井の中の蛙は、彼方に広がる大海を知らぬ。 だが、遥かに広がる空の深さを誰よりも知っている。 陽を背にして歩くと、背中が温まり気持ちが良い。 肌寒い首筋とは対照的に、ゆっくりと体温を越えて温まる背中を心地よく感じながら、前を歩く下村の背中を見た。 相変わらず季節外れのシャツ一枚で、寒がる様子もない。これでははたで見ているほうが余程寒いと思って何度か忠 告しようかと迷い、しかし結局はしたいままさせている。そこまで気を使ってやる義理はないと思う反面、言って無視を 決め込まれればそれなりに不愉快になる気がして黙っている。 そんな坂井の葛藤などそ知らぬふりで、下村は一定の歩調を守って道を歩いていた。 「何やってるんだ」 下村は窓際に立って外を見ていた。その姿が、玄関から一直線に確認できる。台所横に玄関、奥に和室、隣にもう一 間の、良くある造りの木造アパートが下村の今の住まいだった。桜内から預かった合鍵を使うまでもなく、ドアは何故か 開いたままで、ぼんやりとして坂井はその声に下村が振り返るのを大人しく待った。 「よう」 素っ気無さが張り付いた声で下村は短い挨拶のようなものを返し、ひょこひょこと玄関口で突っ立ったままの坂井の 目の前まで歩いてきた。足取りが心もとないような気がしたが、それはあえて無視した。 「入れば?」 押すにも引くにも遣るかたない、といった風情の坂井に下村は顎を僅かに動かして中へ導いた。 坂井は小さく「お邪魔します」と呟いて靴を脱ぐと、「どうぞ」と置くから律儀に答えが返って来た。 「なんで、玄関開けたままで」 人が前を通らない角部屋なら未だしも、下村の部屋は二階中央、錆びついた鉄パイプの階段を上がったすぐ目の前 だった。 他の住人がどうにも見ぬ振りを苦慮しそうなことを平然としている下村に対する当然の疑問だったが、下村は大した ことではないとでも言うように、微かに肩を竦めただけでやり過ごしてしまった。 それが深く自分に踏み入るな、というような牽制に取れて、坂井は知らずむっと眉を寄せていた。 下村はそこが気に入りの場所なのか、また窓際に寄り、サッシに腰掛けて陽を背負ってこちらを向いた。 うららかな春の日差しがふんだんに部屋に注ぎ込み、焼かれた畳はハレーションを起こしそうなほど真っ白に坂井の 目には見えた。 目が合うと、下村は「何か?」というように首を僅かに傾げた。陽に透ける髪が光を含んで黄金に近い。まるで暗がり から突然放り出されたような心もとない眩暈を感じ、坂井は誤魔化すように腰を降ろした。 「別に、なんもねえけど」 語外に理由がなければいけないのか、というニュアンスが匂って、坂井はしまったと思ったものの、下村がそれに気 づいた様子はない。不思議そうな目は変わらないが、それほど坂井に注意を払っている様子は乏しく、どちらかというと まるでそこにある荷物を見るような目に近かった。 「ふーん?」 それで満足したのか、それきり下村は窓辺に座って外を眺めながら、微かな鼻歌を歌って味気ない。 聞き覚えのないメロディーを聞きながら、咄嗟の答えは案外的外れではないのだと思って坂井は下村の横顔を黙って 眺めた。 桜内の部屋を出た後の下村の体調が気にならなかったと言えば嘘になる。数日とはいえ僅かばかりの看病を続けて いれば自然と予後が気になったところで不思議はない。それでもどこかでそれを認めたくない感情があり、そう思えば 素直に体調云々など聞ける筈もなかった。 実際聞いたところで人を人とも思っていない様な男が、きちんと答えるかと言えば難しく、避けているわけでもないの にそうして無心に蔑ろにされれば、やはり坂井とて傷つくのだった。 かといってこのままこうして理由もなく居座ることも出来ないと悟り、坂井は居住まいを僅かに正して木製の折りたた みテーブルに肘をかけて間合いを取った。 「熱は」 枯れたように慌てた声が、掠れてぎょっとする。関心の薄い下村もそれには流石におかしく思ったらしく、こちらを即座 に振り返った。 「俺はいいけど。お前にうつしたか?」 風邪でもないのにうつる訳がなかろうと思ったが、坂井は緩く首を振って否定した。合間に咳払いを何度か繰り返し、 喉を整えて目を上げた。 「薬は?」 問いかけに何度か瞬いて、下村は口元に困惑の色を浮かべた。 こちらの意図が読み取れず、どう答えていいものか迷っているのがあからさまだ。 「貰ってるだろ?ドクに」 続けて問えば、漸く合点がいったという感で下村が目元を緩めた。 下村の中で、自分がどのような位置を占めているのかはわからない。しかし今の仕種一つとっても、知り合いの枠を 出るに至っていないことがよく分かる。 それが素早く深く坂井の胸を突き刺した。 