2000/9/28



崇神朝の謎 第三章 「ヤマトタケルの謎」


八十神(大国主神話)、八十梟帥(神武東征)、八十人兄弟(景行紀)、いずれも王になるための障害になる敵の数である。「八」というのはなんだか嘘っぽいのである。昔から「嘘のさんぱち」といったのは言い得て妙なのである。 ここでせっかく話が出たので出雲神話の大国主とヤマトタケルの類似性に言及してみよう。


まず、先にあげた八十神と八十王である。大国主とヤマトタケルにとってはどちらも兄弟にあたり、いわば王権相続のライバルである。 大国主八十神を退けることに成功し、出雲の王へとの道を1歩進めることができた。 一方タケルも皇太子として意識された3人の「日嗣の皇子」(成務・五百城入彦・ヤマトタケル)のうちに入っているので、勝ち残ったといえるだろう。 両者に共通する王権相続での戦いでの最大の難敵はなんといっても「猪(記)・鹿(紀)」であろう。どちらも「シシ」と読む。 古事記では両者とも「猪」により生命の危険に陥らされている。大国主には「赤い猪」、ヤマトタケルには「白い猪」である。といっても大国主の場合は焼けた石が赤い猪の正体であって厳密にいうと八十神の手によるものであり、タケルの場合は山の神の化身としての白い猪である。


いやタケルの場合も山ノ神というのは実のところライバルである兄弟達の策謀を指していたのかもしれない。 その危機を救ったのは、大国主は母神であり、ヤマトタケルは白い犬である。 ここで播磨国風土記を思い出してほしい。タケルの母播磨稲日大郎姫の飼い犬も白い犬であった。 ここでいう白い犬とは播磨稲日大郎姫のことではなかったか?つまりは母である播磨稲日大郎姫によって象徴される吉備王権がタケルを危機から救い出したのであり、これは古代王権の政治力・経済力が母系によって保証されることを示しているのではないか? つまり、四道将軍=崇神朝外戚説に通じるのである。


日嗣の皇子であり景行の名代として東征したタケルは東国では崇神朝の大王の座に一番近い位置におり、東征の直前に訪れた伊勢の地でもしかしたら即位していたのかもしれない。ヤマトヒメにより「草薙の剣」を授けられているのだから・・・・・。 白い犬はもう一箇所でてくるが、これについては後述したい。 そういえば、このヤマトヒメとの場面以降の展開は黄泉ノ国でスサノオと対面した時、大国主を助けたスセリヒメの場面にも通じているような気もする。まぁ、私の思い込みにしかすぎないのだが、もしそうなら王になるための最後の呪術的試練をタケルは受けていたと解釈することもできるのではないか?


皇祖神女神天照大神が持統天皇をモデルに想定された新しい神であるとの立場で考えた上で、タケルの伊勢訪問についてさらなるトンデモ飛躍をさせてもらえば、この時タケルが祈りヤマトヒメが傅いていた神は皇祖神女神天照大神ではない。 この時点での伊勢の大神といえば、大国主の御子神「伊勢津彦命」ではなかったか? そう考えれば、出雲に縁(えにし)を持つ草薙の剣に値する伝世の神剣が伊勢にあってもおかしくはない。伊勢にもまた大国主の影響が観られるのであり、伊勢(日昇)〜出雲(日没)ラインという呪術線は何も天皇家によって始められたものではないということだ。天皇神話成立以前から両地区は倭人の太陽祭祀にとって神聖な場所であったにすぎないのである。 強大な権力をもつようになった天皇家および朝廷は、古から続く祭祀を天皇祭祀という形体で覆い隠したのではないだろうか?


【実在した景行天皇と吉備播磨王権を繋ぐ皇子コウスを神格化したのが記紀神話におけるヤマトタケル像であり、それを更に神格化したものが俗に出雲神話といわれる記紀のスサノオ・大国主神話なのではないか?二重に神格化されたスサノオ・大国主像だからこそあそこまで巨大な神格にまで成長することができたのではないか?】


と、ふと思うことがある。つまり記紀の出雲神話の原型がヤマトタケル神話に求められるのではないだろうか?ということだ。 出雲神話からタケル神話を導き出したのではなく、タケル神話に符合するよう出雲神話を想定せざるを得なかったのではないたろうか? だからこそ、出雲のイメージは巨大化していったのである。 古代出雲王国の正体は天皇神話である記紀神話の向うにはなく土俗神話をより多く含む出雲国風土記・播磨国風土記・風土記逸文などの中に残された神話の向こうにあるような気がしてならない。 ヤマトタケルの死に方を除けば、景行天皇とヤマトタケル伝承の方が、王朝の初期成立神話としては、天皇家の他に倭国の正当な主権者らしき大国主を想定している「国譲り」よりかは妥当な気がする。何しろ二人の熊襲と蝦夷に対しての征伐話は倭国全体へヤマトの王権が波及していく様をあらわしているように思えてならないのだ。


