2004/02/11



出雲国譲りの真相36

大和の王3

イワレヒコら一行は、ヤタの案内によって山地を巡り、やっとの思いで吉野の山中に到達した。ヤタの案内はここまでである。ここから先は吉野の豪族イヒカが受け持つ。ヤタはここから大和に舞い戻り、イリヒコらが再起して再び大和に攻め入る日のために大和の内部で工作するために残るのである。イヒカはタカクラジが熊野に入ったときにも案内にたった人物で、ニギハヤヒよりの立場にたっていた。イヒカの案内で吉野から後の大台ケ原を越えて熊野灘に出る予定だったが、合流してきたイヒカによるとどうも熊野の様子がおかしいらしい。イリヒコらの受け入れに反対する意見が大半をしめ、筑紫への船も出してもらえないかもしれないらしいのだ。かといって、この山中に潜んでいてもどうにもならないし、大和に戻るなんてもってのほかだ。コヤネとミカヅチ親子らの東国兵は、吉野山を東から降り、伊勢、尾張を目指す。クモオシが常陸から尾張まで出てきているので、これと合流するつもりである。50名の東国兵が分かれた。この他、脱落したものや、逃亡したものが減っているのでイリヒコらの軍勢は100名程度まで減っている。


どうしたものかと迷いながら、一行が吉野の山中を歩いていると一頭の大鹿がこちらを見ている。誰かが、あれを獲って食料にしようと言い出した。保存食料は今後のためにもすぐには使いたくないからだ。イヒカは途中で道を離れることを懸念し反対したが、熊野の態度がおかしいという情報はイリヒコたちの熊野に行こうとする意思を弱めた。全員で大鹿を追うことにしたのである。大鹿はまるで一行の追跡を楽しんでいるかのようにゆっくりと移動する。誰かが弓を構えると、速度を上げて一行の前から姿を消すが、しばらくするとまた姿をあらわすのである。気がつけば小1時間鹿の追跡をしてしまっている。イヒカが終に口を開いた。


「もう、これくらいにしましょう。あの鹿を捕らえるのは無理でしょう。」
憑かれたように鹿を追っていたイリヒコは、その言葉で我を取り戻した。イリヒコは大和の大王の座に手を掛けながらも詰めを誤った自分の行為に対する後悔にとりつかれていたのだ。そこに居るのに捕まえられない大鹿は彼にとっては大和の王座そのものであったのだ。


「そうだな。」
と、イリヒコは短く答え後ろを振り返った。高齢の族長イワレヒコは兵に背負われて寝込んでいる。吉野山からかなり西の方角に下って来てしまった。さて、これからどうするか?正直、朝早くから歩き通しであったイリヒコは再び吉野山に入るのにはためらいがあった。しばらく考え込んでいると川の水音が下のほうから聞こえて来た。


「よし、川があるようだ。そこで休憩をとろう。」
と、イリヒコは疲れた一行に声をかけた。イヒカによるとこの川は荒川というらしい。ここからほぼ真っ直ぐ西の方向に流れていて、河口は河内の南に向かって開けている。石だらけの川原に辿り付いた一行は思い思いの場所に座り込み休息をとった。保存食を開けて食べる者、川の水で咽喉を潤す者、様々である。イリヒコも干し肉を頬張った。すると、川下から人の声がする。女の声らしい。声は少しづつイリヒコたちのいる川原につかづいてきているようだ。


「誰か!誰か居られませんか!!」
どうやら、女が助けを求めているらしい。兵に調べに行かせると、兵は女を連れてもどってきた。女は山中に軍勢がいることに相当驚いた。女によると、この川を少し下ったところで、女の主人が足を挫いて往生しているらしい。イリヒコらはその主人とやらを助けることにした。女の案内で全軍で川下に向かう。イリヒコに並んで歩きながら女は喜びと戸惑いを隠さないまま、おずおずとイリヒコに問うた。


「あのう?オオヤビコ様の兵でしょうか?どうしてこんなところに?」
オオヤビコとは、紀の国熊野の王の名である。ちょうどこの川が、オオヤビコの支配領域と、この女が所属する集団の境らしい。


