2000/9/24
さて、今回の本題は景行天皇である。 まず播磨風土記の景行天皇の巡幸についての説話を掻い摘んで紹介しようと思う。以下【】内。
【景行天皇が摂津播磨のあたりに狩りに出たとき、美しい女性と出会い一目ぼれしてしまいました。
妻問い(プロポーズ)をするために『三種の神器』を身にまとって正装し、『仲人の息長命』とともに都を旅立ちました。
道中、摂津の高瀬の川の渡し場で渡し守の小玉に船を出すように命じると、
「私は天皇の召使ではない」 と言われ断られてしまいます。
「そこをなんとかお頼みします」 と景行天皇は下手に出て、渡し賃として豪華な髪飾りを小玉に与えました。
すると、小玉は納得し、景行天皇一行はやっとのことで川を渡ることができました。
その美しい女性の名は播磨稲日大郎姫。 吉備津彦の娘ともキビヒメと和邇氏の間の子とも伝えられています。
景行天皇一行が播磨稲日大郎姫の暮らす加古川の東岸(現在の稲美町)にやって来ると、それを知った播磨稲日大郎姫は
「私のようなものが、天皇の妻になるなんて恐れ多い」
と、播磨灘に浮かぶ小島『南毘都麻(なびつま)』というところ隠れてしまいます。
天皇が播磨稲日大郎姫を探して賀古の松原というところに辿りつくと、一匹の白い犬が南毘都麻の方角をむいて吼えていました。
近くに居た者に 「この犬は誰の飼い犬か?」
と天皇が聞くと播磨稲日大郎姫の飼い犬だということが解りました。
それを聞いた天皇は播磨稲日大郎姫が南毘都麻の小島に隠れていることを知り、
「この島に隠し(なびし)愛しい人よ」 と呼びかけ船を出して南毘都麻の小島に播磨稲日大郎姫を迎えにいくと、今度は景行天皇の妻問いを受け入れたのか、
播磨稲日大郎姫と景行天皇は仲良く二艘の船を並べ一緒に陸に戻り、賀古の六継の里(加古川流域の里)というところで
めでたく結ばれることになりました。
その後、二人は同じく加古川流域の高宮というところを新居に選び、酒蔵や倉庫を築いて暮らしますが、
しばらくして城宮(きのみや)というところに移り無事正式な婚儀を結ぶことになります。】
以上の説話は播磨国風土記の賀古の郡に記されているものを略したものである。
まず、この説話で注意しなくてはいけない点は、播磨稲日大郎姫と景行天皇の婚姻が妻問い婚の形式で行われていることだ。
どういうことかというと、系譜の上では嫁取りであるが、『三種の神器を持参』した上、仲人まで立てたということは、実勢は婿入りであるということと実は同じなのである。しかも通常の近場の通い婚とも違って、二人は酒蔵を作るくらい(新しい酒を醸すには1年はかかりますよね?)なので少なくとも数年間加古川近辺で暮らしているということが分かる。つまりは一時的とはいえ都は播磨にあったといえるのではないかと思われてくるのだ?
そして仲人の息長命といえば、北陸道の入り口近江をバッグにつけた神功皇后の出身氏族でもある息長氏を連想させられる。
丹後・丹波・但馬の影響下にあったと思われる景行天皇に北陸道の近江一帯に勢力を持った息長氏の関係者(?)が同行して婚姻を結ぶということは、吉備氏出身の播磨稲日大郎姫と景行の結婚は吉備・播磨勢力と、大和・丹後・丹波・但馬・北陸道勢力の実質的結合をあらわしているのではないか?
