柔らかく、耳の奥をさらうような穏やかな音に目が覚めた。 無音のスプリングを手のひらで押しやり、上体を起こしながらぼんやりと辺りを見回すと、見慣れた部屋は薄暗闇の 影を映し、見上げた窓の外はまだ夜が明けきらずに薄ボンヤリとした月の影が空に姿を残していた。それを眺め、なん だかはっきりとしない頭は酷く痛んで思考を邪魔した。 今の自分がいったいどういう状態で、目を覚ましたからには寝るまでの記憶が確かにあるはずなのに、頭の中には 判然としない痛みがあるばかりだ。それはどうやら身に覚えのある痛みで、二日酔いであるという事に思いが至るのは それほど難しいことではなかった。 そうして自分の寝室でるあるところの部屋をぐるりと見回し、それではこの、隣で健やかな寝息をたてている者は何で あるのかと首を傾げる。もう一度はっきりとしない頭をぐるりと巡らし、しかしだからといって誰に問うことも出来ないのだ と、目下の人物の顔を凝視した。 十分に見覚えのある顔は半分以上が枕と毛布に隠れて見えず、それでも秀でた額に黒髪が散った穏やかな様が見 渡せる。小さな呼気は上下する肩と同様に揺れて何度も繰り返し同じ動作で毛布を揺らした。それでどうやら自分はそ の穏やかさに目を覚ましたのだということに気がついた。そこで初めてこうしてひとつの寝床を誰かと分けたのは、久し ぶりなのだということに気づいた。この街に居ついて随分と経つが、その間決まった女はいなかったし、たまに気まぐれ に体を弄る桜内とも、こんな風に夜の帳が朝を迎えるまで共にしたことはなかった。 それが、どうしてこんな、それもよりにもよってこの男と。 珍しく懸命に働こうとする頭を叱咤し、昨晩までの自分の行動を模索する。 いつものように仕事が終わり、申し合わせたように酒を飲んだ。 昨夜は思わぬ勢いで杯が進み、短い時間で大層な量の酒を飲み干し、帰る頃には二人とも呂律が怪しかったのは 覚えている。その後、車を置いて、店を出て…どうしただろうか? そこまで来て行き詰った思考を奮い立たせようにも痛んでそれが邪魔をした。 店を出た。そうして…雨か。 ふと目に入った窓枠に、しつこいほどの雨粒が幾つか転々と張り付いている。それでどうにか脳ミソが動いた。 店を出た。そうして途中で雨が降り出した。走ったのは覚えている。苦しく喘いだ口には雨粒が容赦なく入り込んで、 不快のなのか爽快なのかわからない具合で、なんだか下らない事を言い合って、爆笑しながら走って、そうしていつの 間にか自分の部屋に二人で転がり込んでいた。 ――…そして。 不意に浮かんだイメージが、頭の中でグルグルと回るのだが、実際それが本当のところどうだったのか、ただ単に望 んだ自分が夢想しただけなのか。その境がはっきりせずに目を瞑る。そうすると、急に喉に鋭い渇きの衝動が湧き上 がり、いったん落ち着いたほうが良いのかと水でも得ようと腰を上げた。その時。 …ああ、あれは現実か。 思わずめまいを起こしかけた頭を右手で押さえ、米神の辺りをもみこむ様に歯軋りした。 そう思う間にも、一度渇きを意識してしまった喉はヒリヒリと痛むのだが、どうにもそれ以上に腰とあらぬところが痛ん で力が入らないのだ。 どういうわけだ。何でこんなことになっている。 そうして気づけば何も身に着けていない自分と、そして恐らくはこちらも何も身に着けていないだろう隣の寝息を気配 で探って、つまりそういうことなのだとため息を吐いた。 だんだんと明かるさを増し始めた朝の光に目を背けたいような気分の目に、まざまざと室内の様子が写りこむ。今居 る寝室からキッチンへ続く扉はだらしなく半開きのまま、薄暗いながらも向こうの部屋の惨状が見て取れる。どうやら玄 関からここまでの道筋で随分な無体を働いたらしく、転々と落ちた衣服がまるで童話の兄妹の道標の様に残っている。 ぐちゃぐちゃのまま残ったそれに、今更皺の心配をしたところで遅すぎたが、せめて上着ぐらいはハンガーに掛けたか った。掛けたかったのだが、どうにも体は言うことを聞かない。自分の体であるの、になんという体たらくだと腹立たしく 思いながら、はっとして今はそれどころではないのだったと思った。 ここまでの経緯はわかった。しかしわからないのはどうしてこんなことになったのか、ということだ。 