2001/4/30



出雲国譲りの真相27


大物主への道4

ニギハヤヒは、コヤネの持ち帰った竹簡を読んだ。なんとも受け入れがたい内容が含まれていたが、現時点ではこれを飲むしかしょうがなかった。ニギハヤヒはコヤネの自慢げな報告を聞き終わると、一言だけコヤネに尋ねた。
「この竹簡はイワレヒコ殿のご意志か?」
「イワレヒコ殿はもちろん橿原の総意であると、イリヒコ殿が署名なされました。」
「そうか・・・。ヒボコ上がりのあの男か・・・・・・。」
浮かぬ顔をしているニギハヤヒの顔色を伺いつつコヤネが遠慮がちに。
「何か、私の交渉に不手際がございましたのでしょうか??」
「いやいや、そうではない。なかなかの名文を書く男が橿原にいたものだと感心しただけのこと。」
ニギハヤヒは、コヤネに内容を明かさなかった。もしここでコヤネの不備を指摘するこでコヤネの立場を微妙にすることは何もプラスにならないと考えたからである。三輪山の軍勢とコヤネの東国軍の二つがそろわないと、橿原勢に対して全く押さえが効かなくなるからである。東国軍を構成する蝦夷の剛勇を利用しない手はない。


「さようでございますか、確かにあのイリヒコという男は一筋縄では行かぬ雰囲気がござりました」
「いやいやその男を向こうに回しこれだけの成果を引き出すとは、流石は倭国随一と歌われるコヤネ殿の交渉術ですな」
「これで、わが息子の不手際も幾分かは取り戻せましたでしょうか?」
「十分でござる。しかしナガスネヒコとミカヅチは今ごろどうしておるやら」
「私が橿原に赴いている間、何か報告はございませんでしたか?」
「タカヒコ殿、いやタカヒコと播磨の頑固者の軍は、摂津の渡で夜営しているらしい」
「では、決戦は明日になりますな?」
「大和川の下流の砦に、出雲のタカヒコからという伝令が入ったようだ」
「こちらへは、大和川を遡る道筋を通ってくるようですな」
「橿原にだけは任せてはおけまい。コヤネ殿の軍勢も幾らかを葛城の方へ裂いていただきたい。その途上、ウマシマチを橿原へ人質として送っていただきたい。コヤネ殿なら息子のことをお任せできる」
「はっ!確かに承りました」
「さぁ、コヤネ殿も今夜はお休みになられよ、明朝夜明けとともに出発していただきたい」


ニギハヤヒの執務室の灯は落とされた。嵐の前の静けさか、磯城纒向三輪山の政庁一帯はひっそりと静まり返った。しかし暫くして大物主の居室の灯かりが点されたことは、大物主の身辺を世話しているごくわずかの人しか気が付くことはなかった。勿論、ニギハヤヒの預かり知らぬことである・・・・。


タカヒコらは次の早く、大和川の河口で川を溯上するための小船を求め、河口に設けられた砦に立ち寄っていた。もうあたりは薄暮というより、漆黒の緞帳のような闇が太陽の光によって裂かれようとするところであった。タカヒコと伊和大神は溯上の段取りと中継点への連絡などの交渉を、もともとはここの責任者であるナガスネヒコに任せた。前任者のナガスネヒコがタカヒコらを連れてきたので砦の現責任者であるアカガネは右往左往し、慌てながらも烽火や松明、船の準備と護衛の手配、各所に設けられた中継所、烽火台への連絡を行った。


砦とこの地点の主将であるアカガネにとって、武人のナガスネヒコ以外の要人に初めて会うことは初めての経験であった。(もし声をかけてもらったらどうしようか?)などと対面を前にして考えていた。日矛撃退の播磨合戦の主役の一人である伊和大神は彼ら武人にとっては今や伝説の存在であり、とおり名の示すとおり神にも比すべき存在である。そして若き貴人、大国主の息子であるタカヒコなどは雲の上の存在である。


