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出雲国譲りの真相 16


黄泉の穴
タカカコの操る小船は吸い込まれるように岸壁の横穴に入っていった。横穴の奥には松明の明かりが作り出す影がゆらゆらとほのめき、人の話し声がしていた。声は老人のようだった。いっしょにいるはずのトシロの声は聞こえないが、老人は独り言ではなく会話をしているようだった。タカヒコはただならぬ雰囲気に気おされ、奥へと進むのを躊躇った。その場で小船を留め奥の様子を伺うことにしてしばし老人(サルタヒコ)の声を聞いていた。


何やら講義をしているようだった。幼き日、父である大国主に何度か教わったことのある兵法を老人はトシロに聞かせているようだ。当時はトシロにはまだ早いということでタカヒコだけが父からの教えを受けていたのだ。老人はトシロの疑問にも答えているようだがトシロの声は小さすぎるのかタカヒコには聞こえなかった。その講義に興味をひかれたタカヒコは穴の奥へ少しだけ小船を近づけ更に間近で老人の講義を聞いた。


タカヒコがやってきてから相当の時間が経ったが老人の講義は父から受けた講義よりも、より実際的でより理解しやすいものだった。タカヒコはふと気がついた。美保での生活がなぜ大国主になるものにとって必要なのかを。


「そうか、ここでの講義を受けるためだったのか!」
と心の中で呟いた。トシロだけが大国主自らの講義をうけなかったのは美保での講義の前に間違った知識に染まらないためだ。兄のタケミナカタもタカヒコが学ぶ前に大国主の講義を受けたに違いない。末子相続が掟の出雲では、下に兄弟姉妹ができるたびに出雲の国とそれに従う国々を統治する手助けとなるための専門知識を学ばされ、父である大国主の手足となって働くのだ。男子は兵法と商法、女子は法家や祭祀の教育を受け婚姻や戦争などの外交、国造りに役立つ知識を得るのである。


タカヒコは、母タギリヒメの事を思い出した。もう少しこの講義を聴きたいと思ったが何時までも母を放っておくわけにもいかず、この場を去ることにした。小船を穴の外に向け漕ぎ出した。すると奥から老人がタカヒコの名を呼んでいるのが聞こえてきた。振り返ると老人はトシロを従えタカヒコの方に向かって手招きしていた。


「やあ、そこを行くはアジスキタカヒコネノミコトではないか!お主の探しておるコトシロヌシノミコトはここにいるぞ!」
とサルタヒコは洞穴中に響く大音声で呼びかけた。タカヒコは声の方を振り返ったが一瞥しただけで穴の外を向いたまま答えた。
「大国主になるものは、美保の禊では縁者たりとて話してはいけないのが掟でこざる。どなたか知らぬが引き合わせていただかなくて結構。無事な様子を確かめられただけでよいのです。トシロのことよろしくお頼みいたします。」
「タカヒコ殿、あなたも大和の大物主の跡を継ぐと聞き及んでおります。あなたもここで国の主たる知識を学びませぬか?」
「いや、結構でこざる。大和の大物主とはいえ出雲の支配下です。大国主の知識をもつことは国を奪うことにもなりかねません。私が大国主の知恵をもつということは将来に禍根を残すことにもなりかねません。してあなたの御名は?」


「トシロ殿は良い兄をもたれた。タカヒコ殿、わしはサルタヒコまたの名を沙汰の大神と申す。スクナヒコナノカミが海の向こうのからもたらした知恵の全てを管理するもの。トシロ殿のことはお任せあれ。今までで一番の大国主に育てて進ぜる所存でこざる。ただしトシロ殿にその器量がないときはこのスクナヒコナの大智も無駄になります。もしトシロ殿に大智をうける器量なきと判断したときはこの大智の結晶を出雲の敵方にわたすやもしれませぬ。それだけはご了承あれ」
「サルタヒコ殿、我が弟をみくびっては困ります。もしあなたが出雲に敵対するものに味方するのであれば、まずこのタカヒコがお相手致します。そのことだけはご了承あれ」


「はっはっはっ、タカヒコ殿はなかなかの器量ですな。あなたが大国主になればよいかもしれませぬな」
「何を無礼な、スクナヒコナノカミの大智を管理するとはいえ、大国主の地位をそなたにうんぬんされる覚えはござらん。私の存在がトシロの邪魔になるのであれば、喜んで常世の国へ渡る覚悟はできておる。無用の焚き付けはご遠慮あれ。」
それだけ言い残すと、タカヒコはトシロを振り向きもせず黄泉の穴から漕ぎ出ていった。その後姿に向かってサルタヒコは声をかけた。
「タカヒコ殿、その意気や良しでござる。トシロ殿は今夜から次の満月までの間この黄泉の穴にて私がお預かり致す。約束の日には立派な大国主の後継ぎにしてご覧に入れよう!」


