ハートじかけの音楽





















 一度だけ、サンジはゾロを見た。








 真夜中近く。遅番の日は決まってそんな時刻になってしまうサンジは、既に寝静まった玄関口の扉をそっと開け、手
持ちの荷物を騒がせないようにするりと滑る込んだ。
 夏の宵は蒸し暑く、戸締りだけはきちんと習慣付いている廊下は、熱気に淀んでいるのが常だった。
 しかしその夜に限って玄関から食堂、一階部分の廊下と続く一繋がりは、予想に反して涼やかだった。
 誰か、閉め忘れたな。
 サンジは辺りを見回し、窓の開いている箇所を確認しようとぐるりと視線を巡らせた。と、いっても備え付けれれた窓
は限られている。食堂部分、廊下の突き当たり。そこでなければキッチンかバスか。
 しかし程なくしてその箇所は見つかった。食堂の一番奥の窓が開いている。サンジはその場に荷物を一先ず置き、食
堂に踏み込むと中央に置かれたソファとテーブルを迂回して窓際まで行き、開かれたままだったそれを閉じた。
 空間はパタンと閉じられ、途端に密閉された閉塞感に息が詰まった。それを一息で蹴散らし、幾分か疲労に鈍った足
を引き返すために踏み出した。
 その時、初めて正面のソファに、人が居る事に気が付いた。
 不覚だった。まさか人の気配に気付かないとは。
 ソファの上で、丸くなるように小さな寝息を吐いている。
 よりにもよって、ゾロだった。
 辛うじて肘掛に頭を乗せ、ゾロは規則正しい寝息をついて眠っている。ゴロ寝というには幾分深い眠りだ。
 ゾロといえば大体が大の字になって寝ている印象が強い分、まさかこんなところに居るとは思いも寄らなかった。
 少なくとも、他の誰かであればサンジが玄関から入った時点で物音に気がつき目を覚ましたに違いない。そうならな
かったのは、ゾロだからだ。
 サンジは自分の些細な物音でゾロが目覚めるはずがない事を分かっていながら、それでも息を殺さずに居られなか
った。
 自身の衣ずれ一つもたてないように気を使う。
 今ゾロの目が覚めたとして、何を言っていいのか分からなかった。
 そっと近づき、膝をつく。理性と咄嗟の行動とは別物だ。本来ならばさっさと部屋へ戻ればいいものを、サンジは自然
と引き寄せられるようにゾロに近寄っていた。
 久しぶりに見たゾロは、二週間前と変わらずゾロだった。
 そんな当たり前なことが、何故か胸を突き刺すのに気がつき、どこか変わっている事を望んでいた自分にはっとした。
 何を。ゾロが変わる理由があるものか。
 たった二週間。自分とゾロとが顔を合わさなかっただけのことだ。空の色が塗り変わったわけでも、誰かが消えたわ
けでもない。
 ただ、サンジとゾロが。
 目の前で昏々と眠るゾロが、吐息を漏らすたびに小さく唇が開く。間から覗く健全なほどに白い歯が、薄暗い室内に
映えた。
 煩い。うるさい。このままではゾロが起きてしまう。
 静寂がいつの間にか破られて、どこからともなく聞こえてくる雑音がうるさい。誰かが懸命にドアを叩く音がする。それ
がどこからのものなのか確かめようと思うのに、サンジはその場を離れられなかった。
 ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。
 途切れなく打ち鳴らされる音が、耳につく。締め出しを食らった誰かが、狂ったように訴えている。
 ゾロは目覚めない。元々些細な事では気にも留めない性格だ。気を許したこの建物内では尚更に目を覚まさないの
は知っていた。
 緩やかに上下する肩。胸。投げ出された腕、閉じた目元の柔らかさ。
 小さく開かれた唇。

 俺は、今。

 サンジは勢いよく立ち上がり、後退った。ちょうど膝の裏に当たったテーブルに、膝が砕けてへたりこんだ。
 指が震えた。それでもどうにか口元を覆う。
 そうしなければ、危うくわめき出してしまいそうだった。

 俺は、今、何を。

 指先から感染した震えが、口先や、思考までも混乱させる。考えが纏まらず、乗りかかったテーブルに突いたもう片
方の腕までが萎えてひっくり返りそうだった。

 俺は、今、何をしようと、何を考えて。

 どうにか奮い立たせて酷使した足は、部屋まで持ったものの、それ以上の労働はごめんだと言うように、自室の玄関
口に入るなり動きを放棄した。
 サンジはみっともない仕種で部屋に這い込み、呆然と窓を見上げた。
 真上まで上がった月が、明かりの乏しい室内を薄っすらと照らし出し、青白くなった手の甲は益々白い。
 煩い。煩い。一体どこまで追ってくるんだ。
 一向に止まない訴えは、サンジの胸を叩いて苦しめた。


























 明るいうちに帰宅するのは随分と久しぶりだった。
 サンジはぶらぶらとスーパーの袋を行ったり来たりさせながら、煙草ふかす。煙は傘の縁を辿って忽ちに雨降りの空
へ昇って掻き消えた。その行方をぼんやりと眺めながら、それでも頭の片隅には絶えず一つの事柄が張り付いて離れ
ない。雨降りに似合わない明るい空が、もう直ぐ雨は上がるのだと言うのだが、今一垢抜けない素振りで薄い雲は右か
ら左へと流れていく。時折隙間から訪れるささやかな光の瞬きに、虹彩が驚いてぎゅうっと撓った。
 こんな美しい天気雨は久方ぶりだと思い、何処か今の自分に似ていると思って吐息を吐いた。
 本当はもうはっきりと打ち出された確かな道が見えているのに、何処かそこへと踏み出せない臆病な自分に。

 ゾロとはもう、二週間も顔を合わせず、言葉も交わしていなかった。

 元々生活時間が微妙にずれている二人だ。合わせようと思わなければ実際ここまで時間はすれ違う。意識などしなく
ても、会わない様にするのは簡単だった。
 一度だけ見かけた、あの夜のゾロの姿が唐突に脳裏に浮かぶ。
 今では淡く浮かぶ幻のような思い出だ。実際あの時の事はまるで幻想のような不確かさでしか思い出せない。
 そんな自分を、サンジは結局の所逃げているのだと結論付けた。
 気づく事に恐れ、はっきりと自分の今の感情に真正面から向き合えない。
 果たしてその理由が自分の中のことだけであるのか、それとも認めた先にあるゾロとの関係にあるのかは未だ判然
としなかった。

 ただ確かなことは、もうそこまで答えは近づいて来ているということ。



 もう、そこまで来ているということだけだった。























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