2001/5/28



出雲国譲りの真相29


大物主への道6

ニギハヤヒは多忙である。タカヒコが播磨を出たという報告をうけて以来丸2日間は、ほとんど一睡もせず日常の政務をこなし、その上にタカヒコに対する策を次々考え実行してきた。老齢の大物主の病状は、タカヒコを迎えるという精神的な張りもあってか、安定している。大物主が永遠の眠りにつくための寿陵の建設について当麻の石作りの者と行った打ち合わせが終わったあと、彼は軽い眠りについていた。しかしその暫しの休息も、引き返してきた当麻の者からの報告によって打ち破られた。


当麻の者の言う『出雲人らしき人物』、これだけでタカヒコないしはその供回りであることは容易に理解ができた。しかし橿原やコヤネの東国軍が網を張っていた全く逆の地点に現れたのは彼にとって意外であった。


タカヒコがトミビコらと合流したであろうことはニギハヤヒには読めた。タカヒコが南回りで三輪山へと近づいてという事実は、ニギハヤヒには、狼狽を与えた。タカヒコとタケミカヅチの行動は全く掴めていなかった。そこへ、この報告である。
(もしや全軍が鳥見山あたりに集結しているのか??)
もしそうだとしたら完全に裏をかかれたといことになる。
(まさか???この秘密は大物主様にさえ漏れてないはず・・・・)


ニギハヤヒが橿原から入手した情報では、伊和大神とナガスネヒコは河内へ引き返したことになっていた。ニギハヤヒは直ちにウカシ兄弟を呼び出し、三輪山の東端(後の出雲郷)へと向かわせた。西南に関しては、橿原が大軍を各所に配置して守備している。河内からの再侵攻を警戒しているのだ。三輪山の兵を直接動かせば、大物主に察知される。病身とはいえ、邪魔立てされる可能性は高い。ニギハヤヒが自由に動かせるのはウカシ兄弟と、尾張・常陸に向かうはずだった自らの眷属、物部だけである。しかもその殆どは、ウマシマチと共に橿原軍に預けている。橿原のような半独立勢力でない彼には直属の軍は持てないのだ。しかし手を拱いているわけにはいかない。彼は、大物主の居室へと向かい、三輪山の守備の一部を動かす許可を得ようとしていた。この軍を自ら率い鳥見山に差し向けてタカヒコを葬ろうとしているのだ。これがうまく行けば、橿原に奪われた主導権を取り戻すこともできる。


「大物主様、さきほどウカシ兄弟より、穴師の里に異変がありとの報告がありました。つきましたては軍の派遣をお許しください。」
ニギハヤヒは、大物主の前に平伏して、いつも通りの異変鎮圧だということを大物主へ伝えた。兵の派遣先を鳥見山でなく穴師だと報告したのは、穴師が、大和の始祖とされる武角身の魂が宿る大物主にとっても大事な場所の一つだからだ。


大物主はタカヒコの到着を待つため、いつもの床の上でなく今日は正装を身につけ、椅子に腰掛けてニギハヤヒの話を聞いていた。
「異変?三輪の間近の穴師でか???」
「はっ!詳しいことは、まだ解かりませんが、播磨で日矛が暴れたようですので、その一派かと・・・・・・。」
「ふむ。穴師のことはいつものようにお主にまかせる。」
「ははっ!では直ちに」
と、臨戦態勢の準備のために立ち去ろうとするニギハヤヒを大物主は引きとめた。
「待て待て、出雲のタカヒコはまだ到着せぬのか?今朝の報告では昨夜のうちに摂津まできておるというたではないか」
「私も、今か今かとお待ちしておるのですがまだ連絡がございません。もしや事故にでも遭われたのかもしれないと思いまして、橿原の者に大和川の捜索を命じてございます。まもなく何らかの報告があるやもしれません。もう暫くお待ち下され。」
「ニギハヤヒよ、穴師の警戒よりも、タカヒコの安全を優先するのだ。あれに万一のことでもあれば、出雲の大国主様、大和の開祖加茂武角身様、そして亡き我が父大歳に申し訳が立たん。」
「ははっ!このニギハヤヒ、肝に銘じまする」
「よろしく、頼むぞ。ニギハヤヒよ」
「お任せくだされ」


