2003/12/30
大和の王2
「あっ、、、兄上?」
タカヒコは、驚きのあまり二の句が継げなかった。越・諏訪の大王として、また出雲最強の八千矛軍の総大将として越の国に駐屯しているはずの腹違いの兄・タケミナカタが自分の顔を心配そうに覗いていたからだ。
「おっ、お目覚めかな?」
と、大男つまりタケミナカタは、機嫌良さそうに言った。傍らには穴師山で別れたタカマヒコもいる。自分を抱きかかえているのは、兄の副官でその片腕として畏れられてるウヤツベである。慌てて飛び起きたタカヒコは、怪訝そうに兄に尋ねた。
「どうして、ここにいらっしゃるのですか?」
「大物主様から使いが来て、ぜひタカヒコの就任儀式に立ち合ってくれと請われたのでな。ちょうど、伊都への総攻撃に出発する時だった。ホヒ殿からからも、敵の後背を衝くため瀬戸内から豊の国に上陸してほしいという要請もあったので、琵琶湖を渡り、巨椋池から木津川の水路を巡り少し遠回りして大和に寄ったまでのことだ。」
「なんと!いよいよ総攻撃なのですね。私もこの話が無ければ杵築から参加するはずでした。」
「ここ大和・河内と伊予のシイネツヒコの水軍を除く全軍の主力部隊を集めての攻撃だ。伊和様にも後詰に入ってもらう。大和はタカヒコに代替わりしたばかり、戦役を負わすのは酷だろうという父上・大国主様のご配慮があった。大和と河内は筑紫との戦の物資補給の要とし、補給線の確保はシイネツヒコの担当となる。追ってホヒ殿より詳細な命令が届くだろう。」
「補給ですか・・・・」
「何だ、面白く無さそうだな。漢の蕭何を見習うことだ。軍功を上げるばかりが能ではないだろう。」
「しかし。。。」
「問題は紀の国と狗奴国だ。両者とも筑紫攻めには参加を申し出ているようなのだが、一つ、奴らの真意がつかめんのだ。お主には紀の国の押さえとしても頑張ってもらわねばならぬ。」
「はっ。ところで兄上は何時お立ちになるのですか?」
「しばらく留まろう。実はここに立寄って河内の軍船を拝借してすぐさま瀬戸内に出るつもりだったのだが、穴師山まで来てみると、何とお前が殺されかけてるではないか!慌てて、相手を倒し助け起こしたらお前じゃなくてこのタカマヒコだったというわけだ。ここまでのいきさつはこのタカマヒコから聞いた。なかなかに大変な大和入りだったようだな。」
「は、恥ずかしい限りです。」
「何も恥ずかしがることはない。私も始めて諏訪に入ったときは似たようなものだった。越からの応援の兵が間に合わなければ、死んでいたかもしれんわ。王と呼ばれるのは敵を作ろうとするのと変らんからな。」
と、ミナカタは豪快に笑い飛ばした。ミナカタら八千矛軍は残るイワレヒコ軍を掃討してから大和を立つことになった。3日もあればイワレヒコ軍を打ち倒してやるとミナカタは息巻いた。
「その後、数日待てば播磨のシコオたちや、播磨で別れたホアカリら加茂から付き随ってきたタカヒコの腹心となる人間も到着するだろう。それを待ってから筑紫へ向かう。」
「それはありがたい事です。しかし総攻撃に間に合うのですか?」
「少しばかり遅れた方が、八千矛軍の強さを喧伝できるだろう。」
「それは、そうなのですが。。。」
「冗談だよ。ホヒ殿からは一月後の集合を命じられている。ここまでの旅路が予想より早かったのでな、まだまだ余裕があるんだよ。」
「一月も準備に掛けていては、筑紫にも余裕を与えることになりませんか?それにトシロの儀式はどうなるのです?」
「大丈夫だよ。今回は邪馬台国を根こそぎぶっ壊す。そのための準備だ。そうそうあの泣き虫が何やらやる気になっておってな。自ら儀式と修行の延長を申し出たらしい。よほどあの洞窟が気に入ったのだろう。」
タカヒコは弟の成長を素直に喜んだ。あの老人から学問を学ぶことに楽しみを感じ出したのだろう。そして母はまた悲しむだろうなとぼんやりと頼りなげな母の顔を思い浮かべた。