もしそうなら、ここで吉備津彦によって開かれた地方勢力であった吉備・播磨王権は実質的に全国王権になったとも考えられると思う。
景行天皇一行が摂津で渡し守ごとき(とはいっても川は国境線の代わりでもあり、渡し守とは後世の関所の代表者のような者、つまり国境警備隊のようなものだったのかもしれませんが)に無礼な態度を取られているところを見ると、この渡し守は大和の王権所属の者ではなかったことが伺えられる。摂津の渡し守が吉備・播磨王権側の人間だったのだとすると大和にとって喉元にあたる摂津まで吉備の影響下にあったということなのかも知れない。しかも渡し守のとった態度は、大和の大王を大した事がないと思ってないような振るまいである。
大和と吉備の王権を比べた場合、景行の即位時点では吉備の方が強大な勢力を誇っていたのかも知れないと思っている。
それは、配下である(?)息長命の前で、渡し守にこれだけ無礼な態度(古代においてこれが無礼かどうかは疑問の残ることですが)を取られても尚、播磨稲日大郎姫を必要としたのは、吉備王権の政治的取り込みが景行天皇にとって何より必要なことであったことを表していると思われるからである。
吉備播磨王権と同化した景行天皇時代の崇神朝は、北陸道と後に畿内と呼ばれるほぼ全域に中国地方ほぼ全域を加えた巨大王権へと成長していくことになる。この巨大な王権の経済力と軍事力を背景として初めて、当時の崇神朝にとって目の上のたんこぶであった北九州への本格的侵攻と、出雲>大和を追われてもなお崇神朝に抵抗を続ける銅鐸祭祀出雲族の末裔たちの移動先であった東海以東の諸国への侵略が可能になったのではないだろうか?そのため「塞ノ神」として天照大神を伊勢の地に置いたのではないか?
垂仁時代に、天照の御魂が倭姫とともに伊勢に遷されている。これは、伊勢は大和を追われ東海地方に移住した銅鐸出雲族と崇神朝の境界線を示しているのではないかと思っている。
「三遠式銅鐸」という一般に「見る銅鐸」として有名な巨大化・美麗化した銅鐸がある。この巨大化と美麗化も崇神朝によって迫害された出雲族の故地への思いが込められてのことかも知れないと思っている。この銅鐸がその名の示すとおり三州や遠州でよく見られる形式の銅鐸であるのも、伊勢・尾張の辺りが畿内王権と東海以東勢力の境であり、伊勢湾が重要な交易基地であったことを表しているような気もするのだ(かなりいい加減な感傷です)。
「神風の伊勢」という言葉がある。(kituno_iさんありがとう!すっかり「ど忘れ」していました。神風は伊勢に掛かる枕詞です)
伊勢の国名の由来は「伊勢津彦」という神の名によるものなのだ。この神は大国主の御子として、その名を伊勢国風土記と播磨国風土記に止めている(Yahooの大国主トピック参照してくださいnunakawahimeさんよりの情報です)。同じく大国主の御子として有名なタケミナカタの鎮座する信濃の国では風の神として今尚神事が連綿と続いている神である。(一部ではタケミナカタの異名とも???)
そして、伊勢といえば、ヤマトタケルの東国征伐の出発地でもあり到着地でもある。
これらのことから、伊勢は銅鐸出雲族と崇神朝の国境地帯であったこと、そしてそこには天照に象徴される崇神朝の軍隊が配置されていたことを推測してもいいのではないだろうか?
景行天皇は、播磨稲日大郎姫との間に二人の男子を得る。双子である。兄の名はオオウスといい、後美濃に入ることになる。弟の名はコウス、長じての名をヤマトオグナ、後にヤマトタケル(日本武尊)と名乗ることになる古代史上最大にして最強の英雄である。彼は播磨で生を受けたのである。
播磨風土記によれば、播磨稲日大郎姫はのちに播磨の城宮の地で生涯を終えている。「年を経て」とあるので長生きはしたようだ。とすると熊襲征伐など出征続きの景行天皇のもとで養育されたとは考え難い。母である播磨稲日大郎姫のもとで青年期を迎えたと考えたほうがいいのではないだろうか?吉備氏と崇神朝の血を引き播磨で育ったということは、ヤマトタケルの背後には必ず吉備王権の存在があったと考えていいだろう。四道将軍の中でも抜群の働きをした吉備津彦の後裔でもある。
北陸道、近江越前あたりを本拠とした大彦をバックにした垂仁天皇、丹波、丹後、但馬を本拠とした丹波道主王ちぬをバックとした景行天皇、吉備・播磨を本拠とした吉備氏をバックにしたヤマトタケル。このように見てみると四道将軍とは崇神朝の代ごとの外戚勢力であるといえるのではないだろうか?