伊和大神は自分の方が立場も年齢も上なのでアカガネの挨拶にもぶっきらぼうに答えた。アカガネも緊張のせいで、前もって暗記していた挨拶の言を述べるので精一杯であった。しかしタカヒコはクマノカムロノミコトに窘められた経験もあって、年上のアカガネに礼を尽くして挨拶を交わした。彼に緊張を解くように言い、儀礼だけでなく河内の港の状態や、瀬戸内の様子、周囲の状態などを逐一質問し、それに答えるアカガネの報告の緻密さを誉めた。さらにはアカガネに「ヤソタケル」という勇ましい名前を与えた。この名前には大和河内に点在する幾つもの部族、集落の総まとめという意味が含まれている。アカガネはタカヒコとの会話にいたく感動を覚えた。この感動が後に、最後の最後まで天孫とよばれる侵略者に反抗し、敵対させた理由の一つでもある。


その様子を見ていたナガスネヒコやタケミカヅチは正直驚いた。彼らもニギハヤヒに大事にされていることは自覚してはいたが、そこにはタカヒコが自分たちや今アカガネらふりまく親密さとか気安さと違い「合理性」が感じられた。あくまでニギハヤヒは彼らの「武力」だけを求めているのだ。その「武力」をニギハヤヒのために用いることのできなくなった今、ニギハヤヒは彼らのことをどう思っているのだろう?そんな疑問も彼らの脳裏によぎったが今はタカヒコの若さと明るさと豪胆で一本気なところに惹かれてもいた。


太陽が中天に達しようかというころ、全ての順備が終わり、タカヒコたちは大和への最後の旅をはじめた。船は5・6人が乗れる小型船。護衛と加茂の民らを含めて全部で五艘。残りは川沿いを歩いていく。船を使うよりは半日ほど余分に時間がかかる距離である。しかし五艘も並ぶのは川を上るには珍しい船団である。途中幾つかの中継点がある。船では越えられないところに設定されており、そこには船を運ぶ人足が待機しているのだった。船旅の終着点は葛城山系の二上山を越えて、竜田川と大和川が分岐する地点である。ここから三輪山までは馬や馬車が配置されている。夕刻までには十分たどり着ける距離であり三輪山とは眼と鼻の先ではあるが途中陸路で橿原のすぐ真北を通らなくてはいけない。


タカヒコとタケミカヅチが加茂の民と同じ船にのり、伊和大神とナガスネヒコが播磨勢と同乗することになった。他の三艘には加茂の民と播磨勢のつわものたちが分乗する。タカヒコは出発直前にヤソタケルに声をかけた。


「背後の守りはまかせたぞ!」
「はっ!お任せください」
とヤソタケルは元気良く答えた。一旦船に乗りかけたタカヒコは、くるっと踵を返し、ヤソタケルの方に近づき懐から取り出した臼玉の首飾りを手渡した。
「これをそなたにやろう」
「??」
「出雲の玉で造ったものだ。」
ヤソタケルはびっくりして一度は辞退したが、タカヒコの勧めを断りきれずで首飾りを恭しく受けとった。
「そんなに、緊張するものではない。実は、これと同じ首飾りをした男女があとからくることになっている。名はホアカリとアカルヒメという。彼らが着いたら良くしてやってくれ」
と、笑いながら続けた。
「私の妹と義弟だからな。よろしく頼む。あっ後シイネツヒコという者も現れるやしれん」
「はっ!わかりましたタカヒコ様」
尚いっそうタカヒコに惚れ込んでしまったヤソタケルは彼らの船が見えなくなるまで見送りを続けた。


船はここのところ続いていた好天にも恵まれ順調に進み、予定の時間の半分程の時間で最後の中継点である二上山の山裾までやってきた。この中継点で炊き出しをうけ昼食をとることになった。二上山に背を向け、休憩所の前に流れる大和川の方に向かった場所に御座を設け、秋晴れの屋外で昼食をとった。そのくつろぎの最中、ナガスネヒコは背後の二上山に異様な雰囲気を感じた。山を見上げると目立った異常は見当たらないが、何やら木が不自然な揺れを起こしている。揺れは少しづつではあるが、すぐ背後にある休憩所に近づいてくるのがわかる。規則的に動いては止まり、しばらくしてはまた移動する。山の動物ではなさそうだ。数人の人間の気配がする。どうやら見張られているようだった。揺れの範囲から囲まれているような感じではない。


