fellow 8



















 さかいさん、と言われてぎょっとした。
 慌てて振り返る。なんのことはない。下村がこちらを向いて立っていた。
「起きたのか・・・」
「ああ」
 下村は微かに頷くと岸壁に腰掛けた坂井に倣った。
 体中に包帯を巻かれた下村が隣に来ると、嗅ぎ慣れた消毒液の匂いが漂った。
「声、掛ければいいのに」
「いや・・・別に。寝てたし」
 口調を誤魔化すような早口で返しながら、口元を便宜的に煙草を持った手で隠した。
 下村は少しだけ不思議そうな顔をしたものの、それ以上追随せずに黙って頷く。
 それを横目に、坂井は大げさな素振りで大きく煙を吐き出した。







 坂井がこうして下村の見舞いと称して診療所を訪れるのも、日課として定着しつつあった。
 今では診療所に居る誰もがまるで坂井を一員のような扱いをする。桜内に至っては、面倒な買い物などを頼んだりも
する始末だった。
 そうして何時の間にかここへ入り浸る原因になった男は、坂井が来たところで眠っていることの方が多く、ここ二・三
日になって漸くまともに起きている顔を拝めるようになってきたところだった。
 街に帰れば何かと騒々しい最中であったが、その騒ぎの中心であるはずのこの診療所が、実は一番静かで穏やか
だ。
 しかし心中までもそうかと問われれば、決してそうではなかったろうが。
 正直見舞いと言ってもそうそう渡すものが続くわけもなく、元々物欲に乏しいらしい下村から見舞い品の希望も殆どな
いので、最近ではめっきり届けるネタもなく、そう思えば自然会話が増えていった。しかし生まれも育ちも性格も違う上、
共通の話題もあまり見当たらない二人の間でそれほど会話が弾むわけもなく、そうなれば無言で居ることが多くなるの
だったが、何故かそれが不快ではない。
 現にこうして吹きっ曝しの岸壁で、ぼんやりと海を眺めているが、気まずいことなど何もなかった。
 昼過ぎに診療所を訪ねた時下村はやはり寝ていて、坂井はそのまま部屋を出、ぼんやりと煙草を吸っていた。
 客がなくとも、診療所は診療所。中で煙草を吸うのは憚れて、肩身の狭い思いで外に出ていた。
 
 さかいさん

 口の中で何度か反芻し、名前を呼ばれたのは初めてなのだろうかとぼんやりと思い、自分はどうだったろうかと考え
たが思い出せない。わざわざ初めて名前を呼んだ時のことなど、普通は覚えていないものだろう。それならば呼ばれた
ことをわざわざ確認しようとしている自分はなんなのだと思い、そういえば何故殊更のようにさん付けで呼ばれるのだろ
うかと疑問が頭をもたげた。
「なあ」
「・・・ん?」
 隣に居ても会話を持たないことなど最早日常と化していたためか、下村の反応は少し遅かった。しかしそれ以上に本
当は眠気が勝っているのだろうという考えがちらりと頭を掠めたが、けれども坂井はあえてそれを無視した。
「なんでさん付けで俺のこと、呼ぶわけ」
「は?」
 振り返った下村はきょとんとして目を瞠っている。言われた意味がうまく理解できなかったらしい。
 坂井は舌打ちしてもう一度同じ事を繰り返した。
「だから、なんでさかいさん、なわけ?」
 坂井の疑問も、もっともだった。
 普段の口調は遠慮のないタメ口であるのに、今更名前だけ敬称をつけられては気味が悪い。下村も漸く言葉の意図
を理解したのか、軽く頷いて目元を緩めた。
「いや、多分年上なのかと思って。一応。普通はいきなり呼び捨てで呼んだりしないものだろう?」
 そういえばそうなのだろうか。下村の言葉が正しいのか、それとも下村独自の理屈なのかは分からないが、それでも
意向は無視できない。確かに知り合って間もない相手を呼び捨てるなど、普通であればしないのかもしれな。
 しかし今まで坂井が生きてきた世界の中で、そういった礼儀作法に統一性など殆どなく、唯一似通った価値観があっ
たとするのなら、「力こそ全て」というのがそれに当たるのかもしれないと考える。
 やはり下村と自分とでは、余りにもかけ離れた世界の住人であるのは否めないようであった。
「じゃあもういいだろう。呼び捨てで構わない」
「そうか」
 そう言われれば異論は無いらしい。下村は軽く頷くと、口元に手をやり煙草を吸う仕種でそれを強請った。
「ん」
 口元に煙草を差し出す。下村は軽く目を伏せると、顔を寄せた。
 まだ完全に傷の癒えない唇は端が切れ、赤い線は酷く痛々しい。この寒さではその傷が余計に沁みるのではないか
と、ライターを差し出しながら見当違いの心配をした。
「なに?」
 じっと口元に見入る坂井に、下村は不思議そうに首を傾げた。
 それに首を振り、ライターを戻しながら海を見た。
 空は高く、幾分か風は穏やかだ。遮られずに直接当たる太陽は布越しに暖かい。
 しかし下村はまた随分と薄いシャツを引っ掛けただけの、季節に合わない軽装だ。
 何度か山根に注意を受けていたようだが、どうやら忠告を受けるつもりはないようだった。

 ほんの十数センチ。

 坂井は思った。
 住む世界が違う。考え方が違う。言葉一つ、価値観一つ取っても、きっと自分と下村とは上手く通わないことさえある
だろう。
 それなのに今は、ほんの少し動けば触れるほど近くに居る。
 それをただ純粋に不思議に思う。
 今まで出会うことも無かった男の体温を、これほどまで近くに感じるという事。
 それがまるで、当然の事のように感じるという事。
 そして、それらのすべてを望んでいるのは・・・・・・自分なのか?
「坂井」
 指先が震えた。声の主を振り返る。
 下村は海に煙草を投げ捨てず、コンクリートに擦りつけた。
 声は煙草で低く掠れていた。海風で唇が乾くのか、舌をチラリと覗かせる。
 坂井は慌てて目を逸らした。
「な、なんだ?」
「あんまり、気ぃ使わなくていいんだぜ?」
 すうっと目の前が薄暗く曇った。しかし空は雲一つ無い晴天だ。
 変わらず陽は辺りを暖めている。
 しかし坂井は指先が微かに冷えるのを感じていた。
「だから、毎日来なくてもいいから」
 軽く目を伏せた下村の目元はまだ薄く痣が残って痛々しい。
 あまりにも酷薄な目蓋は驚くほどに白く、答えも返せない坂井に構う事無く下村は目を上げ、その無表情さを殊更示
すかのように瞬いた。
 その時に感じた胸の冷える感触を、沖合いから吹き込んだ風のせいだと坂井は思い込んで小さく頷いた。






























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