イリヒコ、コヤネ、ミカヅチ、タカクラジら、タカヒコに逆らった者達は、八千矛軍によって捕縛され麓の政庁に閉じ込められることになった。橿原の兵は一部を除いて全て逃げ散じてしまった。おそらくその殆どは大和川の砦に篭っているイワレヒコの元へと逃げたのだろう。まもなく夕暮れである。今晩から明日にかけ大物主の禅譲儀式が行われ、明朝タカヒコは大和の王になる。彼らの処分は、明朝正式に大和の王・三代目大物主になってからタカヒコによって下されることになった。王として、大物主として最初の仕事である。今晩政庁には、ウヤツベらの八千矛軍が駐屯することになった。イワレヒコによる軍事行動を阻止するためだ。ミナカタは伊和大神と共に後見人としてタカヒコの儀式を見守るためにの大物主の宮に入ることになった。矢倉から射落とされた伊和大神も、矢傷こそ受けたが命に関わるような大した怪我にはならなかったのだ。日没の儀式のため儀式に参加する全員が大物主の宮にはいった。
儀式は滞り無く執り行われ、タカヒコらは明朝の儀式に備え、食事を執り休むことにした。食事の後タカヒコがタカマヒコに声をかけた。
「タカマヒコも全身怪我だらけだな。大丈夫か?」
と、タカヒコはタカマヒコの様子を気に掛けた。
「タカヒコ様こそ、大丈夫なのですか?」
「私は大丈夫だ。朝から戦い通して疲れはしたが傷らしい傷は受けなかったからな。脱臼しただけだよ。それも手当てしてもらったしな。カヤナルミはトミビコの配下が飛鳥に隠した。元気にしているそうだよ。」
「ありがとうございます。私は頭に傷をうけ、左腕が折れました。良く助かったと思います。ヤタにやられ、死を覚悟しましたから。。。」
「そういえば、ヤタはどうした?兄上が退治したのか?」
「それが、ミナカタ様は、私を助けてくれた後、ヤタをがけ下に投げ捨て、兵を追い散らしてくださったそうなのですが、私は気絶してしまい、ヤタの最後を確認できませんでした。」
「そうか。。。まあ、兄上の攻撃を受けて、がけ下に突き落とされたら無事では済まないだろうな。」
「はい、私もそう思います。」
横で聞いていたタニグクが口を挟んだ。
「私も、ミナカタ様の戦いを初めて見ましたが、凄すぎますね。あのお方に勝てる人なんてこの世にはいないでしょうな。」
「タニグク、そういえばミカヅチはどうしたのだ?私のことを忘れてしまっているようだったが?」
「コヤネを問いただしたところ、薬香によって催眠状態にしてここ数日の記憶を奪ったそうです。今はその後遺症もあって眠り込んだままです。」
「何?コヤネといえばあの初老の男だな?そんな技を使えるのか?」
「聞くところによりますと、口寄せとかもやるそうです。仙術いや妖術使いですね。」
「そうかぁ。。恐ろしい男だ。」
「まあ、そんなことは明日考えましょう。今日はお疲れになったでしょう。床を用意させますから、お休みになってください。」
と、タニグクは言い、宮に使えている女性を呼び出し、タカヒコとタカマヒコの床の用意を命じた。隣の部屋では、酒の入ったミナカタやトミビコ、伊和大神がまだ宴会騒ぎを繰り広げている。タカヒコは案内された部屋で横になった。その途端ここ数日の疲れがどっと押し寄せ、宴会の騒ぎを遠くに聞きながら、ものの数分もせず深い眠りに落ちた。
「くそっ!!!なんだあの化け物は」
ヤタは、一人で三輪山への真っ暗な夜道を木の枝を杖代わりにして歩いていた。がけ下に落とされたショックで今まで気絶していたのである。右足の甲が落ちた衝撃で折れているようだし、胸から背中も歩くたびに激しく痛む。おそらく肋骨も数本は折れているだろう。タカヒコの命を取ったと思った瞬間後ろから槍の柄でしこたま殴られたところまでは覚えている。熊のような大きな化け物だった。目前にした手柄を失った挙句、大怪我までさせられたのだ。ブツブツと愚痴を言いながら、時折、痛みによって「げっ」とか「うげっ」という声を上げて杖を突きながら歩くその姿はまるで、夜道を3本足の巨大なカラスが歩いているようだ。しばらく歩いていると穴師山の厩に辿り付いた。そこで助けてもらおうと思い立ち、痛む足を引きずりながら、番人がいるはずの厩の建物に入り込んだ。おかしい。。厩だというのに馬が一匹もいない上に、人の気配もしない。