「何か、居ます」
と、山の方を指差し、タカヒコと伊和大神に伝えた。川縁にいたミカヅチはその声を聞き振り向いた。無言で「すっく」と立ち上がったミカヅチは携えていた強弓を構え、キリキリと引き絞り、ナガスネヒコの指差す方向に矢を放った。
「ひえーっ!」
と、けたたましい叫び声が山中に響き渡った。矢の行った先からである。どうやら命中したようだ。この距離を射通せるのはタケミカヅチの強弓だけである。ミカヅチはさらに二の矢、三の矢を続けて射ち込んだ。
「やめろ!」
タカヒコの叫ぶ声でミカヅチは矢の連射を止めた。するとタカヒコの傍らに居た加茂の民の一人が短刀を口に加え、二上山の矢が飛んだ場所へと向かって走り出した。その動きはまるで猿のように身軽であった。彼の姿はあっという間に山中へと消えていった。暫くして戻ってきた彼の手には生首と、その死体からはがしたのであろう皮の鎧が携えられていた。


「うーむ」
伊和大神は、検証のためその生首を確かめて絶句した。生首の眼の縁には文でなく黥があった。顔とくに額ではなく眼の周りに黥を施すのは筑紫の習いである。どうしてこんな大和の山中に筑紫の者がいるのか、すぐには理解できなかった。しかし死体の皮鎧は大和造りものである。
「橿原か??」
と、伊和大神はナガスネヒコに問い掛けた。
「このあたりで筑紫の風があるのは、確かに橿原しかありませぬが・・・・」
「橿原がタカヒコ殿に手を出す謂れはない。わなぁ?おぬしらが仕えておったニギハヤヒの手のものならまだしも・・・。」
伊和大神の一言をかき消すようにミカヅチが口を挟んだ。
「お言葉を返すようですが、我々が仕えていたのは大物主様にございます」
と気色ばむミカヅチを押し留めナガスネヒコは答えた。


「もしや、三輪山が彼らの手に落ちたのでは?」
「そうかもしれんな、だからあんな三輪山のすぐ近くに筑紫者を置くなと大物主には言っておいたんだが・・。」
「ちょっと待ってください」
と、タカヒコが口を挟んだ。
「三輪山が落ちるほどの政変が起こったのなら、河内に伝わらぬはずはないでしょう?ヤソタケルの情報収集力はご存知でしょう?」
「ということは??」
「橿原が、大和の代表として我らを迎えにきたか、もしくは・・・」
「もしくは??」
伊和大神はタカヒコを急かすように問いを重ねた。
「ニギハヤヒが橿原を味方に引き入れた?」
「迎えに参ったということはないだろう。こっそり見張ってたようだから・・。」
「ふむ。いずれにせよここから橿原を抜けるまで何があるかわからんということだ!」
と、伊和大神は吐き捨てるように言い放った。
その瞬間、二上山から大きな音が鳴り響いた。
『ベキッ、べきっ』
大木をへし折るような音だ。山に目をやると木々が次から次へと横倒しになっていく。
「くっ!まずい!」
と、山の様子を見ていた加茂のタニグクが叫んだ。
「大岩が落ちてきます!!さぁみんな船に!!!」
どうやら、山上から大岩を落されたようである。ここは狭い川原、直撃は避けられない。岩の勢いによって山の一部の崩れはじめたようだ。あわててその場に居た全員が川へと逃げ込んだ。


