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西暦610年頃までが煬帝にとっての最盛期にあたるのでしょうか。文帝から無理矢理帝位を引き継いだ604年当時において隋の国力はすでに絶頂期に達していたと思われます。607年になると洛陽から晋陽へ向かう軍用道路の整備が完成しています。煬帝は完成したばかりのこの道路を使って晋陽地方を巡幸しています。北方の遊牧民族である騎馬民族の侵略に備える場所がここ晋陽でした。ですからこの場所は隋の安全保障において非常に重要だったのです。
中国大陸の北方に広がる大草原は遊牧民族(=騎馬民族)の勢力範囲でした。彼らは歴代中国王朝にとって正に天敵と言う名に相応しいものだったと思います。秦や漢の時代には匈奴と呼ばれる遊牧民族が勢力を誇っていました。匈奴は漢の時代に東西に分裂しさらに南北に分裂したと言われています。彼らはモンゴル系ともトルコ系とも言われていていますがはっきりしたことは分かっていないようです。彼らはフン族とも近い関係にあったようです。フン族が西方へ移動したことによってヨーロッパでは諸民族が押し出される形になり民族大移動を引き起こします。これがローマ帝国の分裂の大きな要因の一つになっていくのです。
隋朝の頃の支配的遊牧民族(=騎馬民族)は突厥と呼ばれていました。彼らはかつての匈奴のように北方に広大な大遊牧帝国を築いていたのです。隋が中国を統一した頃に突厥は巨大になり過ぎて東西に分裂しています。このようにして中国が南北朝に分裂していた時とは逆に隋と突厥との力関係は逆転しました。
隋はまず東突厥を服従し入朝させることに成功しました。さらに西突厥の懐柔にも成功したのです。こうして最大の難敵を従えることに成功した煬帝は隋を中心と見た場合における西方域、南方域、東方域へとその影響力を及ぼしていくことになります。
隋の北西部に当たる青海地方には鮮卑族がチベット族を征服して吐谷渾を建国していました。その勢力範囲は西域にまで達していたようです。ちょうど隋と西域の貿易路を塞いでいるかたちになっていました。煬帝はこの吐谷渾も征服し西域との貿易路の安全を確保することに成功しています。
さらに遙か南方のインドシナ半島にまで軍隊や使者を派遣しました。そして林邑(チャンパ)、赤土国などの南方諸国を朝貢させることにも成功したのでした。ついには海を越えて台湾にも出兵しこれを征服しました。
日本からの遣隋使の時期とはちょうどこの頃に重なります。隋の影響力が四方に増大するに従って日本は朝鮮半島における勢力を失っていったと考えられます。遣隋使とは失地回復の意味もあったのではないかと思っています。特に607年に(608年??)に聖徳太子が小野妹子を派遣した時の煬帝宛への国書は名高いものです。
このようにして日本と隋は国交を確立させ良好な関係を樹立しましたました。この背景には隋と高句麗の緊張関係の高まりが大きな要因になっています。そして高句麗こそが隋を滅亡に追いやる主原因になっていくのです。私たちが知っているような未来など絶頂期にあった煬帝にとっては露ほども想像することは出来なかったに違いありません。
蛇足ながら隋書倭人伝に見られるように聖徳太子は「多利思比孤」に近い発音で呼ばれていたのだと思っています。聖徳太子のイメージからすると「タリシヒコ」とは「(知り)足りし彦」なのではないかと思っています。彼の優秀さが広く知られていた事の証のような気がしています。聖徳太子伝説が生まれた余地はここにあったのかも知れません。
※参考
新羅・百済、皆倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒に通使・往来す。業三年、その王多利思比孤、使を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。その国書にいわく、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云云」と。帝、これを覧て悦ばず、鴻臚卿にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」と。
匈奴
前三世紀から後五世紀にわたって中国を脅かした北方の遊牧民族です。首長を単于(ゼンウ)と称し、冒頓単于(前209〜前174)以後の二代が全盛期と見られています。前漢の武帝の時代以後は逆に漢の圧迫をうけて東西に分裂しました。後漢の時にさらに南北に分裂しています。
突厥
トルコ系の遊牧民と言われています。六世紀に入るとアルタイ山麓にいた鉄勒の一族が柔然の支配を破って独立して伊犁可汗と称しモンゴル高原・中央アジアに大遊牧帝国を建設しました。六世紀後半には東西に分裂して前後して唐に征服されました。
鉄勒
隋・唐代におけるトルコ系遊牧民をこのように呼んでいます。丁零・高車とも表記されています。
柔然
モンゴル系の遊牧民族です。東晋の初めには鮮卑の拓跋氏に隷属していました。六世紀中ごろ突厥に滅ぼされました。
吐谷渾
四世紀初め頃に鮮卑族の一部が西方へ移り青海地方に拠ってチベット族の羌を支配して建てた国です。六六三年吐蕃に滅ぼされました。
チャンパ
インドシナ半島南東部の国です。中国では古く林邑と称し、唐代には環、唐末から占城と言われました。海上交通路の要衝にあたり中継貿易基地として繁栄しました。朱印船貿易によって日本の商人も多数渡航しています。
赤土国
隋書に見える東南アジアの国名ですが所在には諸説があります。