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源平合戦における佐竹氏はほとんど歴史上重要な役目とは無縁の存在でした。佐竹氏は保元・平治の乱において平氏側に立って行動し恩賞を受けていましたから以仁王の令旨にも源頼朝の檄にも応ずることが出来なかったものと思われます。このため中立的立場を選択したのだと思います。
一方、関東の諸将は頼朝の檄に応じ集結しました。頼朝軍は伊豆に旗揚げしてからわずか二ヶ月で五万の大軍を擁する集団にまで成長し、鎌倉を本拠地とするようになりました。
佐竹氏は鎌倉に一兵すら送りませんでした。これは頼朝に対する敵対行為と取られても仕方のないことだったと思います。一族が別れる事になろうともこの行為は愚かだったと言わざるを得ません。400年後歴史は繰り返しました。一方の頼朝側にとって見れば、佐竹氏は奥州藤原氏とも姻戚関係を結んでいましたから、西に向かって進軍する(予定)ときに後顧の憂いを無くするという意味合いもあったのだと思います。
富士川の合戦は全く兵の消耗のない勝利に終わりました。(完璧な大勝利)その後頼朝は西に向かわず無傷の精鋭4000人を率いて佐竹討伐軍として常陸国へやって来たのでした。この戦いには地元の豪族達が多数頼朝軍傘下に加わったという事です。これは恩賞のために勝つ(と思われる)方へ味方するためです。
この時佐竹氏内部では頼朝に帰順するという意見と徹底抗戦をするべきだという意見に分かれたようです。三代頭領の嫡男である義政は帰順派で数名の部下とともに府中(石岡市)にある頼朝の本陣へと向かいました。しかし、上総介平広常により殺害されてしまいました。一方後の四代頭領の秀義は西金砂山城に1000名の兵を率いて立て籠もりました。西金砂山城は山の頂にある天然の要害です。
頼朝軍は3000人の兵で正面攻撃をしました。この中には土肥次郎実平、和田太郎義盛、佐々木太郎定綱、佐々木三郎盛綱、熊谷次郎直実などの軍記史上にも名前が残る者達が参加しています。しかし、天然の要害に籠もった佐竹軍を容易に落とすことは出来ませんでした。逆に山頂からの攻撃にさらされた頼朝軍は大敗を喫したのです。ここで軍監土肥実平は総員退却させたのです。
この時点で頼朝軍は力攻めの対策を変更したと考えられています。そして彼らは佐竹義季を標的に選び謀略をかけたのでした。農夫が運んだ食糧の中に密書を忍ばせたと言われています。密書の内容は常陸国奥七郡全ての領地を与えるというものでした。これにより佐竹義季は裏切りを決意し、陣から脱走して頼朝軍に加わりました。
義季は諸沢口という裏口攻めを提案し道案内しました。ここにおいて頼朝軍は全軍をもって諸沢口から西金砂山城に突入したのです。こうして西金砂山城の戦いは終わりました。秀義は落城寸前に落ち延びました。この時逃げ延びるのを手助けをした安部天鬼坊宗蓮は滅亡した奥州安部頼時の一族だと言われています。