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佐竹氏の時代 1


佐竹義重は佐竹家19代の当主にあたります。16歳で佐竹家の家督を継いでから戦いを重ね続けました。南は北条家と戦い、北では南奥州の覇権を争いました。


その勇猛さは「鬼義重」と呼ばれるほどであり、北条家の北上しようとする勢力に対抗する北関東の盟主的存在でした。ちなみに義重の正室は伊達晴宗の五女に当たりますから義宣と伊達政宗は従兄弟になります。


義重は白河を攻略して次男を白河義弘として送り込みました。こうして白河を組下大名にしていったのです。


会津には名門芦名家がありました。会津黒川城(会津若松城)を居城とする芦名盛興の正室は伊達晴宗の娘でした。これは伊達家の政略結婚によるものだと言われています。 しかし芦名家では当主の不幸が続き直系が絶えてしまいました。


こうして佐竹家と伊達家の間に芦名家を巡る戦いが始まったのです。義重はこの時点ですでに豊臣秀吉に通じていました。織田軍団の中でトップにのし上がった秀吉こそが「天下一」だと見抜いた洞察力の確かさは関東以北では義重こそが一番だったように思われます。


そして秀吉配下の石田三成に依頼して義重の次男である白河義弘を強引に芦名家の世継ぎにしたのです。次男は白河義弘から改名して芦名盛重と名乗りました。 これにより佐竹傘下に芦名、白河、二階堂、田村、石川、畠山、岩城、相馬の諸氏を服属させたのでした。


佐竹家は常陸国北部に位置する佐竹郷を本拠地とする大名でした。佐竹家は後三年の役に源義家に従った弟の新羅三郎義光の嫡男義業を初代としています。 つまり佐竹家の行動様式の根本は奥州に対する主権の獲得にあるのかも知れません。


戦国時代の佐竹家のベクトルの向きは南関東よりは奥州を向いていたように思われます。そしてこの南奥州の覇権を巡って伊達家と抗争はいわば必然だったように思われてきます。