ガンッと、目の前の扉が大きな音で鳴いたので、坂井は口から色々なモノが出そうになるほど驚いた。只でさえ緊張 で張り裂けそうな心臓は、今にも発作直前のような激しさで胸を打っている。動物は一生で打つ鼓動の回数が決まって いると言うが、今確実に自分は死へ一歩近づいた、と坂井は神妙な気持ちで確信した。 しかしそれと同時に心の底からほっとしているのもまた、確かだった。 この扉の向こうに、下村が居る。それが何よりも坂井を安堵させた。 今にも全速力で走り出さんばかりに先走る足を、どうにか宥めてここまで来たものの、もしかしたら気分を酷く害して いた下村が、そのまま自宅に戻らずどこかへシケ込んでしまう可能性もあるということに気づいてしまったからだ。そし て、その場合下村は口論の大元の原因となった人物の元へ行く可能性が非常に高いと坂井は睨んだ。 それだけで不規則な勢いで呼吸は乱れた。 しかし、それも杞憂に終わったようだった。 目の前に立ちはだかる冷たい鉄のドアを眺めながら、そういえばどうしてこのドアが突然大きな音を立てたのだろうか と考えた。何かがぶつかった、というよりは何かが伸し掛かったような音だった。・・・と言うことは。 下村が、このドアのすぐ向こうに居る・・・? 坂井は恐る恐るドアフォンに手を伸ばした。 「――・・・下村」 少しの間を持って、扉は開かれた。 下村の背後は奇妙に明るいのに、対照的に下村の顔は翳って見えずらく表情はよく分からない。予想していた通りに 下村はドアのすぐ傍に居たのか、ちらりと見た足元にはまだ靴が履かれたままで、今さっき帰って来たところなのだと 分かった。それでも今、下村がここに居てくれてよかったと本気で思う。もしすれ違いになっていたら、自分が何をしてい たか分からなかった。 「・・・入れよ」 様子の分からない下村に何を何から言っていいものか言いよどんでしまった坂井に、下村は一つ小さな息を吐いてそ う言うと、靴を脱ぎ捨てて奥へ歩いて行った。それを焦って追うように玄関へ入り込み、後ろ手にドアを閉める。そうして 靴を習うように脱ぎ捨てて部屋へあがった。 部屋は、やはり奇妙なほどに明るく、それがリビング正面にある大きな窓に一枚のカーテンも掛かっていないからな のだということを思い出していた。 下村は、たとえ夜になってもカーテンを閉めない。向かいが海なのでその必要がなく、そうしてそこから月を見るのが 好きだと言った。 それを知ったのは、あの夜だった。 明かりを落として、月が照らす室内で下村は静かに目を閉じ、坂井を受け入れた。 その時、坂井はこれ以上ないほどの充足感と陶酔、そしてどうしようもない不安と焦り。いくら触れても本当に今目の 前に居るのが下村であるのかはっきりとしない虚無。それらの混沌とした感情を抱えたまま、下村を抱いた。途中、無 我夢中になって覚えていない部分もあったが、下村が一度もはっきりとした抵抗を示さなかったことだけはよく覚えてい る。 そうでなければ、何も出来はしないのだから。 結局のところ、何を言ったところで下村の嫌がることなど出来るはずもない坂井だった。 「何か、用か?」 無機質な声が、明るいだけの部屋に響く。それに無意識にびくりと肩が跳ねてしまった。 こんな時の――腹を立てている時の下村の声は、本当に感情がなく作り物めいていて坂井は好きではなかった。しか し、下村にそうさせているのは紛れもなく自分で、批判は出来ない。坂井は何をどう言い出していいものか、言い出しか ねてじっと下村を見た。 背後の窓から陽を一身に浴びているせいで、顔は伺うことが出来ない。先ほどから下村が一体どういう表情で話をし ているのかが分からず、また、坂井はこれが本当に下村なのか不安になる。 そんな風に無表情な下村は、どこか作り物の匂いがして、坂井はそれがイヤだった。 「坂井」 何も言えない坂井に、下村が少し焦れたように名を呼んだ。それはきちんと感情が入っていて、坂井は不謹慎にも嬉 しくなる。 ああ、これは下村なのだ、と。 しかし今の下村の前でそれを素直に表現したりしたら、悲惨な結果が待っているということはいくら坂井にでも容易に 想像できた。 この部屋から叩き出されて、終了だ。 あんな言い争いをして、間を置かずに現れた事に、あまつさえこれから言い募る内容に、下村はきっと余計に腹を立 てるだろう。今度こそ呆れてしまうかも知れない。それでも、坂井は今更後に引くつもりはなく、そうでなければ自分はず っとこんな風にしか下村に接することが出来なくなってしまうと思った。無理をして、もっと手ひどく下村を傷つけることに もなりかねない。それならば、今、ここで言ってしまわなければ。 下村が好きだ。それはもう、否定しようもない。離したくないと思う。もう、誰のところへも行かせたくない。たとえ下村 に殴られようと罵られようと、それだけは言うつもりだった。 自分の傍に居て、自分だけを見ていて欲しい、と。 坂井は、一歩足を踏み出した。 |