「おおい。誰かいないか?」
返事は無い。それでももう一度暗闇に向かって声をかけた。
「おおい、誰かいないか?俺は三輪山の兵のカラスだ。怪我をしている。誰かいたら助けてくれないか?」
そのとき、建物の奥から人の気配がしてきた。ヤタはもういちど声をかけると、奥から兵が出てきた。
「カラス!生きてたのか!」
兵は、ヤタとともにタカヒコを捜索していた兵達10人だった。兵達はミナカタと遭遇したあと、いったん三輪山に戻り事の顛末を見届けた後、逃げ出してきてここに隠れていたのだった。ヤタは男からたった半日に形勢が入れ替わったことを聞かされ驚いた。
「さて、これからどうするか?」
と、ヤタは独り言のように呟いた。
「そりゃ、明日の朝一番でここから逃げるほかあるまい。」
と兵の一人は答えたが、ヤタは何か恨み骨髄に思ってる化け物・タケミナカタに一泡吹かせようと考えているらしく黙り込んだ。
「おい、コヤネ様と橿原のイリヒコ様はどうなった?」
「ああ、麓の政庁に閉じ込められたようだよ。」
「政庁か。。。あそこならしのび込めるなぁ」
ヤタは、イリヒコらに恩を売って取り入ることを考え付いたのだ。闇夜にまぎれイリヒコらを逃がす。夜目の聞くヤタなら、八千矛軍さえ眠りにつけば逃がすことは可能だ。大和川の入口のイワレヒコのところまで案内すれば、恩賞に有り付けるだろうし、何より憎いミナカタとタカヒコに一泡ふかせることができる。一石二鳥だ。ヤタは兵達に三輪山に舞い戻りイリヒコらの逃亡劇を手伝うように説得した。闇夜のカラスの真骨頂だ。
それから数時間後のことである。真夜中の政庁の前では、八千矛軍のうちの何人かが、野営のように屯していた。そこへ、松明を片手に下ーした女を先頭に、数人の男女が車を引いてやってきた。
「こら!こんな夜中に何をしている?」
八千矛の一人が女を恫喝する。
「へえ。私はこの三輪山の里の女です。昨日の夜から戦があるというのでとなりの磯城の里へ避難しておりましたが、今夜になって落着いたとききまして、戻って参りました。」
「こんな、真夜中にか?」
「はい。磯城の里で良いお酒が手に入りましたので、夜明けに大物主さまに献上に上がろうと思いまして。」
「酒?」
「はい、これにございます。」
と、女は自分の後ろに並んでいる八つの樽を指差した。
「海石榴の大市で手に入れた極上のお酒です。沢山ありますので、兵の皆様もいかがですか?何でしたら私達がお酌させていただきますが。。。」
「ごくっ。。。」
八千矛の兵は、思わず生唾を飲み込んだ。八千矛軍にしても越からの強行軍でやってきた。敵も追い散らしたし、夜は静かである。女と酒の誘惑に転びそうである。
「八つも樽がございます。ぜひ皆さんでお楽しみください。大物主さまに献上するのは二つだけですから残りの六つの樽をぜひお上がりください。」
「しかしなぁ」
「あら?もう不穏な輩は追い出したのでございましょう?」
「まあ、それはそうなんだが・・・。」
「だったらいいじゃないですか。私達もお強い男の方にぜひお近づきになりたいものです。」
ついに、誘惑に負けた八千矛は樽の行列を通してしまった。そして、女と酒を酌み交わし、警備のことなど失念している。頃合を見計らった女は八千矛に頼み込んだ。
「この二つの樽は、大物主さまへの献上品なので、今のうちに上にもって上がらせてもらいますね。呑んでしまったら大事ですからね。」
と、女は八つの樽のうち二つを政庁の方へと一緒に樽を運んできた男たちに運ばせた。突然のように宴が始まる。八千矛軍の面々は誰もが酒豪である。体を温めるくらいの酒なら問題無かろうと、責任者として政庁にいたウヤツベも飲酒を許可したのである。宴の声は深夜の纏向の里に響き渡った。
