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戦国時代は自分以外は全て敵とも言える状況下にありましたが、佐竹氏にとってもそれは同様でした。全国の豪族達は合従連衡を繰り返しながら自らの勢力を維持したり拡大させようと努力をしてきたのです。
佐竹氏にとって奥州の伊達氏、岩城氏、相馬氏、芦名氏や関東の雄北条氏などとの抗争は有名ですがここに忘れてはならない相手がいます。
栃木県北東部にあたる那珂川上流域の那須は温泉郷があり行楽地として名高い所ですがここに那須氏の居城として烏山城がありました。那須氏は藤原氏の傍系でこの地方の名門です。そして那須七党と言われたこの地方の豪族達の盟主的存在でした。ちなみに那須七党とは伊王野、千本、大田原、大関、福原、芦野の豪族達のことです。
上那須山田城の那須政資と烏山城の那須高資は親子関係でありながら、かなり折り合いが悪かったらしく確執が絶えなかったと言われています。そしてついに合戦にまで突入したのです。その時佐竹義篤(17代)は親の方の那須政資より支援の要請を受けました。そして与力として天文8年(1539)小田政治、宇都宮俊綱とともに烏山城の攻撃に参加したのです。これに対して結城政勝や小山高明が息子の那須高資側について戦うことになりました。この戦いにおいては互いに勝敗を決することが出来ませんでした。
永禄6年(1563)になると佐竹義昭(18代)は那須高資の養子(異母弟)資胤と合戦をしています。これは五境五峰山の戦いと呼ばれた大きな戦いです。
さらに永禄9年(1566)には佐竹義重(19代)が那須七党の一人である大関氏の手引きにより那須資胤と千束台で合戦に及びました。
永禄10年(1567)2月には下境大崖山の合戦をしています。さらに8月になると今度は那須資胤によって佐竹領内に攻め込まれています。
このように幾度となく戦った義重は那須七党の強さを認識して調略によって彼らを取り込もうともしていたようです。関係修復の名目で??弟の義尚を那須政胤の養子として送り込もうとしたのです。これには大関高増や大田原綱清が積極的に働きかけたとも言われています。義尚は那須資綱と改名して那須氏の養子として山田城に入りました。しかしこれは佐竹氏の勢力拡大でもありますから資胤としては絶対に阻止すべき事だったのです。資胤は山田城の家臣達をそそのかして内部の反乱を画策し成功を収めました。養子入ることに対して強い反対があったために義尚は太田城に戻る事になります。この謀略戦に対して双方引くことがなく(小競り合い程度の)戦いはほぼ永続的に続けられる事になりました。
元亀2年(1571)に和議の機運がようやく高まってきました。これは当時の周辺の情勢によるものです。佐竹氏は南奥州においては白河・芦名・田村連合軍と断続的なも戦闘状態にありました。また太平洋側では岩城氏が佐竹領多賀郡の侵略を試みていました。南に目を向けると北条氏は関、多賀谷、宇都宮、佐野の各氏を攻撃して制圧寸前の状態でした。これに対して彼らから援軍要請を受けた義重は出兵しています。北条氏に対峙しその勢力の北上を阻止していたのです。
こうした多方面にわたる戦闘は佐竹氏の能力を上回る可能性が非情に高いものだったと言わざるを得ません。このような環境の中で那須氏との講和が真剣に捉えられるようになったのです。
佐竹氏の重臣義斯は情勢を考慮し那須氏との和議を主張しました。こうして義斯は交渉の全権を与えらました。那須領の一部の割譲と資胤の娘を義宣の正室として迎える事で講和がまとまりました。これは義重を十分に満足させる内容だったようです。しかしこれによっても両者間の争いが終結したわけではなかったのです。
義重は天正元年(1573)には再び烏山城を攻撃しています。さらに天正6年(1578)は鬼怒川を挟んで合戦をしています。佐竹氏と那須氏はこのように世代を越えて幾度となく戦火を交えていますが、それらはいずれも決定的な勝敗を決することは出来ませんでした。
那須氏の没落は秀吉によって行われました。小田原攻めに参陣しなかったために改易される事になるのです。しかし秀吉の「名門はその係累を絶やさない」との方針により扶持料5千石を与えられています。義宣にとって資胤は正室の実父ですから義理の父親です。しかし秀吉の実力を十分に知っていた義宣から小田原攻めに参陣すべきだと勧めた記録は存在していません。これは両家が婚姻関係にあってもその間には信頼関係が存在していなかった事の証明になると思います。