岩は、川原につないでいた五艘の船の内、三艘に直撃しそれを道連れに川に転げ落ちた。残りの二艘も岩に押し出される格好で川の中ほどまで流されてしまった。川原は土砂でうまり休憩所の建物は残骸も見えない。川に飛び込んだタカヒコは、船までなんとか泳ぎ着いた。船に上がり、辺りを見回したが伊和大神らの姿が見えない。休憩を取っていた川原の反対側の岸は断崖である。ニ上山からの大岩落しを合図にしたのか、断崖の上からも川に向かって投石が始められた。なんとご丁寧にも一々石を真赤な色になるまで焼いているようだ。石が着水する水しぶきの音に混じり、水の蒸発する「ジュジュー」という音が混じっている。一艘が断崖からの投石で沈んだ。暫くすると、崖の上からの投石は止んだ。この上にはヤソタケルが管理している烽火台があるはずだ。ということはもうこのあたりの烽火台は制圧されてしまっていると見たほうがいい。


船の上から、何人かの加茂の民と播磨のシコオを助け上げたが、伊和大神やナガスネヒコ、タケミカヅチ、タニグクら主要な人物の姿は、川下へと流されてしまったのか見当たらない。引き上げた者たちに操船を任せ、タカヒコは尚も周囲に目を凝らした。少し川上で見覚えのある鹿皮の鎧を着た男が泳いでいるのに気がついた。どうやらタケミカヅチのようだ。向こうも船に気がついたらしく、まっすぐこちらに向かって泳ぎ出し、その姿は見る見るうちに近づいてきた。


「ミカヅチ、大事ないか?」
と、船に縋りついたミカヅチを引き上げながらタカヒコは問い掛けた。
「私は、無事でございます。しこたま大和川の水を馳走してもらいましたが・・・。タカヒコ様はお怪我はなさいませんでしたか?」
「ふっ、軽口がでるようなら安心だな。しかし伊和様とナガスネヒコが見当たらないのだ。それとタニグクもおらぬ。」


タカヒコの船にミカヅチが助けられたのを、断崖の上から覗き込んでいたものがいる。名はヒオミ、橿原の臣(大伴氏の祖とされる)である。彼が率いる久米軍はイワレヒコが筑紫を発ったときから随っているいわば股肱の臣である。
「どうだ?下の様子は???」
と、ヒオミは部下の物見の兵に聞いた。
「は、ヒオミ様のご計画とおり、一艘だけ残して残りの全部を沈没させました。」
「これで、生き残ったものは全部あの船に集まってくる。そこをこの真赤に焼いた大石で留めを指すのだ。」
「了解しました」


タケミカヅチはタカヒコに進言した。
「とにかく、早くここから離脱しましょう。伊和大神様もナガスネヒコ様も山岳戦を得意とそれています。あのお二人のことならご心配はいらないと思います。」
「いや、そうはいかない。ナガスネヒコはともかく、伊和様はかなりの御高齢、これを打ち捨てて私だけ逃れるわけにはいかない」
「いや、しかし・・・」
と二人が問答を繰り返していると船の下からタニグクの声がした。
「タカヒコ様、ここはタケミカヅチ様の言われるとおり、全速で通りぬけられた方がよろしいと思います。伊和様とナガスネヒコ様は私が探します。」


「おう!タニグク無事であったか!!しかしそれはできぬ。よそ者の私が味方を捨てて逃げたとあっては大和を治めることなどできなくなる。しかもあれほど世話になった伊和様を見捨てるなどあっては成らぬ。大物主の座うんぬんよりも父・大国主に申し訳が立たん!!」
と、その時断崖の上のおそらく烽火台のある辺りから喚声が響いた。


「何者だ!我は大和大物主の配下ナガスネヒコなるぞ!」
ヒオミをはじめ烽火台を乗っ取った久米勢は、下の川に居たはずのナガスネヒコがいきなり背後から現れたことに狼狽した。ナガスネヒコは二上山の動きが陽動作戦であることを見ぬき、大石を避けてすぐ烽火台へと上ってきたのだ。もともとこの辺りの守備を任されていただけに地理には詳しい。
「ナガスネか???」
ヒオミは、側にいた者に見に行かせた。その直後。
「うわぁ!!!」
という、叫び声が聞こえた。少しの間、乱闘の喚声、剣と剣が響き合う音が続いたが、やがて烽火台の周辺は静けさに包まれた。
(まさか、我が兵たちが全滅したのか??)
ヒオミの背筋に冷たいものが走った。
(ごくっ)ヒオミは、噂に聞くナガスネヒコの豪勇振りをおもいうかべ緊張のあまりあふれてきたつばを飲み込んで、表とは反対側にある絶壁を見下ろす裏口にそっと近づいた。そこから外を覗いてみたがナガスネらしき人影も久米の兵の息遣いもなかった。しかし表の扉を蹴破る音がした。


