「ごめんって」 「……」 「なあ、悪かったって」 「……」 「反省してます!」 「……」 「下村ってば!」 「…うるさい」 づかづかとホールへ続く廊下を歩きながら、懸命に話しかけるも下村は一向に足を止める気配はなく、坂井は焦って 回り込むように前に立ち、下村の歩みを堰きとめた。下村はそれに不愉快そうにあからさまに眉を顰め、ため息を吐い た。 「俺が、悪かったよ…」 これ以上進めばブラディ・ドールの表舞台だ。そうなれば既に出勤してきているボーイたちに話を聞きとがめられるこ とも止むを得ない。本来ならこうしてバックの廊下でこんな話をするのさえ誰に聞かれるか分からないので憚らなけれ ばならなかった。しかし坂井はここでなければ確実に下村を捕まえることが出来ないので、その形相たるや必死の体を 擁していた。 「……」 項垂れて、坂井はしかられた犬のようにしょぼんとして下村に詫びた。今にも土下座でもしそうな勢いに雰囲気は消 沈している。しかしそれも仕方がないことだった。 下村の部屋で坂井は下村に正直な気持ちを伝え、幸いなことに下村もそれに答えてくれた。そこまではよく出来たラ ブストーリーの様な展開だった。しかし、その後がいけなかった。 坂井とて、自分が余計な事を言ってしまった自覚は十分にあった。驚きのためとはいえ、言うべきでなかったと今なら 思う。しかしあくまでそれは今になって冷静に考えればの話で、その場の浮かれていた気分は容易に注意の気持ちを 怠った。 その結果が、この始末だった。 「―――・・・今のセリフは、どういう意味だ?」 一瞬のうちに気配を穏やかなものから剣呑なものに変えて、キラリと下村の目が光を反射した。そのあまりの陰鬱さ にハッとし、しかし既に自分の発言が多大な力を持って下村を傷つけたのだと坂井が知った時には、もう遅かった。 「お前は、俺が初めてじゃなさそうだから、安易にヤラせたとでも思ってるんじゃねえだろうな」 静かな物言いに反して下村の気配はどんどん怒りの波動を漲らせ、それと同時にチラリとその目に傷ついたような色 を浮かべた。 「し、下村。俺はそんなつもりは…」 表情には出さなくとも、明らかに下村を傷つけたことを悟った坂井は自分の失言にハッとし、焦って言い訳をしように も動揺に舌はよく回らずそれが余計に下村の気を逆撫でしたようだった。 「出て行け。今すぐ」 全てを怒りに飲み込ませ、それでも穏やかな様子で下村はゆっくりと玄関のほうを指差した。怒りに我を忘れまいとし ているのが、坂井にもよく分かる。しかしどうにも感情は高ぶるのか肩が微かに震えていた。その様が余りにも悲しく、 自分がどれほどに下村のプライドを傷つけたかを思い知って坂井は慌てて取り繕おうと口を開こうとした瞬間、ギラリと 下村の視線に遮られた。 「いいから、出て行け。何度も言わせるな」 有無を言わせぬ言葉に、坂井はそれ以上何も言えなくなってしまった。 目の前の下村の怒りが本物であると分かっていたからだ。 多分、下村は坂井を仲間であると言う理由から、手を出すのを堪えているのだ。 怒りに震えてもぎりぎりの線で坂井を気遣おうとしていることに胸が余計に痛み、それでもこれ以上今は何を言っても 下村には届かないと知って、坂井は縋るように一度下村の目をじっと見つめた。しかし下村の目には既に怒りさえも上 手にかき消され、そこには何の感情もないガラスのような一対の視線があるだけだった。 「ごめん、俺、嬉しくて…。お前にとっては、俺だけが特別なわけじゃないって…思ってて…。ごめんな。そんなこと、理由 にもなりゃしねえ…」 俯いて。下村の顔は見られなかった。自分の言動が今更ながら恥ずかしい。それでも嫉妬交じりのその言葉は、確 かに自分が聞きたかった事であったのは確かなのだ。 自分ばかりが下村が特別で、自分ばかりが下村を好きなのだと。ずっとそう思っていた。 だから、浮かれてしまったのだ。 特別だと言ってくれた下村に。 