物だったようです。二階堂・結城といった旧幕府官僚を登用し、各地の役所はそれらの奥州武士によって構成した、という記録があります。後醍醐天皇の中央指令を無視しての行動は、勇気があるとともに賢明な選択だったといえるでしょう。
建武元年、陸奥宮が下って義良親王となり、多賀城の幕府に入りました。この頃には北条氏残党の一揆もほとんどおさまっていた、といわれていますが、武力鎮圧だけではなく、あきいえの奥州武士登用が功を奏していたのでしょう。
この意味では、安部さんがおっしゃったとおり「治外法権」ですね。
(つづく)
PS
大友氏の出自、ありがとうございました。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm
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東北地方の 投稿者:安部奈亮 投稿日:10月
3日(火)12時19分59秒
北畠顕家も、一時期東北地方に牙城を築いて2回も京都へ攻め込みますよね。本人は後醍醐天皇への上奏文で新田義貞や楠正成を怪しげな下人扱いしていたから、貴族的な考えだったのでしょうが、何か武士の心をつかむところがあったのかも。それとも、関東武士に押さえつけられていた、東北土着の豪族の怨念が爆発したのでしょうか。頼朝が藤原三代を滅ぼして以後、東北は関東の植民地扱いされていたそうですし。
鎌倉公方も、室町幕府とは独自に南朝の勢力と戦って、関東と東北を統一するけれど、その話もあまり聞いたことはないですよね。郷土史から調べれば良いのでしょうか?
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大友は 投稿者:安部奈亮 投稿日:10月 3日(火)11時45分53秒
内容:藤原氏の末流。相模国足柄郡大友郷より興る。初代能直は源頼朝の有力な御家人。代々鎮西奉行を世襲。南北朝の内乱に際し足利尊氏に属し、豊前・筑後の守護大名に成長。戦国時代宗麟の時全盛。
だそうです。
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天皇家の荘園 投稿者:安部奈亮 投稿日:10月
3日(火)11時15分33秒
イングランドやフランスの王様は、一回その国を武力で征服して自分の所有物にしているから、国が自分の所有物だと言い切れるのですよね。日本の権力者は控え目です.国や人民を所有物だと思っているのが、世界史では標準的な権力者の姿だと思います。
日本の天皇家と言うのは、もしかすると一度も日本を自分のものにしたことはなかったのかもしれないですね。飛鳥時代や奈良時代だって、周りの国が統一されたから緊急避難的に権力を天皇に集めただけかもしれない。
室町時代の権力者と言うのは、日本史では珍しく身勝手で世界史的だと思います。日本国王であった足利将軍なんか、日本を自分の所有物だと思っていたように私には感じられます。
九州と東北は治外法権なのでしょうか?(笑)関東も室町時代には「分国」でしたから、近畿地方を中心とする東海、北陸、中国、四国とはまた別の原理で動いていたのかもしれないですね。
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九州の戦い 投稿者:Toshy 投稿日:10月
3日(火)09時39分26秒
安部さんの書き込みはとても参考になりました(^^)
九州で勢力が強かったのは、一色・少弐・大友・島津・菊池の5氏。
菊池と島津は源平の頃からの土着ですね。少弐は鎌倉時代からの守護で、一色は足利尊氏の任命で守護になった。大友の出自は何でしたかね。。
>幕府にとって扱いにくい人間
上のような分類で見ると、一色だけが尊氏に忠実だった、というところが理解できます。しかも高師直と親しかったから、その全盛期にはかなりの権力を振るったと思われます。
これに反発したのが少弐でした。少弐氏は直冬を迎えて一色に対抗します。こうして九州は幕府派・南朝派・直冬派の3つに分かれて対立。一色が少弐・菊池連合軍(ちょっと意外:菊池武光の父は鎌倉の末期に少弐の手で殺されている)に倒されると、一時的に九州全土が南朝の手に落ちたことになりました。
ほんとは南北朝で一番白熱したのがこの九州なのに、これをとりあげる本は少ないですね。「太平記」に扱われいないのがその理由でしょう。本来なら1冊の本が出来そうなほどドラマが多い。
ホグニさん>
ぜひ参加してください(^^)
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さらに南北朝 投稿者:輔住 投稿日:10月
3日(火)07時25分01秒
>足利直冬の存在も大きい。
大きいですね。直義の死後も直冬が直義派を率いますから
勢力はなかなか衰えない。
>懐良親王は、武士のことを考えられる人だったのかな?