もちろん私の主観でしかないので、意味のない解釈でしかないのかもしれない。いずれにせよ、天皇家の本当の意味でのエポックメーキングは神武東征神話ではなく、崇神朝から応神朝そして継体朝へとの移り変わりの中に隠されているのではないか? 少なくとも、崇神朝において「大神」といえば大国主もしくは出雲系の神であり天孫神ではないような気がする。つまり天孫神・天津神はまだ崇神朝の時点では「神」ではなく天皇家の祖先でしかなかったのだ。


さて、再びタケルの行動を追うことにしよう。 出雲梟帥を討ち、熊襲梟帥を討ち(この後、ヤマトタケルと名乗ることとなる)吉備に戻り征西を終了させた。最後にタケルが倒したのは「吉備の穴渡りの神」「難波の柏渡りの神」である。この二柱の悪神は、海や川を渡ることについて関わりのある神であることを示唆している。これを倒すということは、吉備の海・摂津の川によって別けられていた吉備播磨王権とヤマト崇神朝の完全な同化を意味しているのではないだろうか? 海上の塞の神のような雰囲気のある吉備穴渡りの神と難波柏渡りの神がいなくなったことは、九州から畿内へと交易品を中継する瀬戸内海人族の権益を取り上げたということなのかもしれない。つまり先に述べたように九州王権の既得権益であったの大陸・半島との交易権を摂津河内に移したことを示しているのではないだろうか?これはつまり畿内に新しい権益が産まれたことを意味するのである。このことが後の河内応神朝成立の経済的根本になるのかもしれない。


さて、いよいよ東征が始まるのだが、内容はともかく東征の時期が古事記と日本書紀では大いに食い違っている。 古事記と日本書紀では、そもそも征西の時期からして違うのかもしれないが、古事記に細かい年代が記されてないのではかりようがない。書紀では東征の役目は最初タケルの兄であるオオウスに与えられたがオオウスが、それを恐れて逃げてしまったのでタケルに再度の出陣を命じたことになっている。 これは、怪しい。 そんな情けない人物でありながら、オオウスは美濃の国の政事を景行より任じられているのだ。


嫁とりを邪魔された挙句、命に服さないオオウスこそ討伐されるべきであるがそんなことは記紀を通じてどこにも書かれていない。何故か? タケルの東征時期は古事記では、征西からの帰還後すぐであり、書紀では景行40年となっている。書紀では実に12年後である。書紀に従った方が妥当なような気もする。(その場合、タケルの年齢は29歳、壮年である。) これまた怪しいが、答えは簡単である。タケルが戻って12年の間にオオウスは東征に出発していたのだ。だからこそ美濃に居たのではないだろうか?そしてオオウスは、美濃で独自の勢力を広げていったのだ。このオオウスの東征(美濃入り)はおそらく大和崇神朝の都合とは関係なく、吉備王権の都合で美濃に入ったに違いない。だからこそオオウスの家系は美濃にて広がっていったのではないだろうか??


吉備王権の都合とは、タケルの征西に先だって行われた武内宿禰の東国巡察によって崇神朝および西国に報告された「日高見国」の存在が影響しているのではないだろうか?戦国時代風にいえば、「東国切取次第」の状態が演出されたのではないかと思う。吉備王権はまず征西することを余儀なくされている。これは出遅れといってもいい。それを取り戻すためにオオウスは動いていたのではないか? しかし、美濃に留まらざるを得なくなったのかもしれない。 何故か? 美濃の後背には飛騨がある。ここは関東以北に想定されている日高見ではなく、もうひとつの日高見であったのではなかろうか?


飛騨には興味深い伝承がのこされている。そう両面宿儺伝承である。 両面宿儺は、神武天皇に天皇の位を授けた神である一方、書紀では仁徳紀にあらわれる悪神である。両面宿儺について詳しくは私のページの「私説!古代史」をご覧になっていただきたい。 飛騨は鉄資源、銅資源の宝庫でもある。ここを攻略するため、オオウスは美濃に留まっていたのではないかと思う。 吉備王権は「真がね吹く」の枕詞が示す通り、製鉄民権力の側面も持っている。この地に眠る鉄資源を吉備は見逃さなかったのではないだろうか?


