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北条氏との攻防


北条氏康は元亀2年(1571年)北関東に進出しました。攻撃目標は下妻城でした。城主多賀谷政経の要請を受けて佐竹義重は出陣し北条氏との戦いが始まりました。この戦いは鬼怒川を挟んで行われ、かなりの激戦になりました。しかし、この戦いにおいては両軍とも勝敗を決する事が出来ませんでした。


知略家としても知られる北条氏康は佐竹氏と正面切っての戦いの不利を悟り長期講和の休戦を提案しました。


佐竹氏サイドから見てもこの休戦案は断る理由がなかったのです。当時佐竹氏は白河義親を攻撃するために出陣中でもありました。強力な敵との戦いは出来れば避けたかったことだと思います。翌年元亀3年正月には長年の宿敵でもある下野国那須へ出兵し那須氏と陣を構えています。そして7月には会津へ出兵し芦名盛氏と交戦をしました。 さらに10月には宇都宮国綱の要請で出兵するといった具合に佐竹氏としては遠方の強国北条氏と事を構えるよりはまず自分の回りの勢力固めをしておきたかったものと思われます。


一方北条氏にとってもこの長期講和の休戦協定により後顧の憂いを一掃することが出来たわけです。さらに毘沙門天の化身といわれた上杉謙信と盟約を結ぶことにも成功しました。こうして北条氏は自らの勢力の拡大、安定のために安房、下総、上総の支配を目指すことが出来たわけです。

全力で対里見戦を展開しその結果里見氏は滅び去りました。また岩槻城主太田三楽斉も同様に攻められました。こうして北条氏による南関東支配はほとんど完成し、織田信長に次いで全国第二位の広大な領地を支配するようになったのです。


天正12年(1584年)北条氏直(5代)は北関東に進攻しました。4万の軍勢だったといわれています。この時は佐野氏、宇都宮氏を攻撃し北関東まで勢力を拡大する意図があったようです。


佐竹氏はその当時南奥州の地において伊達政宗と交戦中でしたが、兵を二手に分けて佐竹義重自らが参戦しました。北関東の武将を総動員し4万の兵力をもって北条氏に立ち向かったのです。この戦場は下野藤岡で渡良瀬川を挟んで行われました。この戦いは沼尻合戦と呼ばれています。


この時の佐竹勢の鉄砲の数は8千挺以上といわれています。天正3年(1575年)に行われた長篠の戦いからわずか9年しか経っていないにも係わらず、地方の戦いにおいてこれほどの鉄砲が集結した事はいかに日本国中で鉄砲の評価が高まっていたかという証明になるのではないかと思います。


この戦いも両軍が対峙したままにらみ合いが続き勝敗を決することが出来ませんでした。互角の勢力だったのでしょう。佐竹側からは東義久、北条氏からは北条氏照が交渉人となり、佐竹、北条両氏の間に無条件講和が成立したのです。


この講和の成立以降北条氏は北関東に攻め入ることはありませんでした。