2000/9/20



崇神朝の謎 第一章 「四道将軍の謎」


ここから、「記紀の崇神朝の記述は真実であるという立場」にたって、崇神朝とヤマトタケルの人生をトンデモ解釈を交えながらみていこうと思う。


三輪山は崇神朝が成立するよりもっと前からの倭国の聖地であった。崇神は三輪山の大物主的人物の配下であり、実権のある王ではなかった。当初の王はやはり大物主に連なるものであったのではなかろうか?崇神はその大物主的人物から権力を簒奪した。


倭国大乱を経て、各地の豪族の勢力離合集散は各地に強大な地方国家を生むことになり、それは従来の大物主的支配では押えきれなくなってきていたのかもしれない。 その簒奪は、四道から豪族を集め大物主的人物に叛旗を翻させることによって成功した。その主力となったのが三輪山に最も近い吉備播磨の平野を支配していた豪族吉備津彦に相当する勢力と九州以外で半島との直接交易ができる北陸方面を支配していた大彦に相当する勢力であったのではないだろうか?


崇神期の古墳とされる箸墓などからは吉備系土器が大量に発掘されている。これは吉備の人間が大挙して三輪山周辺にやって来たことを示しているのではないだろうか? つまり、吉備はじめ四道に攻め込んだのではなく、四道から大和大物主の本拠三輪山に攻め込んできた。ということではないだろうか? 崇神紀11年夏四月二十八日の条には 「四道将軍は、地方の敵を平らげた様子を報告した。この年異俗の人たち(四道将軍?)が大勢やってきて、国内(大和)は安らかとなった」 と、記されているのである。もちろん上記書紀からの引用につけた( )内は筆者の推測である。


箸墓に代表される前方後円墳は吉備発だという意見も良く聞く。この形式の古墳を造るため吉備から大勢の工人がやってきたということかもしれない。箸墓と相似型の墓も吉備にはあるらしい。もちろん厳密にはどちらが先かわかりはしないが、箸墓に吉備系土器が大量にあるということは、吉備が先と判断しても良い気がする。


三輪山侵攻への見かえりとして、大彦勢力と吉備津彦勢力は崇神朝に皇后を送り込むことになった。 つまり「四道将軍」とは崇神朝各大王の外戚(母体)だったのだ。 崇神朝時代も母系社会の妻問婚形式であったのなら次期大王は吉備津彦や大彦ら外戚の養育をうけることになる。これはそれぞれの地方豪族にとって魅力的なことではなかったか? 酷く不自然にも感じられる「国譲り」は崇神と四道将軍らが共謀した「(大物・大国)主殺し」を隠すためかもしれない。「主殺し」などをして成立した政権であるなら、「主」となったとき、今度は殺されるという前例を作らないためにも・・・・・・・・・。


高天原から降臨してきた天孫族などというが、いくら最新の武器を持ってこようと、突然他地域からやっとてきた降って湧いたような勢力が政権を握るなど考えられない現象ではないだろうか?文化・文明の遅れた(これさえも定かではない。倭の方が韓半島南部より遅れていたとは限らない)先住民を蹂躙して地元へ帰るのが関の山ではないか? 天孫と自称した氏族は南九州にルーツを持ちながら、前政権である出雲王権の流れを汲む大和の大物主政権内部に婚姻により入り込み、やがて大物主政権で重きを成した氏族・集団であったのではないだろうか? という具合に草創期の王権である崇神朝も他の例に漏れずれっきとした武力政権である。


大物主を祭祀した開祖崇神、天照を伊勢に祀った垂仁など信仰に厚い安定した王朝のような気もするが、西へ東へと大変な忙しさである。ここまで戦いつづけなくてはいけないというところに、崇神朝が、正当な手続きを踏んで(外から前政権である出雲系大和王権=大物主王権を武力で倒して)王権を手に入れたのではないことが忍ばれるではないか。


崇神の頃の出雲はというと、振根と飯入根の兄弟が出雲の神宝を管理しているところからみて、この兄弟が実質的支配者か宗教的統率者であったのだろう。兄の振根は神宝を崇神朝に差出すつもりがなかったようなので、大国主的信仰=旧時代的権威の上では崇神朝よりも出雲兄弟の方が上位に位置していたのかもしれない。つまりは、この二人は崇神朝に任命もしくは委任されて出雲大神を祭祀していたわけではないのだろう。 こういった関係の中、吉備津彦らによる出雲討伐が行われる。


