fellow 4



















 まるで遠くから届く、海鳴りの様だ。





 それから下村は結局、三日間寝込んだ。
 時折目覚めぼんやりと天井を眺める様は、明らかに何故自分が見覚えのない天井を見上げているのか理解していな
い様子だった。
 その度に坂井や桜内は今の状況を説明し、無意識に体を起こそうとする下村を宥めては寝かしつけた。
『赤ん坊の様な』
 言いえて妙だが、確かに以前桜内が言ったように、今の下村はどこか部品の欠けてしまったように見える。
 しかしそれをおかしいと思うかといえばそういうこともなく、ただ強要されることもなく桜内の自宅へ通っては、家主の
不在時の留守を預かり、昏々と眠る下村の寝顔を眺めた。



 目覚めると既に窓から差し込む光は午後の陰りを帯びていた。
 何時の間にか眠ってしまったらしい。テーブルに突っ伏した腕が痺れて感覚がない。多分顔にはくっきりと布目の跡
が付いてしまっているだろう。寝起きでボンヤリとする頭を緩やかに振り、詰まった眠気をそぎ落とすように辺りを見て
は今の時刻を確かめた。
 時計は四時を少し回ったところだった。仕事に行くにはまだ幾分時間があり、タイミングよく目を覚ました事に気をよく
して坂井は乾いた喉を潤そうと体を起こした。
「?」
 その時、するりと肩から毛布が滑り落ちた。
 何時の間にか眠ってしまった自分が、もちろん用意よくそんな物を掛けているわけがない。
 だとしたら、それを着せ掛けた人間は一人しか居なかった。
 床に丸まった毛布を簡単に畳んでソファに乗せ、立ち上がる。窮屈な恰好で固定していた足は間接が痛んで辟易し
たがどうにかやっと体を支えた。それをやり過ごしながら寝室のドアへ手をかける。金属音に危惧しながらゆっくりと回
してドアを開いた。入室の声を掛けようか迷い、結局何も言わずに部屋へ入る。シンとした空気に小さな呼吸音が溶け
込んで、それは驚くほど坂井の頬に冷たかった。ちらりと目をやった先のエアコンは、案の定電源が切られている。コン
トローラーは絨毯の上に放り投げられていた。
 自分が居眠りを決め込んでいる間に、下村が目を覚ましていたのは確かなようだった。
 多分フラフラと起き出し、リビングで寝こけていた自分に毛布を与え、不愉快なエアコンのスイッチを切ってまた大人し
く床へ戻ったのだ。どうも下村が暖房器具の類が好きではないらしいということを最近知った。何度つけておいても何時
の間にかスイッチが切られているのを不審に思った桜内が、夜中にそっと電源を切る下村と出くわして発覚した。寒くな
りすぎるからと言った桜内に、それでも嫌なものは嫌なのだと駄々をこねたらしい。桜内は細かなことは言わなかった
が、桜内は下村のそういった部分に弱い傾向がある。結局それを許しているのがいい証拠だ。
 それに知らずムッとしてしまった自分に気付き、坂井は憮然と口を尖らせ今はきちんと眠っている下村の顔を見下ろ
した。
 熱の出初めに比べて格段に穏やかになった呼吸は深く被った上掛けを規則正しく揺らし、もう間もなく下村の体調が
戻るのは明らかだった。
 如何にも躍動的な男が大人しく床についている様を見るのは、正直あまりいい気分ではない。普段から会うことも少
なく、下村が店に訪れては下らない世間話の一つもするようなくらいの付き合いではあったが、それでもどこか地に足
の着かないような雰囲気を持った印象が根強く、こんな風にどこかへ縛り付けられて身動きの取れなくなった姿は、寝
覚めが悪く、言い換えれば坂井の同情を誘った。言い方が悪ければ、憐れで切ない。その手を失った事に加えてこの
仕打ちはあんまりだと思い、始めはそんな自分の思考を否定していた坂井であったが、最近ではそれも億劫でしなくな
った。
 慣らされてしまったのかもしれない。
 川中が熱心に下村をブラディドールに誘っているのは知っている。敢えて坂井はそれについては何も言わないが、い
ずれそうなるだろうという予感は確かにあった。しかし下村は思いの他何時になっても川中の要求に答える素振りを見
せず、だからと言ってはっきりと断ることもしないまま、ぶらぶらしている。
 それでは如何にも体裁が悪かろうと桜内が一度助手に雇ってやろうかと冗談交じりに本気の提言をしていたが、それ
はあっさり断っていた。
 それが余りにも下村らしく、坂井としては可笑しい様な気分だったが、正直下村が桜内の誘いを断ったという件だけ
