自分を呼んだ。 それだけで、胸は騒いだ。 思えばあの時、下村はまた発熱していたのだ。 坂井は目の前で静かに横たわって目を閉じる下村を見て思った。 夕涼みなどと、坂井を上手に黙らせるための冗談だと思っていた自分が不甲斐ない。 実際下村はあの岸壁に、高熱に魘されて体を冷やしに来ていたのだった。 桜内がいつもの様に気になって、下村のアパートを訪ねた時にはもう、憔悴した様子で床についていたと言っていた。 真夜中の海から、数えて三日目の事だった。 何かあったところで声をかける相手を思いつかなかったと言った下村を、桜内は荷を運ぶために呼び出された坂井 の目の前で豪快にぶん殴った。続いた高熱に体力を著しく落としていた下村は体を支えきれずに尻餅を付いて呆然と 頭上の桜内を見上げ、驚いて言葉もない坂井の前で、お前は当分俺の家から一歩も出るなと宣言した。 「でも、桜内さん・・・」 「デモもストもない。手足を縛らないだけでもありがたいと思え」 平然と言い放ち、桜内は下村を引きずって寝室に連れ込んで、ベッドに放り出してからリビングの坂井の元へと戻っ てきた。 「だから向こう側に行きかけたやつは嫌なんだ」 イライラとした様子で煙草に火をつけ、桜内は忌まわしげにそう呟いた。何を思い出しているのかは見当が付く。坂井 は押し黙ってその様子を見ていた。 「何処か抜けちまってる。完全に。歩き方を知らない赤ん坊みたいなもんだ」 「・・・どういう意味ですか」 「そのままの意味さ。思い出さなきゃ、あのまま野垂れ死にだ」 しかし、そうさせるつもりは無い。 この男も結局は一度懐に入れてしまったものを無下に出来ないことを坂井は知っていた。恐らく下村が何を言ったと ころで取り合わず、面倒くさいと素振りは言っても甲斐甲斐しく面倒を見たりするのだろう。 そう思って、何か自分が苦々しくそれを想像している事に気付き坂井は戸惑った。 一度はこの手に触れた命を、軽々しく扱う男に愛想が尽きたのか。そう思ってもなんだかすっきりとはせず、では一体 何に対して自分は不快を感じているのかと思ったが上手く表現できずに終わる。その間も桜内は苛立たしげに何度も 煙を吐き出してはぶつぶつと坂井の知らないような単語を吐き出した。 「俺はな、坂井」 「はい」 ギリギリまで煙草を吸い込み、灰皿に押し付ける。仕種の一つ一つを見てやはり苛立ちは収まらないのは分かった。 「向こう側とか、こっち側とか、一々考えたりするのは面倒で嫌いなんだ」 「・・・はい」 何のことか分からず、首を傾げる。窓際に寄って外を覗いたままの桜内の表情は背けられて分からなかった。 「だがな、アレは完全に向こう側だ。・・・藤木や、叶の」 驚いて目を瞠る。返す言葉が見つからず沈黙を守ると、桜内は漸く振り返って坂井に表情をやった。 「衝動的に捨てるぞ。アレは」 何を。 今更の問いかけを、するつもりにはなれなかった。 桜内の目は問いかけを許さなかった。選んで使った者たちの名前がいけない。 坂井は知らず身震いした。 「本当はどうでもいいんだ。関わりあいたくない。死のうと生きようとどうでもいい。だが・・・」 ソファに座り、身を屈める。途端に小さく感じる桜内の背中に、坂井は目を落とした。 ああ、やはり無下には出来ない男だ。自分と同じ様に。 それがいい事であるのか、悪いことであるのかはこの際重要ではなかった。 ただ確かなことは、結局そういう人間は貧乏くじを引く。 何時だって、取り残される。 鮮烈に駆け抜ける背中を、見ていることしか出来ないのだ。 閉じこもるように押し黙ってしまった桜内を置いて、坂井は寝室に足を忍ばせた。 布団を口元まで引き上げて、下村は随分と行儀よく床についていた。 そっと傍までより、ベッドサイドに腰を下ろす。枕元にはキチンと木製の義手が外して置いてあった。 そういえば川中が冗談交じりにもう一つ、ブロンズ製の義手を下村に送ったと聞いていたが、それを付けているところ を終ぞ見たことがなかった。何時の間にか気候の挨拶のように「今日はどっちだ」と聞いて、チラリと手袋を捲ってみせ るやり取りを思い出してみても、その隙間からブロンズを見た覚えがない。また通常ブロンズの義手を好んでつける様 な酔狂な人間は居ないだろう。なんといっても、アレは相当な重量があるのだろうから。思いながら坂井はひっそりと下 村の様子を窺った。 座り込んだ絨毯や白いシーツや眠った下村の頬を穏やかなランプの明かりが柔らかく照らしている。高熱のせいで呼 吸が苦しいのか、大きく喘いでは顔を顰めた。こうしてみると灯りのお陰なのか顔色の悪さは目立たなかったが、それ でも白色蛍光灯の下ではそれを誤魔化す術は無く、高熱の赤よりも死相に近い白さの方が際立った先程の顔色を浮 かび重ねて坂井はゆっくりと戦慄した。 平気な素振りで目の前に立っていた岸壁の男を思い出す。本当に平素の表情だった。しかし月の下で顔色までは判 断できず、ましてや触れずにその体温など慮れる筈も無く、結局自分が知りえた訳もなかったが、しかし唯一あの時下 村の変調を知りえたのは自分であったはずだという思いがどうしても先に立つ。 もし気を利かせた桜内が、下村の元を訪れなかったら。 それこそ背筋を冷やすに十分な想像だった。 じっと見つめていては、気配に聡い下村は目を覚ますかもしれない。独りよがりな思考に沈んでいた坂井の頭がそん な単純な事に漸く行き着いたのは、随分経ってからだった。隣室からは相変わらず物音一つしない。桜内はどうしたの だろうかと思い、様子を見たほうがいいのかと坂井は腰を上げようと毛足の長い絨毯に手を付いた。 「・・・坂井」 名を呼ばれ、ハッとして振り返った。薄暗い灯りの中で、小さく下村が目を開いてる。選んで灯した弱い光が、隙間を 通すように目ざとく虹彩を弾いて密かに光った。 「お、起こしたか・・・?」 囁くように声をそばめた。一言が耳を痛ませるような気がして、余計な言葉は選びたくない。 再び体をベッドサイドに戻して顔を窺うと、下村は先程より幾分ハッキリした声で、坂井の名をもう一度確かに呼ん だ。 「下村・・・?」 しかし下村はそれだけで満足したのか、それともうなされた寝言だったのか。 どちらにしろ再び目を閉じて、坂井の問いかけには答えないまま、また寝入ってしまったようだった。返ってくるのはリ ズムの乱れた呼吸だけだったが、幸い苦しそうな顔は幾分あどけない風に変わっている。 傍に人が居たことで安心したのかもしれない。 そう思えば坂井はそこを動けず、それ以前にどうやら腰が抜けている事に気が付いて呆然とした。 『坂井』 まるで縋るような声に、無自覚の感情が不用意に胸を騒がせた。 |