ヤマトタケル・大伴武日コンビが諏訪大神=タケミナカタ=イヅモタケル=山の神のいる精神的、軍事的本拠地である信濃、吉備武彦がその経済的本拠地である越を攻めることとなり、彼らは甲斐で軍隊を二手にわけた。吉備武彦は吉備から連れてきた吉備王権直属軍を以って越攻めにあたったのは想像に難くない。タケルらの率いた本隊は崇神朝から徴発された大伴軍と関東は甲斐や常陸で徴発したにより編成されたのであろう。関東から信濃への山越の道のりは余所者にはわかりにくかったにちがいない。


東征に従った部下については後述する。草薙の剣の由緒を示す熱田神宮縁起と古事記・日本書紀には、ここに大きな相違点があるのだ。伝承を伝えた主体の都合によって伝承は書き換えられていくものである。とくに神社の伝承は何時誰が創ったのかわからないものもが多いため取り扱いには注意したほうがいいような気がする。 戦いの内容は記されていない。山中で山の神の化身である白い鹿を倒したあと道に迷い、白い犬(=おそらく前に見たように吉備武彦の率いる吉備軍)によって救出されるのである。この戦いの次第はおそらく国譲り時の建御雷とタケミナカタの戦いと出雲梟帥征伐に詳述されている。だからこそ山の神といった本当の日本人の精神神話である話が挿入されたのであろう。


諏訪の国譲りには、面白い解釈もある。関東から天竜川まで戻り、川を遡上し諏訪にたどり着いたという解釈だ。天竜川沿いに建御雷を祭る神社が散見されるのもその根拠の一つになっていると同時に、それらの神社縁起にも天竜川遡上説に符号するものも多いらしい。何より天竜川は諏訪湖を水源としているのだ。 通常諏訪の国譲りは、出雲から日本海沿岸を北上し、越から糸魚川を遡上し、諏訪にたどり着いたというコースが想定されている。こちらにもそれに準じる神社縁起があるらしい。とかく神社縁起とは記紀神話をもとに作られたものが多いなかで、通常コースはともかく、天竜川コースは逆に興味深いものがある。


三遠式銅鐸の分布も天竜川河口に銅鐸出雲族の進出していたことを想起させる傍証になるかもしれない。 ついでといっては何だが、諏訪について少し考えたい。 タケミナカタの鎮座する諏訪は、弥生・古墳時代の遺跡よりも豊富な縄文遺跡があることで知られている。伊和大神の眠る播磨西北部もそうだ。これらのことからも出雲勢力を縄文時代からの勢力としてみる向きがある。しかし、古代出雲が最も栄えた(同時期の他地域と比べてという意味)時代は、まぎれもなく弥生時代の中葉なのであり、縄文時代とは数百年の差があり、縄文文化とは一線を画すものである。


何より、出雲から出土した豊富な青銅器は、出雲にあった勢力を弥生期の申し子といって差し支えないだろう。 諏訪や播磨にいたとされる出雲族とは、首長同士の婚姻で出雲の勢力とはつながってはいるが、出雲のような純粋な弥生勢力とは違い、縄文から続く勢力(諏訪など)の中に交易民としての出雲勢力が入りこみ、結合したものではないかと最近私は思うようになっている。後世の氏族意識に彩られたような父系をもとにした記紀神話のような系譜主義ではなく、出雲と諏訪や播磨の関係は交易(富を運んでくれるオオナムチスクナヒコナ伝承が客人神信仰に転じた?もしくはその逆?)で結びついた緩やかな関係であったのだろう。


一説に、諏訪明神(タケミナカタ)も蛇体だと言われている。これは大国主も大物主もそうであり、宇佐八幡でさえ蛇体の神なのである。蛇神信仰は古代日本ひいては東アジアにおいて普遍的な信仰であったことの裏返しでもある。また宇佐八幡も蛇体だということは皇室の信仰にも蛇神信仰が深いところで影響しているのではないかと思わせる。 それだけに、「スサノオのヤマタノオロチ退治」の神話については慎重に考えたいと思う。この神話については、製鉄王説、水害説をはじめいろいろな解釈が成されてはいるが、単純に「弥生期の記憶(歴史)の投影」などとは今のところ到底思えない。何しろ蛇を信仰していたはずの古代日本人が大蛇を斬り殺す神を英雄として認識するのだから・・・・・。 表面的には、蛇と太陽への信仰は大きく違っているように見えるが、どちらも「再生の死生観」を表しているという点においては同じである。また蛇神というと水神を想像される方も多いと思うが、水は鏡に通じる光物である。鏡の信仰にも蛇神が影響しているのかもしれない。


