その夜は二人でしこたま酒を飲み、車を置いて帰る途中で運悪く雨にやり込まれた。 通常であればそれぞれの寝床へ帰るのが習慣で、当然互いの部屋へ泊まったことなどなければ、長居したことさえな かった。しかしその夜は激しく雨に降られ、ほんの数分であっても飲み屋から近い下村の部屋へ駆け込んだ。本来であ ればそれほど距離の変わらないところに住む坂井がそのまま走って帰ったとしても既にズボンの裾からは水が滴るほ どになっていた状態にさほどの差があるはずもなかったのだが、それはあくまで酔った頭で考え付いた事であったか ら、そこまで考えが回るわけもなく、大分頭の回転が鈍化していた二人はとりあえず手身近に近くの避難場所へ身を寄 せる事しか考えつかなかったのだった。 下村の自宅の玄関に駆け込む頃には二人とも雨に濡れ、その上酔いに任せた限界知らずの全速力の疾走で息は 上がり、酔いはほどよく足に回って二人の力を当分に奪っていた。 「ああ、ダメだ…死ぬ…」 ぜいぜいと息を切らし、先に玄関に倒れ付したのは坂井だった。濡れた衣服を体に張り付けたままだらしなく仰向け で息をついた。 それを横目に下村はきちんと鍵をかけ、どうやら靴を脱ごうと身を屈め掛けた所で坂井が邪魔でそれが出来ない事 に気づいたらしい。苦しいと訴える坂井などどうでもよさそうに投げ出された膝の辺りをつま先で蹴りつけた。 「おい、邪魔だ。靴が脱げねえ」 坂井と等分に酒や体力の消耗を分け合ったはずの下村が、既に息を乱した様子もなくそんな風に言うのに、坂井は むっとした。 「うっせー。俺は客だぞ」 「こんな態度のデカイ客がいるか」 確かに上がるなり玄関中央で寝転がる様な客は自分とてごめんだとは思うものの、酔った頭ではそこまでは考えが 至らず、坂井は腹いせに傍に転がっていた手ごろな物体を直立したままこちらを見下ろす下村に向かって投げつけ た。 「うわっ何すんだよ!酔っ払い!」 どうやら何かの箱だったらしい。暗くて良く分からなかったが、下村が上手くそれを避けたのがガツンと扉に物が当た る音で分かった。坂井はそれが気に入らずに、とりあえず伸び上がって手に触れる物手当たり次第に持ち上げると、 次々と下村に投げつけた。 「ちょっ、この馬鹿!いい加減にしろよ!」 無言のまま黙々と物を投げつける坂井に辟易したのか、下村は靴を脱ぐのも諦め、身を屈めると上がり框に膝をつ き、覆いかぶさるようにして坂井の両手を押さえつけた。 「いい加減にしねえと、ベランダから叩き出すぞ」 奥の部屋から入り込む月明かりだけが光源の中では、お互いの表情は上手く掴めない。吐息が掛かるほどの間近 にそれがあったとしても、その剣呑なセリフを下村がどういった表情で言ったのかは分からず、またそれを受けた坂井 の顔も下村には見えていなかったろう。 それをまるで今の自分の心情の様だと鈍い頭で考えながら、それでも無視できない感情にそれこそウンザリして坂井 は目を何度もキツク瞬いた。今や捕らわれの身となった手を放り出して力を抜く。下村はどうやらそれで坂井の悪ふざ けが終わったと思ったらしい。ため息を付くと密かに近づいていた距離を広げ様とした瞬間。 「った…!」 坂井のかました頭突きが、ごんっと小気味のよい音をたてて見事に下村の額にヒットした。 「このッアホ!いい加減にしろ!」 その後はもう、上になり下になりの大乱闘だった。 勢いで坂井が蹴りつけた備え付けの靴箱はスライド式の戸が外れ、辺りに散らばった空箱は二人の下になりひしゃ げて酷い有様だった。