このあたりはよく分かりませんが九州には
少武氏や島津氏などが反幕府派でしたし、菊池氏は当然南朝派と
幕府にとって扱いにくい人間が多くいましたね。
>後醍醐は自分の系統が第四番目だからこそあのような「無理が通れ
>ば道理引っ込む」作戦に出たのかも
というよりなんでも自分の思い通りではないと気がすまない人だからなー(笑)。
>>空飛ぶ要塞ギガント
>これは煙を噴いて墜落しませんでしたっけ??
確かそうでしたね。コナンやジムシーやダイス船長の活躍で!
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安部さん 投稿者:きんたろう 投稿日:10月
3日(火)02時46分03秒
これは素晴らしいまとめですよ^^
とても参考になりました。
思いつきなのですが、南北朝と応仁の乱の根本にある原理(のようなもの??)とは同じなのかも
知れないですね??
それにしても天皇家の「荘園」とは本来この国全ての筈なのですが...
不思議な現象ですよね^^
輔住さん、
またまた思いつきなのですが、後醍醐は自分の系統が第四番目だからこそあのような「無理が通れ
ば道理引っ込む」作戦に出たのかも知れないですね??^^;;
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Toshyさん 投稿者:きんたろう 投稿日:10月
3日(火)02時41分39秒
>空飛ぶ要塞ギガント
これは煙を噴いて墜落しませんでしたっけ??
かなり記憶が曖昧です、自爆
kitunoさん、早速見に行きましたよ^^
続きを楽しみにしていますね。
乙姫さん、久し振りですね^^
>星神香々背男
の話題がほぼ同時に出るなんて確かにジャストタイミングでしたよね!!^^
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ホグニさん 投稿者:きんたろう 投稿日:10月
3日(火)02時40分44秒
リンクを有り難うございましたV_(^O^)_V
明日にはこちらの作業も完了すると思います。
すみません^^;;
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あ 投稿者:Toshy 投稿日:10月 3日(火)00時55分04秒
>1453
1353の間違い。あはは(^^;
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リンク(笑) 投稿者:ホグニ 投稿日:10月
3日(火)00時33分06秒
きんたろうさんのページ、リンクさせてもらいました(笑)。
これからもよろしくお願いします(笑)。
ここでいろいろな方の文章を読むにつけ、自分はまだまだ勉強不足だなあと思います。
全てについていけるきんたろうさんはすごいなあ。
最近は輔住さんの南北朝の話題でもちきりですね。
参加したいけど、たいしたこと言えないもんなあ。
安部さんやToshyさんがうらやましいです。
見てるだけで楽しいからいいんですけどね(笑)。
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もっと南北朝 投稿者:Toshy 投稿日:10月
3日(火)00時03分28秒
>足利幕府内部の争いが尊氏対直義が終結後も続きますからね。
足利直冬の存在も大きい。
1453年(?ちょっと手元に本がないので)に南朝が京都を占領しすぐ奪われたのを最後に、南朝方の劣勢は明らかでした。
直冬は九州で菊池に敗れ山陰道に逃れましたが、山名氏をはじめとする直義派の武将を味方にして北朝を脅かしていました。単独では当たれないから南朝に帰順。そして2度ほど京都を落としています。
もっとも、多くの本では「第三政権」扱いですけど・・・・
南朝が強かったのは九州地方でした。懐良親王は、武士のことを考えられる人だったのかな?