何はともあれ、越と諏訪の征伐を終えたヤマトタケルは、尾張に戻る。尾張氏の尾張国造の女ミヤズヒメと結婚するためだ。 だが、これにも疑問がある。 尾張氏のミヤズヒメは穂積氏の弟橘姫同様物部氏の同族である。ミヤズヒメとの婚姻によりヤマトタケルに一番近しいのは尾張氏ひいては物部氏ということをアピールするための説話だったのではないか?という疑問である。二氏族とも継体朝において皇族と婚姻を重ねていくのも何かなまぐさいものを感じさせる。 王権継承権の象徴=伝世の神剣草薙の剣を尾張氏のもとにおいて、伊吹山に向かうというところもとても怪しい。記紀の文脈から想像すると、タケルは伊勢以来草薙の剣を放していない。それがどうして近江には持たずに出向いたのか?


以下いつもの如くトンデモ妄想をしてみよう。 タケルは尾張氏に草薙の剣を奪われたのだ。だから近江には持っていけなかったのではないだろうか? 物部氏は後世軍事氏族として石上神宮をはじめとした武器祭祀をつかさどる氏族である。タケルの死は、尾張氏ひいては同族の物部氏がタケルに変わって朝廷の武力の象徴となったことを指し示しているのだ。 何のためか?吉備王権がそのまま崇神朝になることを阻むためである。ヤマト盆地のもともとの王権であった欠史八代の王朝を実質的に支えていたと見られる物部氏によるタケルによって象徴される吉備・播磨王権の勢力伸張阻止であったのではないだろうか? もしくは、草薙の剣と天叢雲剣は本来別物であって、天叢雲に象徴される出雲系豪族に代わり、草薙に象徴される尾張・物部系豪族に「キングメーカー」としての権力が移動したことを表しているのかもしれない。 やっかいな敵である出雲タケル=タケミナカタ=最後の大国主の系統にトドメをさしたはずのタケルを隠し、フツヌシという物部氏が祭祀する神をタケルの変わりに国譲りに登場させたのだ。


藤原氏がタケミカヅチという、自分たちの支配地の神をアピールしたことからもそれは伺えるのではないだろうか? タケミカヅチとはもともと常陸の地方神であったのを「剣の神」=「武神」として祀り直し(とはいっても、記紀の編纂の頃には常陸も名だたる鉄産地であり、地方神としてのタケミカヅチにも剣の神としての神格がもともとからあったのかもしれない。)、朝廷の軍事の守護神とされた神である。この神はある一定の氏族の祖先神ではない。系譜主義が貫かれている記紀神話に登場し、しかも活躍する神としては異例の存在なのだ。


逆から考えると、この神に対する祭祀権をもつもの=朝廷の軍事を牛耳るものなのである。そして、同じく軍神フツヌシを擁して東国支配の尖兵となった物部氏とともに常陸の国に蟠距した中臣氏後の藤原氏こそ、その役目(=軍権支配)を負うものという、実質的開祖不比等の意向が、新たなる軍神建御雷を産み「国譲り神話」に華々しく登場させたのであろう。 建御雷とフツヌシの挿入も出雲神話が実像と離れた形で巨大したことの原因の一つでもあろう。なんてことのない辺境の王を倒しても建御雷らに栄光は輝かない。


天津甕星という悪神が東国にいて、これを建御雷が倒したという話もあるそうだが、大きく扱われてはいない。鹿島神宮の縁起だそうだがあまり知られていないのも、そういう事を証明しているのではないだろうか?敵は大きいほうが倒しがいがあるのだ。そして倒した側の栄光はさらに大きなものとなる。 「建御雷(タケミカヅチ)」には「武甕槌」というもうひとつの表記がある。天津甕星にも共通する「甕」は神霊の依り代と考えられているが、「甕」に入れるものといえば「水」でありそれは「水鏡」としても使われていたのかもしれない。また、自分の数少ない人生経験の中からの例で申し訳ないのだが、夏、土間に花瓶やバケツといった「甕状」のものを置いていると勝手にはいっている神がいる。 それは「蛇(神)」である。もしかすると、各地で祀られている器状のものは「蛇神」を招来するための祭器ではなかったか?とも思えてくる。 そして、器状といえば銅鐸もその範疇に入るのかもしれない・・・・。


