fellow 2



















 次に会ったのは、真夜中の海だった。








 店で別れたきり、下村と顔を合わせる事はなかった。
 元より用がなければ会う必要もない。桜内の元から出てしまってからは、下村が店に来ない限りは会う機会もなくなっ
ていた。
 胸元から引き出した煙草にジッポで火を灯す。深く吸い込み、一度肺に染み込ませてから吐き出した。
 世話をしている連中から持ち込まれる揉め事は、最近では少なくなっていた。
 以前に比べれば頭の使える者が出てきたということもあるし、特に中間に立っている者がなかなかに頭の切れる男で
あるからだ。大概の揉め事は坂井まで届かず大概途中で綺麗に解決される。それでもどうしても捌き切れないような今
夜のようなことがあれば、坂井は面倒くさがらずにきちんと身をやった。それが揺るがぬ信頼を勝ち得ていることを坂
井は知らない。ただ自分の懐に入れたものを無下に扱えないのは性分だった。
 本来であれば関係ないと言ってしまえば終わりの関係も、こうして自分からしゃしゃり出ればそれ以後の責任は全て
坂井の肩にかかってくる。その結果が宇野事務所への立ちよりであり、習わぬ経を読むような真似になってしまうのだ
が、これといって使うことの少ない身であれば、時間を厭わず坂井はやはり差し出してしまうのだった。
 どうにか口先だけで収まった今夜の事の顛末を思い、明日の細々とした根回しを思い少々の気鬱に取り付かれて
も、それも寝て起きれば機械的に処理できてしまう類のもので、こんな気分は今夜だけだと目を瞑っては自分の気持ち
を取り成した。
 それでも何処か重い気持ちは晴らしようもなく、それが一体何であるかは分かるのも億劫だった。

 下村も、その一人に過ぎないのかもしれない。

 見渡した海の向こうに、脳裏に焼きついた面影が不意に浮かんでそんな事をぼんやりと思った。
 一度懐に掻い込んだ。
 だから目を離せなくなっている。
 それだけだ。
 思って、坂井はもう一度より深く煙を吸い込んだ。
 目に映っては気を惑わし、言動一々が気になって引っ掛る。
 中途半端にふかした煙草を投げ捨て、すぐ傍まで来ては引き返す寄せる波を見下ろした。
 風は少なく晴天で、二・三の散った薄い雲では月を隠せず、透かした満月が水面を照らして暗闇に眩く踊った。
 それを眺め、本当はこうして考える時間をあまり取りたくないのだと思った。 
 考えれば、思ってしまう。
 思えば、追ってしまう。
 あの白い面影を。
 覚えず描きそうになったその影を振り払うように目を見開いた。
 眼前にはただ、海が。
 それにほっとし、坂井は寒気に身を震わせた。
 春の宵といっても気温はまだまだ真冬のそれだ。思わず抱いたジャンパーの肩は冷え切って手のひらを痛めた。
 そろそろ引き上げ時だと踵を返す。乗ってきたバイクは、病院の横に付けたままだった。
 不意に、目の先に白い影が映った。
 それに坂井は慌てて目を擦る。あまりのタイミングに先程まで思い描いたその影が、抜け出してきたのかと錯覚した。
 しかしそれは錯覚ではなく、正しく一人の人間が坂井と同じように岸壁ギリギリに佇んでいるのだった。
 その人影を誰何しようにも自分とて怪しいといえばこれ以上の者は無く、悪戯に声を掛ければ悲鳴でも上げられかね
ない。病院の近くであることから、そこから抜け出してきた患者かも知れない。どちらにしろ驚かさないようにこちらを認
識させなければならない。なんと言っても、その人影の横を通らずにはバイクの元まで戻れないのが現状だ。
 坂井は気恥ずかしいながらも靴音を高らかに何度か踏み鳴らし、ワザとらしい咳払いで念を入れた。
 幸いにもそれは空振りには終わらず、驚いた素振りも見せずに人影がこちらを振り向いた。それを確認しながらゆっ
くりとした足取りで歩みを進める。相手に止まるか去るかの選択をさせるためだ。しかし何を思ったかその人影坂井の
思惑とは違い動かず、あまつさえこちらをじっと眺めている。これはもしかして自分の客かと思ったが、それにしては害
意が全く感じられないのはおかしい。
 坂井はじっとその目を見返すように視線を固定した。 
 この距離では背格好から相手が男であることくらいしか認識は出来ない。多分相手も坂井と知っての事で無い限り、
判断しかねているのかもしれない。
 どちらにしろ坂井の方にも害意があるわけもない。このまま一定の距離を置いてすれ違うのが関の山だ。
 しかしそんな悠長な物思いは、暗闇中から緩慢に浮かび上がる人影を、一定の人物と認識した途端に吹っ飛んだ。

 下村だった。

「よう、やっぱりお前か」
 そう言って、下村はあっさりと視線を外した。どうやらお互いに威嚇しあっていたらしい。相手が坂井と認識して、下村
は肩の力を抜いたようにほっと息を吐いた。
「・・・何してんだ、こんなところで」
「ん?まあ、散歩」
 チラリとこちらに視線を走らせ、また下村の目は海へ戻った。先程まであった小さな雲さえも晴れて、空には月だけが
煌々と輝いている。先程に増した光が、水面を滑りいっそうの照り返しでその顔までをも明るく照らした。
「散歩、ね」
 坂井は嫌な気分でその横へ並んだ。思ったとおり、下村は信じられないような薄着でこの寒空に立っている。
 黒いシャツ一枚。ボタンを二番目まではずした胸元は、どう考えてもアンダーなど着ている素振りはなかった。
「何でそんな馬鹿みたいな薄着でフラフラしてるんだ」
 多少咎める口調は否めない。実際咎めるつもりで言葉を選んだ。しかし振り向いた下村は一向に気にする様子も見
せず、ただ漫然と坂井を見返すだけで言葉もない。それに余計に苛立ちは募って坂井は声を荒げた。
「油断しすぎだろうがっ」
 何故こんなに怒っているのだ。一番に疑問が湧き上がった。自分は下村の保護者でもなんでもない。知り合い程度で
友達でもない。それなのに何故こんな自分勝手な男に、訳の分からない説教をしているのだろうか。胸いっぱいに広が
る辛酸が坂井の機嫌を益々悪くしても、やはり下村は無反応でこちらを見返すばかりだった。
「聞いてんのか?」
 そのあまりの反応の無さに逆に頭が醒めて、坂井は少しばかりの羞恥を感じながら幾分か窺うように声を落とした。
「ん。聞いてる。ただ、ちょっと涼んでただけだから・・・」
 漸くそう言って、下村は首の辺りを手の平で擦った。途端に戸惑いがその目に浮かぶ。何故坂井がこんなことを言う
のかが分からないといった風だった。しかしそれは坂井も同じ事で、何故自分がこんな問い詰める様な事を口にしたの
かは判然としなかった。
「夕涼みか・・・」
「そんなところだ」
 混乱は諦めを生んで、最早呆れた口調で言っても下村は真面目にそう返すだけでこたえた素振りも無い。坂井はほ
とほと疲れて取り出した煙草を咥えて火を灯し、下村にも進めたが目先で穏やかに断られ、それは再び大人しく懐に収
まった。

 差し出した手を丁寧に断られて目を伏せたのは、随分と久しぶりだった。























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