「いや、違う。」
「はぁ。では河内のアカガネ様の?」
「違う。」
女にとってはそれが世界の全てなのか、次ぎの問はなかなか浮かんでこない。しかしもう一つだけ女にもこころあたりがあった。女の表情が明るくなった。


「もしかして大物主様の?」
大物主というのは、女にとって、そしてこのあたり一帯の民にとってもアカガネやオオヤビコより上位に位置する最大の王なのであろう。憧憬の表情が読み取れた。まさかその大物主と戦って逃げてきたとは言えなかった。


「大和から来た。」
と、だけイリヒコは答えた。女は勝手に自分の問が肯定されたと思い、はしゃいだ。数分川下に降ったところに付き添いの女数人と主人がいた。驚いたことに主人と女が呼んだのはどう見ても10代の女というより少女である。つまりこの連中は女子供だけでこの川を上ってきたことになる。ということは、この女達の家はすぐ近くだということだろう。


「ヒメさま、こちらのの方々がお助け下さるそうです。」
「それは、ありがとうございます。川下の私どもの荒川の村から薬草を摘みに参ったのですが、薬草を摘んだ本人が怪我をしてしまい往生しておりました。」
と、ヒメと呼ばれた少女はイリヒコに向かって挨拶した。といってもまだ子供である。一般の仰仰しい名乗り合うような挨拶ではなく、ごく軽い感じに会釈しただけだ。気恥ずかしいのか頬を赤く染めている。イリヒコは兵たちに木々を集めさせ簡易の輿を作らせ、それでヒメを運ぶように指示した。そうこうしているうちに日が傾きだした。女たちの申し出により、イリヒコ一行は荒川村で宿を得ることにした。


道々聞くところによると荒川村という近年開かれた女系氏族の村らしい。つまり族長は女だ。ヒメと呼ばれるこの少女は時代の族長になるらしい。夕闇が迫るころ一行は荒川村に到着した。女系氏族といっても男がいないわけではない。荒川村はこんもりとした小山の前に住居域を冊で囲った平野部にありがちな村だった。ここは数10年前に今の族長が開いた新しい村らしいが冊のまわりには、水田が広がっている。


一行は族長の館に連なる祭祀のために作られた建物に通された。建物といっても出雲や大和や筑紫の貴族達がくらすような高床式の建物ではない。所謂竪穴式住居の形式であるが、とにかく広い。中央の柱は見たことも無いくらいに太く、それを中心に放射状に柱が建てられ、その上にテントのように萱の屋根が覆い被さっている。百人ほどの兵が全員入れるくらいの広さである。そこで思い思いの場所に座り込み待っているとやがて、族長らしき老女と先ほどのヒメが輿にのって現れた。担いでいるのは武装した屈強な男達である。中央の柱前で輿は止まり、柱を背にした形で輿がおろされる。男たちのリーダーらしき男が、イリヒコたちの集団の長はどなたか?と、呼ぶのでイリヒコとイワレヒコが立ちあがった。


イリヒコとイワレヒコは並んで族長の前に座るように指示された。彼らが着席すると族長は深々と頭を下げ、娘を助けたことについて礼を述べ、今晩はここでゆっくりするようにと言った。


「私は、この荒川村の族長アラカワトベと申します。」
イリヒコらは、名を明かすのに抵抗があったが下手に身分を偽るのも帰って面倒なことになるかと思い、名を名乗った。
「私は、大和の橿原のミマキイリヒコ、こちらは義父のイワレヒコと申します。」
「イワレヒコ?」
と、イワレヒコの名を聞くと族長の顔が曇った。族長はイワレヒコの顔をじっと覗きこむ。イワレヒコは何が何だかわからないようで、黙っている。


「イワレヒコ様とやら、そなたはもしかして筑紫の日向から数10年前にお越しになったイツセノミコト様の弟のイワレヒコ様なのでしょうか?」
イワレヒコは驚いた顔で頷く。
「如何にも、イツセは私の死んだ兄です。」
「なんと!」
アラカワトベは、憤怒の表情を表したが、感情を押さえるように言葉を続けた。
「そうですか、貴方は私のことをお忘れなのですね?」
イワレヒコはそう言われてじっとアラカワトベの顔を見つめたが思い出せない。
「ナクサトベという名は覚えてらっしゃいませんか?私の姉です。」