ニギハヤヒは老齢の大物主の姿を痛々しく感じていた。「自分がこの大和の国を導かなくてはならない」という思いを一層強く感じていた。陰謀好きの彼ではあったが、彼は彼なりに、まだ国としては幼い大和の国の繁栄を願う気は誰よりも強くもっているのであった。そして彼が大陸からもってきた治世の法則は倭国にも通じるという強い信念も持っていた。


「さあ、皆の者出発だ。敵は鳥見山方面にひそんでいるらしい。急ぐぞ!」
と馬にまたがったニギハヤヒは、五十人程集まった兵たちに号令をかけた。
実働部隊の責任者の一人が意外な顔でニギハヤヒに尋ねた。
「え?騒乱の現場は穴師だと聞いてましたが?」
「いや、先ほど穴師から連絡があって、異族のものたちは鳥見山方面へと退いたらしい」
「鳥見山ならトミビコ様がいらっしゃいましょう。何も宰相様自ら出向かれずとも・・・」
「いや、今度の敵は私でないと鎮圧できぬのだ」
と、ニギハヤヒは短く、そして自らに言い聞かせるかの如く、強く言い切った。


ニギハヤヒの率いた軍が鳥見山へ出発した後、大物主の居室には磯城兄弟の兄のエシキがやってきた。エシキは弟のオトシキをタカヒコの向かえに送り、自らは木津川へと行っていた。いずれも大物主からの密命を受けての行動である。


「大物主様、残念な事がわかりました」
「木津川の方で手違いでも起こったのか?」
「いえ、木津川の方の手配はうまくいきました」
「すると・・・?。・・タカヒコの身に何かあったのか??」
「はい、橿原の軍勢に大和入りを阻まれているようです。」
「橿原?」
「はい、どうも宰相様が後ろで糸を引いている様子にございます」
「ニギハヤヒが!?」
「そのようです。昨夜、アメノコヤネを居室に引き入れ、何やら画策をしておったようです」
「まさか・・・。あの忠義者のニギハヤヒに限ってそんな馬鹿なことは・・・・・。」
「私の配下の者がコヤネの動きを張っておったのです。昨夜は深夜に橿原と三輪山を往復するなど不審な動きをしておりましたので、」
「イワレヒコとニギハヤヒはずっと対立しておったのだぞ?」
「橿原は当初の予定とおりイリヒコに全権を移したようです。イリヒコとニギハヤヒはどちらも渡来人。朝議でもこの二人は対立はしておりませぬ。イワレヒコが引退し橿原の方針が転換されたのやもしれません」
「何が、不満なのだ。ニギハヤヒは、ここまで取り立ててやったのに。」


「私見を、申すならば、タカヒコ様への恐れでしょう」
「??ニギハヤヒにはタカヒコの後ろ盾となってもらうためにここまでの地位を渡来人であるニギハヤに与えたのだぞ?」
「病床におられた大物主様は、ご存知無かったかも知れませぬが、最近の宰相様はこの大和の国を出雲から、いや倭の古いしきたりから真剣に独立させようとしておるかのようです。唐古や穴師の鋳造所では今までの銅鐸の鋳造を禁止させ、昔、筑紫の初代火神子様より頂いた神仙世界が描かれた銅鏡の複製品を大量に作らせております。」
「銅鏡?そんなもの何に使うのだ?」
「銅鏡を大物主様、ひいては『日の神の依り代』つまりは*1『日向(ひむか)』とみて祭祀せよとの仰せです」
「この私を『日向』と同一に考えよ、とか?」
「そうです。私も、今日の今日、宰相様の動きを察するまで気が付きませんでしたが、銅鏡を大物主様、ひいては日の神の依り代として祭祀するということは、大物主さま亡き後は日の神を崇めよということに繋がるのではないかと・・・・」
「つまり、タカヒコを崇めるなといことか?」
「そうではないかと・・・・・」
「ふーむ・・・」
「そろそろ、先代の大物主さまが銅鐸を使って作られた暦も六十年が経ちます。誤差が大きくなって日の神への祭祀も狂いが生じるはずなのです。」
「うむ。だから新しい銅鐸を作らせておったのに・・・・」
「それをきっかけに、祭祀を乗っ取ろうというつもりか?」
「はっきりとはわかりませんが、、、おそらくは・・・・・。宰相様なら中華の天文にも通じておられるでしょうから、代わりの暦を作ることは容易いと思います。しかも鏡の光というやつは、日の光にも、また蛇神の眼の光にも似ておりまする」