ナラ盆地から出雲へと出陣したわけではないだろう。出雲と戦うにあたって後背にあたる大和を婚姻によって動けなくした吉備津彦の吉備勢力が出雲を攻めたと見るべきではないだろうか?吉備津彦が出雲を攻めた理由は鉄の争奪戦というところが本当のところではないかと思っている。 吉備と出雲は中国山脈という鉄資源の眠る山の表裏に位置している。 そして同じく鉄の代名詞といっても良い土地がらである。この両勢力の争いに鉄が絡まないわけはないのだ。


さて、出雲と吉備というと、産鉄地という以外にもう一つの共通点が見出せる。 そう四隅突出型墳丘墓である。 吉備の西側の山中に現れる四隅突出型墳丘墓は徐々に 吉備西部の山中>出雲と吉備の境>出雲東部>出雲西部>但馬>北陸 という具合に築造地域を広げていっている。これはそのまま後に吉備族と呼ばれる製鉄部族の動きではなかろうか? 製鉄関連祭祀という独特な祭祀集団の動きなのかもしれない。


四隅突出型墳丘墓は出雲平野周辺で最盛期を迎える。「倭国大乱」の頃と推定されている。 しかし、その反面吉備王国の中心地となるべき吉備平野に四隅突出型墳丘墓は見当たらない。 代わりに吉備平野では前方後円墳が発生したのかもしれない。どちらも墳丘墓祭祀という観点からみれば同様のものにも思える。


もうひとつ、傍証となるかどうかわからないが、一つの伝承を紹介しよう。 「天目一箇神」である。この神は一つ目で「あよあよ」と鳴く妖怪である(爆)いや、片目が開かなくなるほど熱心に鞴の火を見つめて鍛冶にせいを出した鍛冶神である。もう一つの名を「金屋子神」という。 この神は播磨から出雲へと移動した神である。播磨・吉備の境にもともといたという伝承が残されている。この神は死穢を拒まない神であり、死生観という側面からみれば死を穢としてしか見れない後世に人格を植え付けられた神よりも、原始的な神の姿をより残しているのかもしれない。


播磨にはこの神を祀る「天目一神社」があり、それは出雲型墳墓とされる方墳が集中している鴨(現在の加西・加東)の土地にある。加茂である。加茂といえば出雲の加茂、葛城の加茂、そして山城の賀茂である。いずれも出雲系とされる神を祀る土地である。 混乱させるかも知れないが、一つ目の神というのは洋の東西を問わず鍛冶を生業とする部族の神だそうだ。 興味深い伝承として、「片目のクシイナダヒメ」という伝承が武蔵の国あたりには残されている。これをもってイナダヒメも製鉄神だと言いきることはできないがスサノオ伝説と共に語られるこの神話は、古代関東では「製鉄交易は出雲から」という認識があった事を指しているかもしれない。 武蔵の国に多い氷川神社の祭神はスサノオとイナダヒメそして大国主である。そして加茂と同じく出雲系とされている。


出雲>吉備>播磨と流れてきた青銅器とは違い、製鉄民の移動を表すかもしれない金屋子神=天目一箇神は播磨>吉備>出雲と動いている。文化が変質しながらも循環しているのだ。これは吉備・播磨・出雲という土地が葦原中津国という大国主の支配した一つの「クニ」であったことを示しているのではないだろうか? つまりもともと、出雲・吉備・播磨・因幡・三丹などの中国山脈を擁する西国は全部が出雲であり、時代によっては全部が吉備であった。という事ではないだろうか?


1・青銅器祭祀の出雲(紀元前頃?)を攻撃したのは、九州勢力。>青銅器族のヤマト東遷の原因で、「国譲り神話」の原型となった?

2・出雲に上陸した九州勢力と出雲の地に残った青銅器出雲族(2世紀頃?)を攻撃したのは、吉備系製鉄祭祀族(四隅突出型墳丘墓族)この征伐は天之日矛対アシハラシコオの対決によって表現されている?

3・吉備系製鉄祭祀族(四隅突出型墳丘墓族)を攻撃したのはヤマトタケルに象徴される後期崇神朝としての吉備系農耕祭祀族(吉備・播磨王朝)で、この征伐が「ヤマタノオロチ退治」の原型なのかも?