「もう熱も下がってるし、いいかと思って」 肩を竦めて、言い訳のような言葉は多分坂井のためのモノではなく、坂井の向こうに見える桜内への言い訳であるこ とは明白だった。 大方坂井がここへ来た理由を、桜内の使い程度にしか思っていないに違いない。 そう思えば益々気が曇り、では自分が傾けた心の幾ばくかは一体誰のためのものだったのかと憤った。 「そうやって、甘く見るからまたぶり返すんだろうがっ」 覚えず強くなる語調に下村が驚いた様に目をそばめた。 坂井本人も驚いてる。 そうとは気づかず高ぶった感情に、歯止めが上手く出来なかった。 「いい加減に過ごして、お前はそれでいいかもしれねえけど、面倒見るこっちの身にもなれよ。それともお前、何でも一 人で出来るとでも思ってるのかよ」 冷静でいようと思うのは理性ばかりで感情はいっこうに収まらず、こんな言い方はあんまりだ、見当違いだと思う反 面、気持ちはそれ以上に残酷な事を言っても構わないのだと叫んだ。確かにそれは坂井の本心に近いものではあった が、こんな場面でこんな率直な言葉で持ってぶつけるつもりは毛頭なかった。 そもそも下村にとって他人の存在など、それほど重要ではないのだという事は分かっているつもりだった。 自分にさえ無関心な男が、煩わしい他人の事にまで興味を抱く訳がないと。 坂井のその突然の激情に、下村は何も言わず黙って窓に腰掛け、こちらを見ている。先ほどは僅かに感情の窺えた 目も、今は無色の感情が浮かぶばかりだ。 その下村の様子に坂井は自分ばかりが高ぶっていた事に思い至り、リズムの早くなった心臓を直接に掴まれた様な 羞恥を感じて目を逸らした。言葉自体に間違いはなく、確かにあまりにも自愛の足りない下村を罵ったところで迷惑を かけられたと思えば当然の権利だった。しかし坂井にとって致命的であったのは、それを迷惑と感じていない事にあ り、それが言葉を紡ぐ意味の相違であった。 仕方なく 嫌々 義務的に 今の自分にはどの言葉も当てはまらず、あえて表現しろと言うのなら、それは「心配」としか言いようがなく、もう一つ 付け足すのなら「嫉妬」が一番相応しい。 下村を部屋に閉じ込めた桜内に、思うところがなかったと言えば嘘になる。 そうした自分の感情を上手く表せないのは昔からのことで、それで失敗したことも多く、誤解を受けることもしばしばだ ったが、不自由と思ったことは今だ嘗てない。しかしここへ来て言葉にならないもどかしさや、相反する感情との隔たり にコントロールを失った言葉の塊が口から止め処なく零れる恐ろしさを坂井は初めて知ることになった。 「・・・そうか・・・そうだな」 その言葉に、弾かれたように目を上げると、予想していたような険しい表情など無縁の目とかち合った。 「お前には迷惑かけた。これからは気をつけるよ」 卑屈でもなく何の含みもない。ただ真っ直ぐに下村はそう言った。 じっと見つめて離さない目に、偽りは微塵もない。坂井の言葉を何の嫌味もなく受け止めて、下村はただ坂井に対す る侘びを囀った。 それに驚くと同時に、喉元から胸の辺りにかけて締め付けられるような苦しさを感じて目を見開いた。 そして不意に思い出す。桜内の言葉を。 『何処か抜けちまってる。完全に。歩き方を知らない赤ん坊みたいなもんだ』 世界に、白も黒もない。表も裏もない。 全てが一つ。 下村にとって、世界は目に見えるその瞬間の一つきりなのだ。 部屋に何もないので、昼食は外へ出ようと言ったのは下村だった。 確かに生活観に乏しい部屋に、利用できるような台所用品は何一つなかった。 妙に小奇麗に整頓された部屋は、きちんとしているという以前に物がなく、普段どのような生活を送っているのか予想 するのも難しい。 幾ら考えてもぼんやりとしているような姿しか思いつかなかった。 「美味い蕎麦屋、見つけたんだぜ」 そう言って振り返って笑う姿はどことなく現実感に乏しく、しかし事実今ここに下村が存在しているならば、そう感じる 自分の方に何かしら浮世離れした考えがあるのだろうかと思う。 下村という男を掴むのは難しい。 飄々として理解しがたく、かと思えば明け透けな言動でこちらを迷わす。 大人びた顔で手堅く人をいなしては、厳しく打ち下ろす拳の加減を知らない。 あやふやなアンバランスさを隠す事無く目の前に広げてみせる男の背中を見ながら、それも所詮は初めからで今更 こうして思い悩むほどのことでもないと坂井は気を抜くように息をついた。 下村は曲がり角でまたこちらを振り返り、行き先を指し示してまた前を向き、そうしてきちんと後ろに坂井が付いてき ているのか確かめた。 その度に坂井はその顔に向かって何か言いたいような気分になるのだが、しかし肝心の言いたい言葉が見つから ず、押し黙って顔を縦に振るばかりだった。 ソバが好きです。 ソバ大☆好き。 |