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訂正6/20
611年になると煬帝はいよいよ隋滅亡への第1歩となる高句麗遠征に乗り出しました。高句麗が隋の冊封体制に入るのを拒否した事がその理由になっています。何故高句麗はこのように最強国である隋に反抗する態度をとったのでしょうか。この理由については本当のところは謎です。しかし隋が中国大陸の再統一を成し遂げる以前の南北朝時代に南朝の陳(589年滅亡)と結んで隋に対抗していた経緯があるからではないかと見られています。
この時高句麗は陳と結び遼西地域にまで進出を図ろうとしました。しかし文帝に討たれて失敗に終わっています。隋の立場からするとこの撃退は高句麗の進出を単に阻止したに過ぎませんでした。いわば一種の借りができたのです。そのため文帝も598年に遠征軍を送っていますがこれは失敗に終わりました。
当時の実態としてはまだ「パックス隋」が確固たるものとして確立されていた訳ではなかったのです。確かに「パックス隋」が東北アジア全域においてほとんど達成されつつある情勢なのは間違いのないところだろうと思います。しかしそれは上辺だけの事だったのかも知れません。何しろ僅か20年前までこの大陸では400年近くの長期間に渡って王朝の興亡が何度も繰り返され続けていたのです。
北方の強国である突厥にしてもこの時点では隋に臣従していますがこれが永遠に続く保障など何処にもありませんでした。そして高句麗と連携して反隋同盟を結成する可能性もあったと言われています。このような事態は隋にとって正に大きな脅威でした。そのためにもこの両者の同盟は何としても阻止する必要があったのです。隋は安全保障上からも高句麗を臣従さなければならなったのです。つまり高句麗遠征とは煬帝の個人的な野望から起こされたものであり余りにも無謀だったと結論づけるのは早計だと思います。
煬帝は百万万以上といわれる大軍を動員して高句麗遠征を行ったと記されています。しかしこれほどの物量作戦を展開したにもかかわらず大遠征の結果は失敗に終わりました。このため翌612年には再び遠征軍を送るという具合に泥沼に足を踏み入れていく事になるのです。
朝鮮におけるこの二度の大敗を契機として大規模な農民暴動が起きる事になります。高句麗遠征のための軍役の負担が農民にとって大きすぎたためと言われています。これこそが隋滅亡の最大の理由になっています。全国各地で不満が続出して暴動がぼっ発しました。大遠征を遂行するめに人材のみならず物資までも農民から大量に引き抜き過ぎたからです。
これはいわば前皇帝文帝が行った善政の正に対極に位置する悪政そのものでした。しかしこの敗北までは統一を成し遂げた皇帝の実力とはオールマイティと思われていたのです。皇帝の権力とは絶対であり逆らいようがないと思われていたのですが、朝鮮における二度の大敗はこの神話を打ち破ってしまったのです。
農民暴動は組織的なものではなく自然発生的な無秩序な反乱でした。彼らは隋の悪政の代理人である憎むべき地方官を虐殺したとの事です。しかしやがてこの反乱に各地の豪族や官僚が参加し始めるのです。彼らはそれぞれに国を建て地方政権に成長して行きます。
隋は確かに中国史上でも有数の強力な王朝でした。しかし、その全国統一のスピードが余りにも早かったために依然として旧勢力の組織が各地に根強く残っていたのではないかと思います。つまりこの国は一種のモザイク状態だったのです。近年のユーゴスラビア解体における痛ましい出来事にも通じるところがあるのではないかと思います。このような組織は要としての上からの押さえが利かなくなれば自らの集団のためだけに動くものなのです。秦が短期で潰れた理由も同様ではないかと思います。
隋朝廷内の派閥闘争をみると建国に対して功績があった北周系胡族の高潁(こうけい)が失脚しています。代わって北周系漢化胡族の楊素が勢力を得しました。これは煬帝が即位するために策謀を尽くしたからだと言われています。しかし結局彼は煬帝に憎まれて失脚してしまいました。こうして高潁系統の蘇威が勢力を盛り返します。しかしこれを不満としてさらには自らの身の危険を痛感した楊素の子供である玄感が613年に反乱を起こしたのでした。この反乱は鎮圧されましたが逆に農民反乱の範囲がこれを期に中国全土へと広がったのでした。つまりこれ以前の農民暴動は高句麗遠征の被害を最も受けやすい地域である河北、山東方面に限られていたのですがこれ以降は全国的に広がって行くのです。
この結果として農民暴動を利用した軍閥に中国全土は割拠されたのでした。このようにして中国大陸は次第に軍閥による群雄割拠状態になっていきます。そしてその数は200を越えるまでに膨らんでいくのです。611年に始まった大内乱は620年になってようやく収集されるまでに約10年近くもの期間に渡り続く事になるのです。
この大乱を収集して次の大帝国を築くのが唐です。