は内心ほっとしていた。
 それくらいに二人は親しく、坂井からすればだが――親密に思えた。
 下村がいずれ店のホールに立つ様になるだろうという自分勝手な空想は揺るがない。それでもそこかしこに転がる誘
惑に下村が安易に乗らないとは言い切れないのだ。
 決定的に下村を引き止められる要素が、自分には一つもないことは十分自覚している。
 またじっと見つめてしまっていた事に気付き、坂井は慌てて目を伏せた。いつも思う。こうして他人の視線に曝されて
いては下村とて居心地が悪かろうと。しかし気が付けばぼんやりと目で捉えてしまう自分を否定できない。
 対象がこうして動かずにいるのなら尚更に。
 幾度も繰り返して呼吸を続ける柔らかな空気の連なりが、再び坂井の眠気を誘ったが、まさか今から二度寝に入る
わけにも行かず、もう一度枕元の時計を確認してから腰を上げた。
 もう一時間もすれば桜内も戻ってくるだろう。ここ二・三日の日課としては帰宅した桜内とすれ違いで坂井が出勤する
のが常だった。
 しかしこうして部屋にこもっている身としては別段することもなく、何となく坂井は今度目覚めた時に下村が食べられる
ような簡単なものと、桜内の為に少しだけしっかりとした食事を用意しておくのも慣わしの様になっていた。
 時間を見計らって作れる物を頭の中で選別し、可能な範囲で栄養も考える。自分一人では到底するわけもないそうい
った細々とした計算が、他人の為であれば存外安易に思いついた。しかしそれが揃いも揃って男の為とは、あまり口外
したい内容ではなかったが。
 腰に巻きつけるだけのエプロンをつけ、キッチンに入る。ここ最近は坂井が入っているせいか、シンクも綺麗に洗い
上げられ、鍋や調味料の揃いに不満ない。どちらかと言えば勝手に整理された桜内の方にこそ不満はありそうなもの
だったが、着替えも面倒がるような男にはそもそもキッチンを自分のテリトリーとする考えが念頭にないらしく、そこをい
じられたからといって今のところ文句は出ていなかった。
 そこでフト、洗った覚えのないグラスが一つ、水切り籠に上がっている事に気が付いた。昼食の後きちんと食器の類
はしまったはずであったから、自分ではない。恐らく下村が起きた時に喉を潤すのに使ったのだろう。
 それをじっと見つめ、自分の中で奇妙な感慨が生まれるのを坂井はぼんやりと感じていた。
 それは根源的な疑問であったかもしれない。
 何故、自分はこんなにも下村の為に心を砕いているのだろうか。
 桜内の理由は簡単だ。彼は医者だ。病人を目の前にすれば自ずとすることは決まってくる。いや、桜内のことだ。もっ
と単純に気に入っているからと答えることもやぶさかではないだろう。
 では自分は一体何故なのだろうか。
 以前にも感じ、けれども最近ではめっきり真剣に考える事をやめてしまったていた。どちらかといえば意識してその先
を考えることをやめていた節は確かにある。
 他人の家のキッチンでまんじりともせず考えるような議題ではなかったが、一度考え始めると時も場所も関係なく、そ
う思えばこれは何か重大な事を見逃していたのではないかという猜疑心に駆られて唇を噛んだ。
 多分下村の方としてもどうして坂井がここまで関わりを持とうとするのか、正直分からないに違いない。己がそうなの
だから下村が分かるはずもなかったが、しかし案外他人である方がこういった事柄は見える部分があるのかもしれな
いと思い、そうだ、具合が良くなったら、そういった事を聞いてみるのも悪くないと坂井は思った。 
 なんといっても、そうでなければ自分達は会う理由にも事欠く間柄なのだ。
 下村とて坂井が何か聞きたいことがあると言うのなら、たまにはこちらにきちんと顔を向けて来るかもしれない。
 今の関係に不満があるわけではない。別段下村と仲良しこよしのお友達になりたい訳ではないのだから。
 しかしそうは言っても下村を無視できない自分がいる。
 思わず会う理由を探してしまう位には。そして見つけてはそれを大事に取っておく位には。
 そういった薄ぼんやりとした物思いは上手く坂井の目に見えず、遠くから聞こえる姿の見えない物音を懸命に聞こうと
するのに良く似ていた。

























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