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「ツヌガアラシト」
イワレヒコの宮での謀議では、ニギハヤヒを橿原の跡継ぎを披露する宴の席で暗殺する事が決定された。イワレヒコに従ってきた久米の民に宮を包囲させ、中ではイリヒコがイワレヒコの合図をうけ矛で一差しに突き殺す、という単純極まりない作戦であった。秘蔵の酒をふるまい、ニギハヤヒを油断させる事ができさえすれば成功すると思われた。
決行の前日、纏向のイリヒコの宮には、客が訪れていた。その男は新羅風の面妖な角付きの兜を被り、身の丈程の鉄槍を左手に、右手には巻物の竹管をもち門番の男と問答をしていた。長らく戦いとは無縁だった纏向には不釣り合いの異様ないで立ちなので、イリヒコの宮前は見物する人で騒然としてきた。「イリヒコに取り次ぎを頼んでおるのじゃ、旧友がわざわざ吉備の山からやってきたというに、この門番は!」男はいらだった様子で門番を持っていた槍の柄で突き倒し、宮の中へと歩きだした。
「何事じゃ!騒々しい・・・。」宮の中からイリヒコの大声が聞こえた。「おうっ!イリヒコよ。わしじゃ!」その異様ないで立ちの男は親しげにイリヒコの声に答えた。奥からあわてて飛び出してきたイリヒコは、男の前にひざまづいた。頭をさげてひざまづいた姿勢のままイリヒコは男に話かけた。「これはツヌガアラシト様おひさしゅうございます。」「イリヒコよ、久し振りよのー。播磨の国で出雲のミナカタに追い散らされて以来じゃ。わしは、吉備。お主は、この纏向に別れてしまった。出雲大王の力もあなどれぬものよ。」「出雲の直属軍(ヤチホコとアシハラノシコヲ)を擁するタケミナカタにはこの纏向の軍とて適うべくもござらん。遠く筑紫島の日巫女(卑弥呼)の術とて及びますまい。ミナカタの軍才は、古の項羽に並ぶものです。」「それは、慰めておるつもりか?」
とツヌガアラシトは苦笑いをした。
その笑顔を見てイリヒコは思いついたような表情を浮かべ、ツヌガアラシトを自分の宮の中へと導いた。イリヒコはマキヒメに婿入りする前、半島を共に抜けてきたツヌガアラシトらと「天の日槍」と呼ばれる集団に属していた。大将であるツヌガアラシトは吉備の地で瀬戸内の海人たちとともに独立勢力を築いていた。
宮の中へ以前の主人を招き入れたイリヒコは、橿原での謀略を打ち明け、協力を頼んだ。
じっと腕組みをしたまま計画を聞いていたツヌガアラシトは、イリヒコの目を、冷淡な目付きで刺すように覗きこんだ。「イリヒコ。それはできん。わしが大和へきたのは、大物主と我が娘の縁談のためじゃ。ニギハヤヒの口利きでな。」「なんと!吉備の姫といえばまだ幼子のはず。いくら大物主様との縁が必要だとて・・・。」
「よいかイリヒコ。わしらは海の向こうから渡ってきた。しょせんこの国ではいつまでたってもよそものじゃ。もしわしが死ねば、吉備の王とて一時の夢じゃ。」「ニギハヤヒは葛城の姫を娶り倭人となり、あなたは娘を大物主に捧げて倭人となる。ということですか。」「そういうお主も、筑紫の日巫女と出雲の大国主両方の血を引く嫁を持ち、倭人となっておろう。」と、その時、イリヒコの背後にある奥の部屋の扉が開いた。
そこにはマキヒメが立っていた。「マ、マキヒメ。聞いておったか?」イリヒコは驚いた様子でマキヒメに近付いていった。マキヒメはあとづさりしながら答えた。「イリヒコ様、私に考えがあります。」「考え?女の出る幕ではない。」とマキヒメを部屋から追い出そうとしたとき、ツヌガアラシトが口を開いた。
「こちらが日巫女と大国主の血をひくマキヒメですか?」と笑みを浮かべながらマキヒメの方へと近づいてきた。「お見知りおきを、天の日槍ことツヌガアラシトでこざる。お父上のお噂はかねがね、魏の国と結び筑紫島の戦乱を収めた日巫女様のお孫とか。おばあ様亡きあと、この纏向の地にこられたそうですな。」「私は大和の生まれです。筑紫島の事など知りませぬ。」「あなた様が知らなくても、今の日巫女(トヨ)は従姉妹のあなたに興味があるそうです。」
イリヒコは驚いてツヌガアラシトに問い掛けた。「筑紫の方とも、関係を結んでおられますのか?」ツヌガアラシトは不敵にほほ笑みイリヒコの方に向き直った。「当たり前だ。日巫女か大国主かどちらが勝っても慌てぬように動く事が肝要。我が吉備は瀬戸の海人を押さえてはおるが、まだまだ筑紫島や出雲を怒らせてはどうにもならんでな。」「しかし、筑紫は壊滅寸前と聞いております。」「だからこそ恩の売りがいがあるというもの。次の日巫女になるのは、わしの娘か孫娘やもしれんでな。わしは先日、日巫女の妹を嫁にもらったところじゃ。」
「後は出雲との縁だけでこざるな。」「その事だが、出雲は無理じゃ。吉備を乗っ取ったわしと縁を結ぶわけがない。そこで大物主との縁談を考えついたのだ。大和なら出雲の一部。これで面と向かった戦はおさえられる。」「ほー。上策ですな」とイリヒコは皮肉混じりに答えた。その態度を見てツヌガアラシトはにやりと笑った。「しかしのー。ニギハヤヒがお主に殺されるとなれば話しは別じゃ。どうじゃ、イリヒコ、わしの子とお主の子を妻合わせるというのは。」「うっ、それは願ってもない話しですがまだ子は生まれておりません。しかも私は大物主に仕える身です。大物主との縁談には及びますまい。」
「今のままならな。どうじゃ、大物主とニギハヤヒを一網打尽にして、大和の正当はマキヒメじゃという事にすれば?」
イリヒコは面食らっていた。ニギハヤヒを討つのではなく大和の国を一度に手に入れようとするツヌガアラシトの作戦に。しかしよく考えてみれば、この策が成功すれば、吉備、大和、北四国という瀬戸内一帯を一気に押さえる事ができ、目のうえの出雲、そして敵対している筑紫に対抗しうる勢力となるのである。
イリヒコは但馬の海岸に流れ着いた時の事を思い出していた。まだ子供だった彼は、ツヌガアラシトを兄と慕い山陰一帯を根拠にしていたが、タケミナカタに追われ、大和に逃げ込んだ。そしてイワレヒコの援助をうけここまで生きてきた。出雲に遠慮する謂れはない。マキヒメは心配そうにイリヒコの横顔を見詰めていた。