4・出雲を支配した吉備・播磨王朝を出雲から駆逐したのが、神功皇后=応神仁徳朝(九州と大和の王統を統一した河内王朝)で、この征伐が「国譲り」でのアマテラスの動きに投影されているのかもしれない。


日本海を中心とした交易の基地としての出雲、銅産地としての出雲、鉄産地としての出雲、それぞれの時代出雲地方はいろんな顔を持っている。この顔の既得権益者は常に新しく登場してきた王権勢力と戦っていた。そして出雲地方には、常に新羅方面の影がちらついている。これが出雲が何度も征伐された理由ではないだろうか?


中央と呼ばれる新王朝が誕生するたびに出雲は旧体制の既得権益者の拠り所になっていったのかもしれない。それほど出雲地方は古代においては、勢力の保持に恵まれた立地条件を擁していたのかもしれない。


これを書いていてふと思ったのだが、出雲国風土記にヤマタノオロチ退治が記載されていないのは、出雲の南方が吉備の国とされたからかもしれない。オロチ退治の時点では出雲であった斐伊川の上流のまだ奥(南)にあったオロチの居場所は風土記編纂時点で備後あたりに編入されていたからではないのか?何しろ境界線がハッキリしない古代の話である。しかも備後山中にはオロチを切ったという剣(アメノハハキリの剣)が収められているとされる神社もあるのだ。備中(備後)神楽も出雲神楽・石見神楽とほぼ同じでありメインの演目はヤマタノオロチ退治であるのだ。 つまり、オロチがいたとされる地域は現在でいうところの出雲でなく備中にあった。備中(備後)国風土記の全文が残されていれば、そこにオロチのことが書かれていたのかもしれない。


おっと!知らない間に妄想世界に入った上に、崇神朝から大きく話がずれてしまった・・・・・。 話を戻そう。 吉備津彦の討伐により、ほぼ完全に出雲は吉備の傘下にはいった。それは四隅とそこからの吉備系土器の出土によって推測してもいいのではないだろうか?出雲優位であった吉備・出雲・大和の関係が激変した瞬間ではないだろうか? ついでといってはなんだが、古代の出雲という「土地」がどんな勢力支配をうけていたのかその変遷を整理してみよう。


T青銅器出雲族=大国主のモデル?。紀元頃まで

U四隅突出型墳丘墓勢力、三世紀ころまで

V北九州の古墳勢力(方墳)四世紀ころまで

W吉備王権(前方後方墳)五世紀ころまで

X畿内河内王朝、(前方後円墳)5世紀以降


播磨に残されている伝承も、平野部から徐々に伊和大神の伝承から吉備系氏族の伝承の方が色濃くなっていく。伊和大神の支配は一端瀬戸内、姫路平野まで広がるが、最終的に伊和大神を祀る伊和族は播磨の北西部に追いこめられるのだ。追い込めたのは大和ではなく出雲と同様に吉備であろう。そして、吉備の勢いは仲哀の死後一気に減っていき、播磨にも5世紀から河内王朝の象徴ともいうべき前方後円墳が登場してくるのである。


話を崇神朝に戻そう。 そしていよいよ、歴史上唯一の吉備播磨系皇后を娶る景行天皇が登場する。景行天皇の母は四道将軍外戚説に違わず、四道将軍のひとり丹波道主王を父とする日葉洲媛命である。 日葉洲媛命といえば、埴輪の登場が思い起こされる。垂仁の側近で相撲の元祖とされる出雲人野見宿禰が埴輪を作ったのはこの姫の葬儀が最初である。野見宿禰本人の墓が大和でも出雲でもなく播磨にあるのが不思議な感じがするが、彼は吉備津彦により征服された出雲から吉備・播磨の土地に連れてこられた出雲王族の一人だったのかもしれない。力自慢が鳴り響いていたのも、吉備津彦の率いる軍に対し彼が強く抵抗していたことの裏返しなのかもしれない。


大彦は北陸道へ派遣されたことになっている。ということは垂仁は近江方面の勢力を背景にしていたのか? 垂仁は前に述べたように日矛に甘い態度で接している。これは北陸道王国(東山道?)の総意ではなかったか? 北陸越の国といえば思い起こされるのが、大国主の御子で越の大王タケミナカタであるが、タケミナカタの本拠地は近江・越前あたりではなく越後・諏訪方面である。このタケミナカタ王権が半島交易で栄えた出雲王権の一部であり、これとは別に、またこのタケミナカタ勢力と敵対する形で近江・越前・能登あたりに上陸し勢力を広げた半島東北部系(新羅方面)の交易民勢力と近しいのが大彦に代表される北陸道王国(仮称)ではなかったかと思っている。