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制度史的に見た13〜16世紀 投稿者:安部奈亮
投稿日:10月 2日(月)15時43分09秒
御家人は分割相続で零細化してしまいます。それを防ぐために、すべての財産一人に相続させる惣領制が鎌倉時代の後期から始まるのですが、相続できなかった方は抵抗しますよね。それまでの法律では、兄弟は平等に遺産相続が出来たのですから。だから、兄が北朝なら弟は南朝についての互いに財産を争う。相続したい奴はいくらでもいるから終らない。それどころか、権威の源泉である天皇家自身が複数に分かれて相続争いをしている、一番偉い人が範を示しているのです。
Toshyさんのおっしゃった守護と国人の争いもそうですね。新しい社会制度が気に入らなければ、別の王朝につけば良い。
多分武士はみな足利幕府を支えることには依存はなかったのでしょう。でも、それと財産争いは別だったのだと思います。結局惣領制が定着するまでは南北朝の争いは続きます。
応仁の乱は、6代将軍足利義教が、守護大名の家督相続に介入して、自分の気に入った者へ強引に家督を継がせたため、守護大名家の中に、義教派と順当に行けば守護になれたはず人の派閥が出来て、この2つの派閥が東軍西軍に分かれて争います。こっちも将軍が2つあるから、気に入った方につけばいいから終らない。惣領制が定着した上での争いです。
また守護と言っても、領地の国人を完全に家来にしていたわけではありません。国人は「室町幕府の守護」であるから、守護の命令に従っているだけでして、細川も山名も斯波も、主に足利系の御家人たちは室町幕府の感触が無ければ権力がふるえませんでした。大内や島津と言った土着の豪族は少し事情が違います。ですから、応仁の乱は室町幕府の官職をめぐる争いでした。
この傾向は近畿では長く続きます。地方では、戦国大名が領内の豪族を掌握していきますが、禁忌では、応仁の乱以後も、室町幕府の権限が残りました。織田信長が義昭を将軍にしただけで近畿を一時掌握で北野はそのためです。
しかし、織田信長の最終目的が、豪族を被官化(家来にすること)することにあると知った時、近畿地方の豪族たちは一斉に信長に抵抗を始めます。
これは実は、応仁の乱の前後に細川氏が行って失敗したことでした。細川氏は近畿地方を掌握しようとして、激烈な国人一揆にあいました。国人の方は焦土作戦で抵抗し、細川氏も国人を一つ一つしらみつぶしに滅ぼす方法で対抗していきますが、かえって最後には自らが疲弊して、本国の四国に引っ込まざるをえない羽目になります。細川氏と国人の戦いは、織田信長の戦いに似ているように私は思えます。
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治天の君 投稿者:安部奈亮 投稿日:10月
2日(月)15時08分29秒
というのがありますよね。確か天皇家の第一人者で、実際の政治の頂点にいる人と言う意味だったと思います。
天皇家の第一人者ですから、多分財産を処理する権限は「治天の君」の方にあったのではないでしょうか?
天皇であっても治天の君でなければ実権が無かったりするから余計ややこしい。鎌倉時代後期は天皇と治天の君は足を引っ張り合いますよね。治天の君はたいていは上皇ですから、天皇位を退いた後でも、他家に実権を与えないために上皇が画策する。しかもその事にそれなりの根拠があるからたちが悪い。
いろいろなことのルールがまだ定まっていない時代だったのだと思います。
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あの頃の皇室は 投稿者:安部奈亮 投稿日:10月
2日(月)14時49分38秒
大荘園領主でしたからその利益をめぐっての戦いとしても熾烈だったのだと思います。
むしろ当事者にとっては、日本の帝位を争うと言うよりは、財産の取り合いの面が強かったのではないかと思います。院政期以降の荘園と言うのは、官職(天皇も一種の官職と言えます)に付随する給料、みたいな面が強かったから、天皇にならないと荘園を持つことが出来ない。
両朝が別れる時にも、荘園の分割が争点になっています。
両朝合体の時の約束にも、荘園の分割が入っていますよね。
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この時代は皇統がたくさん! 投稿者:輔住
投稿日:10月 2日(月)05時45分19秒
きんたろうさん、Toshyさん
>同等の継承者が何人もいたあの時点において後醍醐の系統のみが天皇家を継ぐ事が出来るというの
>は根拠無しの妄想といわれても仕方がないような気がしています。
だれでも自分の家に皇位を継がせたいとは思うでしょうけど、大まかに言えば
この時代は4つありますからね。後伏見、花園、後二条、後醍醐と
しかも後醍醐は次男系の次男系だから単純に言えば一番不利!
>公家の時代に戻すという事ではなく武士どおしの争いの大義名分の
>ための様に感じています。
同感です。足利幕府内部の争いが尊氏対直義が終結後も続きますからね。
仁木義長・細川清氏などが確かなりゆきで南朝にくだってますね。
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なんと?! 投稿者:乙姫 投稿日:10月 2日(月)03時53分00秒
え?kitunoさんのHPで星神香々背男についてアップしたのですか?
何て偶然だー??