そう言われてイワレヒコは漸く思い出した。ナクサトベとは兄・イツセノミコトの最期を看取った女性で、河内沿岸の名草村の女性族長の名である。イワレヒコたちが日向から河内に向かい、先代のナガスネヒコに撃退されたときにイツセは矢傷を負った。命からがら逃げ出した一行が辿りついたのが名草村だったのである。名草でイワレヒコたちは今回のように助けてもらったのだ。重傷を負った兄はその心細さと名草村の心地よさ、そして何よりナクサトベという女性にひかれ、大和入りを断念したのである。大和入りに拘ったイワレヒコは兄イツセを殺してしまった。本来はイツセが大和入りのリーダーだったのだ。兵達も河内の敗戦が堪え、やる気を無くしていた。イワレヒコは兵達の士気を鼓舞し、目的を遂行させるためにあえて兄を殺した。
そしてそれを食いとめようとしたナクサトベにも重傷を負わせたのである。そして自分に従う兵を集めて名草を後にしたのだった。


アラカワトベによると、名草村はその事件がもとで崩壊したという。トベというのは族長の意味である。彼女はその事件の後名草を離れ、上流のここ荒川に新田を作り、また村を作ったのだ。その苦労はなみなみならぬものだったらしく、荒川の洪水で愛娘を失ったそうだ。ヒメはその娘の残した忘れ形見だ。


ナクサトベはイワレヒコが出て行った後も重傷を負いながらを数ヶ月を生き、三つ子を産んで死んだ。みなイツセの子だという。三人が名をチグサ、オハラ、ウガベという。全員が熊野のオオヤビコの庇護下にあるそうだ。アラカワトベとオオヤビコの領域はこの三人の娘の支配地を挟んでいる。ナクサトベは最期に「イツセを愛してしまった私が悪いのだからイワレヒコを恨むな」と、妹のアラカワトベに言い残したらしい。しかしそう簡単に割り切れるものでもない。


「今回は、我が孫娘を助けていただいたし、姉の遺言もありますから、お助けしましょう。しかし、貴方達の顔を見て暮らすわけには行きません。姉の三人の娘達が復讐を考えないとも限りません。一刻も早くこの村を出てください。」
と、アラカワトベは言った。そして筑紫島に行けるほどの船は用意できないが、淡路島に小人数を渡すくらいの船なら用意できる。その準備ができ次第に出て行ってくれとイワレヒコは言い渡された。準備には2日ほどかかるそうだ。


翌日、イワレヒコはイツセの眠る竈山に祈りを奉げに行くと言い出した。悔恨の情が湧いたのだ。イリヒコらと殆どの兵を荒川村に残し、20数名の兵を従えて潮見峠までやってきた時、数十名の賊が現れた。地理に不案内なイワレヒコ一行はあっというまに散り散りに追い散らされ、討ち取られた。そこかしこで乱闘が巻き起こっている。一人の男が、イワレヒコの前に立ちはだかった。


「お前がイワレヒコか!」
「何者だ?」
と、イワレヒコは問いただした。賊の頭らしい男は筑紫造りと思われる鎧を纏っている。
「この鎧に見覚えはないか!」
と言われイワレヒコは頭の着ている鎧を見つめた。ぼろぼろになっているが、兄イツセが着こんでいた鎧に良く似ている。
「もしや?」
「気が付かれたか?大叔父殿」
「兄の孫なのか?」
「そうだ、私はウガベの子、タギシだ。祖父イツセの無念を晴らさせていただく。今朝一番で河内のアカガネ様から連絡を受けたところだ。大和大物主様からのご命令でイワレヒコ、イリヒコを捕縛せよというな。」