それでも果ては無言のままドスン、バタンと掴み合っていたのだが、いい加減面倒になって来て いた下村の手首を強く掴んだ坂井が、その上に乗り上げる形で二人は息を荒げたまま向かい合った。 顔の両脇に手を固定された形で床に縫いつけられた下村が、呆れたように大きく息を吐いた。坂井はそれまで割りと 冷静に面白半分で乱闘を演じていたにも関わらず、どうでも良いような態度を取る下村にカッと頭に血が上り、自分の 頬に赤が刷けるのが分かった。 「あんまりナメてると、酷い目にあうぜ?」 「へえ?お前に何が出来るって言うんだよ」 まったく警戒心のかけらも持たない下村が、目を細めて坂井を見上げた。 坂井はその目を見据えたまま、苦しげな呼吸を繰り返す下村の薄く開かれた唇を奪うようにくちづけた。 「?!…!!!」 明らかな動揺が下村の目に宿り、次いで押さえつけられた腕を外そうと、渾身の力で抗うものの、体重差のそれほど ない男の体に全身で押さえつけられた状態からは容易に抜け出せず、下村は硬く目を閉じるとせめて顔を背けようと 首を振った。しかし坂井はそれさえも許さぬ強さでそれを追い詰め、再びくちづける。そんなしぐさを何度も繰り返し、だ がそれでも離れぬ坂井の吐息の熱さに辟易したのか、諦めたように最後には甘んじて坂井のくちづけを正面から受け 止めていた。 「っはぁ…!」 漸く開放された頃には、夢中でくちづけていた坂井の呼吸も常にないほど苦しげに戦慄いた。 暗く翳った下村が、苦しげに吐息を吐き出しては空気を取り込もうと胸を大きく戦かせ、硬く瞑った目蓋は痛々しいほ ど青白く見えた。それに今更ながらにいたいけな感情を感じながら、坂井はアザが出来るほどに押さえつけていた両腕 をそっと離した。 「…下村」 そっと、貼り付けるように頬を床に押し付けていた下村の顔を両手で包み、上向かせる。なおも頑なに目を開けようと しない下村の唇は、荒々しいくちづけに痛々しく赤く濡れていた。 「下村…」 無言のうちに坂井を拒否する下村に、ぎゅっと唇をかむ。こんな風にしたかったわけじゃない。それでもそうでなけれ ばその唇に触れることすら許されなかったのだということが、坂井を余計に追い詰めた。 「…これがお前の言う、酷い目って訳か」 ゆっくりと開いた目は、薄い涙の膜に覆われ密かな光にも憂いを含んで柔らかく光を弾いた。そのさまの艶やかさに 胸が苦しく、それでもその言葉の意味はそれ以上に胸を痛ませた。 「お前にとっては、酷い目だな。こんなこと…」 皮肉気に頬を歪めながら、坂井はそれに答えた。 たとえ坂井がどれほどに望み、甘やかに感じたとしても下村にとってはただの嫌がらせに過ぎないということ。 下村にとっては、これ以上の酷い目などないだろう。 「こんなこと。お前にとっては、嫌がらせでしかねえもんな」 触れた頬の熱さが痺れる様に坂井を苛んだ。いつか抑えきれなくなると知りながら、それでも知られることを恐れたの は他でもない、どんな形にしろ下村と坂井との間を決定的に分かつことになるのを知っていたからだ。 それが、こんな酔いの勢いに任せて打ち明けるなど、愚の骨頂だった。 しかし後戻りは出来ない。既に白日に晒されたからだとは最早言う気もない。それ以上に、ただ下村に触れていたか ったのだ。 「でも、俺は違う」 ピクリと下村の体が震えたのが分かった。 恐れられているのかもしれない事実が、坂井を責める。それでも、これ以上黙っているわけにもいかなかった。 「俺は、ずっとお前に触りたかった」 呟いて、じっと、下村の目の奥を覗き込む。光は瞬いて言葉を誘った。 「ずっとお前とこうしたかった」 初めての夜の話。 |