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出雲国譲りの真相 特別編
古代日本の形成


縄文時代がかなり進んだ文化をもっていたということから、それに続く弥生時代では複雑な利害関係が生じる社会が形成されていたと思っています。日本列島において弥生期に大きく歴史が進む背景には中華の大乱があったと思います。戦乱を避けてくる者、新天地を探しに来たものが大量に渡来することにより、社会が一気に形成されたのではないでしょうか?
太陽祭祀などの自然崇拝の宗教から、統制のための神格宗教へと変わっていったのも弥生時代の中盤頃であったような気がしています。
つまり、すでに弥生中期には火山や太陽そのものを崇めるのではなくそれぞれを祭祀する集団権力が発生し太陽や火山なども擬人化されていたと思っています。


紀元前200年頃

出雲、北九州などの日本海側に秦末期の大陸から渡来人が多数流入し、地域レベルでの混乱が勃発し、弥生動乱の幕開けとなる。この頃秦を経て入ってきた道教が倭国の祭祀を儀式化させ、これをもとに「クニ・ムラ」といった意識が人民に浸透しはじめる。


紀元前100年頃

北九州と出雲に強力な部族国家が誕生し、それぞれの地域レベルでの統一が進む。吉野ヶ里、荒神谷、加茂岩倉などがこの当時の遺跡であり、北九州をほぼ支配し朝鮮南部にも進出する(任那日本府?)。出雲ではこの頃から畿内や越への進出が始まる。スサノオ・アマテラスの時代?スサノオのすぐあとから大国主の時代がまくを開ける。加茂岩倉や荒神谷の銅鐸、銅剣はこの頃作られる。出雲加茂族(大物主?)の畿内地方への入植が本格化する。(池上曽根遺跡、磯城マキムクの初期集落が発生する)


紀元前50年頃

出雲勢力は近畿、中国、越での基盤を整える。銅鐸を広め列島全土に交易拠点を設ける。日向より南部にのちに狗奴国となる熊襲族による部族国家が芽生える。北九州勢力は南下をはじめる一方瀬戸内航路より出雲勢力のある紀伊半島を避け東海地方にも徐々に進出をはじめる。後漢に北九州からの朝貢。


紀元頃

瀬戸内航路を巡り出雲勢力と九州勢力が争いをはじめる。出雲王族の分派が大和入りし、大和王権が誕生する。饒速日加茂武角身の時代?吉備など瀬戸内をテリトリーとした海人族が陸地にも進出をはじめる(水稲耕作が盛んになる)
九州では、南下政策が進み日向あたりが激戦地区となる。この頃ウガヤフキアエズ誕生?
北九州の勢力に対抗する形で南九州にも王権が成立?


紀元50頃

列島各地で小競り合い程度の戦争が勃発し、九州では混乱が拡大し南部九州の部族のうちいくつかが大和の出雲勢力と和合し瀬戸内航路での交易が活発化する。瀬戸内海を中心とした日本列島内の流通経路拡大が進む。北九州を挟む形となり北九州勢力(奴国?)が王の師升の死により弱体化する。


紀元100年頃

北九州の混乱が激しくなる一方南九州が反撃を開始し、漢の弱体化と共に奴国の弱体化が進みもともとは奴国の支配下であった邪馬台国連合が北九州に勢力を広げる。北九州を追われた奴国の勢力が南部の狗奴国と和合し狗奴国の武力を背景に日向に王権勢力を築く。狗奴国は日向王権を助けることで邪馬台国との直接戦闘を避ける一方、大陸の江南地域と交流をはじめる。日向王権は、狗奴国からの自立を画策し神武が大和入りし出雲王権との婚儀により大和に南九州勢力が入植する。(最初に大和入りしたという意味でハツクニシラススメラミコトとなる)一方出雲王権側からも日向王権に技術政治顧問などが派遣され出雲族も日向へ入植をはじめる。出雲大和と日向の関係は遠交近攻の策で結ばれる。また敵つまり邪馬台国の敵は味方の方程式により狗奴国と日向はより連携を深める。


紀元200年頃

北九州全土が邪馬台国の女王卑弥呼によって統一される。三国時代が始まり道教などの大陸文化が急速に日本列島に伝播する。南九州
の狗奴国が熊本方面(九州の東側)から北上を始める。日向王権は狗奴国の北上に対応し北上をはじめる。卑弥呼は魏の仲介をとりつけ日向王権とは停戦する。しかし狗奴国は停戦に応じず、戦争は膠着状態となり熊本南部も狗奴国に奪われる。


紀元250年頃

卑弥呼が死に、狗奴国は筑紫平野まで北上するが、日向王権と対邪馬台国の作戦でもめ日向対狗奴国の戦争が勃発し、北上をとりやめ日向近辺で激戦がくりひろげられる。結果日向王権(もとの奴国勢力)は狗奴国により完全に滅亡する。邪馬台国も卑弥呼の死により混乱が生じ、魏の滅亡とともに連合は弱体化をはじめる。大和では神武の子孫崇神が実権を握り九州での戦いに積極的に介入することとなり北九州に軍を派遣する。崇神の参入により北九州は大和の支配下となり、邪馬台国は壊滅、邪馬台国を飲み込んだ大和の勢力は仇敵狗奴国をはじめ各地に軍を派遣し倭国統一を進める。大和朝廷の実質開祖は崇神だという所以である。すでに祭祀上の聖地となっていた出雲では平穏な日々が過ぎるが越や但馬に漂着する新しい渡来人との戦が起こり徐々に疲弊が始まる。


紀元300年頃

瀬戸内、九州全土、畿内を支配下においた崇神朝は、出雲から祭祀上の国譲りをうけここに正式な「はつくにしらすすめらみこと」となり大和朝廷は北上戦線と西日本のまつろわぬ民の駆逐を行う>四道将軍の派遣。
もともとの主筋である出雲は大和朝廷から別格の扱いをうけ出雲西部は大和朝廷の直接支配からはずれることとなる。出雲の青銅器祭祀は大和朝廷に奪われ、銅鐸、銅剣などは銅鏡に鋳なおされる。崇神が崇め奉ったという大和の三輪山にまつられる天照国照彦火明命を象徴する銅鏡が大国主を象徴する銅鐸、銅剣に成り代わり祭器となる。