ニギハヤヒは、金色に眩く光る『鏡』という当時はまだ目新しかった祭器を使って、倭の人々の心を捉え、なびかせようとしていた。筑紫の火神子は『鏡』を死者の魂のよりどころとてして利用した。たとえば、「まつりごと」にたいして迷いが生じたとき、神仙世界にいる父母の霊魂を鏡に呼び出し、問い掛けるのだ。そうして憑依状態になり「まつりごと」についての決済をする。この段階では『銅鐸』と似た使用法であった。


この利用法は火神子から筑紫の邪馬台国配下や使役の通じる西日本各地の主たる王に鏡が贈られたことで、早くから知られていた。しかしニギハヤヒは鏡を神仙世界との通信に使うのではなく鏡の中に神仙世界ごと個人霊を鏡に留めようとしている。そのためにも三角縁神獣鏡でなくてはならないのだ。しかし霊魂が留まる鏡は、個人のものでもある。だから呪術具だけでなく副葬品として利用された。この概念は『墓』と『仏壇』に通じるものだ。持ち主またはその家族以外が鏡を利用することは避けられたのである。


しかしニギハヤヒは『鏡』を万能の祭器『銅鐸』の変りとして新しい倭国を作り上げようとしたのだ。人の魂は海に飛んでいく。知識層である支配者たちにもそう信じられていた時代、霊魂の依り代としての『鏡』の登場は鮮烈であった。何しろ偉大の王の魂を留め置くことができるのだ。こうなれば、王の子孫がもし居なくなっても前王の魂を呼び出せるものが権力を握ることができる。幸いニギハヤヒは配下にコヤネという憑依術のエキスパートや、物部という道教の呪術者も抱えている。


つまりは王権の簒奪をしやすい背景をつくり上げようとしたのだ。そのため三輪山に集められた銅鐸の材料である鉱石や金属を全て鏡に変えようとしたのだ。そして火神子の鏡を模倣して作られた倭国製の三角縁神獣鏡は、すでにニギハヤヒによって各地の豪族、実力者たちに多数贈られていた。特に、ずっとニギハヤヒの政敵であった橿原を取り囲む地域、大物主王権に距離を置きつづける木津川上流の山城方面に重点的に贈られていた。もちろん受け取った相手の中には「宝物」としてしか理解していなかった者も多数いたであろう。


『銅鐸』を依り代として呼び出す神は精霊や祖先霊の集合体ではあっても明確な意思を持った個人霊ではない。神の声がどう聞こえるかは鳴らしてみないと解からないのだ。『銅鐸』を鳴らしすことによって決められた決定事項は王といえども庶民と同じように従わなくてはならない。だから出雲大国主、大和大物主は利用が終わった銅鐸を地中に封印せねばならなかったのだ。王の権力を揺るがすほどの神器は通常の「まつりごと」には不要なのだ。鏡の祭祀とは銅鐸の祭祀に比べると為政者にとって都合の良い祭祀でもあるのだ。呼び出す相手がはっきりしているのだから・・・・。


一方、銅鐸の方も鏡の登場で微妙にその扱いが変ってきた。『鳴る』ということが王権にとってマイナスになる場合があるのなら、『最初から鳴らないように作る』という意識が見られるようになったのだ。鏡祭祀の広がりの副作用でもある。『鳴らない銅鐸』には鏡に似た『幾何学的な美しさ』がより強く求められるようになったのだ。この*2『美しくかつ鳴らない銅鐸』を作り出す技術と『三角縁神獣鏡』を複製する技術は競うように進歩していった。どちらかが無ければこれほど倭国内で青銅製品生産技術が進歩することはなかったといえるだろう。


大物主とエシキが会話している所へオトシキが伊和大神とナガスネヒコを連れて戻ってきた。オトシキらは、実はずいぶん前に近くまでやってきていたのだが、どうやって大物主と二人を会わせようかと悩んでいた。ナガスネヒコは船倉に隠れたまま、鳥見山に報せを送っていたのだ。船着場に括られた船の船倉で待たされるのもそろそろ限界に近づいてきた時、ちょうど良い具合にニギハヤヒが兵を連れて出て行った。それを幸いにオトシキは堂々と二人を宮へと導いたのである。