「・・・・・・・・」
イワレヒコは、死を覚悟した。その前にイツセの眠る竈山に参らせて欲しいとだけ言った。タギシもそれを了承した。二人は竈山に祈りを奉げ、イツセの鎮魂を願った。いよいよ、イワレヒコは処刑される。タギシは、自らイワレヒコを殺すと言い、祖父イツセの得物と伝えられる「カカスの大矛」を握り締めた。イツセが大和の国に無事に入れるように願を掛けて筑紫の職人に作らせた矛だ。タギシはイワレヒコの正面にたち、カカスの大矛を構える。


「大叔父イワレヒコよ。1つ聞きたいことがある。」
「何だ。」
「貴方は祖父を殺してまで大和に入り、大物主のお気に入りとなったそうじゃないか、それがどうして追われる身になったのだ。」
「その矛の持ち主、我が兄イツセの意思が乗り移ったのかもしれん。」
「どういうことだ?」
「兄は、大和の国を獲るために、私の婚姻話に乗じて筑紫島を出たのだ。あのまま筑紫にいては我々兄弟は日の目を見ることはなかっただろうからな。しかし、私がこの手で殺してしまったのだ。大物主を倒して大和の国を奪うというのは、兄イツセの当初の宿願だった。しかし私は、大物主に気に入られ、大和の国を奪うなんて野望は捨ててしまい、長い年月を過ごした。だが、我が一族はミマキイリヒコという傑物を得てしまったのだ。イリヒコは天之日矛の一員だった。なんという縁だろうか。矛が私の手に入ってしまったのだ。忘れようとしたした矛が。。。。。。」


「イリヒコ?」
「そうだ。あの男は矛の切っ先の鋭く、且つ、剣よりも逞しい力を持っている。あいつは、我が義息子は私にとっては、イツセにとってのカカスの矛のようなものだよ。結果として国盗りは失敗してしまったがな。」
「国盗りだと!」
「そうだ、大物主になるはずだった出雲のタカヒコを殺し、その座にイリヒコを就けるという夢を見てしまったのだ。」
「なんという。。。。。」
タギシは矛を下ろした。


「どうした。ワシを殺すのではなかったのか?」
「凄いよ。あんたは。」
「うむ?」
「結局、あんたは祖父イツセの夢を継ごうとした。」
「偶然に過ぎない。イツセのことなど、ワシは忘れておった。」
「殺すのは止めた。」
「何?」
「あんたを、大和、大物主に突き出してやることにした。」


「何だと?お前はイツセの恨みを晴らすんじゃなかったのか?」
「俺は俺のやり方でやる。あんたにはその餌になってもらうことにするよ。」
イワレヒコは、タギシの一味によって攫われてしまった。大物主つまりタカヒコに差し出す気なのだ。タギシはイワレヒコ捕縛の功績によって大物主の近づくつもりなのだ。イリヒコが、イワレヒコの従者の報告を聞き、慌てて軍を率い、竈山にやってきたときには既にイワレヒコもタギシ一味もいなくなっていた。むなしく荒川村に戻ると、船の用意ができたという。イワレヒコ救出に向かうか、残った兵をまとめ淡路へ向かうか、イリヒコにとっては決断しきれない難問である。イリヒコは宿舎に開けてもらった民家に一人で篭って思案していた。その民家へ妙齢の女性が一人で忍び込んだが、イリヒコは思案のあまりその気配に気がつかなかった。その後、少しの時間を置いて一人の男がイリヒコの篭る民家に入ってきた。男の名はカムヤイ、イワレヒコの長男であった。


「イリヒコ殿。」
と、一人悩むイリヒコにカムヤイが声を掛けた。カムヤイはイワレヒコにとって実の子供でありまた長男であるが、才気が乏しく度胸も無いが、血統的には本来なら彼が橿原の族長になるはずだった。イワレヒコにカムヤイが進言したことが1つある。


「私の力では、橿原にとって何の利益ももたらさないことでしょう。族長となって橿原を率いる立場に立つべきではないのです。この度、配下に入ったものにイリヒコという傑物がいます。これをマキヒメの婿に迎え義弟となし、族長の地位につけましょう。私はイリヒコを助け祖先の祭祀を司りましょう。長兄の私がその立場につけば他の弟たちも私に習い、イリヒコに従うことでしょう。」