播磨稲日大郎姫は崇神朝においては景行天皇の皇后、吉備王権にとっては時代の吉備王となるはずのヤマトタケルの母だったのである。その播磨稲日大郎姫を差し置いて、景行天皇は美濃から新たに皇后を迎える。今度は播磨稲日大郎姫の時のような妻問いではない。新皇后の名がそれを如実にあらわしている。八坂「入」姫その人である。
西日本の大部分に影響を及ぼすこととなった崇神朝にとって美濃は恐れる対象でなかったことを、この婚姻は表している。そしてこの婚姻に大きく働いたのは四道将軍最後の一人で東海道に派遣されたことになっている武渟川別その人である。
彼について注意したいのは彼は出雲征伐にも吉備津彦とともに参戦していることである。東海に派遣されたのにも関わらずそれがどうして可能だったか?それは彼が他の三将軍よりも比較的自由な立場にたっていたからだ。つまり彼だけ大彦らと違い各地の現役の「王」ではなかったということである。彼は大彦の息子であり、崇神の皇后であるミマキ姫の兄弟である。
武渟川別とミマキ姫、大彦、大物主、崇神、出雲族の関係をトンデモ説で解釈してみよう。以下
大彦の一族はおそらく大物主・大国主に連なる出雲族系の一族だったと思っている。なぜなら崇神は大彦の娘に婿入りして大和の大王になっているからだ。ミマキ姫が血統的に三輪山の大物主祭祀を受け継いでも不自然ではない立場にあったからではないだろうか?つまり大物主の傍流である娘と大物主王権下で頭角をあらわしてきた九州系で実力のあったミマキイリヒコであったからこそ、周囲も大和王権の簒奪を黙認せざるを得なかったのではないかと思っている。大彦とその息子・武渟川別が出雲系だったからこそ東海地方へ移動した青銅器出雲族との対応および出雲族の故地出雲への侵攻を担当したのではないだろうか?さらにトンデモを飛躍させてみよう。
崇神天皇時点の出雲は、北九州王権による支配を受けていた可能性が高いと思っている。その北九州王への朝貢のための振根の筑紫入りであり、武渟川別の出陣は出雲に残っている同胞を九州王の支配から取り戻すための行動でもあったのではないのか?おそらく武渟川別と崇神の支配地域である大和や東海への移住促進も行ったのではないか?それが三遠式銅鐸の登場に作用したのかもしれない。
崇神が都とした纒向遺跡から吉備系の土器と共に尾張系の土器が発見されるのは、尾張系の土器とはもともと大和にいた出雲族が使っていた土器で、同じ土器を東海地方へ移動した後も作製使用したということではないだろうか?うん、それだと吉備と尾張が逆の場合も在りうるか・・・。???????
さて、そろそろトンデモ世界から戻ろう。 景行天皇と八坂入媛の間には数多くの御子ができる。そして彼・彼女たちは各地の豪族と婚姻を結び、崇神朝そしてそれに続く河内王朝の王権下で各地方に階層を形作っていくのである。しかしそれらの婚姻は崇神朝の武威が知れ渡ってはじめて相手が受け入れるという類のものである。そのためか景行天皇は熊襲征伐を主として各地を転戦する。
景行天皇自ら熊襲征伐のため九州に赴いたときのことである。神夏磯媛をはじめとする九州各地の熊襲部族を従えたり、討ち果たしたりした後、三毛の国で倒れたクヌギ巨木、それも九百七十丈もの長さの巨木を発見することになる。
倒れた巨木は何を意味するのか? 巨木は北九州のそれまでの王権の境界線を象徴しているのではないだろうか?以前スサノオの御子神のイソタケルが木を植えて全国を
旅したことを国境を定めてまわったのではないかと推測したことがある。巨木はそれだけ大きな勢力同士の境を指し示すものではないだろうか?景行天皇による熊襲征伐によって北部九州を従えたということを象徴する挿話のような気がする。
これは丹後・丹波・但馬の王権や北陸道の王権の悲願であった北九州の王権の既得権益である大陸および南韓との交易権の奪取に他ならないのではないだろうか?崇神朝が西日本各地の王権を統合し結成された最大の目標が達成された瞬間なのである。ということは、崇神朝の初期の役目は、この時点でほぼ完了したのである。
