家康は実力で天下人になりましたが(運も実力のうちです)、自分の子孫達にも同じように天下人になることを望みました。これは言い換えれば恒久的な平和の実現ということです。
下克上の時代でしたから個人の「実力」こそが全てでした。
秀吉は信長亡き後の織田家を乗っ取りました。そして家康は秀吉亡き後の豊臣家に取って代わったわけです。
秀吉は信長個人に対して忠誠を誓っていました。織田家ではありませんでした。だからこそ信長亡き後あのように行動できたのだと思います。豊臣家をつぶした家康にとってもそれは同様でした。家康は部下と言うよりは外様でしたからよけい徹底して行動する事が出来たのだと思います。
信長と同盟を結んでからの20年間、家康は信長を裏切ることなく行動してきました。それは信長配下の武将であった秀吉には十分に分かっていた事だと思います。
秀吉は家康の「律儀者ぶり」をかなり高く評価していたようです。そして家康は秀吉の組織に組み入れられた後は信長に対したのと同じように裏切ることはありませんでした。
(小牧長久手の戦いはその前)
秀吉亡き後の家康の行動は歴史の示すとおりですが、これは裏切りでも何でもありません。なぜなら家康は秀吉個人に対して忠誠を誓ったのであって豊臣家に対してではなかったからです。
これは当時の常識であったような気がします。
だからこそ多数の武将達はそれを当然のことと認め秀吉、家康に従ったのではないでしょうか。
信長から秀吉、家康と続いた時「天下は回りもの」というコンセンサスが出来たような気がします。
家康はそれを固定化しようとしました。秀吉の採った方法はあまりに稚拙で容易に崩されてしまいました。この理由としては当時の常識を上回ることが出来なかったからだと思います。
家康はそのための方法の一つとして朱子学を選びました。これは徳川家にとっては非常に都合のいい論法でした。しかし家康自身はともかく能力が未知数の彼の子孫達までトップの地位につくべきだと回りに納得させるには根拠が希薄すぎました。
光圀はその論理的根拠を示すために大日本史を編纂しようと思い立ったのだと思います。その方法論は日本的伝統の血統論であったわけです。
徳川家が代々将軍家を続けるのは当然である、という血統の正当性を示すために新田義貞を評価しようとしました。
それは南朝の正統性という徳川家にとっては実際どうでもいい結論を生み出しましたが、北朝も南朝と同じくアマテラスの子孫であることには変わりなく、自分たちより貴種である天皇家に対してそれ以上の踏み込みは出来なかったのではないかと思います。