Mellow

6














 ほんの数瞬間の鼓動が、酷く耳を打った。
 それが静まり返った室内に響いた様な錯覚を覚えて、異常なほどに自分が緊張しているのを知る。それを頭の一部
では冷静に認識しながらも、大半は目の前に立つ男のことで頭はいっぱいだった。そう言った坂井の動揺など知らぬ
振りに見える下村は、坂井が近づいたことで密かに縮まった距離に居心地が悪そうに身じろいで、只でさえ分からぬ顔
を俯け、更に坂井から隠してしまう。それをじれったく思いながら、こうして向き合うことに下村が苦痛を感じていると言う
事実に胸は痛んだ。
「下村…」
 どうにか震えずに出すことに成功した声は、それでも細部に渡る緊張感までは消せず、しかしそれを恥ずかしいと思
うほどの余裕は坂井に残されてはいなかった。
 今、本当に言うべきなのだろうか。
 先ほどまで確かにあった決心が、あっけなく揺らぐのを感じ、何度も繰り返した問いがまた頭に浮かんだ。しかしそれ
は下村がこちらを見ないからだと決め付けて、何とか揺らぐ心を抑えようとする。 無意識のうちに細かな震えをおび始
めた手を慌てて握りこむ。冷たく凍った指先は痺れたように感覚が無かった。
「なあ…こっち、向けよ」
 下村が弾かれた様に坂井を見た。その拍子に斜めに差し込んだ太陽をきらりと下村の目が反射して、それだけでも
う、今まで取り繕った平静が崩れてしまいそうで慌てて気を取り直さなければならなかった。しかし折角見ることの叶っ
たそれも一瞬のことで、表情はまた影に隠され、明るい光が余計にそのコントラストを強めた。
「…なんだ」
 抑えたように静かな声は、感情が伺えない。いや、感情を抑えると言う感情があると言えばあるのだが、それ以上は
ぬかりなく隠して下村はじっと坂井を凝視した。
 途端にはね上がった心音が耳に煩い。それでも下村の声はよく耳に届いた。
 本当はこのまま、何も言わないままで済ませばいいのかもしれない。そうすれば、今まで同じ様に居ることは出来るの
だ。
また頭をもたげる気弱さに、坂井はうんざりと思い、しかしそれが自分の本質であるのかも知れないと思った。
 だから、今ままで言えなかった。そうすることで下村が決定的に離れてしまうことを恐れて。
 それでも。
「お前が、好きだ。ずっと前から、好きだった。…お前を、誰にも渡したくなかった」
 言えた。ずっと、言いたかった言葉。
 あの夜に言ったきり、一度も口しなかった言葉。
 ――…口にするのを、恐れていた言葉。
 あの夜のことを、酔った勢いだと言うのは簡単だった。そうすれば、多分下村も呆れながらも笑って過去のことにして
くれただろう。だからこそ、こんな風に本気であることを知られるのを恐れたのは、それによって下村が自分を疎ましく
思うかもしれないということだ。
 そうして、自分から離れて行ってしまうことを。
 言った途端に覚束なくなった足が震えそうで、たった一言の告白にこんなにも緊張を強いられるな
ど、今時中学生でもこんな風ではないだろうと自身に毒づきながら、それでもそれは下村だからなのだと思った。
 一筋縄ではいかない、どうしようもなく意地悪で、疑り深くて優しい男。
 こんなたった一言の言葉でさえ、相手が下村であるというだけで相当な覚悟が要求されるのだ。一か八かの勝負に
出るのもその後のことばかり考えて、ずっと踏出しあぐねていた。
 下村である、というだけで、自分はこんなにも胸が苦しい。
 何も答えない下村に沈黙が胸に落ちて痛み始めたそこを無意識に掻き毟りそうになったところを、寸でで下村が掴ん
だ。
「し、下村…?」 
 ぎょっとして目を上げると、至近距離から思わぬ静けさを湛えた目で下村はこちらを見ていた。
「掴むな。赤くなる」
 下村は、かき寄せて危うく爪を立てかけた胸元を見ていてそれにハッとする
 坂井は皮膚が幾分か弱く、強く擦っただけで赤く後が残ったり、筋になって傷が残ってしまう。それを案じた下村に、
坂井は顔が赤くなるのが分かった。
 男の癖に肌が弱いのを隠していたかった坂井が、あえてその話をしたのは下村が坂井の背中に跡を残した事を酷く
気に病んだからだった。確かに次の日の朝、洗面所の鏡に映った自分の背中には血こそ出てはいないものの、派手
に跡が残っていて、その尋常でない様子に下村が驚いて坂井に謝ったのだ。その時、特別に下村が強く掴んではいな
いと安心させる為に話したのだった。
 その事を暗に示されて、こんな風に平素な顔でそんな事を平然と言ってのける下村に、自分だけが羞恥に顔を赤ら
めているのかと思うと余計に恥ずかしく、坂井は目を逸らした。
「お前がどう思っているのか知らないが」
 途端押し黙ってしまった坂井に、左腕を掴んだまま下村が呟いた。咄嗟に下村の顔見て、その顔に驚いた。
「俺はお前としたことを、忘れたつもりは無い」
 部屋の暗さに慣れた目が映し出したのは、今にも泣きそうな下村の顔だった。
「…お前が言ったことも」
「下村…」
 小刻みに震えているのは、自分なのか、それとも下村なのか坂井にはもう分からなかった。
 それでも、目の前で俯くことで瞳を隠した下村の気持ちだけは少し分かった。
「…坂井」
 自分の名前が言葉になる前に、その手を引き寄せもう、誰にも渡さないとくちづけた。





















前章   目次  次章