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2000/3/5訂正
前九年の役の時に源頼義は常陸太田地方を補給基地として選びました。そして約三年ほど滞在しています。これが常陸太田地方と源氏における最初の接点になります。
後三年の役において源義家の弟の新羅三郎義光は子供の義業と共に戦っています。その功により義業は義家から常陸国奥七郡(常陸太田市から日立市付近)を与えられました。この地方はこのようにして藤原氏と源氏の所領が重複したことになります。
しかし、この時点で藤原氏の支配がまだ有効であったのかは疑問視されています。常陸国の北部に属するこの地方の軍事的意味とは東北にある蝦夷勢力に対する砦的なものでした。この意味するところは一貫して変わる事はありませんでした。この重要性が増減するというのは朝廷の対蝦夷政策と密接にリンクしていました。
源氏が東国と接点を持つようになった前九年、後三年の役以降において常陸太田の重要性はより高くなったと言えます。源氏一族の佐竹氏の本拠地として常陸太田は存在してきました。佐竹氏が常陸国の支配を完成した(支配力を強めた)のと同時に常陸太田市よりも全域の統治により便利な水戸に本拠地を移しました。
江戸時代に入っても常陸太田は歴史に名を残しています。徳川光圀は常陸太田の「西山荘」に隠居しているのです。これは歴史的にみて交易場所として発達した場所ですからそのインフラストラクチャーとして街道が各方面に何本も延びている事が最大の理由に挙げられています。つまり「まさかの時」に脱出が容易であるというのが最大の理由とされています。また前支配者の佐竹氏の根拠地でもありましたので、懐柔策的観点からも選ばれていることは間違いありません。