Mellow

11














 覚えず細かに震える指先をぼんやりと眺め、下村は慌ててその手を握りこんだ。
 与えられた言葉と、与えた言葉。
 半ば確信を持ってコトに及んだのは自分の方だ。ただ闇雲にしがみついてくる手を、払わなかったのも。そのくちづけ
を甘んじて受けたのも。
 その上でいったい何を怒るというのだ。あの男は。
 すっかり下村の不機嫌を信じて退室した男の背中を無言で見送りながら、思わず笑いに喉が鳴りそうになるのを留
め、下村は握りこんだその先に触れた、坂井のその手の暖かさを思った。
 何かを怖がるように、驚くほどに優しい素振りで触れたその手を思った。
 坂井の発した言葉に、本気で下村が怒れようはずもない。いや、返って下村を喜ばせているのだということを、アレは
果たして自覚しているのだろうか。
 そんなこと、思ってもいないのだろうな。きっと。
 今度こそ忍び笑いを堪えきれず、思わぬ拾い物をした時の様な無邪気な歓喜を覚えて下村はそっと開いた指先にそ
っとくちづける。
 きっと、坂井はうんうんと悩んでいることだろう。どうしたら下村の怒りが解けるものかと考えているに違いない。それ
を思うだけで下村は楽しくて仕方がなくなるのだ。
 なんと愛しい男だろう、と。
 いつの間にか自分の中に入り込んだ坂井を、下村はどうすべきなのかずっと迷っていた。恐らくは欲情を伴う己の感
情どうこうではなく、その先に何を求めるべきかということで。このままずっとこの感情を抱えたまま、何も変わらず接す
る自信はあった。それは今ほどに強い執着を坂井に感じていなかったということもある。そうしていつかは同僚や友人
として真実接することが出来るようになるだろうと高を括っていた。
 多分、それがまずかった。
 そう考えることで下村は己に枷をつける事を怠った。坂井の感情を容易に煽るような行動を安易に許してしまったの
だ。
 本来、下村は用心深く相手と自分の距離を適度に取ることに長けていた。
 しかし今回に限り下村は坂井の心の動きに気づかず、また、気づいた時には遅かった。
 坂井はいつしか下村と同じ感情で持って下村を見るようになっていたのだ。
 正直下村はもう自分が誰かを好きになることはないだろうと思っていた。
 婚約者の失踪とその死。もう心はなかったとしても、確かに下村の中の何かが欠け、恐らくは永遠にそこが補われる
ことはないだろうと思った。
 しかし、その欠片に余りある大きさで持って下村の中に入り込んだのが坂井だった。
 それを下村は拒めるはずもなく、その気も起こらなかった。
 おかしな話、最初から下村は坂井に興味があった。
 同じような年齢でありながら、深く沈んだ目をしたバーテン。東京であればどこででも見られそうなそれが、不似合いな
地方の街にあることに純粋に興味が湧いた。実際のところその時分はそれどころでなかったせいかそれとも無意識の
自制か、ただなんとなく気になる存在に過ぎず、そういう意味であれば川中や宇野の方が興味はあったかも知れない。
それでも、たまにどうしても顔を見たくなったりして、自身で戸惑いもした。
 しかしこの街に住み着き、やがて左手の不自由さにも慣れ、フロアマネージャーとして立つようになった頃合から、己
の心境が大きく変化していくのにそう時間は掛からなかった。
 いつの間にか、坂井は先だってまりこが占めていた場所から、より深いとこまで入り込み、下村の心を痛ませた。
 まりことの事があり、もう自分は本当の意味で人を信じたり愛したりすることは出来ないだろうと思った。無自覚ながら
も自身の中にそもそもが愛や執着という感情に乏しい事に気づいてしまったからだ。誰かを大切に思う気持ちは知って
いる。実際、そうすることもできる。でも、それは真実愛であるかと問われれば、恐らく「違う」と答える他ないだろう。唯
一愛したと思ったはずの女にさえ、それが偽りであることを暴かれた。
 フランスに居る時、どうしても人を好きになることが出来ないと言った男がいた。下村はそれを憐れと思い、同時にそ
んなことがあるのだろうかと訝った。
 でも気がつけば、自分がそういう人間になっていた。
 上手く人を信じることが出来ず、それでも人に魅かれる事を止められない。 
 その度にまた痛い思いをするのなら、せめて少しでも心が痛まないよう、行く末を信じまいと心に決めた。


 ただ、その瞬間が己の永遠であればいいと。


 恐らくそれは相手に相当の苦痛と忍耐を強いるかもしれない。
 でももし、それでも自分を選ぶのなら。


 もし、それでも自分を選ぶと言うのなら、この身の全てを与えても構わない。


 坂井はまるで試されることを恐れない勢いで、己の切り裂かれた傷さえ隠さず、一直線に下村の胸を突き刺した。試
すように突き放しても、坂井は怯まずこの胸に言葉の鏃を向けるのだ。
 最後まで往生際悪くのたうつ自分に、まるで挑戦状でも叩き付ける勢いで向かってくるのだ。
 それは余りにも胸に痛く、甘やかに響いた。



 もう、答えはすぐそこまで近づいている。 

 
 もし、もう一度、あの真っ直ぐな目を向けたなら。
 




 ならば、下村の答えはたったひとつだ。
















 ブラディ・ドール開店の時間まで、あと少し。































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