大物主と伊和大神は旧知の仲である。もちろんナガスネヒコと大物主は面識が十分にあった。再会の挨拶もそこそこに、ニギハヤヒと橿原対策について語り合った。ナガスネヒコはタケヒに刺された傷のせいでいつもの元気がないが伊和大神は窮屈な船倉から抜け出した開放感もあり、機嫌良く大物主との再会を喜んだ。伊和大神からみれば大物主は遥か年上ではあるが、伊和大神は屈託なく対応している。つまり彼は年上、年下に関わらず誰に対しても遠慮がないのである。それが彼のいいところでもあり、悪いところでもある。しかし事態が逼迫してきた今となっては大物主も彼の無礼を咎める気さえなくなっていた。兵は連れていないにしても、歴戦のつわものである伊和大神にへそを曲げられることは得策ではない。


「しかし、不本意ではあるが*3木津川の手配が思ったよりも役に立ちそうな展開になってしまったわ」
と、大物主は嘆いた。
「木津川???そのような場所に何か?」
伊和大神は、大物主の突然の嘆きを問いただした。
「あちらから今回の禅譲の後見役になっていいだくお客様が来られます。」
と、エシキが大物主に代わって答えた。
「客とは?」
「伊和殿よ、お主がここまで来るんなら奴は呼ばなくてよかったと思っていたんだが、こんなことなったお陰で正解になってしまったわ!」
と大物主は伊和大神に笑いながら語った。伊和大神とナガスネヒコは訳がわからずぽかんとしていた。


その頃、橿原にも「タカヒコ飛鳥山中に現る」の報は伝えられていた。これが事実なら、イワレの村から鳥見山を抜けるコースを取ったことはイリヒコたちにも当然わかる。この報告を受け橿原勢は大和川の上流に急ごしらえで作った陣地の中で、今後の方策を練っていた。


「いつの間に!!通りぬけたのだ」
イワレヒコは、がっかりしたかのように叫んだ。
「二上山から葛城を回ったのでしょうね。あちら方面にも探索をかけたはずなのに」
「まんまと食わされたようだ」
と、イワレヒコはタケヒを睨みつけた。
「そもそも、お主が手柄をあせるゆえ取り逃がすことになったのだ!!しかも河内に撤退したという報告は何だ!これでニギハヤヒに借りができてしまったではないか!いつまでもここで千人近い大軍を遊ばせておる我らは馬鹿丸だしではないか!!!」
「も、もうしわけございません」
と、タケヒは地面に額をこすりつけながら不首尾を詫びた。


「義父上、私と兵の半分をニギハヤヒの下にいかせてください。こうなってしまってはタカヒコを大物主にするのは、不都合がありすぎます」
「半分だと?全軍で向かわねばどうする!」
「いえいえ、タケヒがまんまと食わされたように、河内勢はタカヒコと結んでおります。ということは、彼奴らがいつ大和川を遡ってくるやわかりません。全軍を三輪山に向けた後に攻めあがってこられれば、ニギハヤヒも我々も三輪山の正面で挟み撃ちになってしまうやもしれません。今後の展開を考えてもここは死守せねばなりません。」
「解かった。イリヒコよ、しかしここの守りは50名ほどで十分だ。急ごしらえとはいえ、準備は万端整っておるしの。河内の土豪など、船で50人も来れば多いほうであろう。ワシが蹴散らしてやるわ!」
「これは、心強い!しかし50では心もとない。義兄上様方とタケヒと100の兵をここに残しまする。こちらは砦の準備もしていますので、もし50を超える兵がきても守りきれるはずです。義父上、よろしくお頼みもうします」


イリヒコはイワレヒコに一礼をし、慌てて陣屋の外へと飛び出した。イリヒコが軍勢に指示をする声が辺りにこだました。現時点で最大の500名の兵力を持つ橿原軍はこれで二つに分散された。といってもイリヒコが率いる軍は鳥見山のタカヒコ軍とニギハヤヒ軍の十倍の兵力はある。三輪山周辺の最大動員数と比べても兵数の点で遜色はない。もちろん、今が農繁期でなかったら、三輪山の兵数の方が幾らか上回ってはいるが戦闘状態に入っていない三輪山にはそれほどの兵が動員できないことは当然解かっている。つまりは現時点での大和盆地の最大兵力である400の軍勢はイリヒコに率いられ、鳥見山へと慌てて出発したのである。


