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2000/3/5訂正
石岡には常陸国の国府という歴史があります。何故親王国であり上国でもあった常陸国の国府が石岡におかれたのでしょうか。それにはいくつかの理由があるはずです。
まず第一に石岡が常陸国のほぼ中央に属するという地理的要因が上げられると思います。辺境に位置する場所より中央部の方が何かと便利なのは今も昔も変わらない真理だと思います。さらにここが鹿島からさほど遠くなかった点も考慮に入れるべきではないのかと思います。
鹿島はこの地方の有力な勢力の発生地だったことが考えられます。しかし鹿島の位置する場所は常陸国のはずれにありましたから常陸国全体の統治場所としては適していないと判断されたのではないかと思われます。しかし、当時の情報並びに兵力の移動能力から考えるとすると鹿島からあまり遠方にあっては「まさかの時」に対応しきれないという可能性が生じます。その点から見ても石岡は正に適当な距離にあったからだと思います。
現在の茨城県の中心地である「水戸」が何故選ばれなかったのかを推論してみると、水戸はあまりにも鹿島から見て北過ぎたのだと思います。水戸は那珂川沿いにある町です。那珂川は自然の堤防として北方から来る蝦夷の侵入を防いでいました。(江戸時代は奥州の伊達家に備えて水戸徳川家がありました)
しかし、那珂川に余りにも近すぎたので水戸は敬遠され「もっと安全」な場所である石岡が選ばれたのではないでしょうか。
さらに北側に久慈川がありますが、久慈郡は蝦夷勢力との境界線のようなものだったのです。