夜明けとともに、行われた日嗣の儀式は滞り無く終了した。これでタカヒコは名実ともに正式な三代目の大物主となった。明日から、新しい宮の建設が始められる。今日は政庁で初仕事となるイリヒコらの処分が行われる。太陽がしっかりとその姿を見せたころ、タカヒコらは朝食を済ませ三輪山を降り、八千矛軍が迎えに出ないのを訝しがりながら政庁に入った。
「た、大変です!!」
と、最初に政庁に入ったタニグクが入口のあたりにいたタカヒコに向かって言った。何事かと奥を覗きこむとウヤツベらが倒れていた。ミナカタはウヤツベを抱き起こした。寝ている。しかも酒臭いということに気がついたミナカタは大きな声で一喝した。
「お前ら、酒を飲んで起きられぬとは何事だ!!!」
辺りで寝込んでいた八千矛軍の面々がその声に反応し、起きだしはじめた。
「タカヒコ様、大変なのはこっちです。」
と、タニグクが一番奥の部屋から呼ぶ。タカヒコらが慌ててその部屋を覗くと、そこに括られているはずのイリヒコらがいない。もぬけの空である。
「逃げられた?」
部屋の前には空の酒樽が二つ転がっていた。何気なく樽の中を覗くと乾いていた。すぐさま政庁を飛び出したタカヒコは、政庁の前の砦で寝入っている八千矛軍の兵を見つけた。六つの酒樽があり、その周辺に酔いつぶれて寝込んでいる。樽の内側は濡れているし、酒が残っているのもある。寝入ってる一人を叩き起こし説明を求めたタカヒコは愕然とした。八千矛軍を酔わせその隙にイリヒコたちを救いだした者たちがいたのだ。しかも女を連れている。残っている酒の匂いを嗅ぐと、妙な匂いがする。宴の興が乗ってきた頃にしびれ薬でも混ぜられたのだろう。政庁に繋いでいた馬も、居なくなっている。逃亡に使われたのかそれとも放たれたのか?
「大和川だ!」
タニグクが叫ぶ。当然大和川のイワレヒコと、合流したのだろう。ミナカタが砦の前で八千矛軍を叱っているが、もはやどうしようもない。
「兄上!」
「すまない事をした。タカヒコ。」
「そんなことは、もうどうでもいいのです。大和川へ急がなくては!ご一緒していただけますか?」
「当然だ。これは私の不始末でもある。」
二人が、今後の動きについて話しているところに、昨日ミナカタが乗っていた巨馬を先頭に数頭の馬が駆け寄ってきた。巨馬はミナカタを主として認めたようだ。
「よし、この馬で追いかけよう。」
三輪山の守りをウヤツベと伊和大神に任せ、ミナカタとタカヒコ、タニグクと八千矛軍のうちの数人は馬に跨り一路、大和川を目指した。
「どうしたことだ!」
と、大和川の砦に到着したミナカタは驚いた。ここにも誰もいないのだ。昨日までここはイワレヒコら橿原一族とその兵たちが立て篭もり、河内のアカガネらの大和入りを防いでいたはずだった。タニグクらが砦の中に入り確認するが誰もいない。
「何処へ消えたのだ?」
「まさか、三輪山に隠れているってことは?」
「!!!」
「そうだとすると、三輪山が危ないか?」
「大丈夫だろう。昨夜はまんまと食わされたが八千矛軍が居るのだ。三輪山を占拠するなどという離れ業はできまい。」
「一体、どこへ消えたのだ。」
タニグクが、近くの当麻の市へ偵察に行き戻ってきた。
「タカヒコ様、橿原勢は今朝早く当麻から橿原へと戻ったそうです。」
「本拠へ篭る気か?」
「取りあえず追いましょう。」
タカヒコ達は橿原へ到着したが、兵が待ちうけている気配がない。それどころか人の気配がしない。タカヒコ達は橿原で一番大きな建物であるイワレヒコの宮の前に到着した。ここにも兵の気配がない。門を開け放ち侵入するがここにも人気はしない。建物の中に入っても同じくである。タカヒコは一番奥の部屋の扉を開け放った。人の気配がする。
「誰かいるのか?」
すすり泣くような女の声が聞こえる。薄暗い部屋の奥、明り取りの窓を隠すカーテンのように吊るされた幔幕の陰から声がしている。タカヒコはもう一度声をかけた。すると揺れた幔幕からタカヒコが産まれてこの方初めて会うような美女がタカヒコの様子をのぞいている。タカヒコはその美しさに見蕩れしばしの間、継ぐべき言葉を失った。女性の方もタカヒコを見て一瞬、慄いたがじっとタカヒコを見つめている。
