気なる理由なんて、後から付いてくればそれでいい。 薄暗い店内に入ると川中は真っ直ぐにカウンターに就く。今更周りを見回したりはしない。丁度何歩目かで辿り着く 時、坂井は決まってその目の前にグラスを置いた。それを川中はいつもの素振りで口に放り込み、半舜考えるように目 を閉じる。まるで何かを思い出そうとしているように。その間坂井はただ黙って見守っているだけだ。 「・・・どうも逃げられっぱなしだ」 グラスを子供の様に弄びながら、川中はじっと手の中を見つめている。口元には自嘲が小さく浮かんでいた。 意味が分からず坂井が黙っていると、自嘲は普通の微笑みに転化した。 「下村だ」 ああ、坂井は頷いた。相変わらず川中は下村に逃げられていると聞く。もちろん下村に直接聞いたりはしない。下村 も話さない。また聞きや風の噂というやつだ。まあ、出所はかなりしっかりとした情報筋ではあったが。 「その気がないようには見えないんだがな・・・。掴み所がよく分からん」 代わりを差し出す坂井に空のグラスを漸く開放しながら、けれども川中の目は落胆に沈んではいない。元から諦める 気もないらしい。 それに心ならずもほっとしている自分に坂井は小さく舌打ちした。 「軽い誘いには、簡単に乗ってるように見えますが?」 「そうだ。軽い誘いにはな」 カウンターの中に入って、坂井が手持ち無沙汰になることはまずない。細々とした仕事は幾らでもあり、そうして細か な気遣いをするのがバーテンの仕事だ。一瞬たりとも気を抜くつもりはない。それが分からないような人間を坂井は認 めなかった。 しかし今の坂井はまるでその事に取りすがるように手を動かしていた。 「釣りに誘えば簡単に乗ってくる。食事や酒に誘ってもそれは同じだ。でもここで働けと言えばどうにもはっきりせん。・・・ お前、何か聞いてないか?」 しかし行き詰まっていることは確からしい。本来であれば川中の方からこんなことを言ってくるのは珍しい。坂井は何 か珍妙なものでも見るような面持ちでその目に答えた。 「別に・・・何も。あまり話もしませんから」 しかし川中から見えない位置の内側のスタンドに付いた手は、自分勝手に細かに震えていた。 それには大層驚いたが、どうにか顔には出さずにいられた。 「桜内のところにまだ居るのか」 「いえ、もう自分の部屋に戻っているんじゃないですかね」 「そうか」 それならまた釣りにでも誘うかと、川中は次の算段に忙しく、結局坂井の不審な仕種に気付くことはなかった。 昨日のことだ。 いつもの様に朝方になって桜内のところを訪ねると、既に下村はそこを出た後だった。 熱もすっかり下がり、足取りも確かに戻ったらしい。そうでなければ桜内が放免するはずもなかったが、それでも気に なり様子を聞いても「もう大丈夫だろう」の一点張りで、桜内はそれ以上取り合おうとはしなかった。しかししつこく食い 下がっては様子を聞く坂井に最終的には諦めたように息をつき、ポンッと手のひらに小さな重みを落とした。 「これ・・・」 「合鍵。下村の部屋の」 手の中には銀色の、まだ角の尖りも取れていない作りたての鍵があった。 「余計な手間を取らせた礼に作らせた。嫌がらせのつもりだったんだが、あいつ頓着せずに寄越しやがった。まったく からかい甲斐のない男だよ」 興ざめしたように桜内は言い、でも本当は気になって仕方がない素振りを隠しはしなかった。 「俺はこれ以上面倒ごとは御免だからな。それはお前が持っていろ」 「でも・・・」 「どうせあいつはそんな事、気にしやしないさ」 「・・・分かりました」 実質的に、下村の管理を任されたような気分だった。 それはもちろん以前までは桜内の仕事であり、恐らく率先して行っていた関わりだ。そうでもなければ下村はこちらに 気を向けない。元々自分自身にさえ興味がないようなところがある。そこをお前がフォローしろと言われたも同然だっ た。 「・・・お前がそんな風になるのは、珍しいな」 プカリといつの間にか煙草を咥えた口から、ゆっくりと輪になった煙を吐き出し桜内はソファに寝転んだ。寝煙草が気 になったが、今それは重要ではない。慮って坂井は黙った。 「下村が気になるか」 横目でチラリと正面のソファに腰掛ける坂井を促した。 しかしその問いにどう答えていいのか皆目見当のつかない坂井は、沈黙で答えるようにじっとその目を見返した。 「本当に珍しいよ。お前がそんな顔するなんて」 一体どんな顔をしているのだろうか。思ったが鏡はない。顔を手で擦るのも如何にも業とらしく、容認できなかった。 「無自覚か?・・・まあ、俺も結局無自覚だ」 自嘲や嘲りといった日常動作は桜内の得意の一つだ。今も何かを今の心情に照らし合わせて目を伏せている。 面倒くさがり、怠惰、変わり者、日和見。そして本人は決して認めないが、お人よし。 目の前の医者を表す言葉は幾らでもある。けれども時として形容しがたい目をして桜内は言うので、そんな時は坂井 とて容易に軽口を叩くことが出来なくなる。暗い目はお互い様だが、だからと言って内面までお互い様とは言い難い。 自然な動作でテーブルに放置されていた煙草を手に取り、火をつける。大きく肺まで吸い込んで不覚な事に目が回っ た。そういえばここの所まともに喫煙した記憶がない。思わず舌打ちしたくなるような気分で坂井は顔を顰めた。 一体何に気を使っての事かなど、今更言及するのも馬鹿らしい。 「俺は別に・・・ただ、あんまりフラフラしやがるから、気になって」 「うん。そうだろうな」 言い負かされることは覚悟の上で言った言葉は、案外あっさりと容認された。頷いた桜内の口元で煙草がフラリと揺 れる。たゆう煙はゆっくりと消えながら天井へ流れた。 「別に悪いことじゃあないさ」 坂井は返事をしなかった。呟きは答えを求めてはいないような気がした。 「後で思うより、ずっといい」 それも結局、独り言だった。 |