イワレヒコはイリヒコを実験し、カムヤイの言葉が正しいことを知り、それを受け入れたのだった。つまりカムヤイはイリヒコの後見人でもある。カムヤイは言葉を違えずイリヒコに従いつづけている。今回の戦がはじまってからも今まで、カムヤイはイリヒコに意見の1つもした事が無いのである。そのカムヤイがイリヒコに話しかけたのだ。


「これは、カムヤイ殿。困ったことになりました。義父を救いに戻るべきか、このまま筑紫に向かうのが良いのか。。。。」
「筑紫へ行きましょう。」
「しかし。。。」
「これは私だけが父から聞かされていたのですが、実は父は、もともと竈山に留まる気だったのです。伯父イツセの御魂と共に。。。」
「なんと!」
「父はもう高齢です。足手まといになるのが嫌だったのでしょう。」
「しかし義兄上、イワレヒコ様が居なくて、義兄たち、そして兵達は私に付いて来てくれるでしようか?そして筑紫の王族たちは私達を受けいれてくれるのでしょうか?」
「そのために私が居ます。私は血統的な族長、貴方は実質的な族長なのです。私は父イワレヒコから受け継いだ祖先の名をそらんじることができます。同族だと主張し筑紫王族の協力を得るためには祖先の名を共有しているという事実が必要です。私はそのために祖先の祭祀を学んできたのです。父イワレヒコは既に決断しているはず。次ぎは、父の日嗣たる貴方が決断する番だ。」


イリヒコは、カムヤイの言を聞き筑紫へ向かうことを決断した。カムヤイは一族のものたちに、その決定を伝えるために出て行った。兵にはイリヒコから伝えることになる。再びひとりになったイリヒコに、潜んでいたいた女性が声をかけた。


「やはり、筑紫へ行かれるのですね。」
と、二人の後ろから女性の声が聞こえた。イリヒコが慌てて声のしたほうを振り向くと、アラカワトベの孫娘がいた。
「イリヒコ様、私は貴方に惚れてしまったようです。貴方に行ってほしくない。けどこんな子供では、ナクサトベ様がイツセ様を引きとめた時のように貴方を引きとめることはできないでしょうね。」


イリヒコは少し寂しそうに早口でしゃべる少女の突然の独白に唖然する。そんなイリヒコにお構いなしに少女は、言の葉を紡いで行く。
「約束してくださいませんか?すぐに戻ってくるって」
と、少女は微笑みながらイリヒコの瞳を見つめた。
「すぐ?」
「そう、すぐ。」
「何をいきなり・・・」
何か言い返そうとしたイリヒコの言葉を遮るように少女は一人で話を続ける。
「ねぇ、鮎という魚をご存知ですか?鮎はね、1年たつと約束の場所に戻ってくるんです。来年の鮎がこの川に帰ってくるまでに戻ってきてください。約束ですよ。」


イリヒコは少女にすっかりペースを乱されている。返答に困ってイリヒコは話しをごまかそうとした。
「ところで、君の名は?」
「人は私のことをマクワシヒメと呼びます。でも貴方には、私のことをアユヒメと呼んで欲しい。約束を忘れないように。。。。私は遠く筑紫の国に向かう貴方を忘れません。」
と、一方的に独白と約束の押しつけをして、マクワシヒメ、、いやアユヒメは何事も無かったかのようにすたすたと入口に向かって歩き出す。イリヒコは少女を呼びとめたが、アユヒメは気が付かなかったのか振りかえりもせず外にでてしまった。イリヒコはその無邪気さ溢れる告白に飽きれてしまった。だが、アユヒメの一人芝居のような告白は、筑紫への逃避行の辛さを思って暗澹たる気持ちだったイリヒコの心に、ほんの少しの光を当て、「大和の地を必ずもう一度踏んでやる。大和の王になってやる」という気持ちにさせてくれたのだった。


翌日、イリヒコたちは竈山へ向かい、ここに眠るイツセノミコトに海路の無事を願い、河内の最南端に位置する雄之港から5艘の小型漁業船に分乗し淡路へと向かった。いよいよここから「イリヒコ西遷」が開始されたのだ。