「タカヒコどうした?」
タカヒコの声を聞きつけたミナカタが部屋にはいってきた。それと同時に女性は幔幕の陰へと隠れた。幔幕が動いたのを見逃さなかったミナカタは、幔幕を早業で切り捨てる。明り取りから光が入り込み薄暗かった部屋に充満する。光の後背を背負うように立った女性の姿は、息を呑むほどの美しさに加えて神々しさをタカヒコに感じさせた。
「何者だ?」
ミナカタが剣を携えたまま詰問する。ミナカタはイリヒコを逃がした集団に女性がいたということを思い出し、もしやこいつか?と思い睨みを効かす。女性は怖がっているのか、振るえているだけで返事をしない。返答が帰ってこないことに苛立ちを覚え始めたミナカタがずいっと前へ出た。タカヒコはミナカタの前を遮り、女性の目前に立った。
「私は三代目の大物主、アジスキタカヒコと申します。貴女の名をお聞かせください」
「私は天日方奇日方の孫で陶津耳の娘、イクタマヨリヨリヒメと申します。」
「タケツノミ様の?」
「はい、私の父陶津耳は淀の川筋の守りを初代の大物主さまに命じられておりましたが、宰相ニギハヤヒ様の勘気に触れその土地を奪われました。父はその心労で亡くなりました。今は淀の川筋をニギハヤヒ様より新しく任じられた常陸のアメノコヤネ殿のお世話になっておりました。」
二人は視線を熱く交わしている。なんだかこの雰囲気に居たたまれなくなったミナカタは、ちょうど戸外からタニグクがタカヒコを呼ぶ声がしたのを切っ掛けに部屋を出た。
この女性は後にタカヒコつまり大和大物主神の妻となる女性である。天日方奇日方命とは、大和の国開祖ともいうべきカモタケツノミの別称である。イクタマヨリヒメと大物主の子孫には後に三輪山祭祀を司る「オオタタネコ」がいるが、これはまた別のお話し・・・・・・・・・・・。
陶津耳は伊予のオオヤマツミによって発見され献策された「淀の湿地帯に川筋を通し大和川に替わる運河を作るという大事業」を命じられていたが、その事業が遂行できなかったのだ。ニギハヤヒは何時まで待っても船が運行できるような川筋がつかない湿地帯の開拓を自らの眷属である物部と、コヤネに替わらせたのである。といっても淀水系の運河化は難工事だった。河口あたりに交易所や集落がないのも工事がすすまないことに心理的に影響もしているのだろう。結局、物部の技術力、コヤネの財力をもって工事をはじめて数年たった今でも未だに運搬船が航行できるような川筋はついていないのだ。琵琶湖から直接流れ込んでくる淀の水量が多すぎるのである。この水路全線が本格的に稼動するようになるには、後に物部より新しい土木工事技術を持って入植してくる秦氏の登場を待たなくてはならない。
いずれにしろ、ニギハヤヒ政権時点の淀の水利権はコヤネと物部に握られている。陶津耳一族は、経済的には彼らに従属した形をとっていたのだ。そこでイクタマヨリヒメは、コヤネが逃亡したときにここ橿原まで一緒についてきたのだった。しかし、ここで女子供は開放された。
「あっミナカタ様、タカヒコ様はどうなされました?」
「タカヒコは奥に女が一人で隠れていたので取調べをしている。」
「女が一人?」
と、タニグクは怪訝な顔をした。
「それより、何かあったのか?」
「この下の集落に女子供と年寄が固まって隠れていました。問い糾したところ、イワレヒコらは未明の内に飛鳥の方へ逃げていったそうです。杖をついた山人のような男が紀の国までの道案内をするということです。貯めておいた保存食料を全て持って出たらしい。」
「何?飛鳥だと?」
「はい、飛鳥から川沿いに吉野山にはいり、山道を巡り紀の国熊野へと進み、船で日向の地へ行くと行って兵を引き連れて出たそうです。」
「何?日向とは筑紫狗奴国の日向か?」
「おそらく。」