ここから先は残党の掃討と、崇神朝内での勢力争いとその粛清が主になる。その中で最も早く次ぎの動きを起こしたのは武内宿禰であった。彼は北陸道を巡察するという名目を得て、北陸道および丹後・丹波・但馬地域そして関東へ繋ぎを取り、崇神朝の皇統(この時点ではヤマトタケルを輩出している吉備・播磨王権である)の弱体化を狙って動きだしたのである。
次期大王になるはずのヤマトタケルは彼と彼の策謀にのったものたちの動きにより、崇神朝内の自分に刃向かう恐れのある勢力の粛清をすすめられなくなったのだ。一見大躍進にも見えるヤマトタケルの各地への出兵は吉備・播磨王権の経済的な弱体化を推し進めることになるのである。
ヤマトタケルは、播磨の地で生まれた。相当な難産だったと、地元の日岡神社の伝承は語っている。あまりの難産に、播磨稲日大郎姫や景行のお付きの者たちは、日岡の神に子供が無事誕生することを願い、物忌み(○○断ち)をして願をかけたということだ。飲食を最小限にし、穢れを避けるため出歩くのを極力控えたりしたそうだ。この物忌みの風習は長く日岡に残っていたということだ。例えば出歩くときに物音を立てないように戸口に藁をかませて、外にでたことを日岡の神に気付かれないようにしてみたり、調理に使う刃物を使わないようにしまったりして物忌みに勤めたらしい。
通常、御正月などにそういった物忌み(火をつかわないなど)をする場合が多いが、日岡ではタケルの誕生に因むことだと伝えられていたらしい。
しかし「ヤマトタケル(コウス・オグナも)」という名は「播磨国風土記」にはない。ただ景行天皇の御子をこの地で産み落とした、とだけ記されているのだ。もちろんその子がどうなったかは風土記は語らない。なんとも歯切れの悪い顛末である。
蛇足になるかもしれないが、播磨稲日大郎姫の最後の場面を紹介しよう。
【年を経て、播磨稲日大郎姫は城宮にて崩御された。墳墓を日岡に造成し、そこへご遺体を迎えようと、遺体を運ぶ一行が加古川を渡ろうとしたとき、「大きなつむじ風」が遺体を川の中へと吹き飛ばしてしまった。遺体はいくら探しても見つからない。僅かに彼女が使っていた領布と櫛箱が見つかっただけであった。仕方がないので、日岡の墓には領布と櫛箱を収めるた。だから播磨稲日大郎姫の墓は別名「ヒレ墓」という。播磨稲日大郎姫の死を大変悲しんだ景行天皇は、遺体が消えた加古川で取れた魚をたべないと宣言された。】
大きなつむじ風に遺体が飛ばされて消えてしまったというところに風葬に繋がるようなニュアンスも感じられる。
景行天皇は播磨稲日大郎姫の遺体を食べてしまったであろう加古川の魚を食べないと宣言しているのだ。二人の恋愛の深さは政略を越えていたのかもしれない。その深い愛の結晶がヤマトタケル兄弟なのだ。後にオオウスが美濃入りしたとき父である景行天皇の見初めた女性を横取りしたという話もあるが、天皇は罰を与えるのを避けている。播磨稲日大郎姫の息子だったからかもしれない。
伝ヒレ墓は現在も日岡の地に残っているらしい。ちなみに前方後円墳だそうだがホントかどうかは謎である。日岡一帯は古墳密集地であり、漢代式青銅鏡である「三角縁三神ニ獣鏡」(魏代以降の三角縁神獣鏡ではない)もこの一帯から出土している。相当大きな勢力があったらしく、中規模古墳遺跡がかなりあったらしいが、第二次世界大戦での空爆にあい、ほとんどが破壊されてしまったらしい。
播磨は、古代において吉備地方・山陰地方・四国瀬戸内と畿内王権の狭間にあり、交通の要衝であり、畿内王権の経済基盤でもあった。第二次世界大戦の空爆がなければもっと面白いものが発掘されていたかもしれないと思うと、少し残念である。もちろん歴史上、山陽道という列島の動脈の一つの入り口にあたる播磨地方は何度も港の造成など大規模土木工事が施されているため、古代の姿が見え難いのも実情である。中世以降の工事による地形変化は解っているだけでも結構広く大きな範囲で行われている。
さて、ヤマトタケルの話に入ろう。まずは古事記から探ってみよう。
古事記に記されたヤマトタケルの人生を一文字で言い表すなら「哀」ではないだろうか?
