スコップ
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  その日は朝から雨だった。
 それでもどうにも逢いたくなるのは仕方がない。
 坂井はパンッと小気味よく傘を開くと、しっとりと濡れた歩道に足を踏み出した。
 坂井のマンションから、下村のマンションまで歩いてもそう遠くない距離にある。
 昼に近い時刻にしては人通りの少ない街並みをゆっくりと歩きながら、なんとなく憮然として口を尖らせた。
 結局あの夜猫は帰らず、本当に居るのかどうかも定かでないまま、坂井は帰途に付いた。その後何度か下村の家に
行ったが、一度も猫の尾っぽも見かけない。しかし猫のトイレの砂が取り替えてあったり、キャットフードが減っていたり
ときちんとそこここに猫の気配がしっかりと示されていて、これを下村の芝居だと言うには流石に念が入りすぎていて気
持ちが悪い。
 では本当に居るのかというと、今一確信できない坂井であった。
 実際猫が居るにしろ居ないにしろ、畢竟下村がそんなことで嘘をつく必要はどこにもないのだ。
 もしこれが、坂井がとんでもない猫嫌いの、猫アレルギーなどであれば話は早い。坂井を部屋に来させないことを目
的に、細々と細工していると簡単に判断できる。
 しかし幸か不幸か、坂井は案外猫好きだったりする。
 ハーバーに小魚目当てで住み着いている、貧弱な体をした白い猫を可愛がっているところを、この前もばっちり下村
に目撃されたりしている。だから、嫌がらせかと言われれば、それは一寸違うと言わざるおえない。
 ではどうして猫との遭遇が、こうも失敗するのか。
 猫は一日の行動パターンが決まっていると思っていたが、案外そうでもなく飼い主に似てどうにも気まぐれらしい。
 歩道に出来た小さな水溜りを跳ね上げながら、どうしたものかと小さく溜息を吐く。
 結局のところ、どうにか可愛がれ無いものかと、内心やきもきしている坂井だった。















 下村のマンション前に来る頃になると雨脚が強くなり、坂井は早足でエントランスへ駆け込んだ。そこでフト入り口の
花壇に見慣れないものを見たような気がして振り返った。いつもと違うものが目に入るのは性分だ。何時の間にかそん
な警戒心が発達していて、一寸おかしな気分になる。
 それはこの街でバーテンになってからのものだった。
 張り出した軒先から首だけを伸ばして花壇を上から覗き込むと、雨に濡れたポーチェラカの花の陰に、ピンク色の棒
のような物が突き出ていた。
 よくよく見ると、それはプラスチック製のピンクのスコップだった。
 それが花壇の土に垂直に刺してあるのだ。それがどうやら違和感の犯人だったらしい。
 坂井はホッとして顔を戻し、もう一度エントランスに入ってディスプレイにナンバーを打ち込もうと手を伸ばした時、ハッ
と思いついて慌てて入り口に引き返した。
 花壇で雨に濡れるピンクのスコップ。どこかで見た覚えがあった。

 ・・・・・・下村の家の玄関だ。

 あの初めの日、猫が居るのかと問い詰めに行った日、玄関にはピンクのスコップが置かれていた。余りにも下村にそ
ぐわなくて、どうしてこんなものがあるのかと聞くと、猫のトイレを代えるのに使うのだと言った。
 その、ピンクのスコップだ。
 そのピンクのスコップが、無造作に置き去りにされて雨に濡れいる。 
 何故こんなところに。
 雨は風に乗って吹き込み、坂井の足元を濡らした。













「入るぞ」
 殊更挨拶を交わすのもおかしな感じだったが、何時になく坂井は慎重に玄関で靴を脱いだ。
 意識せずに居ようとしても、どうにも挙動は不自然だ。
 リビングに入るなり目のあった下村は、あからさまに不審そうに目を細めた。
 下村はソファの端にちょこんと座り、ぼんやりと外の様子を眺めているところだった。一人で居るとどうもそうして何も
せずにいることが多いらしい。別段外に出ることが嫌いなわけではないようだが、進んで出ることも少ない。特に今日の
ような雨模様の日は、傷が痛んで義手をつけるのが少し辛い、と言っていたことがあった。
「よう」
「ああ」
 短い挨拶を交わし、隣に腰掛ける。特に嫌がらないのを見取って、その肩を抱いた。
「手、痛むのか?」
「いや・・・大した事は無い」
 素直に下村は頭を肩にことりと乗せた。左手に義手はつけていない。いつもは坂井でも外している所を見るのは限ら
れた時間だけだ。湿気の多い日に傷が痛むのは道理だが、下村のそれは比でなく痛むのだろう。慮ることは容易い
が、結局は本当の所をこんな風にかわされてしまうのだと思い、曇天に負けない陰鬱な気分が不意に坂井の胸を深く
覆った。
「どうした?」
 暫く経って、漸く下村が小さく呟いた。本当は来た途端に訪ねたかっただろうに、坂井の不審を思って何も言わずに
居たらしい。それでも結局はこんな風に窺ってくる下村に、初めの頃に比べれば少しはこの頭の中に自分の存在を住
まわせることが出来ているのだろうかと、引き寄せた髪にくちづけた。
「なんでも・・・なんでもない」
「そうか」
 それきり、下村も黙ってしまった。
 昼に近い時刻になっても、外は一向に明るくならない。秋空を厚く覆った薄暗い灰色が思い出したように雨を振り撒い
てはパラパラと窓を叩いた。
 こんな風にじっと、二人で過ごすのは珍しい。大体の場合下村はスキンシップを好まないので、同じ部屋に居ても遠く
へ押しやられてしまうのが常だった。
 肩口に頭を預けたままの下村を、そっと窺う。眠っているかと思ったがそうではなく、また先程と同じように外を見てい
た。
「猫。居ないのか」
 漸くそう言った。
 風向きが変わったのか、パラパラとガラスを叩く雨音が不意に大きくなった。
 小さく下村が身じろいだ。
「・・・・・・から、・・・い」
「え?」
 雨音にかき消されそうな呟きが、小さく坂井の胸の辺りを曇らせた。
「最初から、猫なんか、居ない」
「下村・・・」
 急に下村は肩口に顔をぎゅうと押し付けて、咄嗟に顔を覗き込もうとした坂井の行動を遮った。
 下村を抱いた手に力を込める。
 部屋の隅に置かれた、猫のトイレがいつの間にかなくなっていた。
 キッチンの入り口にあった猫の皿も消えている。
 やはり花壇に置かれたスコップは、下村のものだったのだ。
「下村」
 肩から背中へ手を滑らせ、体を傾けて両腕で体を抱きしめた。冷えた空気は、下村の体を蝕んで指先は硬く冷えてい
る。その手が坂井の背中にまわされ、少しだけ戸惑ったように何度か指を巡らせてから、諦めたようにぎゅうと肩甲骨
の下辺りのシャツを握りこんだ。
「下村・・・」
 届くだけのくちづけを降らせ、途端にしがみ付いて来た下村を宥めるように何度も何度もその背を撫でた。
「お前は、どこへも行くなよな・・・」
 小さな吐息は暖かく坂井の胸を潤した。


 











 













これ、ここで終わらせてもいいですか・・・?
(無言は肯定で決定)