早速見に行かなきゃ!!いつもkitunoさんの所と同じ題名で盛り上がりますね。
不思議ですなあ。(^^)????
http://www09.u-page.so-net.ne.jp/zb3/tatibana/
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またまた宣伝^^; 投稿者:kituno_i 投稿日:10月
1日(日)23時48分05秒
「崇峻天皇弑逆事件」を読んで下さってありがとうございます。
今日は星神香々背男について更新しました。
ご意見をお聞かせ下さい。^^
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え 投稿者:Toshy 投稿日:10月 1日(日)23時06分31秒
>コナンがぼろ飛行機の羽根の上を走るシーン
未来少年コナンですか?(笑) あれはボロ飛行機ではなく、空飛ぶ要塞ギガントの翼の上だと記憶しています。
南北並立が続いた理由としては、「足利政権が決めた守護によって権利を失った土着の豪族が、これを倒すために南朝についた」という説があります。いずれにせよ、武士の権利を争うものですね。
護良親王は武張った人ではあっても、積極的に武士の権利を尊重しただろうか、という疑問もあります。尊氏を警戒したのは、武家が天皇家に代わることへの危機感ですから。尊氏を牽制するなら、自分が征夷大将軍になるよりも、対抗馬になり得る新田義貞を鎌倉に送っていたのでは。
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飛行機の羽根をかけるモモ 投稿者:きんたろう
投稿日:10月 1日(日)21時59分13秒
については全く知りませんがコナンがぼろ飛行機の羽根の上を走るシーンなら知っていますよ、笑
といっても実はよく知らないのですが...笑
ホグニさんはリアルタイムで見ていたのですねV_(^O^)_V
あのようなシーンを見るとルパンが空中から落下していくときに体を色々と動かして落下速度を変
えるシーンとがだぶってきますね、笑。
初めて見たときは自然落下速度=1/2gt2はどうやっても変わるわけがないと思っていたのです
が、スカイダイビングを見てそれは間違いだと分かりました。
後楽園遊園地に1/2gt2をちょっと越えるスピードで落下するアトラクションがあります。
これは結構怖いですよ、笑
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ホグニさん 投稿者:きんたろう 投稿日:10月
1日(日)21時45分17秒
リンク有り難うございますV_(^O^)_V
こちらからも早速リンクを貼らせてもらいますね^^
よろしくお願いします。
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>幕府が街道の整備をしていなかった 投稿者:きんたろう
投稿日:10月 1日(日)21時43分04秒
なるほど、さすが安部さんですね^^
幕府は圧倒的な強さを誇っていましたからね。
特に東海道はかなり整備されていましたよね。
でもこれは参勤交代が制度化されたために宿場町が発達した事と大きくリンクしているのではない
でしょうか??
つまり軍事的と言うよりも経済的要因に依るところが大きいと思っています。
また、九州においては明治時代になった時に街道があまりに貧弱だった事が話題にされていたよう
な記憶があります。
もし、九州の街道が整備されていたら田原坂の攻防戦は無かったかも知れないと思っています。
しかし、いずれにしても江戸時代とは250年以上の期間があるにも係わらず、真ん中の200年
間についてはほとんど無知だと痛感しています。
現在の私たちの根っこの部分がこの時代に作られたのは間違いがないところですから、もっと知る
必要がありますよね^^
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>後醍醐天皇の失政 投稿者:きんたろう
投稿日:10月 1日(日)21時40分14秒
について昭和天皇がその様なことを述べられていたのですか??^^
昭和天皇が北朝系であるという事を別にしてもその様に思われるのは当然のような気もしますね。
問題は反対する意見などを別の手段で封印しようとした??事なのでしょうね^^;;
あれほどわがままな天皇というのは天皇家の歴史でも後醍醐の右に出る者はいないのではないでし
ょうか??
同等の継承者が何人もいたあの時点において後醍醐の系統のみが天皇家を継ぐ事が出来るというの
は根拠無しの妄想といわれても仕方がないような気がしています。
南朝が負けたのは歴史的に見て必然だったと言えるのではないかと思っています。
例え旗頭が足利尊氏で無かったとしても武士の既得権を無視(というか無にする)するような政権
が続くはずがないからです。
南北並立が続いた理由としては公家の時代に戻すという事ではなく武士どおしの争いの大義名分の
ための様に感じています。
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連続 投稿者:きんたろう 投稿日:10月 1日(日)21時37分37秒
して(去年の)8月分の過去ログをまとめました^^
道は遠いです^^;;
まだ1年以上遅れている!!
kitunoさん、
>「崇峻天皇弑逆事件」
読みましたよ。
ブライトさんの書き込みがまとめて読めるとはなかなかグッドなアイディアだと思いました^
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いまさらですが(笑) 投稿者:ホグニ 投稿日:10月
1日(日)20時12分16秒
きんたろうさんのページにリンク張ってもよろしいでしょうか?