(くそっ!)と、舌打ちした後、裏口から踊り出たヒオミは真赤に焼けた大石をせき止めていた石を取り除きはじめた。
「止めろ!」
表の入口から入ってきたナガスネヒコは裏口が開いているのをみつけ一気に裏口に迫ってきた。少なからぬ刀傷をうけたのか片口から出血しているのが一目で見て取れた。ナガスネヒコがヒオミにつかみ飛び掛かったその瞬間、大石は土台から離れ断崖の下、タカヒコたちの船をめがけ落ちて行った・・・・・・。


「くそっ!」
ナガスネヒコは、ヒオミの事を忘れ断崖の端に這いつくばって下の様子をうかがったが水飛沫に阻まれはっきりとは見えなかった。尚も目を凝らして様子をうかがおうとしたその時、
(ぐさっ!)
鈍い音がナガスネヒコの背中から響いた。すぐに温かい感触が彼の上半身から腰の辺りまで流れ落ちろように張り付いた。
「?」
首を後ろにひねり、背後を見るとそこには、剣を持ったヒオミが居た。剣の切っ先はナガスネヒコの背中にもぐり込んでいた。どうやら背中全体に広がった温かさはこいつのせいらしい。どうやら事態が飲み込めた。這いつくばった彼の背中にはヒオミの剣が突き刺さっているのだ。


「ふんっ!」
とばかりに体をよじり、右手に持っていた鉄剣をヒオミにぶつけるように振りまわした。ヒオミがその切っ先を交わすため後ろに飛んだ瞬間、ヒオミの手にしていた剣の切っ先はナガスネヒコの背中から抜けていった。ナガスネヒコの背中はさらに熱くなりしびれてきた。


ヒオミが離れたのを幸いに起き上がったナガスネヒコは剣を構えた。ヒオミはナガスネヒコが立ちあがったと同時にその場から逃げ出した。それを目で追っていたナガスネヒコだったが今度は眩暈が彼を襲った。かなり出血したらしい。あっという間に烽火台の周辺にいた三十人近い久米兵を切り伏せた豪傑ナガスネヒコでさえ、今は剣を杖がわりに地面に突き立て、倒れこむことを防ぐことしかできなかった。


「ナガスネヒコ!大丈夫か!!!」
そこへやってきたのはずぶ濡れになってナガスネヒコの後を追ってきた伊和大神とシコオであった。彼らは川の中でなんとか石の直撃を避け、断崖を登り始めたナガスネヒコを見つけ後を追ってきたのだ。ナガスネヒコならこの辺りの地理と情勢に詳しいからだ。遠くなる意識の中でナガスネヒコは伊和大神の方へと倒れ込んだ。伊和大神は彼を助け起こし、護衛のシコオたちに手当てを命じた。幸いこのあたりの山には薬草が沢山ある。


その頃、真赤に焼けた大石が投下された大和川は悲惨な状態に陥っていた。大石は慌てて落されたため船上直撃こそ避けられたが、焼けた大石は冷たい川の水に触れると急激な温度変化のためか、まるで爆弾のように砕けてしまったのである。その破片が船とその周辺にいた者たちを襲ったのだ。さらにそのショックで大波をうけ船は転覆してしまっている。


