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2/20訂正
光圀にとって史記の伯夷伝との出会いは自らの人生を決定させる重要な出来事でした。光圀はこれを読んでかなり感動した事が伺われてきます。光圀の少年時代は後世のイメージとはかなり違っています。活動的と言うよりも非常に我が儘としか言いようがない少年時代を過ごしています。18歳で司馬遷作の史記に接するまでの光圀はいわば不良そのものだったのです。
しかし、史記の伯夷伝を読んだ光圀は心の底から感動してこの日を境にして自ら更生したのでした。この理由については自分が兄を越えて水戸家の世継ぎに選ばれたにもかかわらず無頼のごとき生活をしてきた姿を恥じたものだと考えられています。これは徳川綱條の言葉の中にあります。
しかしそればかりではなかったと思われます。光圀は頼房の第三子として誕生しましたが望まれて生まれてきた子供ではなかったのでした。こうした事実が幼年時代の光圀に満たされない心の飢えやさらには傷を作っていったのではないでしょうか。伯夷・叔斉の故事はそのような光圀の心の傷を癒したのだと思います。
これこそが大日本史を編纂しようとした動機の最初の第一歩だと思われています。
たしかに、日本の歴史を編纂するというような公的とも言える大事業を行うための公式な理由にこのような個人的動機を掲げるべきではないといった意見は当然の事ながらありました。つまり私的感情によって大日本史が編纂されたと書くよりはもっと妥当な理由付けをすべきだとの意見があったのです。
しかし、綱條はあえて大日本史の編纂理由として光圀の「18歳の立志」について書いたのです。それは光圀の遺言であったのかも知れませんが、大日本史編纂の目的である君臣の分を理論付けするためには最も相応しいと思ったからに違いありません。光圀が理論付けしようとしていたのは歴史的記述による封建的な道徳心による名分論でしたからこうした論点に踏み込むには光圀の感情を堂々と掲げる方が効果的だと思われたからかも知れません。