話が逸れてしまった。元へと戻そう。 武甕槌とは、槌で各地の神(蛇?)の依り代である甕を壊していく役割を担っていたのかもしれない。相手の崇める神を壊すこと、それは戦いを意味しているのではないだろうか?もちろん神話の上での喩え話の解釈にすぎない。 また軍神、武神の祭祀権を獲得するということは、朝廷の軍事権の獲得にも通じるのである。建御雷を祀る春日大社の祭祀権が春日氏(大?多?氏)から藤原氏に移動しているのも軍権が移動したことを表しているのではないか?古事記を記したとされる太安万侶の父(または本人?)は蝦夷征伐にも参加していたらしい。 さらにこの政治闘争勝者である大伴氏と尾張氏(物部氏)が支える大和の新しい大王により、ヤマトタケルの王朝の始祖的な神格とその系譜は尾張氏の女婿として組み込まれたのではないだろうか?


草薙の剣は熱田神宮に収められている。草薙の剣は出雲から国を継承したという証であり、草薙の剣を王位継承権のレガリアとしていたタケルの崇神朝の崩壊を意味するのではないか?後の世でいえば三種の神器を奪われたのと同じなのだ。 タケルの兄オオウスの家系が播磨でも吉備でもなく、尾張と美濃の豪族として後々まで続いていくのも、尾張氏への屈服を意味しているのかもしれない。


熱田神宮の縁起では、記紀には出てこない「武稲種」(ちなみにミヤズヒメの兄である)という尾張氏の祖先がタケルの東国征伐に随行することになっている。逆にこちらには大伴武日の名は出てこない。この大伴氏と尾張氏がでてきたり出てこなかったりするあたり、吉備武彦以外の二人の名は後世に挿入されたという裏返しではないかとも思う。となれば、尾張氏と同族であるミヤズ姫と弟橘姫の挿話さえもアトヅケ伝承に思えてくる。


ヤマトタケルとその直系の子孫に大王たる素質がなくなるという事を草薙の剣をタケルが手放したこと(実際は奪われたのか?)で表現しているのではないだろうか? 草薙の剣をもたないタケルの子孫の継承権の否定にもつながっていくのではないだろうか? 書紀にはヤマトタケルは「尾張の宮簀媛のところに長く留まった」と記載されているが、近江の伊吹山で病を得た後、長くともに暮らした妻の家に立ち寄らず、尾張からおそらくは海路で伊勢へとわたっている。まるで、逃げ出すように・・・・。尾張氏にとって大事だったのは、タケル本人そして彼との婚姻よりも、タケルの持つ正統性だったのではないだろうか? ヤマトタケルの最後の敵で、タケルに祟りを成した「近江の伊吹山の山の神」とは、「近江の志賀(滋賀?)の高穴穂の宮に天の下をお治めになった天皇」つまり稚足彦(ワカタラシヒコ)こと成務天皇をその人を指すのかもしれない。もしくはそれを操った武内宿禰さらには後の大和朝廷に深く関与する近江の豪族(息長氏など)を指し示しているような気もする。というのは、トンデモであろうか??


いずれにしても、タケルおよび吉備・播磨王権にとって近江方面が敵対勢力のある方向、鬼門であることを示唆しているような気がする。そして近江と連携してタケルを追い詰めたのが尾張といった感じであろうか? 尾張からヤマトへ戻る途中、伊勢神宮に立ち寄り、俘囚(帰属した蝦夷で特殊技能を持つものが多かったとされている。太刀作りなど。)を献上し、父・景行には、吉備武彦(タケルにとっは最も信用の置ける部下であり、同族である)に自分の命が最後を迎えたであろうことと、死にたいしての覚悟と父に尽せなくなったことに対しての悔恨を、自らの代わりに奏上させている。やはり最後に頼るのは母方の一族である。


神風の吹きすさぶ伊勢の国能褒野で初期大和朝廷最大の英雄ヤマトタケルは最後を迎えた。陵に葬られた彼の魂は白鳥となって倭つまり奈良盆地の琴弾原まで飛んでいった。さらに白鳥はそこから河内の古市へと向かう。伊勢・河内・奈良の三箇所にタケルの陵は作られた。名を「白鳥陵」という。 時に、三十歳という短く、戦いばかりの一生だったと言っていいだろう。 その人生で出会った女性たちとヤマトタケルの恋が語られる歌謡は、戦いに明け暮れたタケルの人生に対するせめてもの鎮魂なのかもしれない。