双子の兄を殺してしまうことにより、父である景行天皇に恐れられ西国征伐に狩り出されることとなる。兄を殺すことになった事件は景行がタケルに兄を呼びに行かせたことに起因している。有名な話ではあるが簡単に記してみよう。
【朝夕の食膳にでてこないオオウスに怒った景行天皇は、弟のタケルに兄であるオオウスを呼びに行かせ、食膳にでてくるように教え諭しなさいと命じた。その日から五日たってもオオウスが食膳にでてこないのを怪しんだ景行天皇は、タケルに対してまだ言いつけを実行していないのではないか?と不審に思い、タケルにそれを問いただした。タケルは兄を待ち伏せして捕まえ体を引き千切って捨ててしまったことを告白した。その話を聞いた景行天皇はタケルの荒っぽい性格を恐れて西国征伐に向かわせることにした】
といった記述が、古事記では繰り広げられている。なんと哀しい家族の話だろうか?
母である播磨稲日大郎姫を失ったためか景行一家は家族の様相を全く呈していない。肉親への愛情など全く感じさせない所業である。タケルだけに言えることではない。景行は自らオオウスに教え諭すことを放棄しているし、オオウスが食膳に出てこないことは現代風にいえば部屋への引きこもりといった感じがする。そしてとどめはタケルの残酷きわまりない対応であり、それにたいして景行はまたもや教え諭すことをせずにタケルを西国に追いやっているのだ。
何故だろう。大王の一家を説明する記述にしてはむごすぎる内容なのだ。
ひとつ注意したい場面がこの説話には含まれている。
「食膳を共にしない」という場面である。 食膳を共にすることは、外交的・政治的には、服属儀礼の一環なのである。
大国主が国譲りをしたときも、天津神一行を鱸の料理でもてなしている。いわゆる天の饗(あまのまぐない)である。
もちろん景行一家が本当に家族なら食膳饗応=服属儀礼という当て込みはできない。
しかしである。今まで見てきたように、タケル兄弟と景行はお互いが家族ではあってもそれぞれ違う勢力の代表者であると考えてみればどうだろう?タケル兄弟は吉備王権の代表者であり、景行天皇は、崇神朝(丹後・丹波・但馬・北陸道・大和盆地)の代表者であるということだ。
双子の兄弟の一方(オオウス)は、景行に服属しないという意味で食膳に参加しなかったのであり、タケルは代表権・決定権のない吉備・播磨王権からの客であるとみれば、この家族の関係が説明できるのではないだろうか?タケルだけが参加したということで、吉備・播磨王権が崇神朝に敵対しない旨を表現し、一方で兄の不参加は崇神朝に服属したわけではなく、あくまで同等の同盟関係であることを主張しているのではないだろうか?
つまりタケルがオオウスを殺したというのは詐術であり、本当はオオウス自体が景行の宮である大和磯城纒向日代宮にやってこなかった事を指しているのではないだろうか?
吉備播磨王権にとっての王は兄オオウスであり、タケルは崇神朝に差出された人質だったのかもしれない。その性情が荒く崇神朝ではもてあますことを観越しての吉備播磨王権側の罠だったのかもしれない。崇神朝というひとつの政権に参画することは認めても崇神朝というより景行の出身母体である丹後・丹波・但馬の下風に着くということを吉備・播磨王権側は躊躇していたのかもしれない。
事実、オオウスはタケルの出征後に再び歴史に登場する。美濃の媛を巡り父景行と争っているのだ。古事記では順序的に美濃からの嫁取りの後にオオウス殺しの事件が記されているが熊襲征伐に旅だったタケルの年齢は日本書紀によると
景行27年=16歳 であり、双子のオオウスも同年のはずである。とするとそれより以前に行われたはずの美濃の嫁取りの段階ではまだまだ子供とっいてもいい年齢であり、父の嫁になるはずの女性を横取りするなど不可能ではなかったか?書紀の年代によれば、播磨稲日大郎姫を娶ったのが、景行2年、美濃の嫁取り事件は景行4年である。せいぜい2歳か3歳である。
また次ぎに記載されている熊襲征伐の年月(景行12年)の直前に美濃事件が起こったとしても、10歳程度である。例え10歳での嫁取りが可能だったとしてもそれがオオウスの意思によって行われたとは思いがたい。吉備王権と崇神朝の政治的対立を美濃の嫁取り事件によって象徴しているだけなのではないだろうか?
