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杜子春の世界へ4(隋の成立から唐初期について)


随の煬帝とは中国史上最悪の皇帝として歴史にその名を留めています。何しろ日本語の発音でさえも「帝」を唯一「テイ」ではなく「ダイ」と読ませているのは彼だけです。確かに煬帝には皇帝としての「徳」を感じることはできないようです。しかし、中国歴代の王朝には彼と同じくらい「徳」を持たない皇帝が数多出現していますのでちょっと奇異な感じを受けるのも事実です。


高祖文帝は質素な生活を送りました。奢侈によって無用の負担を民衆にかける事は無かったと言われています。一方では皇族・貴族・官僚・将軍のような社会的上位者の行った不正に対しては厳刑をもって厳しく取り締まりを行いました。そのためなのかどうかは分かりませんが、陰険で人情を欠いていたとも言われています。しかし自らを厳しく律し手本となる生活を送った人物に対する評価としてはこれは不自然なのではないかと思います。文帝は皇帝としての「徳」を十分に持っていたように思います。逆に当時の貴族達がいかに大局的に見て社会に弊害しか及ぼさなかった事の証明でもあるように思っています。


父文帝を殺して帝位に就いた煬帝の行動とは絶頂期を築いた隋が二十年間をかけて蓄積した富を惜しげもなく使い果たしてしまった放蕩息子のようにも見えます。南朝の優雅な宮廷生活になじんでいた彼は北方の帝都にそれを再現するためまず長安から洛陽へと遷都しました。全国の富豪を移住させ、洛陽の郊外に壮麗な宮殿と庭園を造営したのです。この宮殿は顕仁宮と呼ばれました。さらに江都(揚州)にも同じ様な宮殿が造られたのです。そして江南の奇岩、珍木などを運搬するために運河を開く事を思い立ったと言われています。


しかし運河が開かれた理由を煬帝の交遊の為だけに求めるのはあまりにも片手落ちのように思います。この大運河の開通によって揚子江流域の穀倉地帯と長安、洛陽などの消費都市のある中原とが一つの経済圏として結びつく事が出来たのでした。また南北の政治的分裂の融合や文化の交流に大きな役割を果たしました。大運河の建設とは南北交通、食糧輸送の幹線として重大な意義を持つものであったのです。隋はまれにみる豊かな王朝と言われています。その最大の理由とは黄河と揚子江という二大流域に分かれていた経済がこの運河によって一体化し大陸全体の発展に大きく寄与した事が挙げられています。


ちなみに運河建設とはゼロから築かれたものではなく、部分的にすでに存在していた水路の一部を付け替えたりまたは川幅を拡大したりして整備されて行きました。運河の総延長距離は千八百キロにも及ぶと言われ、この大土木事業には百万人の民衆を使ったとさえ言われているのです。つまり大運河建設とは農業従事者から多数の労働力を強制的に引き抜く事を意味していました。さらに人的にも多くの犠牲が払われたのでした。人力の時代にこの様にして歴史的建造物である大運河は築かれました。これは隋滅亡の温床になっていきます。



※補足

運河の構成部分

@通済渠  黄河中流のべん州東から淮水

A刊 溝  淮水から揚子江

B永済渠  黄河からたく郡(北京)

C江南河  揚子江京口から余杭