ひたむきに目を閉じたままのその目蓋にくちづけ、頬にくちづけ、そしてもう一度深く、くちづけを交わした。 それは先ほどまでの荒々しい心情とは裏腹に、ひどく穏やかで優しく、まるで眠りにつく前の様に静かだった。それは 今、触れ合ったままの下村も同じであるようで、わずかに離れた唇から小さな安堵のため息が漏れた。それは思いの 他坂井を勇気付け、自分の言動に対して異を唱えない下村に坂井は自分が既に受け入れられて居たのだという事を 始めて知ったのだった。 「もっと早く、ちゃんと言えばよかったんだな。俺は…」 呟いて、苦笑した。 下村を失うことを恐れるあまり、当の下村さえも信じられなかったことが、恥ずかしい。 「でも、本当にお前、分かりずらいよ」 こめかみにくちづけながら、今更ながらの泣き言を言ってみる。すると、下村は少しキョンとした表情をしてからククッ と笑いを漏らした。 「それは俺の性分だ」 それは承知の上だろ?と一向に悪びれない下村に、ため息を漏らす。でもこんな風に下村が笑うのなら、悪くない、と 思ってしまう。ほんの少し前まで、こんなことさえ聞くことが出来なかった時と比べれば。 「大体、あれだけやっといて、分かりずらいもクソも無いもんだがな」 今度は珍しく拗ねたような物言いに、坂井は驚いて下村の顔をマジマジと眺めてしまった。それが気に入らないのか、 下村はフイッと目を逸らして俯いてしまった。 「…でもお前、なんか平気そうな顔、してたし…遊ばれてるのかと…」 その言葉に、弾かれるように下村は顔を上げた。 「ばっ!ふざけんな!なんで遊びなんかで、俺が足開くと…!」 言ってから、下村はあからさまにしまった、という顔をしたがもう遅かった。 下村がその顔を手の平で覆ってどうにか隠せたのは、坂井が真正面から真っ赤に染まった顔をしっかり目撃してしま った後だった。その顔を、不覚にも可愛いと思うものの、それよりも純粋な嫉妬と疑問を感じて、聞くのならこのタイミン グを逃して他はない、と坂井は息を吸い込んだ。 「でも、ドクとのことは…?」 ずっと、気になって気に入らなくて心配で嫉妬していた。坂井とはまた違う形で深く下村と繋がりを持つあの怠慢医師 に。 今朝のことにしても結局は下村と桜内との事を勘ぐって、探し回っていたのだ。 まあ、まさか即物的に診療所で酔いつぶれているとは思わなかったが。 勢いをつけても、どうにかおずおずと言った具合に言及した坂井に、下村はゆっくりと顔を上げると形の良い眉を顰 めて、むっつりと目を据わらせた。 あ、ヤバイ。 坂井は反射的に身が竦むのが分かった。 それは下村が道端で出くわしたチンピラや、身の程しらずのやくざ崩れを打ち倒す数瞬前に見せる目に酷似していた からだ。普段であれば望むところだと拳のひとつも振り上げるところだが、場合が場合なだけに、無言の重圧は坂井は 萎縮させた。 しかし予想していたような怒声や鉄拳はいくら待っても飛んではこず、恐る恐ると覗き込んだ下村の顔は先ほどとは 違って何故か切なそうな顔をしていた。その意味が掴めずに坂井は困惑する。 「…否定する気はないが…桜内さんはお前とは違う。そうとしか今は言えない。あれも俺にとっては大切な人だ」 そう言って、下村はまた俯いた。言ったきりかみ締めた唇が白くなっている。酷く辛そうなその顔にまるで理不尽な事 で相手を傷つけている様な気分になって、坂井はますます困惑した。 下村がこの街に残ると言った時、坂井は顔には出さずに只一言、そうか、とだけ答えた。 カウンターには既に川中はおらず、週の半ばで客足も今ひとつという夜だった。 下村はいつもの様に真っ直ぐカウンターに歩いて来ると、オーダーも入らずグラスを磨くことに没頭していた坂井の目 の前に当然のごとく腰掛けた。それに坂井がチラリと目をやると下村は口元だけで小さく微笑んだ。 そして、言ったのだ。 『この街に残るよ』 そう言って、もう一度今度は深く微笑んだ。 その、顔が。 この街に残るのではなく、取り残されてしまったと言っているようで坂井はどうしようもなく胸が痛んだ。 しかしそれは表情にはださず、一言そうかと答えながら、その時に、思ったのだ。 この男を、もう一人にはしたくない、と。 この男のこんな顔を二度と見たくない、と。 しかし、今、この瞬間に見せいている下村の顔があの時の顔とダブって見えて、そんな顔をさせたことを後悔していい のか、それとも桜内とのことを否定しないことに怒るべきなのかが分からず混乱した。しかし、次の一撃は瞬く間にそん なセンチな物思いを吹き飛ばして余りあるものだった。 「…一応言っとくが」 かみ締めた唇が、痛々しく赤くなっている。そんなことをぼんやりと哀しく思う。下村はそんな坂井をじっと見つめた。 「桜内さんには入れさせてないぞ」 「…は?」 その時の下村の顔は、今までに無いほどに真剣だった。 「お前がそいうこと気にするとは思ってなかったから、特に言わなかったけど。大体、男同士でどうこうっていうのもな。 でもなんか、お前は気にしてるみてえだから。一応、言っといた方がいいのかと思って」 そう言う下村の顔は本当に真剣だった。からかいや、おどけた風は微塵も無い。 坂井にしたってそれは確かに大問題だ。真剣にだってなる。しかし、ちょっとはセンチメンタルで甘い雰囲気が漂い始 めたこのタイミングに、堂々と恥じらいも無く直接的な表現を使った下村に大変驚いてしまったのだった。それが、下村 の坂井に対する精一杯の誠意の表れであるとは思いもよらずに。 「それって…マジ…?」 あんまりにも率直な下村の物言いに、坂井の思考回路は上手く繋がらなかった。しかし、確かめたいことは、しっかり と口にする辺り、坂井も相当にちゃっかりしている。しかし下村はそんな坂井にもきちんと頷いて答えて見せた。 「入れてねえ。お前だけだ」 「ええ?!お、お前初めてだったのか!」 あの時、この上なく下村を優しく扱ったが、それにしたってまるで抵抗を感じさせない下村の自然な様子に、もしかして 経験ありか、フランス帰りだしなあ、と不当な嫉妬をした覚えがある。 それなのに、坂井が初めてだと言うのだ。 つまり、相手が坂井であるから下村はリラックスした様子だったというこのなのか。 坂井は段々と緊張していたはずの顔がだらしなく緩んでくるのを止められなかった。 しかし目の前の下村は坂井の言葉を心外そうに受け止めると、坂井の舞い上がった様子とは裏腹に今度こそ本当に 据わった目つきでジロリと坂井を睨んだ。 「―――・・・今のセリフは、どういう意味だ?」 ハッとした時にはもう、後の祭りだ。 ヒヤリと坂井の背中を、冷たいものが滑り落ちていった。 |