大彦もまた、もともとは出雲系ではあったのだろうが、半島勢力と独自交易をはじめることにより、早い段階で大物主・大国主勢力と袂をわかったのであろう。 つまり九州>瀬戸内経由ではなく、 新羅>北陸道王国(近江・越前・東山道)>崇神王朝 という直接交易ルートの利益代表者の立場にたったのが垂仁であるということだ。九州王の伊都都彦が日矛の動きを制約しようとしたのは南韓・大陸との直接交易ルートを九州の王権が握っており、新羅方面との交易をも山陰北陸を玄関口としていた崇神朝から奪おうしようとしたのでなかろうか? そう考えれば、垂仁が日矛に甘い理由も頷けるのではなかろうか?九州王の伊都都彦が新羅系(????)の日矛の動きを制約しようとしたのは南韓と大陸の交渉のみならず、新羅方面との交易をも大陸や南韓の後押しをうけ手にいれようとした事をさしているのかもしれない。


上の推測があたっているなら、景行の場合は丹波道主王つまりは彦坐王(ひこいますおう)の地元であり出雲と北陸の中間に位置する丹後・丹波・但馬地方の勢力を背景にしていたのか? 丹後・丹波・但馬地方といえば京都の北部から因幡あたりまでの山陰地方を指し、日矛の落ちつき先でもある出石を含む地域である。またもや日矛である。崇神朝2代の王にわたって日矛は何の影響を与えたのか?新羅から交易を求めてやってきた渡来人というだけなら、そうも珍しいことではあるまい。しかし名前どころか素性まではっきりしている。これは怪しい・・・・・。 しかもである。彼の子孫は後に応神朝の祖といってもいい神功皇后を輩出するのである。 さらにつけくわえれば、神功皇后の母系の祖は日矛であるが、父系の祖は彦坐王なのである。 いずれも父母の系統がどちらも丹後・丹波・但馬を根拠地とする勢力である。


丹後・丹波・但馬とは景行、そして後の応神の大きなスポンサーだったのではなかろうか? スポンサーになるためには、何らかの利益が必要だ。その利益とは・・・・・・。 言うまでもないだろう。キーワードは北九州である。丹後・丹波・但馬の勢力が中央王権の影にちらつくとき、それは「九州攻め」があるときなのである。 丹後・丹波・但馬は、出雲や北九州、そして越の国を差し置いて半島交易権の独占を狙っていたのではないだろうか? その動きは、半島内部での丹後・丹波・但馬と縁のある新羅方面と北九州と縁のある南韓方面の勢力の対決をもあらわしているのではなかろうか? 仲哀紀に登場し、筑前の伊都にて熊襲征伐にやってきた仲哀・神功一行を八尺瓊の勾玉と白銅(ますみ)の鏡と十掬剣でもって出迎えた五十跡手も日矛の子孫だと名乗っている。これなども神功皇后と同じ祖を持つという点をアピールしたかったのであろう。


さらに推測を挟めば、五十跡手は仲哀一行の先陣として筑紫に乗り込んでいたのではなかろうか?敵地にいきなり王と皇后が自ら乗り込むはずはない。 強力な配下で、しかも裏切る心配のない者を先んじて敵地に送るのが当然の戦略のように思える。つまり五十跡手は先遣隊の大将であり、熊襲および九州王への押さえとして伊都を先攻していたと考えるべきではなかろうか?後に神功と武内宿禰が応神を擁して大和へと攻め上るときも見送りをしている。そしてその功績により子孫が伊都の県主の座につくのである。


神功皇后の三韓征伐も、三韓との交易の全てを日矛の末裔たる神功とその代理人ともいうべき五十跡手に委ねたということを指しているのかもしれない。交易の窓口の一本化である。これによって得られる利益は、出雲、北陸、三丹と窓口が分裂していた頃に比べると莫大なものであったのではないかと思う。これらの交易による利益は全て、来るべき河内王朝の誕生に当てられたと見るべきではないだろうか?


話がまたまた飛んでしまった・・・・・・・。 四道将軍とは崇神朝の外戚であり、その勢力基盤の四道の王を指しているのだ。この四道の地域は、彼らの目の上のたんこぶである大和大物主と共通の敵九州王権という旧勢力があってこそ結びついたのであり、それがなくなることは、同時に四道が連携する意味も半減させるのである。 いずれにしても四道将軍は新しい時代の扉を開いたのである。