タカヒコは、小船を出口に向かって漕ぎながら大きく頷いてみせた。出口にでてから穴の方を振り返り、海の上から黄泉の穴に向けて大きな声で叫んだ。
「トシロいやコトシロヌシノミコトよ、我らが父大国主の跡を継ぐのはお主しかおらぬ。スクナヒコナの大智の全てを心して学ぶのだ。今や倭国の秩序は麻のごとく乱れておる。我ら出雲の民がこの島国を守り、秩序を打ち立てねばならぬ。兄はお主に期待しておる。頑張れよ!」


黄泉の穴の中で兄の言葉を聞いたトシロは思わず涙をこぼしてしまった。それを見たサルタヒコは、
「トシロ殿、責任重大でこざるぞ。泣いておる暇などない。さっ講義の続きを致しましょう」
とトシロの背中を押し、黄泉の穴の奥の広間へと戻っていった。トシロにとっては辛い十五日間の始まりであった。


タカヒコが美保の宮についたときには、もう夜が明けかけていた。宮には明かりが灯っている。母はまだ起きているようだ。トシロの無事こそ確認してきたが、母の望みはトシロを連れて戻ってくることである。最初は一目だけ遠目に会わせてやるつもりだったがもうそれは叶わぬ望みとなっていた。落胆するであろう母の顔を見るのは嫌だったが、掟を破りトシロの器量が疑われることにでもなればそれこそタカヒコにとっては悔やんでも悔やみきれない失敗となる。重い気を振るい立たせて宮の鳥居をくぐり宮の中へと入っていった。タカヒコの後音が高床の板を踏み鳴らすと同時に間仕切り仕切り戸の向こうからタギリヒメが声を掛けてきた。


「トシロ?母に会うために戻ってきてくれたのね・・・」
と嗚咽を漏らしながら言いかけた声を遮るようにタカヒコは返答した。
「母上、トシロはここには戻ってきません。大国主になるための最後の試練の場にいます。トシロに会うのは我慢して下さい。」
タギリヒメはタカヒコの返事を聞くと間仕切りの向こうの部屋で泣き崩れた。タカヒコは居たたまれなくなり共の者に後を託してその場を離れた。タカヒコは大好きなやさしく穏やかな海に背を向け出雲の南を守る天然の要害である厳しい顔の山々を見上げた。山の端からはほんのりと赤みがひろがってきた。タカヒコは昇りつつある太陽に「願」をかけた。
「出雲の敵はすべて私に御与え下さい。我が弟、次代の大国主の御世が安寧であることを父なる山々と太陽に願い奉る」


タカヒコが、美保の宮に戻るころにはすっかり朝になっていた。宮の中では供回りのものが杵築へもどる準備をしていた。タギリ姫は夜明け前の動揺がうそのような落ち着いた様子でタカヒコに話かけてきた。
「タカヒコや、迷惑をかけました。母はどうかしていたのです。今しがた意宇から早馬が来て、即刻杵築に立ち戻るよう大国主様の仰せがあったということです。あなたには即刻加茂から兵を集め三輪へ出発するようにとのご命令です。」
「母上、わかっていただければいいのです。トシロにとって今が正念場です。しかし、三輪で何かあったのでしょうか?」
「そうです。三輪の大物主様が病に倒れられたということです。ニギハヤヒというものから早船があったようです。」
「大物主様が!亡くなったのですか??」
「それが詳しいことがわからないのです」
「まず播磨にでて宍粟の郡に行けと大国主様からの早馬のものは申しておりました。」


宍粟の郡には、播磨や但馬南部の押さえとなるアシハノラシコオ(軍隊)が配置されている。大和に行くには近江まで船で行くほうが早いにきまっている。琵琶湖を押し渡り川を下れば河内に出る。播磨に出るというこの道程が指示されたという事は、軍しかも大軍を動かす事になる可能性が高い。タカヒコは身震いした。早暁の祈りが通じたような気がして全身が総毛立ち武者震いのような感覚が起こった。播磨の軍は兄タケミナカタの率いるヤチホコの精鋭には劣るが戦慣れしたつわものの集団だ。但馬、因幡、吉備、四国、摂津と接し、眼前の播磨灘からは大和の玄関口河内潟にも通じている。このため交易を巡っての小戦が絶えず、天之日矛に味方した勢力もいた。表向きは出雲に服従はしているが今一つつかみにくい土地柄でもある。そこの軍を動かすということは出雲周辺での小戦しかしたことないタカヒコにとっては荷が重くも感じられた。しかし躊躇している場合ではない。名を上げるチャンスでもあるのだ。大きな戦功を立ててから大和入りすればタカヒコの立場もよくなるはずである。連れていくように指定された加茂には前の戦でタカヒコの配下で活躍したものたちがいた。気心もしれている。それを救いに迷いを絶ちきったタカヒコは満面に血の気をたぎらせタギリ姫に大きな声で返事をした。


「わかりました。ただちに加茂の民を率い播磨に参ります。母上様の杵築へ無事のお帰りを祈っております。では!」
タカヒコはまるで近くに用事でもするような態度で、馬にまたがり加茂の里をめざし駆けていった。母を振りかえりもせずに・・・・・。