一方タカヒコたちは、すでに穴師山の中腹に布陣していた。しかし布陣とはいってもその数はせいぜい10人ほどである。しかもカヤナルミという非戦闘員までいれての数である。トミビコたちは別働隊として鳥見山から三輪山へと移動の最中である。こちらも20名ほどしかいない。できることならタカヒコに指定された地点までニギハヤヒに気づかれずにたどり着ければという程度である。タカヒコの命じた明朝の日の出までに・・・・・。


穴師山は、武角身がはじめて磯城纒向の地を睥睨した場所だと伝えられている。当時は、大和川の水路など整備されてはいなかったので、出雲から山陰海岸を航行し、琵琶湖を押しわたって大和の地に到達したのだ。そして神山三輪山の姿をこの山から拝み、ここに都することに決めたのだ。タカヒコも、その神山の姿と磯城の風景をしっかり目に焼き付けておきたかったのだ。そして武角身の足跡をたどることは、大和の王である大物主に近づける道だとタカヒコは信じていた。タカヒコは日の出とともに行動を起こそうとしている。それまでは少数で隠れて、少しでも休息を取った方がいいのだ。


さて、タカヒコを探して二上山から葛城山中を徘徊していたミカヅチとタニグクの二人は、ついにタカヒコの残した「×」印をみつけ、どうやら巨勢のあたりから下山したことを突き止めた。しかし辺りは真っ暗である。二人は松明を使いなんとかタカヒコの辿ったルートを伝い、下山はできたものもここから先は目印らしきものはない。しかし、遠く北の方角、ちょうど大和川の出口のあたりの方角から三輪山の方へ松明の行列らしきものが移動しているのを見つけることができた。


「ミカヅチ様、あれを!」
「うん、松明の行列のようだな?」
「はい、大和川の橿原勢が三輪山へと移動しているのかもしれません。」
「ということは、タカヒコ様が三輪山に着かれたのかもしれんな」
「我々も急ぎましょう。あの大軍だとほぼ全員が移動しているようです。」
「ふむ、こうなったら、我らも橿原の真中を突っ切って三輪山へ急ごうか?その方が断然早い。」
「何もそんな危険な道を」
「危険なものか、軍の移動には混乱がつき物だ。その間隙をつくのだ」
「なるほど」
「もし見つかったとしても、私が切り伏せてくれる」
と、ミカヅチはタカヒコの無事が予測できた喜びも手伝って笑いながら言った。


「敵になればミカヅチ様ほど恐ろしい者は居ませんが、味方になればこれほど頼もしい方もほかには居りませぬな」
二人が、橿原の方角に向かって走り出そうとしたとき、前方をゆっくりと移動している橿原の見回りらしき二騎をみつけた。にやりと笑ったミカヅチは背中に携えていた弓矢を構え、ギリっと弓を引き絞ったかと思うと、あっという間に馬上の二人を射抜いてしまった。相変わらずの強弓である。ミカヅチが弓を構えたと同時に走り出したタニグクは、こちらもあっというまに主の居なくなった馬を捕らえた。まんまと馬を手に入れた二人は馬上の人となって、闇夜の道を三輪山へ向かって一目散に走り出した。



*1「日向」(ヒムカ)
九州にある地名「ひゅうが」でなく、「日を迎える場所」つまり「日の出を確認できる場所」でもあり神山の頂上の意味もある。この場合は「日の神の代理」、または太陽神に奉仕する人、場所の意味。

*2『美しくかつ鳴らない銅鐸』
出土品としては三遠式銅鐸が有名。一般的には「見る銅鐸」とされているが用途は不明。

*3木津川
京都の南部(都から見ると朱雀の方角)にあって古代水運の要の一つとされる巨椋池(昭和16年に完全に干拓されて今は地名が残るのみ)に流れ込む川、京都と南都(奈良)とを結ぶ水運としても利用された。泉川ともいう。水源にある地名は瓶原(みかのはら)。巨椋池と琵琶湖は瀬田川、宇治川で結ばれている。また賀茂川とも連携して、その上流には山城賀茂がある。話はそれるが、巨椋池に大きな工事を施したのは、秀吉、明治政府、そして太平洋戦争に突入した昭和の帝政。この池を触ることによって「日本」という幻想は中華という幻想を追い求めながら中華の幻想から遠ざかってしまている。巨椋池を巡る因縁を感じませんか?