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武士 投稿者:Toshy 投稿日:10月 1日(日)20時04分32秒
>最後の勝利は足利ではないにしても、武士であることは変わりなかったと思います
そうですね。足利が倒れても、武士団は次の盟主としてそれに代わる新田義貞を担ぎ上げ、自分たちの権利を守ろうとしたでしょうね。
新田義貞は足利尊氏・楠木正成の2大武将の陰になり、気の毒だった。ところで皇居の前には楠木正成の像があるのですか? 天皇の先祖である北朝と戦ったのはこの人なのに・・・・
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朕は何も知らぬ!部下が勝手に... 投稿者:輔住
投稿日:10月 1日(日)19時10分46秒
安部さん
>典型的な貴族の考え方を持っていたのでしょう。責任は取らなくていいと思っている。後鳥羽上皇も負けたとき同じ方法で逃
>げようとしている。後白河法王はその名手でした。
確かに。かなり無責任ですね。そのくせやる気は満々というある意味一番困るタイプ(笑)。
>最後の勝利は足利ではないにしても、武士であることは変わりなかったと思います。
同感です。そうなると新田かなー?それとも足利一門の細川とか斯波かなー?なんてね!
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ミンキーモモ 投稿者:ホグニ 投稿日:10月
1日(日)13時25分03秒
リアルタイムで見てましたよ(笑)。
マミとかエミも(笑)。
トマトのー夕日ーかかとーに浴びなーがらー
結構憶えてるな(笑)。
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幕府が街道の整備をしていなかった 投稿者:安部奈亮
投稿日:10月 1日(日)11時17分39秒
これは嘘ですよきんたろうさん。
橋はなかなか架けませんでしたが、道路、並木、宿場、休憩所の整備はしていましたし、天領ではない街道にも、監察官が派遣されて、ちゃんと整備しているかどうかチェックしていました。保健所みたいのもあって、宿場や茶屋で食中毒を出していないかどうかもチェックしていて、食中毒が出れば、その藩の責任となりました。
幕府は街道を、江戸へ攻め込む道と言うよりも、江戸から地方へ攻め込む道と言う考え方をしていたようです。ですから整備を怠るのは逆心の印とされます。寛永以降はその傾向が強まると思います。
街道の整備に熱心かどうかは、むしろ領主の考え方が反映されているのではないでしょうか?
関所破りで罰せられた人間は、江戸時代を通して2名しかいませんでした。武士以外に対しては関所はほとんどざるでした。東海道の関所はウルサイので、横の街道をはしごして、一つも関所を通らずに江戸から上方へ抜けるのも簡単でした。
江戸時代は、徳川家康の時代と幕末だけではありません。その間の200年は、私達が信じていた江戸時代とは違ったようです。
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後醍醐天皇は 投稿者:安部奈亮 投稿日:10月
1日(日)10時56分51秒
典型的な貴族の考え方を持っていたのでしょう。責任は取らなくていいと思っている。後鳥羽上皇も負けたとき同じ方法で逃げようとしている。後白河法王はその名手でした。
当時の日本を実際に動かしていた、武士をまともに見とめない南朝方が最終的な勝利を納める事はあり得なかったでしょう。足利尊氏が一時的に負けることはありえるかもしれませんが、最後の勝利は足利ではないにしても、武士であることは変わりなかったと思います。南朝は、護良親王が政権を握らない限り勝利はなかったのではないでしょうか?
南北朝の争いは、相続制度の混乱や、商業の勃興、農業生産の増大などの新しい事態にどう対処するべきかという戦いですから、武将の指揮や一つ二つの戦いの勝敗では歴史の流れは変わらないはずです。
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多分 投稿者:安部奈亮 投稿日:10月 1日(日)10時50分01秒
皇国史観徒言うのも、ほとんどちゃんとした学説の体はなしていなかったのではないでしょうか?まともに研究していたのもホンの2,3人で、残りの学者は迎合してただけで。
ナチスやソ連のような強力な情報操作や、反対思想の弾圧もなかったようですし・・・
むしろ「世間がそのように動いているのだから、私達もそれにあわせなければならない」と言う考えによる自己規制のほうが、戦中の日本は強かったのではないかと私は最近では考えています。後醍醐天皇の批判をしたらぶち込まれると言うよりも、村八分にされる方が怖くて批判できなかったのではないかと。そして皇国史観や大東亜共栄圏をまともに信じていた人はほとんどいなかったと思います。特に大正と昭和初期に教育を受けた人は。
本で得た知識だけですので、実際は違うのかもしれませんが・・・?