一方ナガスネヒコを刺したヒオミは、大和川の惨状を尻目に一目散に対岸の二上山へと向かった。烽火台の兵は全部ナガスネヒコにやられてしまったので、二上山に潜む別働隊と合流するためである。当初の計画では、このまま川へ降りてタカヒコに留めを刺さねばならなかったのだが、手負いとはいえ豪勇ぶりの噂されるタカヒコとタケミカヅチにたった一人で向かっていけるはずもなかったのだ。二上山に配置している別働隊は二十名。タカヒコらに留めを刺すために揃えられた久米の精鋭とは違い、大和、河内あたりの山の民であり、ヤソタケルと同族の者達であった。しかも烽火台の精鋭三十名はナガスネヒコ一人にやられてしまっている。ヒオミはこの作戦が中途半端に終わるかも知れないと思い始めていた。あれほど強いとは計算外だったのだ。ヒオミ自身、老齢に近づいたとはいえ、イワレヒコの筑紫島からの脱出に随行して以来、幾つもの戦いを切り抜けてきた歴戦の「つわもの」である。そういう自負を持っていたが、ナガスネヒコのべらぼうな迫力と強さは経験した事のない世界である。恐らく邪馬台国にも狗奴国にもあれほどの将兵はいないだろう。


「全員を殺すことは無理だ」
山を駆け上がりながら、そう結論を出した。そして次なる行動は、タカヒコのみを殺すことに集中しなくてはいけない。幸い分断は成功した。あとはタカヒコのみを誘い出して殺すか、または射殺すしか手は残されていないのだ。ヒオミはここで死ぬわけにはいけない。橿原へ戻って作戦の結果を報告する義務があるのだ。


やっと別働隊と落ち合う場所までやってきたとき、ヒオミに絶望的な事態が起こった。河内砦の兵と、遅れて付いて来ていたタカヒコたちの陸行部隊が中継所に到着したのだ。河内の兵は烽火台での定期連絡が無かったため様子を見にきたのだった。こうなっては撤退するより仕方がない。別働隊の一部を割いてタカヒコらの見張りと尾行を命じ、自らは葛城の道へと通じる山道を下り、橿原を目指した。


「タカヒコさま!!!」
ミカヅチは何度も、タカヒコの名を叫んで辺りを見まわしていた。ミカヅチに向かって飛んできた石の破片を遮るために自らの身でミカヅチを庇ったタカヒコはその衝撃をもろに受けたため川に流されてしまったのか、ミカヅチの視界から消えうせてしまったのだ。しばらくそのあたりの川べりや、川の中に潜ってまで探したが見つからない。さらにミカヅチは陸行部隊や川下からやってきた河内兵にタカヒコを見なかったか問うたがだれもタカヒコの姿を見ていなかった。烽火台に上がっていた伊和大神やナガスネヒコらも、戻ってきて全員で捜索したが、加茂の民やシコオの死体が数体発見されただけだった。


川原の休憩所いや休憩所の残骸の跡で残ったものたちは車座になっていた。
「この期に及んでタカヒコがいなくなるとは!」
伊和大神が怒りを含んだ口調で嘆いた。
「申し訳ありませぬ。私が盾になればよかった」
涙を溜めながら呟くように言ったミカヅチの言葉を聞いた伊和大神は尚もミカヅチを叱り付けた。
「殊勝なそぶりを見せてはおるが、お主の仕業ではないのか?」
「まっ、まさか!」
傷の痛みに耐えながらナガスネヒコが助け舟を出した。
「伊和大神さま、ミカヅチは単純な男ではありますが、そのような卑怯な手を使うはずはありません」
「解かっておるわ!これは戒めだ。自らの武勇を誇りすぎると油断が生まれる。今回もミカヅチが油断なく動いておれば、タカヒコを見失うことなどなかったろう。」


「・・・・・・」
「タカヒコはきっと生きておる。このような理不尽な戦いで総大将が命を落すなどあってはならぬ事だ。ミカヅチよ、タカヒコが戻ってきたら今まで以上にタカヒコに尽くせ。そうすることによってしかこの油断からの失態は取り返せぬぞ!」
「はい・・・。」
「さて、今からどうしたものか・・・。」
伊和大神は考え込みながら一人言のように呟いた。
「とりあえず、三輪へ行かねばなりますまい。」
半身を起こした状態のナガスネヒコが答えた。
「そうじゃな。わしとナガスネそれとシコオ全員で乗り込むしかないの・・。ミカヅチと加茂の者たちは引き続きタカヒコを探すのだ。」
「問題は橿原の動きです。ここまでの事をやるからには、素通りはできますまい」
「うーむ。。手負いのナガスネでは無理か・・・・。」
「いえ、橿原の弱卒など・・・」
「無理をするな!しかし、ニギハヤヒを相手にせねばならぬ故、三輪の内情に詳しいナガスネを連れて行かねば成るまい。とすると橿原から遠く離れた道を通るか?」
「ここからでは無理です。当然、大和川の出口である葛城の道も抑えられているでしょうから・・・」
「ここからは?というたな??どこからなら橿原、葛城を通らずに三輪に行けるのだ?」