ミナカタは考え込んだ。ホヒによれば紀の国と狗奴国。両者とも筑紫邪馬台国連合討伐には協力すると言って来ている。このまま吉野へ急行しイワレヒコらを追撃することも可能だが、追撃して紀の国になだれ込む事が、無益な争そいの種を紀の国と大和の間に撒くことになるようなわけには行かない。現段階ではイワレヒコらは余力を残しているとはいえ敗残の兵にすぎないのだから。。。
ミナカタとタニグクから報告を受けたタカヒコは、結局これ以上の追撃しないことを決定した。またイクタマヨリヒメと橿原の集落に残された者たちを保護することに決め、三輪山に戻り、事後の処理を行うことにした。残された者の中にはイワレヒコ一族の妻や娘たち、そしてイリヒコの妻、ミマキヒメも居た。
三輪山に戻ると、摂津で別れて別ルートを通ってやってきたアシハラシコオたちと、河内のアカガネことヤソタケル率いる河内軍の兵たち、そして出雲の加茂から移住してきた兵達+が到着していた。ニギハヤヒとイリヒコの乱によってずたずたにされた大和軍の再編成も行わなくてはならない。彼らの半分は大和軍が整うまでの間、タカヒコの直属軍として駐屯することになる。彼らの到着を見届けた八千矛軍と伊和大神は明日、河内軍の軍船で筑紫へと出発することとなった。ミナカタとしてはイリヒコらの逃亡先と目される狗奴国と渡りをつけ、イリヒコらの行方を知るためにも、早めに筑紫島に渡った方が良さそうだという判断もあった。
ミナカタらが筑紫へと旅立ってから2日後のことである。出雲のホヒから、タカヒコにとっては面白くない情報が届けられた。母のことである。母タギリ姫はタカヒコと美保の宮で、わかれた後、トシロ杵築の宮に戻り、彼女の夫である大国主に筑紫出兵を取りやめるようにと願い出たのだ。筑紫・邪馬台国は彼女にとって故郷である。せめて自分の目の黒い内は、夫や我が子がそこに攻め入るなどということは許せないということらしい。女王国出身の彼女は気弱い反面、プライドは高い。越から因幡をまわり、やっと杵築に戻ったばかりの夫の姿を見た途端、突然のように彼女はその主張を繰り出し、ヒステリー状態に陥ったのだった。そして彼女は宮を飛び出し、八雲山にたった一人で入り込み、抗議の態度を示したばかりか、『タギリ姫』という名を自ら捨てさり、「遠津待根(遠く離れた筑紫の港から嫁いできた一人ぼっちの女)」(注)と名乗った。これは、自分でつけた諡であり、諡を自称し且つ公表し喧伝するということはすなわち、抗議が受け入れられない場合、自殺すると宣言したようなものだ。
「どうしても、筑紫に攻め入ると仰るのなら私は八雲山に隠れましょう。私が隠れた後、私のことを不憫と思ってくださるのなら、八雲山の眼前に地中深きところの磐石にこの上無く太い宮柱を打ち込み、大空に千木を高々と聳えさせた神殿を造り、私の御魂をそこでお祀り下さいませ。私はその神殿から遠く離れた故郷の方角を望みつづけます。」
と、母は父に言い張ったそうだ。タカヒコには、こういう事態が起こるかもしれないということは十分理解はしていたつもりであったが、母の狂乱とも言えるその態度は彼の気持ちを深く傷つけたのだった。この事件は彼の心の底に留まり、彼は母のその態度に反感を感じつつも、三代目大物主としての新たな隠名を自ら「遠津山岬多良斯」と決めることになるのだ。母が自らつけた諡を自らの新たな名前に加えるという事は、何時も弟のことばかりを気に掛け、自分の方を向いてくれなかった母への、タカヒコなりの愛着の証でもあった。タカヒコは母がこのままニ度とトシロにあうこともなく死ぬ事を、確信したのである。
(注)出雲大国主系譜にある名である。14代目に相当する『天日腹大科度美神』の配偶神で、出雲大国主系譜の最後にあたる15代目『遠津山岬多良斯神』の母神の名である。「待根」を「マッネ」「マチネ」と読むとアイヌ語の「女」に相当する。反面、筆者としては、「待根」の「根」は出雲振根、飯入根に、そして根の国神話に繋がるってこともあるんじゃないかと思ったりもしているが、単に「根」の字が繋がっているだけの話しだ(笑)