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後醍醐の限界 投稿者:輔住 投稿日:10月
1日(日)10時49分32秒
Toshyさん
>早めに赤松を味方に付けておけば、足利を倒すことは可能でしたね。
逆にいえばこうした勢力が京都で敗れたにも関わらず尊氏についたという
状況が後醍醐の失敗を表してますね。
元は赤松は尊氏のライバルの護良親王に近かったわけだし、活躍に見合った
待遇をしてれば南朝方だったでしょうね。
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飛行機の羽根をかけるモモ 投稿者:安部奈亮
投稿日:10月 1日(日)03時14分42秒
の話を見ましたが、あれは確かに「未来少年コナン」のパロディですね。
「ミンキーモモ」を見なおしてみて気がつきましたが、「ミンキーモモ」の話は有名な映画やアニメのパロディーの話がとても多かったです。「ミンキーモモ」の台詞の言い回しって結構古いのが多かったです。今見ても面白いアニメです。
サントラも買ってしまいました。あの最終回は、リアルタイムで見たときは、小さすぎて意味が理解できなかったみたいです。
でも・・・ここに来ている人は「ミンキーモモ」を見ていた世代とは外れるのかな。
今週から本格的に勉強です。でもその前にクラスの連中と。テスト終了打ち上げ大宴会です。
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後醍醐天皇の失政 投稿者:安部奈亮 投稿日:10月
1日(日)02時01分31秒
これに関しては面白い話がありまして、
軍部が昭和天皇に皇国史観の平澄教授の歴史の御進講をさせたことがあったのですが、
後醍醐天皇を賛美する段になって、昭和天皇は
「しかし後醍醐天皇にも失政はあったではないか?」と質問して
平澄教授はしどろもどろになってしまい、御進講は一回きりで取りやめになった、というエピソードがあります。
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桟道 投稿者:きんたろう 投稿日:10月 1日(日)01時26分58秒
については相変わらずイメージが曖昧なままなのですが、江戸幕府があまり街道の整備をしなかっ
た事や川に橋を架けなかった事に共通した発想があることが分かりました^^
歴代王朝全ての時代において中国の治安状態は日本と比べると限りなく悪かったと言えると思って
います。
でもこの方がグローバルスタンダードなのかも知れないですね。
>古文書なので解読が難しいけど、毎日少しずつでも読んでいます
Toshyさん、これはすごいです^^
頑張って読破してくださいね!!
成果を楽しみにしていますよV_(^O^)_V
ホグニさん、お帰りなさい^^
諸葛孔明とその時代を読んでいただいて有り難うございます。
いいイメージを有り難うございます^^(誉めすぎですよ、笑)
それにしても安部さんも冗談がうまくなったと思いました^^
輔住さん
>北朝対南朝その3
を読みました。
>戦前こんなこと書いたら私はどうなっていたかなー!
うーん、考えてしまいました。
新田義貞は足利尊氏と対比させられてしまいますからどうしても見劣りするのでしょうね。
でも足利尊氏の方の評判が悪かったというのは何とも解せない気がしています。
何と言っても最大の極悪人は後醍醐でしょうね。(これも戦前には言えなかった!!)
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過去ログ 投稿者:きんたろう 投稿日:10月
1日(日)01時24分19秒
を7月分までまとめました。去年の分です^^;;
懐かしい思い出が蘇ってくるようです、笑
そう言えばあの頃頑張って書き込みをされていた沙雪さんはどうされているのでしょうね??
社会人になったのかな??
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宣伝! 投稿者:kituno_i 投稿日:10月 1日(日)00時40分16秒
「崇峻天皇弑逆事件」について更新しました。それから、「kitunoの旅」に写真を追加
しました。法隆寺の写真と有名な入鹿殺害シ−ンなどです!
明日は、橘寺と蘇我入鹿首塚の写真を掲載しようと思っているのですが、「顔」が載って
いるので、躊躇しています。^^;
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ご 投稿者:天地 神 投稿日: 9月30日(土)21時18分14秒
ごっとまーずーーー(゚o゚C=(__;バキッ ごぶっさた〜〜〜m(__)m
ふぃーーーやっとこ、仕事が一段落っす〜〜〜(T^T)ウルウル
でも、月曜までは気がぬけん〜〜〜(自爆)
壁紙 トンボ追加したずら〜〜。。。でも、トンボに見えんかも(笑)
http://user2.allnet.ne.jp/tentijin/
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