何を普通と定めるかは論議を分かつところではあるが、とにかく通常であれば酔った勢いで乱闘に至ったとしても、ど うしてそれが即ちこうなるかの法則が掴めない。事実今まで同じような状況は何度もあった。にもかかわらずこういう結 果を導き出さなかったのは、それなりの不文律があったからに他ならない。 つまり、据え膳も、相手が男なら考える。ということだ。 それなのにどうして昨夜に限って、両手を合わせて頂いてしまったのか。その理由が分からない。 もちろん、一方的に相手を責める気は毛頭なかった。同じ男である以上、どうにも引けなくなる時というのはあるもの だ。自分だって十分に覚えのある行動ではある。 しかし、この男もそんな風であるとは少し驚いた。 確かに乱闘に興奮した気分がそのまま性欲に繋がるのは、間々あることだ。 それに、こちらには抵抗する気が毛頭ないのだから仕方がない。 俯いたせいで落ちかかった崩れた前髪を片手で梳き上げながら、目をきつく瞑った。 相手ばかりを責められる訳がない。いずれこうなることを望んでいたのは自分の方だ。ともすると昨夜の発端も自分 の方から誘った可能性がないとも言い切れない。 「大概、俺も意気地がない…」 縋りついた可能性も捨てきれない。どうにも優しすぎるこの男が、縋る相手を捨てきれないということを知っていて、そ こにつけこんだ可能性もないとも言い切れないのだ。 兎に角、その時の言動を一切覚えていないこの状態では、なんとも言えないのだった。 ため息を付き、毛布の中で胡坐をかいた中に頭を落とし込みながら、抱えるように頭を掻いた。いつの間に外したの か、左手の義手はない。どこに置いたのかも覚えていない。こんな有様は本当に久しぶりだった。 「…下村」 突然掛けられた声に、ぎくりと肩が跳ねた。下げた頭の正面で体を起こす気配がする。幾分かしんどそうにするの に、やはり昨夜の出来事は否定しようもないのだと思い知らされた。 「…下村」 酷く掠れた呼び声が、驚くほどに心地よく、それを感じる自分に恐れを抱く。 ここまで相手を自分の中に入れてしまった不覚を思い、震えそうになった。 また同じ事を繰り返すのか。そう思うとやり切れず、危うく凍えそうになる気持ちをどうにか保つのに苦労した。 「起きてるんだろう?」 幾分か不安気な声。覚束ない声色が、胸を突いた。 「…どうして」 「え?」 どうにもならない不安をかき消したい一心で、でも問うべきでないと思いながら、それでも言葉はついて出た。 「どうして、こんなことになったんだっけ…?」 どうしても顔は上げられないまま、首を傾げて出来るだけ深刻に聞こえないように気を使った。 問いかけに、素直に息を呑む気配が伝わって来る。 今この状態で、相手の後悔や不覚の感情を押し付けられるのは正直耐え難かった。 それを飲み込んで、この先もこのままの関係を崩さずに居られる応答を、果たして自分は出来るのだろうか。 それを耐えてまで…坂井の顔をまともに見ることが出来るだろうか。 「――…覚えてないのか」 静かな、思ったよりもずっと落ち着いた声で、問いかけられる。それに肯定の頭を垂れた。 沈黙。 視界いっぱいに広がる毛布を被った自分の膝が、見っとも無く震えたりはしないだろうかとそればかりが気になった。 「下村」 「っ?」 突然、肩をつかまれて頬を包むような仕草で顔を上げさせられる。驚いて目を瞠ると、思ったよりずっとしっかりとした 坂井の目とぶつかった。 「好きだ」 「…は?」 「お前に、惚れてる」 「なにっ」 疑問の言葉は、あっという間に坂井の唇に奪われた。 そして同時に、坂井が言わんとするところの感情を、そのくちづけから正確に受け取る事が出来た。 望みながらも臆病なまま、何も答えを出せずにいた感情に、坂井はいとも鮮やかに答えを出して見せたのだ。 「ずっと、こうしたかった。…昨日も、そう言ったよ。俺は」 きつく抱きしめてくる坂井の腕が、細かに震えていることに気づいて危うく泣き出しそうになるほどに心は酷く揺れ、そ れをねじ伏せる様に唇をキツク噛んだ。 そうしないと、なにかとんでもないことを言ってしまいそうだった。 震える手を隠さないまま、まるで確かめるような仕草で坂井が体に触れてはくちづけ、戸惑うような目で何度かこちら をじっと見た。それでもそれには何も答えず、ただ激しく揺さぶられる感情の行方を、どうにか定めようと堪えるように目 を閉じた。 初めての朝の話。 |