なのに自分は、下村を傷つけることばかりを言ってしまう。 下村が、自分の気持ちを分かってくれないとずっと思っていたけれど、本当に分かっていなかったのは、自分の方だ ったんだな…。 踵を返して、坂井は下村に背を向けた。引き止めてはくれないものかと思っても、鉄の扉が二人の気配を分かつまで 下村が動く気配は一向になかった。 「……」 小さく、下村がため息を吐くのが分かった。坂井はそれにびくりと肩を揺らし、何事か起こる事を期待しながらそれを 恐れた。 殴られるか、蹴られるか。あるいは全くの無視か。 いずれせよ、裁定を下すのは坂井ではない。選べる立場ではなかった。 「…顔、上げろよ」 暫くして、下村がそう呟いた。他人の目を憚ってその声は囁きに近い。 坂井は恐る恐るゆっくりと下村を振り仰いだ。 軽蔑の目。侮蔑の目。冷徹の目。…人形の目。 そんな風に下村が恐ろしく冷たい目をするのを何度も見てきた。もちろん相手は下らないごみの様な連中であった り、その連中に力を貸した奴に対してだけだった。坂井はそんな下村の目を見る度、安堵し、心のどこかでゾッとした。 自分が、下村にそんな風に見られるような対象でないことに。同時に、そうなった時の事を思って。 しかし今、まさに自分がその対象とされたところで不思議はなかった。自分は大いに下村のプライドを傷つけた。下村 はそういう相手を無傷では置かない。 大体がこの街に来たきっかけもそれであったのだから。 だから、坂井は容易に下村の目を見ることが出来なかった。この瞬間に全てが決まるのかと思うと恐ろしく、硬く握っ た手は滑稽なほど大きく震えた。下村の口元を頑なに見つめながら、それを益々強く握ることで抑えよとしたところで、 震えは増すばかりだった。 見つめたその唇が、フッと淡く緩んだ。 「強く掴むな。跡が付く」 そう言って、下村は救い上げるように握りこんだ坂井の右手を取ると、そっと指先にくちづけた。 「商売道具だろう。もう少し気を使え」 そう言って、固まって頑なな坂井の手をゆっくりと開かせた。 「…下村」 今度こそ見上げた先の下村の目は、驚くほどに穏やかだった。 「し、下村っ」 緩く握られたままの右手はそのままに、坂井は我を忘れて下村を抱きしめた。腕の中に納まる体の温かさに気が緩 み、この場も忘れて泣きそうになり、堪えた鼻は深く痛んだ。 「下村、下村、下村、下村っ」 強く抱きしめ、背を弄ってはうわ言の様にその名を呼んだ。 本物だ。夢ではない。間違いなく下村だった。 「もう、ダメかと思った。お前、もうダメだとっ」 混乱して自分でも何を言っているのか分からなかった。多分下村はもっと訳が分からなかっただろう。 それでも下村は何も言わずに坂井の背を撫でた。 バックヤードとはいえ店の中だ。普段の下村であればそんなことを許しはしなかっただろう。それでも下村は坂井を突 き放さず、感情のままに体に触れる坂井の手を拒まなかった。 「お前が、好きなんだ…」 激情をどうにか抑えるように掠れた声で囁いた。囁いてそのまま耳元にくちづけ、許しを請う罪人の様に何度も告白 を繰り返した。 少しの間そんな様子を繰り返し、坂井の気が治まる頃には下村のタキシードの背は握りこんだ坂井の手でしわくちゃ になっていた。 「わ、悪い。俺…」 まるで子供のように息を弾ませて、恥ずかしそうに言う坂井がそっと下村を見ると、下村は少し考えるように下を向 き、そうしてしっかりと坂井を見つめると不意に目元を緩めて微笑んだ。 そうして繋いだままだった坂井の右手を離し、その手で坂井の頭を優しく撫でた。 「話は後でな…」 今度は深く微笑み、下村はもう一度ロッカールームに戻って行った。 恐らく、皺の付いた上着を取替えに行ったのだろう。 それをぼんやりと見送り、ハッとして坂井は慌てて自分の持ち場へ向かった。 少し遅れて現れた下村にいつもと変わった様子はなく、時間は滞りなく過ぎていった。 |