タケルは景行が7年掛かった熊襲征伐をたったの1年で完了している。瀬戸内を眼前に控え、作物も豊富に取れる吉備播磨王権の後押しがあって初めて可能な戦争ではなかったか?景行自身による征伐は、播磨稲日大郎姫を娶り、表面的には合併したとはいえ背後に吉備王権という「獅子身中の虫」を意識しての熊襲征伐だった。しかしヤマトタケルはその吉備播磨王権の出身であるが故に吉備王権の反乱を考えなくていいどころか、吉備王権が主体となっての熊襲征伐だったのではないだろうか?だからこそ、たった1年で熊襲を討ちとることができたのではないだろうか?
吉備の軍勢主体にオオウスと縁の深い美濃の弓名人弟彦公とその配下の尾張系氏族の混成軍であったヤマトタケル率いる一軍こそ、吉備津彦以来の吉備播磨王権中の最大最強の軍隊であり、それは崇神朝内部で考えても最強・最大の軍勢だったのではないだろうか?
たった1年の強行軍で筑紫の島から取って帰したヤマトタケルが征西と帰朝を急いだ背景には、自分たち最強軍が留守の間に吉備・播磨王権が崇神朝によって壟断され、瓦解するのを恐れたからではないだろうか?
ヤマトタケルに熊襲討伐をさせたのも、吉備播磨の経済力を疲弊させようとの魂胆があってのものではなかったか?
タケルの率いた熊襲討伐軍は吉備・播磨に美濃・尾張によって形成されている。農作物の育てやすい広大な平野の経済力を背景にした軍である。強くて当然の軍隊ではなかったか?
九州から7年かけて交易権を奪った景行の崇神朝にとって、倭国統一王朝成立へ向かっての次なる一番の邪魔者は、吉備播磨平野と濃尾平野の経済力を支配する両地方に割拠する王たちであったことは想像に堅くない。崇神朝を磐石にするためには、外敵の掃討は勿論のこと、内部の粛清が大事なのである。偉い王様があちこちにいることは、とても不都合なことであり、その最大派閥が吉備播磨平野と濃尾平野の経済力を擁する王権だったのではないだろうか?
まさに、「狡兎(熊襲・土ぐも)死して走狗(ヤマトタケル・吉備播磨王権)煮らるる」である。
荒っぽい性格だったはずのタケルがこうもおとなしく景行天皇の命に従い西へ東へと討伐軍を起こし崇神朝のために尽しした理由は、自らが景行の次ぎの崇神朝の大王になることが当然だと認識していたからに他ならない。
話しはそれるが、古事記の中のヤマトタケルは荒っぽく残酷な性格から、何時の間にか英雄になってしまっている。まるでスサノオの如きトリックスターである。スサノオとヤマトタケルの共通点は他にもあるが、それは後述することにしたい。
実際、景行までの崇神朝の大王は各地方王権の王族の女を妻とした崇神朝の前大王の息子が次ぎの大王となっているのである。今度は吉備・播磨の番、つまりヤマトタケルもしくはオオウスいずれかが崇神朝4代目の大王につくはずであったのだ。
古事記に記載されて、書紀には記載されてない記述として「出雲タケル征伐」がある。
【やつめさす いずもたけるが はけるたち つづらさはまき さみなしにあはれ】
この歌は、出雲タケルを哀れんでいるが、実はヤマトタケルの最後を示唆しているのではないかとも思う。まさに哀れである。
何故に私がそう思うかというと、この歌そっくりな歌が、書紀では崇神時代に出雲神宝を管理していた振根・飯入根兄弟の戦いとして歌われているのである。以下がそれである。
【やくもたつ いずもたけるが はけるたち つづらさはまき さみなしにあはれ】
どうだろう?全く同じと言ってよい歌ではないだろうか?
要は、両方とも「だましうち」なのである。書紀では出雲兄弟が神宝を巡った争いの結果に歌われている歌である。ヤマトタケルにも兄弟がたくさんいる。書紀の記述によれば景行の血を引くヤマトタケルの兄弟はなんと80人である。
80人の兄弟といえば、大国主の兄弟も80人である。この人数の符合は何を意味しているのだろうか??