6/24



杜子春の世界へ8(隋の成立から唐初期について)


とう、もろこし、からなど私たちが抱く古き良き時代の中国のイメージとはそのほとんどを唐の時代に見つけることが出来るように思っています。曹操や諸葛孔明などの英雄達が縦横無尽の大活躍をする三国志の物語も私たちにとって大変なじみの深いものではありますが、実際は唐の時代の風習が物語の中に強く反映されているように感じています。三国志の時代とは約1800年前になりますが「三国志演義」が出来たのは元の時代なのです。


唐とは恐らく漢民族が建てた国家としての(厳密に言えば皇帝は北方の鮮卑系です)絶頂期に当たるのではないでしょうか??


煬帝は反乱の範囲が広がるにも関わらず第三次高句麗遠征を実行しました。これを無謀の一言で片づけることは簡単です。しかし煬帝の胸の内には高句麗問題さえ解決できれば全てはうまくいくはずという考え(計算)があったのではないかと思っています。事実、三度の遠征を受けた高句麗はもはや持ちこたえる事が出来ずに白旗を掲げています。やはり最後にものをいうのは総合的な国力なのだと思います。それにも関わらず煬帝はこれを生かすことに失敗してしまったのです。


超大国である隋の国政を操るということはあたかもロデオのように暴れ馬を操ることと同じようなものだったのかも知れません。少しでもバランスを崩したり力を抜けばすぐに振り落とされてしまうものなのかも知れません。煬帝の度重なる失政により指導力が低下したことは相対的には隋国内の活発な圧力との力関係が逆転したのだと言えるのではないでしょうか。


隋王朝滅亡後に大陸全土において約10年間(=唐の成立から10年間)の長期に渡って繰り広げられた新たな王者統一戦とは正に「たが」の外れた状態そのものだったのかも知れません。確かにこの時期に雨後の竹の子のように各地に独立政権が誕生しています。 彼らの中で最終勝利者として輝かしく歴史に名をとどめているのが大唐帝国を築いた高祖(=李淵)と太宗(=李世民)なのです。


南北朝から唐代にかけては貴族制度の最も盛んな時代であり貴族の地位が確固たるものとして確立されていたと言われています。どの地方のどの氏の出身であるかによって社会的身分の高下が決定されたとの事です。ですから隋王朝家と同等の貴族集団に属していた李氏が有利なポジションにいたのは間違いが無いところだと思っています。楊氏が没落すればその分相対的に名声が高まる事になるからです。


歴代北朝とは武川を本拠地とする軍閥たちによって握られてきたといっても過言ではないと思っています。彼らが軍事貴族として北朝を維持してきたのでした。そしてその拡大版とも言える隋王朝もやはり同じなのです。さらにその後継者である唐もまた同様だったのです。


唐朝を築いた李氏は隋朝の楊氏と同様に鮮卑系の名門貴族出身でした。彼の家は南北朝時代の歴代北朝において重要な地位にあった家系なのです。李氏の家系は西魏の時代に八柱国として貴族の地位を確固たるものとしていますから格式においては隋王朝を築いた楊氏よりも上であると言えます


彼らは血統的には鮮卑と言った方が正しいと思いますが文化的にはかなり漢族化していたと見られています。さらに唐の高祖と隋の煬帝は母がともに鮮卑の名門貴族である弧特信の娘たちでしたので、見方によっては弧特信とは信長によって滅ぼされた浅井長政のような存在なのかも知れません。


隋末期において李淵は山西太原の守護(留守)の地位にありました。太原とは煬帝が長安や洛陽のほかに作った晋陽宮の所在地の事です。ここは山西方面の反乱に対する鎮圧と最強の敵である突厥対策における重要拠点でもありました。 そのために李淵や李世民は隋の精鋭部隊を保持していたのです。これは大きな幸運を意味していました。いかに李世民が天才的な軍事的才能があったにしても兵力を生み出すことは出来ないからです。


彼らは一気に長安を制圧して煬帝の13歳の孫を恭帝として立てたのです。このとき煬帝は江南にいましたので自らの意志とは関係なく皇帝の地位から引きずり落とされたのでした。 さらに反乱軍を起こしていた王世充も同様に煬帝の孫を皇帝に立てています。彼もまた恭帝と呼ばれています。


このように隋王朝から唐王朝に至る中国の国譲りの物語とは、正に極めて近い関係の(血液の流れが濃い)親戚間における権力の委譲だったのです。これは「易姓革命」と呼ばれています。