「一旦河内にもどり、枚方から回るのです。あの道筋は湿地が多く船の通られぬ場所も多いので橿原の注意もニギハヤヒの注意も手薄でしょう。大和川を下る分には時間もかかりませぬ」
「しかし、枚方を溯上するのも時間がかかろう」
「・・・・・・・・」
「ふーむ・・・・」
伊和大神たちはまさに八方ふさがりであった。タカヒコが元気でここにいれば隊を二つに分けて戦うことも可能だし、兵力のなさを補う戦術を駆使することだってできたかもしれない。
「伊和大神様、とりあえず私達はタカヒコ様を探しにまいります」
と、タケミカヅチとタニグクら加茂の民は車座が離れていった。


苦悩している伊和大神の目に上流から下ってくる船が見えた。船もこちらに気づいたようで舳先をこちらに向けて近づいてきた。船の男はナガスネヒコを見つけるや大声で呼びかけた。
「おおい、ナガスネ!!!」
上流から下ってきた船に乗っていたのは、オトシキという磯城の男とその部下だった。彼らは、先代の大物主つまり加茂武角身が率いてきた出雲族の氏族の一つである。彼らは、三輪山周辺の平和を守るためひとつの役目が与えられていた。


その役目とは『異族の監視』である。橿原やニギハヤヒらだけでなく、大和盆地に新たに入植してきた氏族や部族を監視し、その動きを逐一大物主に直接伝えるののだ。役目を全うするために租税の免除をうけている。しかし、表向きは田畑が耕せる土地をあたえられていない『蛮族』『蝦夷』と認識されていた。江戸幕府風にいえば「隠密」といったところだ。その素性をしっているのは大物主とごくわずかの出雲系入植者だけである。もちろん加茂武角身と姻戚を結んだナガスネヒコの一族もそのうちである。オトシキたちは橿原の動きを察知し、大物主に伝えたのだ。大物主は文字通り「助け舟」を寄越したのだった。


大物主はニギハヤヒとコヤネの策謀が終わった直後に、同じ三輪山の宮の中でオトシキの兄、エシキからの橿原の動きについて報告を受けていた。この時点ではまさか自らの右腕であるニギハヤヒが今回の策謀の黒幕だとまでは気がついてはいなかったが、エシキに大物主の使いで河内に行くという名目を与えたのだ。そしてなにかあれば、タカヒコ一行を無事に連れ帰れと命令を与えたのである。


大和川の出口を抑える橿原勢、そしてニギハヤヒも現大物主の命に表立って逆らうことは難しかった。大物主の座を禅譲によって手にいれる事を目的にしている以上、大物主本人と揉めるのも避けたかった。タカヒコらの絶命はあくまで事故を装わなくてはいけないのだ。それに橿原の検問はオトシキ一人が乗った船を行かせても問題はあるまいと簡単に通してしまったのだ。オトシキの船は底が二重になって人が2・3人寝転べるくらいの船倉がある。この船倉に隠れて三輪山まで一気にしのび込むのである。


「とりあえず、三輪山へはたどり着けるようだな」
伊和大神が力なく笑った。なにしろこれから寝転んだ状態のまま船倉に閉じ込められるわけである。恐らく張り付いているであろう橿原の見張りを振りきるためにわざと川下の中継所まで逆戻りして乗り換えることになった、オトシキの船だけがまず出発した。伊和大神とナガスネヒコは暫くして河内兵の船に乗り込んで後を追った。隠れて見ているであろう橿原の者たちにはあきらめて河内に戻ったように見えたことだろう・・・・。